小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

広開土王(好太王)碑文の新解釈 -「臣民」についてー

2017年12月10日 | Weblog

 

    「好太王碑文」の画像検索結果広開土王(好太王)碑文

 広開土王(好太王)碑文は鴨緑江北岸、現在中国・集安市にある。明治13年(1880年)地元の農民により発見され、明治17年、日本陸軍の酒匂大尉によって拓本が持ち帰られ、その後、日本で碑文の本格的研究が始まった。この碑文解釈に重要な見落としがある。それは碑文にある「臣民」の文字である。これまで「臣民」との文字を、単なる「家臣」とか「支配民」ていどの意味として、あまり深く考えてこなかった。これこそ古代の日本と朝鮮半島の関係を語る重要な文字である。

 -広開土王碑文の世界史的意味ー

 この碑文は西暦414年に広開土王の事績を顕彰するため息子の長寿王が建立したものである。世界四大碑文に相当すると私は思っている。時代の古さ(4世紀末~5世紀初頭)、巨大さ(高さ6メートルほど、幅1・5メートル)、文字数の多さ(約1800字)、そうしてなによりもその時代の東アジアの激動の歴史を非常に克明に描写している。決定的なことはこの碑文の内容が、後世、高麗時代(1145年)に編纂された朝鮮の歴史書『三国史記』の記事と大体一致していることである。(勿論、高句麗側から見ているので、多少の誇張や粉飾は仕方がないがおおむね信用できる)。

 では、あとの三つとは、BC1286年頃、古代エジプト王国と小アジア(今のトルコ共和国)にあったヒッタイト帝国がシリア周辺の覇権を争ったカデシュの戦いの和平協定を記録した碑文、エジプトのラムセス2世のカルナック神殿に象形文字で残されている。ヒッタイトでは、楔形文字で刻まれた同文の粘土版が発掘され、解読された。次に、古代エジプトのツタンカーメン碑文や今、大英博物館にある有名なロゼッタストーン(アレクサンダー大王の後継王国、エジプトのプトレマイオス朝の碑文、BC196年)、これら一連の象形文字碑文、三つ目は古代ペルシャのベヒストゥン碑文(ダリウス碑文)、これは古代アケメネス朝ペルシャのダリウス大王の事績などを断崖絶壁に楔(くさび)形文字で刻んだもの(BC500年頃)。勿論、世界各地で発掘などにより様々な文字記録は出土しているが(突厥碑文など)、質量の点においても、歴史的記録の大型碑文はこの4例しかないのではないか。中国は意外とこのような碑文は残っていない。まず、次の王朝によって破壊されたのであろう。有名な「赤壁の碑」も後世のものである。

 -広開土王碑文の価値を貶(おとし)める韓国・北朝鮮ー

 この碑文を日本と中国の学者は漢文に忠実に読んでいる。これ「異」を唱えるのが韓国・北朝鮮の学者たちである。古代の時代に現在の国家間の問題を持ち込んでいる。いわゆる、感情移入である。碑文にある「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■■羅以為臣民 」(西暦391年)であるが、日本と中国の学者は「百済、新羅は元々(高句麗の)属民で朝貢していたが、倭が辛卯年に渡海して来て百済、新羅を破り臣民とした」と読んでいる。特に、漢文の本家の中国の学者の読みはすべて一致している。母国語であるので当然である。ところが、韓国・北朝鮮の学者は渡海したのは高句麗で、百済、新羅、倭を(広開土王が)臣民としたと読んでいる。荒唐無稽、無茶苦茶である。漢文の法則を無視しても自分たちに都合よく解釈する。そうして、絶対に自説を変えることはない。

 朝鮮サイドの人にとってはこの「臣民」は困る文字なのである。「倭」が百済・新羅を「臣民」にする。まさに明治の日韓併合の古代版になる(皇国臣民)。こんなことは絶対にあってはならないことである。そこで歴史を創るのである。とくに、高句麗も王であり、王が中国皇帝を差し置いて「臣民」にするなどは当時の東アジアの中華文明圏には有り得ないことである。

