小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

桶狭間合戦の真実 -再論ー

2013年09月02日 | Weblog

 近年、桶狭間合戦は正面攻撃であったとの説がまことしやかに流布している。あたかもこれが真実で、迂回奇襲攻撃は虚構であるかの如く語られている。最近の歴史雑誌記事でも多くがこの説を採用している。私が先に ー桶狭間合戦の真実ー で書いたように、『信長公記』のどこにも正面攻撃したとは書かれていない。なぜ、このような説が出てきたのかその理由を書く。

 -正面攻撃を偽装するのは古今東西よくあることー

 世界の戦史をひも解くと、正面中央突破を偽装し (正面の背後には必ず敵の大将がいる)、敵の大軍を正面に引き付けておいて、手薄となった敵の左右両翼に、隠しておいた騎兵を突撃させて両翼を打ち破り、敵の正面大部隊を側面から攻撃するするという方法はよくある手である。アレクサンダー大王やナポレオンもこの手をよく使っている。日本でも、大阪夏の陣で真田幸村がこの手を使い、自身が天王寺口の家康本陣に正面から攻撃し、徳川旗本部隊を中央に引き付けて、そのスキに右翼から明石全登の別働隊が手薄となった家康本陣の左翼を突く作戦を立てたが、連携がうまく行かず、明石部隊の戦場到着が遅れて失敗している。『信長公記』は兵を出したとは書いているが、信長自身が正面から打って出たなどとは書かれていない。

 織田軍のいる中島砦から今川義元が本陣を置く桶狭間山 (実際は桶狭間という地名の場所にあった丘のひとつで、便宜上、大田牛一がそう名付けた) までは旧東海道の一本道で、距離は約2キロ。このことを『信長公記』は家老の言葉として「脇は深田の足入、一騎打ちの道なり、無勢(兵の少なきこと)の様体(さま)敵方よりさだかに相見え候」と書いている。つまり、義元の本陣までは馬なら一頭、人ならせいぜい二人が通れるのが限度で、前方に布陣する今川軍からは丸見えだと言っているのである。このような道を正面から攻撃できるわけがない。信州・川中島のような平野なら、大軍で正面から押し出せるが、この地形では無理である。たとえ、周辺の丘陵地帯に分け入っても、丘陵のあちこちに布陣する今川方に捕捉され、今川軍が殺到してくる。信長の首をとれば恩賞は望みしだいなのだから。どうして正面攻撃説が成り立つのか理解に苦しむ。

 -『信長公記』は明らかに奇襲攻撃を書いているー

『信長公記』・「首巻」によると、中島砦での信長の大演説のあと、いきなり場面は義元本陣真近にまで接近した織田軍が出てくる。それには 「山際まで御人数寄せられ候の処」 とある。この織田軍を義元本陣は気付いていない。もし正面から来たのなら今川軍は気付かないはずがない。この「山際(やまぎわ)」とは間違いなく義元が本陣を置く桶狭間山のことであろう。それは、その次の場面で信長がみずから槍を取って、大音声で 「すはかかれ」 と下知したことから分かる。(このとき、突然の暴風雨が吹いたことを『信長公記』は書いている)

 突然の織田軍の出現に今川軍は大混乱している。そのことを「首巻」は 「水をまくるがごとく後ろへくはっと崩れたり」 と書いている。まるでバケツの水をぶちまけたように崩れたと言っているのである。これは奇襲というより、まるで不意討ちである。この乱戦の中で今川義元は討ち取られる。もし正面から織田軍が迫ってきたのなら、その位置を今川軍は最初から把握しており、なにも慌てる必要はない。大軍でゆっくり包み込んで討ち取ればいいのである。どのようにして、織田軍が義元本陣のある桶狭間山の山際までひそかに忍び寄れたのか、『信長公記』は何も書いていない。謎である。そこで、儒学者・小瀬甫庵著『信長記』にある「山際までは旗を巻き忍びより」の記事が重要性を帯びてくる。信長は武士の合戦の作法を破ったのである。つまり、武門の誇りである旗印を堂々と掲げて合戦に臨む、これがこの時代の合戦のルール、作法だったのだから。それゆえ、信長の馬廻りとして現場にいて、そのすべてを知っている大田牛一は、書かなかったというより書けなかったのであろう。

 -戦国時代の合戦を誤解している-

 正面攻撃説の人は明らかに合戦というものを誤解している。戦国時代の合戦でも一番殺傷力があったのは、いわゆる飛び道具、鉄砲や弓である。このことは後の戊辰戦争でも変わりない。我々が、時代劇の映画やテレビで見る戦闘シーンでは馬が疾走し、人間が激しく動く。あれは単なる映像美にすぎない。黒澤明の映画から合戦をイメージしてはいけない。「長篠合戦図屏風」を見ても馬は疾走しない。旗や槍を持った従者が騎馬武者のまわりを取り囲んでゆっくり進んでいる。戊辰戦争に参加した人が明治になって多くの手記を残しているが、やはり戦場ではゆっくり歩いて進むのである。敵と遭遇すればそのほとんどは銃で倒している。正面攻撃説の人は、織田軍の精鋭部隊が正面から今川軍を突き伏せ、斬り倒し、突き崩して義元本陣に殺到したような、まるで黒澤映画のイメージで桶狭間合戦を想像しているとしか思えない。

 <追記>

 ごく最近も東大教授の呉座勇ーが桶狭間合戦、正面攻撃説の本を出した(『動乱の日本戦国史』朝日新書・・2023年)。内容はすでに正面攻撃を主張している藤本正行説を踏襲したものである。この両人は桶狭間一帯の古戦場を実際、歩いて現地を確認したのかと疑問に思えてくる。私は昔、この地を歩いて探索した。鳴海城、中島砦(旧東海道沿いにある)、桶狭間山(私が行ったときは付近一帯は野原の丘陵地帯であった)。現在はテレビで見ると、宅地開発されて住宅地になっている。その中に「伝・今川義元本陣跡」との記念碑が建てられていた。その本陣跡を下ると今川義元の慰霊碑の立つ小公園がある。この場所こそ義元が討ち取られた「田楽挟間」である。

 この様な狭い地形でどうして正面攻撃などができるのか。出来るわけがない。今でも江戸時代の旧東海道・鳴海宿は残っているが、戦国時代の道幅はもっと狭かった。さらに「脇は深田である」と出撃を止める家老の言葉を『信長公記』は書いている。「山際に御人数を寄せ」たとき、にわかに暴風雨となる。当然、義元本陣は丘陵下の街道筋にある農家に雨を避けようと山を下り始める。そのスキを突いて信長は全軍突撃を命じた。まさに奇襲攻撃、不意討ちである。正面攻撃説をとるこの両人は本当に『信長公記』を読んでいるのだろうか・・?。

 

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