先日、NHKの歴史バラエティー番組で織田信長が使用した「天下布武」の印章について、この信長のいう「天下」とは京を中心とする畿内のことだとの説明があった。とんでもないデタラメである。以前、この説を唱えた歴史学者がいることは知っている。その時、私は変な事を言う人がいるなあとの感想を持った。『大辞林』には「織田信長が朱印に用いた印章の印文。天下統一の意識を示し、岐阜進出直後の1567年11月ごろから使用した 」とある。この『大辞林』の説明に何の問題もない。
-「天下」という言葉は不変であるー
「天下」という漢語は中国の古漢籍にあり、日本に流入して以後、古代、中世、現代に至るまでその意味に変化はない。文字どおり、「天(あめ)の下(した)」のことであり、全国、全土の意味である。『字通』にもそうある。「天下布武」を誰が言おうと、それが上杉謙信や武田信玄であれ、女城主・直虎であれ、日本国の主権者になり、全国(天下)に号令することを意味する。すでに述べたように同じ漢語の「幕府」や「顧問」は時代が経るにつれ日本式に変容しているが、「天下」は違う。
高校野球の地方大会に勝って甲子園の代表になっても誰も「天下をとった」とは言わない。甲子園で優勝して初めて「高校野球で天下をとった」と言えるように・・。NHKがこのような奇妙としか言いようがない学者の説を、テレビ番組であたかも真実のように取り上げること自体、受信料を払っている国民をバカにしている。「本能寺の変」の真因については諸説あるのは当然としても ( 明智光秀の心のうちは誰も分からないのであるから・・)。漢語「天下」の意味は一つしかない。
<追記>
この奇妙な説を提唱したのは東大史料編纂所の本郷和人と金子拓である。金子氏はその著『織田信長<天下人>の実像』(講談社現代新書)の中で、信長は「天下統一」を目指しておらず、幕府や朝廷を敬う中世期的な普通の戦国武将であったと述べている。え! 本当だろうか? 中世そのものである比叡山を焼き討ちしたのは一体誰だったのか・・。室町最後の将軍を備後・鞆(とも)に追放したのは誰なのか。たとえ、足利義昭と政治的な対立があったとしても、信長に室町幕府を存続させる意思があれば、足利一門の阿波公方(14代将軍・足利義栄は三好一党に擁立された阿波公方)とか、関東の古河公方からゆかりのだれかをつれてくれば幕府の存続は可能だったはずである。だが、それもしていない。また、朝廷は明らかに信長に不安感を抱いている。源頼朝や足利尊氏とは違うと・・。そこから、「本能寺の変」朝廷黒幕説が出ている。
それと、信長は畿内を制圧したあと、中国、四国、北陸、甲斐、関東にまで軍団を送り支配に乗り出している。まさに「天下布武」を実践している。これは、信長の上洛前に畿内九ヶ国を支配していた三好長慶とは根本的に違う。長慶こそ幕府や朝廷を尊崇する中世期的な武将であった。そこに三好政権の限界があった。織田信長像はこれまでの通説どおり、中世の破壊者であり、近世への道を切り開いた革命家であったと言える。