小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

昔は夫婦別姓だったのか ? 最終章  - 蔓延する常識の噓 (俗説) ー

2020年03月07日 | Weblog

 先日、「選択的夫婦別姓」を推進するため、超党派国会議員の会合があったことが夜のニュースで報道された。翌日の新聞各紙も大きく取り上げていた。その時、ある全国紙がその記事に合わせて、大学教授の一文を載せていた。そこには驚きの内容が書かれていた。要約すると、「日本では古代から江戸時代まで夫婦別姓もしくは夫婦別氏であった。明治新政府が近代的民法導入のため、フランスから法学者・ボアソナードを招聘して民法作成に取り掛かり、最終的に君主制のあるドイツ民法も取り入れて、明治憲法下における新民法が成立した。そこで、夫婦同姓(原則的に妻は夫の姓を名乗る)が決められ、明治31年に正式に公布された。日本の夫婦同姓は明治政府の欧化政策によって生まれたものだ・・」とのこと。つまり、西洋を真似た結果だとの論旨であった。この説は世間一般に流布しているもので、日本史学者、とりわけ古代の戸籍制度を研究している学者の説もだいたい同じようなものである。まさに、驚天動地、最後に今一度述べておく。

 ー 日本では古代から現代まで中国式の夫婦別姓であったことは唯の一度もない ー

 古代の倭国では中国文化の影響を受けて氏族名が「姓」となって行った。大伴旅人の異母妹であり、大伴安麻呂の娘、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)も「の」を入れて読み、男女共に自分の属する氏族を表わしていた。つまり、女姓も生涯、自分の生まれた氏(うじ)に属した。他氏族の男と結婚しても「大伴氏の女」であることに変わりなかった。平安時代中期に書かれた『更級日記』(さらしなにっき )の作者は菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)であるが、本名は伝わっていない。この女性も橘氏と結婚して子供もいるが生涯、菅原氏の女であった。同様に、王朝時代の多くの才媛たち、紫式部、清少納言、和泉式部なども本名は分かっていない。誰それの娘とか妻であるとは諸史料にあるが・・。一方、中国では有名な楊貴妃(「貴妃」は尊号」)でさえ「楊王環」という本名が伝わっている。生涯、「楊王環」を名乗っていたからである。ここにも、日本と中国の大きな違いがある。

 この日本の歴史的伝統、慣習が武家社会になっても存続していたと見るのが正しいであろう。他家に嫁に行っても生涯、実家の姓で呼ばれてきたのである。しかし、意識は婚家の一員であった。これらの事実を夫婦別姓と呼ぶことには大きな問題がある。誰でも、夫婦別姓と聞くと中国のそれをイメージするからである。ただし、古代は夫婦別氏であったとの表現は正しい。男女共に生涯、自分の生まれた「氏(うじ)」(氏族)に属したのであるから。この慣習は江戸時代の公家社会まで生きていた。(なお、武家社会の足利氏や豊臣氏の「氏」は「家、一門」の意味である。現代では「氏」と「姓」は同じ意味で使う)。

 たしかに、婦人が実家の姓を使って「姓・名」を表記した資料は存在する。ところが、逆に夫の姓を用いて「姓・名」を表記した事例もまた有ることがすでに研究者によって報告されている。その理由を「前近代には夫婦の苗字に関する法的規制は存在せず、妻が実家、婚家どちらの苗字を名乗るかは、慣行や帰属意識にゆだねられていた・・」とある (大藤修『日本人の姓・苗字・名前』吉川弘文館)。 

 がしかし、ごくわずかの文献資料でもって、日本の女性が昔から中国のように「姓・名」で自身を名乗っていたと考えるのは早計である。日本の女性が全員、「姓・名」を名乗るようになったのは明治8年の「平民苗字必称令」の布告からである。その時、生家、婚家どちらの姓を名乗るかで日本全国で混乱が起きたことはすでに書いた。(当時の日本が本当に中国式の夫婦別姓だったら、何の混乱も起きなかったはずである。政府の指示は、妻は生家の姓を名乗れとのことだったのだから・・)。つまるところ、日本は夫婦別姓・同姓どちらとも言えない曖昧な国だったとしか言いようがない。(北政所が東寺の仏頭に納めた木札に「豊臣氏女」と書いていることは象徴的)

