小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

邪馬台国をなぜ 「ヤマタイ国」と読むようになったのか -皇国史観の呪縛ー

2019年05月18日 | Weblog

 これは先の私のブログ ー「ヤマタイ国」はなかったー  の続編に当たる。どう考えても「ヤマト国」としか読めない「邪馬台国」を無理やり「ヤマタイ国」と読ませるようになったのはなぜか。その理由を書く。(「台」は万葉仮名で乙類の「ト」であり、「古事記」表記の「夜麻登(ヤマト)」の「登」も同じく乙類の「ト」であり一致している)

 -『日本書紀』の編者は「ヤマト国」と読んでいたー

 日本で「魏志倭人伝」の記事が最初に登場するのは『日本書紀』の「神功皇后紀」である。そこに2ヵ所「倭人伝」の本文(倭女王の魏への遣使部分)をそのまま筆写して載せている。それには「魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等詣郡、求詣天子朝献・・・」とある(「倭人伝」と多少の違いはあるが)。これは何を意味しているのか。「書紀」編纂の史官たちは「魏志倭人伝」にある「邪馬台国」を「ヤマト国」と正確に読んでいたからである。つまり、「ヤマト国」である以上、それは大和朝廷にほかならず、女王・卑弥呼にふさわしい人物を探すと、当然、神功皇后以外には見当たらない。そこで、卑弥呼は神功皇后のことであろうと考え、「書紀・神功皇后紀」に書き入れたと思われる。「書紀」によると、神功皇后は優柔不断な夫、仲哀天皇の死後、半島に出兵し新羅を征討した。まさに女帝にふさわしい事蹟がある。(この書き込み部分は後世、平安時代あたりに公家が書き入れたものだとの説もあり、もしそうだとしても、その人の見た「魏志」には「邪馬台国」とあったからである)。

 勿論、「書紀」史官の見た『魏志』は残っていないが、そこには「邪馬台国」とあった証明にもなる。もし、古田武彦の言うように「邪馬壱国」とあったら、史官たちは大和朝廷とは違う別の国だと判断して無視したはずである。古田氏が使っている『魏志』はずっと後の12世紀、南宋代の版木本である。五世紀に書かれた『後漢書』にはちゃんと「邪馬台国」はあるのである。それと、この部分(倭人の条)、『後漢書』は明らかに『魏志』(三世紀末成立)をそっくり写している。また、七世紀初頭に成立した『梁書』も『魏志』を筆写しており、そこにも「邪馬台国」と「台与」はある。(今でいうコピペである)

 -江戸時代に「邪馬台国」はどう認識されていたのかー

 本居宣長(1730 ~1801)は「書紀」編者とは全く別の見方をした。ただ、「邪馬台国」を「ヤマト国」と読むのは同じだが、「魏志倭人伝」にある女王遣使記事は大和朝廷の女帝ではなく、九州の熊襲(くまそ)あたりの女酋長が、大和の神功皇后の名をかたって勝手に魏に遣使したものだと断定した(熊襲偽僭説)。つまり、大和の天皇家が中国(魏)に朝貢などするはずがないとの皇国史観の魁(さきがけ)である。(本居宣長著『 馭戒慨言(ぎょじゅうがいげん)』)

 これを受けて幕末の国学者、鶴峯戊申は中国や朝鮮の史書にある「倭」「倭人」「倭国」などすべて大和朝廷ではなく、南九州の「襲(そ)」の国が大和の天皇家をかたって通交したものだと主張した。なんと、五世紀の「宋書・倭国伝」にある「倭の五王」すら襲国の王が大和の天皇を勝手に僭称したものだと言って憚らなかった(『 襲国偽僭考 』)。 明治の世になっても歴史学者(国学者でもある)の古代日本の認識は江戸時代とさほど変わらなかった。しかし、これら皇国史観にどっぷりつかっていた国学者たちでさえ、邪馬台国は「ヤマト国」と正しく読んでいた。だからこそ、大和の天皇家ではないと否定したかったのである。大和朝廷の天皇が中国に朝貢して冊封を受ける、そんなことは絶対にあってはならないことなのである。この時点では「ヤマタイ国」は生まれていなかった。ではいつから奇妙な「ヤマタイ国」が出現したのか・・。

