小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

日本語の諸問題(6) 「たそがれ(黄昏)」の語源

2007年11月27日 | 言語

 夕方の薄明かりを「たそがれどき」と言う。この「たそがれ」の語源は「たそ・かれ(誰彼)」であるとされている。『広辞苑』を始めすべての「国語辞典」は一致している。その根拠は多くの古文献資料がそのように書いているからである。(広辞苑にはその一覧が出ている)。 果たしてそうであろうか。古文献は絶対に正しいと言えるのか。

 ー『古事記』は語呂合わせだらけー

  日本の一番古い文献である『古事記』には語源について多くの記述があるが、そのほとんどは語源俗解、いわゆる語呂合わせである。例えば、日本武尊が亡き妻(乙橘姫)を偲んで「あずま(吾妻)や」と叫んだからそれ以後、東国を「あずま(東)」と呼ぶようになったとある。 これは言語学的には失格である。日本語「あずま」は朝鮮語の「アチム(朝)」と比較されている。「あさ(朝)」「あす(明日)」「あした」「あずま(東)」は word family (単語家族)を形成する。なによりも、世界のすべての言語で sentence (文)から普通名詞が生まれた例は私の知る限りない。もし有れば教えて欲しい。「たそ・かれ(誰彼)」は英語に訳すと Who is it ? である。黄昏(たそがれ)は英語で  evening  ウズベク語では  oq shom (白い夜)と言う。
 「たそがれ」は『源氏物語』にその例があり、平安時代には成立していた言葉である。
 
 では、「たそがれ」の語源は何か。「かれ」は古語の「離る(かる)」であろう。古語辞典の説明では「離れる、遠ざかる、うとくなる、関係がなくなる」などの意味が出ている。また「枯れる、涸れる」も同源とある。(例、冬枯れ、立ち枯れ)
 では、「たそ」とは何か。「万葉集」や「記紀」に「明かり」や「光」を意味する言葉で「たそ」とか「たす」というのがあれば問題は簡単であるが、しかし、そういう言葉はない。そのことから昔の人も「たそがれ」は「たそ(誰)・かれ(彼)」と語呂合わせをするしか方法がなかったのであろう。
  語源は不明としか言いようがない。ただ、Who is it ? (誰彼?)のような  sentence  (文)から決して普通名詞は生まれないということだけは確実に言える。 
 

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「錦の御旗」はなぜ朝廷の代名詞なのか  -錦 (にしき) の語源ー

2007年11月24日 | 歴史

 幕末、鳥羽・伏見の戦いで薩長軍に錦旗(にしきのみはた)が翻ったとき、幕府軍は総崩れとなり敗走した。「錦の御旗」とは天皇(朝廷)そのものを指す言葉であるので、この時から徳川幕府は朝敵となった。漢和辞典で「錦」を引くと「金糸や色糸を織りこんだ美しい模様の織物」とある。もともと織物の一種であるが、これを中国の皇帝や貴族が着用することから「錦」は皇帝(朝廷)の代名詞となったである。
 

 では、漢字「錦」はなぜ「にしき」と読まれるのか。これまで様々な説が出されている。「丹敷き」や「虹色」などなど。この「にしき」も先の「奈良」「明日香」同様、古代朝鮮語から入ったものであると考えられる。
 朝鮮の歴史書『三国史記』によると、新羅の王号は「尼斯今」(ニシクム)とある。「脱解尼斯今」と表記された王がおり、現代朝鮮語でも「脱(タル)」は「月」、「解(へ)」は「日」の意味であるので漢字で書けば「月日王」の意味になる。このように、日本の万葉仮名に先駆する表記法がすでに新羅にはあったのである。これを「吏読」という。新羅人からこの用法を学び、日本語に適用させたのが万葉仮名であった。
 

 この「尼斯今」 ni-si-kum  を開音節語(子音プラス母音)の倭人は「ニシキ」と発音した。明治時代でも英語の ink は「インキ」、strike は「ストライキ」とか「ストライク」と借用していることからも分かる。
 また、『古事記』によると、応神天皇のとき「論語」「千字文」を持って来朝した百済の「王仁」を「わに」と読ませるのも、漢字「王」は  wang  と鼻音なので、鼻音を持たない倭人は現代日本語同様「ワン」と発音したが、この時代「ん」に当たる文字がなかったので、「ん」に「仁」の字を当てたと考えられる。この「王仁」は漢文に習熟した漢人、楽浪王氏の一族であった可能性が高い。