 ー日本史学者の言う夫婦別姓と中国の夫婦別姓とは根本的に違う ー

 蒋介石の妻の名前は「宋美齢」である。娘時代は宗家の娘、「宋美齢」である。結婚しても、蒋家の嫁、「宋美齢」である。夫の死後もやはり宋家の女、「宋美齢」である。これが本当の夫婦別姓である。では、日本の場合はどうか。大石内蔵助の妻、「りく」の娘時代は石束家の娘、「石束りく」か? 結婚して、大石家の嫁、「石束りく」か? 夫の死後も石束家の女、「石束りく」か? 「りく」は「石束りく」とも「大石りく」とも名乗ったことは唯の一度もない。この両者の違いを日本史の研究者は正しく認識しているとは思えない。

 この二人の女性の人生で根本的に違うのは、「りく」は結婚そして離縁後も、「大石家の女」としてその責任をまっとうしたことである。「りく」は離縁後、幼い子供を連れて但馬豊岡藩家老・石束家に戻った。男児は幕府からお咎めを受け遠島に処されたが、ほどなく赦免され豊岡に戻った。女児は他家に嫁にやったが、男の子供は藩主の口添えがあったのであろう、浅野家本藩・広島藩に召し抱えられた。「りく」はその子と一緒に広島に行き、そこで生涯を終えた。大石家の再興に執念を燃やし、最後まで「大石家の女」として生きた人生であった。

 <追記>

「選択的夫婦別姓」を推進するため集まった与野党議員の先生方は、本当に日本史学者の言う「日本も昔は夫婦別姓であった」との主張の矛盾を理解した上で、夫婦別姓に賛同しているのだろうか。はなはだ心もとない。そのとき新聞に一文を寄せた大学教授同様、日本も、中国や朝鮮と同じように古代から江戸時代まで夫婦別姓であったのに、明治31年、ときの政府によって、それまで名乗っていた生家の姓を取り上げられたと思っているのではないのか・・。

 また、「姓」と「名字」(苗字)は違うとの通説があるが、それは歴史的由来から来ているものであり、日本で最初に中国風の姓を持ったのは氏族集団、つまり貴族階級であった。だからこそ、「大伴の旅人」と「の」を入れて読むのであり、「大伴氏の旅人」の意味である。「名字」は平安末の荘園制の崩壊から土地が私有されるようになり、その土地に「名」を付けて自分の物とした。そこから「名字」を持つ武士が生まれた。おそらく、その私有地を「名田(みょうでん)」とか「名地(みょうち)」と呼んでいたので、その「名地」から「名字」が生まれたのであろう。 「姓」(貴族・官人)と「名字」(農民・武士)は格が違うのである。その後、両者の区別はなくなった。後世、武家がよく使う「本姓は 源、平、藤原」などの表現は、自分の先祖は皇族、貴族に連なると自慢したかっただけで、別に深い意味はない。

 余談であるが、ドイツも貴族階級は戦前まで氏名の間に  von  (英語の  of  ・・の)を付けていた。東プロイセン(現在はポーランド領)にあった総統大本営爆破事件に失敗して銃殺された クラウス・フォン・シュタウフェンベルグ は地主貴族(ユンカー)出身であった。つまり、シュタウフェンベルグ家 の クラウス の意味である。他にも、フォン・モルトケ将軍 やフォン・ヒンデンブルグ元帥などが有名。日本でも阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)と「の」を入れて読むことで貴族意識を持っていたのであろう。全くの偶然とはいえ人間の考えることはよく似ているものである。 

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