 -東大の白鳥庫吉と京大の内藤湖南の論争ー

 この二人は共に最幕末の生まれであり、明治の教育を受けた人である。江戸後期の狂信的な国学者とは一線を画していた。当然、邪馬台国は「ヤマト国」と読むべきであると考えていたであろうが、時代的制約があり、そこで妥協案として思い付いたのが「ヤマタイ国」という世にも不思議な架空の国名であったと思われる。「ヤマタイ国」は大和朝廷とは違うとの言い訳ができる。日本人のこのような思考法は得意技でもある。現行憲法には陸・海・空の戦力を保持しないとあるのに、実際は強力な軍隊を持っている。かって、自衛隊は戦力ではないとの迷答弁をした首相もいた。

 それはさておき、この両人の論争、白鳥の九州説、内藤の大和説の激しい論争は有名である。そうしてこの論争は今も続いている。しかし、戦後、日本と中国での考古学上の発掘の結果、京大系の大和説はすでに破綻している。それでも、いまだに三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった魏鏡であるとの自己信念のみに固執しているのが現状である。本家の中国では、後漢、魏、西晋(二~四世紀)の発掘調査が飛躍的に進み、出土した鏡も写真入りで出版されている。ごく最近、なんと魏王朝の開祖・曹操の墓さえ発見された。それでも三角縁神獣鏡はただの一枚も出ていない。中国の学者は日本製と断定している。(元々、鏡の神獣文様は江南の呉地方で流行したもので、北部の魏領域ではまず作られることはない、事実、黄河流域からは神獣鏡の出土例はない・・中国考古学者の見解)

 なお、津田左右吉は自著『古事記及び日本書紀の研究』の中で「魏志倭人伝」の邪馬台国を「ツクシのヤマト国」と正確に読んでいる(津田は九州説)。しかし同時に、ヤマトの大和朝廷は悠久の昔からヤマトにあり、この両者の関係についての言及はない。あえて避けたようである。この本で、神武東征や神功皇后の三韓征伐を史実ではないと否定したため、紀元二千六百年祝典(昭和15年)前に不敬罪に問われ、早稲田大学教授の職を追われた。

 <追記>

 いまでも古代史や考古学で、日本の古墳時代の始まりは三世紀中葉とか三世紀末と書かれた論文や出版物を数多く目にする。三世紀にこだわる理由は、女王・卑弥呼が三世紀半ばの人だからである。三世紀中葉説の人は箸墓古墳は卑弥呼の墓だと決めてかかり、三世紀末説の人は箸墓古墳は宗女・台与の墓に比定しているからである。この両説とも何の根拠もない。発掘調査すらされていない古墳を、実在した歴史上の人物の墓だと決め付けることに学者としてのうしろめたさを感じないのであろうか。(こんな例は世界にない)

 21世紀にノーベル科学省をもらった人の数では日本が世界一である。自然科学の世界では当然、英語で論文を発表するので世界中の学者の批判に耐えなければならない。日本の古代史といえども、鏡の場合は本家の中国の学者の意見にも耳を傾けるのが常識であろう。それとも、中国の古鏡研究能力など低すぎて論評にも値しないとでも思っているのだろうか。日本には虫メガネの鑑定で中国(魏)製か日本(倭国)製か識別できる神の目を持った学者(阪大教授)がいるのだからと・・!? 卑弥呼がもらった銅鏡百枚は三角縁神獣鏡だとの説は学問というより最早宗教に近い。この学説に反論する者は宗教的異端者として排斥されるのがオチであろう。(勿論、中国の学者も異端者である)

 少し前、テレビで大英博物館特集番組があり、そこの日本コーナーには鎧、甲冑、刀剣など貴重な品々と共に、古墳時代の出土物も数多く展示されていた。私が驚いたのは英語と日本語の説明文であった。そこには、日本の古墳時代の始まりは「三世紀中期」(卑弥呼の時代)と明確に書かれていた。おそらく、この古墳時代展示物に日本の邪馬台国=大和説の学者が協力したのであろう。同じような事例は日本国内の歴史博物館にも少なからず見うけられる。地元の古墳から出土した三角縁神獣鏡を「中国・魏鏡(三世紀)」と説明している。かって、森浩一は強く批判していた(森氏は日本製説)。しかし、選挙のように投票で決めたら、邪馬台国=大和説派が圧勝するのが現実である。三角縁神獣教(鏡)というカルト宗教そのものである。日本人の病根は深い。

 

 

 

 

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天皇家にはなぜ姓がないのか?