 漢語「錦」に新羅の王号「にしき」の訓読みを与えた当時の飛鳥・奈良時代の日本人は、その意味を当然知っていたはずである。がしかし、「明日香」や「奈良の都」同様、時代を経るにしたがいその記憶はうすれ、だれも分からなくなってしまったのであろう。
 なお戦前、大槻文彦がその著『大言海』において、「錦(にしき)」の説明のなかで「新羅の王号を尼斯今と云う」と控え目に書いている。皇室に遠慮したのであろうか。この説のプライオリティ(先取権)は勿論、大槻文彦にある。
 

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明日香と朝鮮

2007年11月19日 | 歴史

 明日香(あすか)の語源についてはこれまで色々な説が出されている。大和・磯城郡の「磯城(しき)」と関係があるとか、「あ-すか」と読んで、横須賀などの「すか」(土地)の意味だとか言われてきた。私は「明日香」も先に述べた平城京(奈良)と同じように朝鮮半島と密接な関係があると思っている。

 -古代朝鮮の神話ー
 
 朝鮮・高麗時代(1285年)に書かれた『三国遺事』には朝鮮半島の神話が語られている。それによると、半島の北部から旧満州にかけて4000年ほど前に「古朝鮮」という国があり、その始祖は「檀君(だんくん)」と言われ、都を「阿斯達(アシダル)」に置いたとある。その「阿斯達」が高句麗の首都・平壌であるとされている。これは、漢の楽浪郡の中心地が「朝鮮県」(今の平壌)であったことから思いついたものであろう。「朝鮮」という国名も元々は漢帝国の支配地、楽浪郡の一県名であったのである。

 古事記の神武天皇神話と同じようなもので、所謂「檀君神話」と言われている。この「阿斯達(アシダル)」こそ「明日香」の語源であると思われる。
「阿斯達」の「あし」は「朝(あさ)」の意味だと考えられる。日本語の「あさ(朝)」は「あす(明日)」「あした(明日)」と単語家族  word family  を形成する。古語では「朝」は「あした」とも読み、翌朝、早朝の意味でもあったことは高校の古文の授業で学んでご存知と思う。「あした」が明日 tomorrow の意味に限定されるようになったのは近世以後である。言語学的には日本語の「あさ(朝)」「あす(明日)」「あした(朝)」「あずま(東)」と朝鮮語で朝の意味の「アチム」が比較されている。

 ただ、古代朝鮮語の文献資料が非常に少なく、「阿斯」が高句麗語で「朝」の意味があったのかどうかは不明であるが、「達(タル)」は高句麗語で「山」(土地、場所の意味にも使う)の意味であることは朝鮮の古代史書『三国史記』の記述から証明されている。つまり、漢字で書けば「朝鮮」、漢字の音を借りて万葉仮名風に書けば「阿斯達」となり、同じ意味である。なお、1392年李成桂が高麗国王から禅譲という形で新王朝を開いたとき、国名を古朝鮮(檀君朝鮮)の神話からとって「朝鮮」とした。

 ー明日香と阿斯達ー

「明日香」は「あす・か」と読み、「あす」は「あさ」「あした」と単語家族であり、同じような意味である。「香」は「有りか」「棲みか」の「か」で土地、場所の意味であるので、「あすか(明日香)」とはまさに「阿斯達(朝鮮)」を日本語に置きかえたものだと考えられる。これは何を意味するのか。6、7世紀の倭国には半島から多くの移住者があり、さまざまな分野で貢献している。政治制度、建築、仏教、漢字文化などに半島の顕著な影響がみられる。このような背景の元で日本の新たな都(みやこ)として造営された地に「あすか」の名が付けられたのであろう。これは、後の平城京を「なら(楽浪)のみやこ」と呼ぶのと同じ発想である。

 このような例は世界史上いくらでも見られる。18~19世紀の帝政ロシアはこれまで軍事的には強国であったが、西欧列強からは政治制度や文化、技術で遅れをとっていた。そのため、国家をあらゆる面から強国にしようと多くのドイツ人を招いた。その結果、西欧列強にひけをとらない大国となった。実は、帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルグ(旧レニングラード)はドイツ語なのである。また、オスマン・トルコ帝国でも政治、法律、経済などで多くのペルシャ人が登用されていた。古代日本も、巨大古墳を作るほどの強国であった(4世紀末には渡海して高句麗と戦っている…好太王碑文)。また、5世紀には中国・南朝の宋に朝貢し、半島の南部(任那・加羅)の支配権を認めさせている…「宋書倭国伝」。