 また、碑文中に「新羅遣使白王 倭人満其国境 潰破城池」(西暦400年)とあり、倭人が国境に迫ってきていると、新羅が高句麗に救援を求めてきた。そこで、広開土王は歩騎五万を率いて出撃し、碑文には 「新羅城倭満其中官兵方至倭賊退自倭背急追至任那加羅」とあり、占拠していた新羅城から撤退する「倭賊」を「任那加羅」まで追撃したとある。このとき、高句麗は自軍を「官兵」と称している。「官兵」とは「高句麗王の軍」の意味であろう。その4年後には「倭不軌侵入帯方界 」と、今の韓国・ソウル付近まで侵入してきた倭を撃破して「倭寇潰敗斬敵無数」と表記している。この「倭賊」「倭寇」を韓国・北朝鮮の解釈では中世(室町時代)の「倭寇」、つまり、海賊集団と決め付けている。世界四大碑文の一つである広開土王碑文は、父親の大王が倭の海賊ていどを討ち破ったことを偉大な功績として顕彰したことになる。韓国・朝鮮人にとって、現在は中国領にあるとはいえ、これほど先祖の偉大な王を侮辱する行為をなぜ平然とやれるのだろうか。むしろ、その功績をきちんと評価しているのはなんと日本と中国である。つまり、この碑文は「倭」を撃破したことを誇る戦勝記念碑なのに・・。これほど皮肉なことはない。

 -臣民は中国皇帝の臣ー

『前漢書』「地理誌」に「楽浪海中有倭人・・・以歳時来献見云」とあり、倭人は紀元前から楽浪郡に朝貢している。次の『後漢書』「東夷伝」には、「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」とあり、西暦57年、倭奴国が朝貢して後漢の光武帝から印綬を授かっている。そして、三世紀の「魏志倭人伝」には、倭の女王・卑弥呼は魏の皇帝から「親魏倭王」に叙任され、「金印」を賜っている。その後、卑弥呼の後継者「台与」が朝貢したあと(266年)、中国の文献からは「倭国」の記事は消える。この時代は日本古代史でも「謎の四世紀」と言われている。そうして、突然、四世紀末、広開土王碑文に「倭」「倭人」「倭賊」「倭寇」などが出てくる。この間、一体なにがあったのか。歴史史料は何も語ってくれない。次に中国史書に出てくるのは五世紀、『宋書』倭国伝の「倭の五王」の時代である。 

 私はこの四世紀にも王朝は変わっても中国に朝貢して、皇帝の臣として冊封体制下にあったと思う。つまり、倭国の軍隊は中国皇帝の軍でもあり、倭国軍は官軍として朝鮮半島に出兵したのではないか。そのことを、当然、新羅・百済・高句麗にも宣伝していた。倭軍の先頭には中国皇帝の印(しるし)、黄色い旗が翻えっていたはずである。戦いを有利に進めるため、いつの時代でも大義名分は戦争に必要である。それを知っていた長寿王は倭が百済・新羅を破り、「以為臣民」と碑文に刻んだのではないか。自分たち高句麗でさえ百済・新羅は「属民」にすぎないのに。なぜ碑文に「臣民」があるのか。これしか理由が見当たらない。たしかに、この時期、西暦372年、百済も中国(東晋)に朝貢して冊封を受けてはいるが、「勝てば官軍」は今も昔も変わりない。

 時代が下がって西暦478年の『宋書』倭国伝の有名な倭王武の上表文には「臣雖下愚、忝胤先緒、駆率所統、帰崇天極」とあり、倭王は中国皇帝に対して自分を「臣」と称し、宋皇帝に忠節を誓っている(帰崇天極)。同じ頃、宋に朝貢した百済王も自分を「臣」と称している。「臣」は「臣下」と同じ意味であり、「臣民」はその支配下にある「国の民」をさす(つまり、中国皇帝の臣民)。とくに倭軍が「倭不軌侵入帯方界」と、いにしえの「帯方郡」近くまで進攻してきたことは、倭国の戦争の大義、つまり、中国皇帝の軍として帯方郡の復活を目論んでいたのではないのか。この倭軍の中には倭国に亡命してきた楽浪・帯方両郡の漢人が相当数いたのではないかと思う。(313年、楽浪・帯方両郡滅亡)

 -女王・卑弥呼も官軍として戦っているー

「魏志倭人伝」に「倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢  拝假難升米 為檄告喩之」とあり、卑弥呼は南の狗奴國との争いで、帯方郡に使者を送り、戦いの窮状を訴えた。そこで、郡は魏皇帝の名代として軍事顧問、「張政」を派遣し檄をとばした(為檄告喩)。そのとき、もたらされたのが「詔書」と「黄幢」である。この「黄幢」こそ、魏皇帝の軍の印(しるし)、日本でいう「錦旗(にしきのみはた)」にほかならない。このとき、卑弥呼の邪馬台国は官軍となったのである、(黄幢、錦旗説は多くの研究者が認めている、「幢」は丸い筒型の絹の幟で、朝廷の儀仗に使われる。黄色は中国皇帝の色)。その後、狗奴国との戦闘はどうなったのか「倭人伝」に記事はない。卑弥呼の死によって双方が和睦に合意したのかもしれない。