2019年05月08日 | Weblog

 天皇家には姓がない。なぜだろうか・・・。
 この問いに対する答えは簡単明瞭である。古代の倭人には姓(苗字)がなかったからである。天皇は日本史の生きた化石なのである。姓を持たないということは、人類史上格別珍しいことではない。世界の諸民族はほとんど姓を持たなかった。唯一、中国を除いては・・。
 日本、朝鮮、満州、モンゴル、トルコ、などアルタイ系諸民族も無論、姓がなかった。あるのは個人を特定する名前(テムジンとかチムールなど)とその個人が所属する部族や氏族の名称だけである。(ちなみに、ジンギスカンはボロジキン氏族、チムールはバルラス氏族)。古代日本では、大伴、物部、額田、佐伯などがそれに当たる。佐伯部、額田部、久米部のように、氏族集団を「部」で表す。その属民は「部曲(かきべ)」という。後に、大伴氏とか蘇我氏のように氏族名が中国風の姓となってゆく。

(1)『宋書』倭国伝の記事
 五世紀の『宋書』倭国伝には「倭讃」とか「倭済」「倭武」など姓らしき名称が出ているが、これは中国の冊封体制下にあった当時の倭国の王が中国風に漢字二文字で表わしたにすぎない。「倭」はけっして日本の王姓ではない。この時代、東アジアの諸国は中国に朝貢するに当たって、中国風の姓を名乗る必要性があった。そのため、百済は自分たちの出自である「夫余族」の「余」を王姓として、六世紀の武寧王は「余隆」を名乗り(本名は「斯麻」)、他にも「余映」とか「余歴」「余固」などの名で中国の南朝に朝貢している。
 高句麗も王姓として「高」を用いているが、これら「倭」「余」「高」は民族として持っていた固有の「姓」ではなく、対外的に中国風の姓として使っていたにすぎない。
 新羅の王姓「金」も、新羅が後世の満州族の清朝「愛新覚羅」( 満州語   aisin   金 ) と同系の民族であったことを示唆している。新羅の場合は七~八世紀にほぼ半島全土を統一した後、人名、地名などすべて中国風に改めたため、中国とそっくりになってしまった。朝鮮が小中華と呼ばれるゆえんである。

(2)『隋書』倭国伝の記事
 八世紀の『隋書』倭国伝には次のような記事がある。「倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌」(原文は「比」は「北」となっている)。これによると倭王の姓は「阿毎」(アメ)、字(あざな)は「多利思比孤」(タリシヒコ)、「阿輩雞彌」(オホキミ)と号すとある。この時、倭国は推古天皇の時代(600年)であったので、これは大和政権の王ではなく、九州にあった別の国の王のことだと主張する人まで現れた(古田武彦の九州王朝説)。
 

 はたしてそうであろうか。倭人には個人を特定する姓(苗字)はなかった。この姓「阿毎」も倭王固有の姓ではなく、中国の皇帝に朝貢したとき「倭王の姓は」と尋ねられて、倭王の信仰する天の思想から生まれた倭王の氏族名「アメ(天)」と便宜上答えたにすぎないと考えられる。おそらく、使者はそう答えるように倭王から指示されていたのであろう。
『古事記』高天原神話初代の神は「天御中主神」(アメノミナカヌシノカミ)であり、「天(アメ)」を冠した神々は数多い。これは北アジアの騎馬民族トルコやモンゴルにも共通した信仰であり、彼らが中国に行ったとき、王(可汗)の姓を聞かれて「テングリ(天)」と答えるようなものである。「アメ」も「テングリ」も王姓ではない。倭人も北方騎馬民族も「姓」はなかったのである。

 では「多利思比孤」(タリシヒコ)はどうか。推古天皇が男性名を名乗っている。古田氏の面目躍如というところであるが、漢和辞典で「字」の意味を見てみると、古代中国では「字」とは男子が二十歳になったとき本名のほかに決める通称名とある。普通、この通称名を使うとある。つまり、後世、日本で相手の本名を呼ぶことは失礼であり、「小松殿」(平重盛)とか「越中守様」(松平定信)などのように、その人の住む地名とか官職名で呼ぶ文化と共通している。(現代でも、上司の名前を呼ばず「課長」とか「部長」などと言う)
 