 その後、6~7世紀頃には朝鮮三国が中国(隋、唐)の諸制度や文化を導入し、古代版の近代国家へと変貌した。地勢上、遅れをとった倭国はかれら半島の人を登用して日本を近代国家にしようとした。その中心となったのが蘇我氏であり聖徳太子であった。聖徳太子の仏教の師は高句麗僧であったことは『日本書紀』に書かれている。そうして、藤原京の造営や大宝律令の制定によって倭国の近代化は完成した。それが飛鳥・藤原京時代であったのである。

 

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卑弥呼は漢字を知っていた!

2007年11月03日 | 歴史

 邪馬台国時代(三世紀)には倭人は漢字を知らなかったというのが古代史の定説となっている。「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の地名、人名などは倭人の発音を聞いた魏の使者が漢字表記したものであると。日本に漢字が伝わったのは五世紀頃で、『古事記』にある百済から「王仁(わに)」の来朝記事がその根拠とされてきた。毎年、洪水のように出される邪馬台国関係の本や論考でもそれが自明のこととして書かれている。
 

  しかし、これに「異」を唱える人が現れた。『邪馬台国はなかった』の著者・古田武彦である。古田氏は、倭人は前漢以来「以歳時来献見」(『前漢書』地理誌)と半島の楽浪郡に朝貢し、漢字文明と接触していること。「魏志倭人伝」にも「郡使倭国 皆臨津捜露 伝送文書」と文字を使った事務作業を行っていること。そうして、決定的なことは帯方郡使が卑弥呼に対して「奉詔書印綬」と書面を渡しており、それに対して卑弥呼は「倭王因使上表 答謝詔恩」と魏の皇帝に対して答礼の上表文を呈している。これらの記事を読むかぎり、卑弥呼の宮廷には漢字に習熟した人がいたことは明らかである。(その人が倭人であったかどうかは別として)
 古田氏は至極当り前のことを言っているのである。明治以来日本の学者は「倭人伝」を本当に真面目に読んできたのであろうか。ただし、古田氏の唱える「邪馬壱国」は支持できない。中国史書『後漢書』(五世紀) にはちゃんと「邪馬台国」とあるのである。日本の学者が「大和(やまと)」に合わせるため、勝手に「壱」を「台」に読み替えた訳ではないのである。それと、『後漢書』の「倭人の条」は『魏志』(三世紀末成立)をそっくり写している。現存している『魏志』はずっと後の12世紀(南宋代)の版木本のみである。
 私も邪馬台国には漢字に習熟していた人がいたと思っている。その根拠は「倭人伝」に記された「対馬国」と「末盧國」にある。

(1)対馬国
 「対馬」の表記は「倭人伝」以来、今日まで変わらない。七世紀の『隋書』倭国伝には対馬は「都斯麻」と万葉仮名で表記されている。これは中国人が当時の日本人の発音を聞いて書いた文字ではなく、すでに漢字で日本語を書き表す方法を習得していた日本側が隋の使者に示した文字であろう。万葉仮名というのは子音プラス母音で一音節を構成する日本語を、漢字一文字で書き表すものである。現代でも新彊ウイグル自治区の首都ウルムチは漢字で「烏魯木斉」、内モンゴル自治区の首都フホホトは「呼和浩特」と表記される。日本の万葉仮名そっくりである。もし、定説のように邪馬台国の倭人が漢字を全く知らず、「ツシマ」と倭人が発音したのを漢人が表記したとすれば、先の「烏魯木斉」「呼和浩特」の例のように漢字3文字になるはずである。時代は下がるが、『明史』日本伝にも「明智光秀」を「阿奇支」と表記した例もある。しかし、「つしま」は「対馬」と漢字2文字である。これは何を意味するのか。
 