 この「倭人伝」の記事から分かるように、三世紀の「倭国」は半島の小国家郡とは違い、中国王朝からまるで別格扱いされている。魏は中央アジアの大国、大月氏国王にも「親魏大月氏王」の称号を与えているが、卑弥呼とこの二人だけである。この事実は重い、(大月氏国とは前漢の武帝が、宿敵匈奴を東西から挟み撃ちしようと同盟を求め、「張騫」を派遣したことでよく知られている。大月氏王は断ったが・・)。また、卑弥呼の遣使、「難升米」を率善中郎將 「牛利」を率善校尉という魏の官職を与えて銀印靑綬を下賜している。その理由はやはり倭人が前漢以来、中国王朝に朝貢して珍しい産物をもたらしたからであろう。「倭人伝」のいう「上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹」がそれを物語っている。絹布や麻布は漢人にとっても好物であったろうし、返礼に「賜汝好物」として与えた銅鏡百枚など漢人にとってはまさに、「シメシメ」とほくそえむ程度のものでしかなかったであろう・・。この三世紀の魏と倭国の関係の延長線上に四世紀の「広開土王碑文」があると考えるのが一番自然である。つまり、倭軍は中国皇帝の軍、官軍であったのだとの認識は半島諸国にも共有されていた。そこから「以為臣民」の文字が刻まれた。

 <追記>

 「広開土王碑文」問題は現代の「慰安婦騒動」と根は同じである。韓国・朝鮮人は歴史の真実を追究しようという知性が欠如しているとしか思えない。歴史とは自分たちに都合よく創り上げるものであり、どのような事実を突きつけても絶対に認めない。異常なカルト性を持った民族である。古代に倭国が半島に攻め込んで来ることは有りえない。これが絶対的真実であり、中国の古漢文の専門家の意見など一顧だにしない。旧日本軍による慰安婦20万人の強制連行も絶対的真実であり、どのような議論にも耳を貸さない。このことを我々日本人は肝に銘じておく必要がある。

 だが、日本にもよく似た問題がある。三角縁神獣鏡を魏鏡だと断定し、中国の考古学者の見解(三角縁神獣鏡は日本製)を一顧だにしない。そして、いまだ発掘もされていない箸墓(はしはか)古墳を卑弥呼の墳墓に間違いないとほぼ断定し、日本の古墳時代は卑弥呼の生きた三世紀中期に始まるとの説を、あたかも絶対的真理の如く宣伝する。その理由は大多数の古代史、考古学者の意見がそうであるからとのこと。学問は選挙のように多数決で決まるものではない。クレオパトラの墓もジンギスカンの墳墓も発掘調査してはじめて決定されるものであり、これが世界の常識である。韓国・朝鮮人を非難ばかりしておれない。

 思うに、邪馬台国論争は明治以来、九州か大和かの位置論争ばかりが先行し、「倭人伝」にある魏や帯方郡との外交交渉などは軽視されてきた。そうして、邪馬台国の倭人は漢字も知らなかったとの俗説が定説化している。これに「異」を唱える人はいるにはいるが、いまだ日本史教科書もそうである、(私のブログ「卑弥呼は漢字を知っていた」2007・11・3 参照)。卑弥呼は「詔書」「黄幢」「金印」をもらうほどの密接な関係を魏と維持していた。同時代の半島諸国にはこのような事例はない。なぜ、このような事実が無視されてきたのか。

 それは明治以後、戦前まで続いた大和中心史観、いわゆる皇国史観にある。日本の古代の歴史は『古事記』『日本書紀』が正史であり、中国の史書ではないのである。例えば、日本に漢字が伝わったのは古事記にある五世紀の応神天皇のとき、百済の「王仁(わに)」によってである。なんと、神武東征を否定して不敬罪に問われた津田左右吉でさえ自著でこの説(五世紀頃、漢字伝来)をとっている(「古事記及び日本書紀の研究」)。このとき、倭人は初めて漢字を知ったのだと・・。津田左右吉も所詮、皇国史観から抜け出せていない戦前の人なのである。

 とんでもない、「魏志倭人伝」を素直に読めばそんなことはあり得ないのに。卑弥呼は「詔書」の意味さえ分からなかったのであろうか? これを逆手に取られて、朝鮮サイドの人には古代の倭人、未開の土人説が定着している。未開の倭人を文明化してやったのは我々韓国・朝鮮人だと。漢字も知らないそんな未開の倭人が四世紀末に半島に軍事行動など起こせるわけがないと。朝鮮サイドの人にこう言わせる責任はいまだに皇国史観から抜け出せないでいる日本側にある。邪馬台国=大和説こそ皇国史観そのものである。日本の歴史は悠久の昔から大和の天皇家から始まるのであり、邪馬台(ヤマト)国はその前身であるとの・・。

 

 

 

 

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