小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

日本語の諸問題(9) 国文法・連用形の正体

2008年12月17日 | 言語

 我々日本人は誰でも中学校で国文法を学ぶ。未然、連用、終止、連体、仮定、命令、のあれである。こんなことを知らなくても、中学生ともなれば新聞ぐらい読めるし、簡単な文も書ける。私にとって国文法の授業は退屈以外なにものでもなく、むしろ拷問に近いものであった。大方の日本人がそうであったであろう。この国文法からの解放なくして日本語に未来はない、私はそう思っている。
 
 ー連用形の矛盾ー
 国文法・動詞の連用形については、これまでも多くの人からその矛盾が指摘されている。連用形というのは用言(動詞、形容詞、形容動詞)に続くとの意味であるが、なにもそれだけではない。例えば、「この本は読み易い」では、「やすい」という形容詞に付くが、「読みが深い」では助詞の「が」に付く。「読んだ」とか「書いた」では過去・完了の助動詞の「た」や「だ」に付く。(「読んだ」の「だ」は音便化のため濁音となった。つまり、yomi-ta が yon-da, 「書いた」は kaki-ta の k が脱落したもの)。
 

 これまで、動詞の連用形の名詞化、つまり「私は釣りが好きだ」の「釣り」は動詞「釣る」の連用形が名詞として使われるようになった、というのが国語学の法則である。この名詞化は英語の動詞の名詞化(動名詞)  I  like  playing  tennis. の影響で生まれた概念だと思われるが、この名詞形こそ日本語がアルタイ系言語のまぎれもない証拠である。

 -紫式部も清少納言も「連用形」なる言葉は知らないー
 日本人は無意識的に動詞の基本形「読む」とか「書く」があり、それが様々に活用すると思い込まされでいるが、万葉時代の柿本人麻呂も王朝時代の紫式部もそのような概念を認識した上で、歌や小説を創作したわけではない。後世の人が日本語の文法体系を人為的にこしらえたものである。現在の国文法(学校文法)は明治の橋本(進吉)文法を基本的に踏襲している。この文法の最大矛盾は動詞の連用形である。
 

 結論から先に言うと、動詞が名詞化したのではなく、そもそも後世、連用形と称される言葉が最初にあったのである。例えば、「よみ」という言葉があり、これは「歌詠み」とか「読み人」のように、本来名詞であり、この「よみ」に様々な接尾語をくっ付けて文を作っていった。「読み・たり」「読み・き」「読み・けり」「読み・給う」とか、「読み・つつ」「読み・ながら」「読み・て」「読み・が深い」の如く、また「読み・続ける」のように動詞にも接続する。

 その他の動詞でも「上げる」「下げる」の場合は「あげ」「さげ」が名詞語幹であり、(例、お膳の上げ下げ、お下げ髪)、「取る」の場合は「取り」が名詞形、「得る」の場合は「え」が名詞語幹である(例、取り得、こころ得)。また、「見る」の名詞語幹は「み」である(例、見方、花見)。 このように名詞形こそ日本語の動詞の基本であり根幹でもある。従って、形容動詞などという品詞は存在せず、名詞形(語幹)に「たる」とか「なる」の助動詞(接尾語)が付いただけである。(例、堂々たる人生、 静かなるドン)。つまり、「堂々」も「静か」も名詞機能を持った言葉なのである。
 

 分かりやすく言うと、まず、名詞形があり、それに様々な接尾語が付くことにより文が構成される。(このような言語を膠着語と言う)。 否定の「ない」が付くとなぜ「読まない」と「読ま」となるのか、これはアルタイ諸語特有の音声構造と関係があると思われる。このことについては次回に触れる。

 -日本語動詞の基本形は連体形ー
 なお、動詞の基本形(文法用語)とされている「読む」や「走る」は本来、連体形、終止形とされているものである。例えば、「我が行く道」の「行く」は連体形であり、「我は行く」は終止形とされるが、文語的かつ詩的な表現として連体形で文を終止できるというだけのことである。

 この用法はチュルク語にもある。ウズベク語では bo`l-ar  ish  bo`l-ar. という例文が「ウズベクーロシア語辞典」に出ている。 bo`l- は「成る」、-ar  は連体形を作る接尾辞であり、かつ文を終止することも出来る。、ish は「事」、直訳すると「成る事は成る」、つまり 「物事は成るように成る ーあくせくするなー」 との意味である。ウズベク人らしい・・。
 日本語の連体形と終止形もアルタイ語文法で考えれば、区別する必要はない。


  ー柿本人磨呂の歌ー
 「大君は神にし坐(ま)せば天雲の・・・」は原文は「皇者 神ニ四坐者 天雲之・・・」とある。岩波版「万葉集」では「大君は神であるから」と訳されており、この「四」( し )を強調の助詞としている。これはおかしい、「し」は「する」の名詞(連用)形とみるべきであり、「し置く」とか「し出す」と同じ用法であり、訳は「大君は神である」との意味でいいが、「し」は助詞ではない( 例、仕置家老、仕出し弁当 )。つまり、この「し」は強調の意味も併せて持っているのである。古歌にある「大和しうるわし」の「し」がそうである。「大和こそうるわしい」と強調しているのである。文語形容詞語尾の「し」(「高し」「良し」)も同じものであろう。

 同じく万葉集の「草枕、旅にしあれば・・・」も「し・在る」と解釈すべきで、「旅をしているときは」と読むべきである。また、「天にまします神」という表現も「まし」は動詞の名詞形、「ます」は助動詞の「ます」と見るとすんなり理解できる。助動詞の「ます」も動詞「ます(坐)」が助動詞化したもので、本来、同じものである。機能上の区別にすぎない。つまり、英語の  be 動詞にあたる。be  動詞は普通動詞(ある、いる)と助動詞の二つの意味がある。この「ます(坐)」はチュルク語の存在の動詞   bar(バル)  と比較できる 。

 現代語の「行きます」の「ます」の起源については辞書類には諸説出ているが、通説どおり、江戸時代の「行き・申す」から生まれたものであろう。「申す」は薩摩の方言では「もす」と発音されていた。明治時代に日本語の全国統一化(いわゆる標準語の作成)の過程で、音の類似した古語の存在の動詞「ます(坐)」が選ばれたと考えられる。

 <追記>

 今、小・中・高校の国語教師に「国文法の連用形とは何ですか」と質問すると、だれも明確には答えられないであろう。教科書にそう書いてあるからだと言うほかない。では、国文法教科書の執筆者である大学の国語・国文法の先生に聞いても、おそらく、そんなことは明治の橋本進吉先生に聞いてくれと言って逃げるであろう。例えば、外国人用日本語教科書には、「連用形」は英語で  continuous  (連続・継続) と訳されているものもある。しかし、未然形でも仮定形でも文は連続・継続する。国文法の連用形とはそれほど意味不明の言葉なのである。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日本語の諸問題(8) 国語... | トップ | 日本語の諸問題(10) 助... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

言語」カテゴリの最新記事