 一つには対馬は三世紀には「ツマ」と2音節語であったのか。いや、私は対馬は三世紀も「ツシマ」であったと思う。なぜなら、対馬の語源は「津島」であるからである。「倭人伝」の「対馬」は倭国側で使っていた表記をそのまま魏使が書き写したものと考えられる。対馬は上下二つの島から成り立っている。正確には日露戦争のとき狭い水路を掘削して完全に二島に分離されたものだが、古くから二島と認識されていた。むしろ、二つの島が対(ペアー)になっているというのがより正確である。「対馬」はまさにそれに適っている。つまり、漢字の意味を借りたのである(訓借)。では、なぜ「対島」と表記されなかったのか、その理由は分からないが、「対馬」は邪馬台国側で使っていた表記であることは間違いない。                                  

(2)末盧國
 現在の長崎県松浦半島にあった「末盧國」も「マツラ」と3音節である。当然、魏使は漢字3文字で表記したはずである。ところが、実際は「末盧」と2文字である。なぜか、 それは一音節語の漢字「末  mat 」を倭人語風に「 mat-u (マツ)」と母音を加えて2音節にして使用しているからである。 これは漢字で日本語を書き表す手法を習得していた七世紀頃には一般的であった。筑紫の「筑」は漢字音  tik を  tik-u 「チク」又は「ツク」と2音節で使う。 地名表記でも「信濃(シナノ)」は「 sin-a no 」、「讃岐(サヌキ)」は「 san-u  ki 」というふうに母音を加えて使う。『魏志』より400年後に成立した『隋書』倭国伝には「筑紫」を「竹斯国」と表記している。「魏志倭人伝」の「末盧國」と同じ用法である。つまり、「竹   ti k 」を  ti k-u  と母音を加えて二音節として使っている。( 一音節の漢語「末 」や「竹」を「マツ」や「チク」と母音を加えてニ音節化して使う, この用法を国語学で「ニ合仮名」と言う)。なお、『古事記』には「末羅縣(まつらのあがた)」として出てくる。
 

 この用法はすでに五~六世紀頃に造営されたと思われる埼玉・稲荷山古墳鉄剣銘文に現れる。それには「多加利足尼」とあり、この「足尼」が飛鳥・奈良時代の位階のひとつ「宿禰(すくね)」を意味する言葉であるとされている、(例、大伴宿禰家持)。 三世紀の邪馬台国時代にすでに、七世紀の飛鳥時代と同じ漢字使用法が定着していたのである。朝鮮漢字音では漢字はそのまま一音節で借用している。(例えば、「国」は kuk 、日本語の  koku  (コク) とは全く違う)
 

 これらの事実は驚くべき結論をさし示す。つまり、邪馬台国時代の倭人は漢字を知らないどころか、すでに漢字で倭人語を表記する方法を習得していた。その証拠が「対馬国」と「末盧國」である。倭人に漢字をもたらしたのは楽浪・帯方郡の漢人であろう。漢人のうち何人かは卑弥呼の宮廷に近侍していたはずである。そうして、倭人の中にも漢字に習熟していた人たちがすでに存在していた。そう考えなければ「倭人伝」にいう「倭王因使上表、答謝詔恩」などの文が理解できない。他にも、国々にあった「市(いち)」の監督官「大倭」、伊都国に置かれた政治・軍事の監察官「一大率」、この「大倭」と「一大率」などは邪馬台国が独自に決めて使っていた文字であることは明らかである。邪馬台国にやってきた漢人(魏使)がどうしてこんな漢字を思いつくだろうか、あり得ないことである。前漢以来の楽浪・帯方郡と倭国との密接な交流の歴史を再認識する必要があるのではないか。
 

 <追記>

 なぜ、明治以来の邪馬台国論争でこれらのこと(倭人が漢字を使っていた)が無視されてきたのか。その理由は単純なところにある。日本国家の中心は大和の天皇家であり、日本のすべての古代文化(古墳も漢字も仏教も)はまず大和から始まり、そこから列島の隅々まであまねく伝えられたという虚構(皇国史観あるいは大和中心史観)にある。邪馬台国=大和説こそ皇国史観そのものである。今でも、地方で立派な出土物が出ると、大和朝廷の勢力はここまで及んでいたのか、と言う学者が少なからずいる。すべてはここにある。

 近年、九州の弥生時代遺跡(紀元前後)から相次いで、硯(すずり)石の断片が出土している。卑弥呼の時代の吉野ヶ里遺跡からも硯石と研石が発見されている。おそらく、楽浪・帯方郡から倭国に移住してきていた漢人が持ち込んだものであろう。「卑弥呼は漢字を知っていた」との私の論考の正しさを証明してくれている。

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