「タリシヒコ」は倭王の本名ではなく、その通称名であったと考えればスンナリ理解できる。古代の天皇で「タリシヒコ」の通称名を持つのは12代景行、13代成務、14代仲哀の各天皇であり、仲哀天皇の和名は「帯中日子天皇」(タラシナカツヒコ)。他に「タラシヒコ」という名称を持つ天皇は、ずっと下がって七世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、35代皇極の両天皇であることから、景行、成務、仲哀は八世紀の史官の捏造だとの説を主張する人もいる。しかし、「タラシヒコ」を倭王の通称名と考えれば、初期大和政権(四、五世紀)にはすでにこの名称が存在していた証拠とも言える。(「タラシ」と「タリシ」の母音の違いは外国語表記でよくあることである)。
 このように考えると、推古天皇の時代であったとしても、倭国の使者は日本の大王(天皇)の通称名を言ったにすぎず、歴代大王は当然、男であり、たまたま女であったことがむしろ例外であったのだから。後世の「ミカド(天皇の呼称)」のようなものである。
 

(3)氏姓制度と大王(天皇)家
 日本史の教科書にも出てくる「氏姓(うじかばね)制度」が古代王朝で確立する(六世紀頃)。氏(うじ)とは北アジア騎馬民族でいう部族、氏族に当たるものであり、久米、物部、大伴、佐伯などがそれであり、姓(かばね)とは「臣」「連」「真人」「宿禰」など、つまり位階である。後世の大納言とか、明治時代の爵位に相当する。なお、氏(うじ)はモンゴル語の  ulus (ウルス・・部族、国)と比較されている。
 
 不思議なのは、古代氏姓制度が確立したとき、大王家も強力な氏族の一つであり、神話時代以来の「天(アメ)」氏族であるのに、それを国内的には名乗らなかった。中国・隋に使者を送ったときには姓は「阿毎(アメ)」と答えているのに。つまり、推古天皇は大王(天皇)家の氏族名の「あめ(天)」を姓として隋・皇帝に伝えたのである。
 貴族階級に限るとはいえ、大伴、蘇我、佐伯、などの氏族名が飛鳥時代には中国の姓と同じような機能を有していた。だのに天皇家はなぜか「天(アメ)」を名乗らなかった。もしこのとき、「天(あめ)」を大王家の氏(うじ)として名乗っていたら、現代の天皇も、姓は「天(あめ)」名は「裕仁(ひろひと)」のようになっていたであろう。歴史は偶然が左右する。事実はそうはならなかった。
 
 私はその理由を次のように考えている。大王家の氏族名は本来「天(あめ)」であった。しかし、中国の文献から「天皇」の称号を選んだとき、その中にすでに「天」の文字が入っている。つまり、「天皇」そのものが「天氏(あめうじ)」であり、姓そのものであるとの考えから、特に姓を決める必要性がなかったからであろう。案外、理由は単純なところにあるのではないか。また、大伴家持(おおとものやかもち)と「の」を入れて読むのは、大伴氏族に属する「家持」の意味であり、古代の氏族制度の名残りである。
 なお、日本が姓(苗字)の数で世界一を誇るようになって行くのは、平安時代の荘園制の発展と武士の登場に由来している。

 <追記>
 アラブ系の民族(イスラム教徒)も同じく姓を持たない。あるのは個人名と部族や氏族の名称だけである。これでは個人の識別が困難なので、自分の父親の名前を便宜上、姓として使っている。中国のトルコ系のウイグル人も同様である。例えば、名前は「メフルグル」で父親の名前が「アブリズ」なら、「メフルグル・アブリズ」と名乗る。がしかし、これでは代替わりごとに姓が変わるので不便である。おそらく中央政府は中国人のように固定した姓を持たせたい思っているだろうが、いまだそうなっていない。ウイグル人は頑迷に民族固有の文化を守っている。
 北隣りのモンゴル共和国では、ごく最近、固定した姓を全国民が持つように決め、各自がそれぞれ好きな言葉を選んで登録していることを新聞記事で読んだ。それによると、やはり、地名とか山や川の名前などが多いとのことだった。やはり、国が近代化すれば行政上やむを得ないのであろう。中国のウイグル人も早晩そうなるであろう。なお、ウイグルと同じトルコ系のウズベキスタンではソ連時代に「姓」を名乗るようになったが、ロシア人とは違い、日本人と同じく「姓・名」の順である。やはりアルタイ系の言語を話す民族のゆえんである。なぜか親近感を覚える。 

 

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