小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

日本語の諸問題 (4) いつまでも「イチロー・スズキ」でいいのか

2007年10月02日 | その他

  日本人が外国人に自己紹介する時「姓・名」を逆にする。スポーツの国際大会では  Itaru  komatsu  のように選手登録している。日本と同じく「姓・名」の名前を持つ中国や韓国ではすべて  Mao  chetung  (毛沢東)や  Li  sunsin  (李舜臣) のようにそのまま国際大会に登録している。「姓・名」を逆にするこの日本のやり方は明治の欧米崇拝から生まれたもので、徳川幕府の役人はそのまま外国人に「高橋作左衛門」のように名乗っている。このことは日本の歴史や文化を外国人に理解してもらうのに大きな障害になっている。

 なぜなら、図書館や書店にある英語版の 「History Of Japan」(日本の歴史) の中では、歴史上の人物はすべて  Oda  Nobunaga (織田信長)、Saigou  Takamori (西郷隆盛) のように「姓・名」の順で書かれているいるからである。決して Nobunaga   Oda (信長 織田)とか Hideyoshi  Toyotomi (秀吉 豊臣) とは書かれていない。このことは日本語を学ぶ外国人にも大きな誤解を与える。日本語の先生の名前は  Itaru  Komatsu で姓は「小松」であれば、当然、Oda  Nobunaga の姓は「信長」、名は「織田」と判断するであろうから・・。
 

  この問題はもはや個人の問題ではない。ローマ字の名刺も人によって違う。ちなみに私は  Komatsu  Itaru としている。日本文化を世界に発信する義務と責任のある日本政府(文科省・文化庁)が統一見解を出す時であると思う。「イチロー・スズキ 」を良しとするなら歴史上の人物もすべて Ieyasu  Tokugawa (家康 徳川)とか  Kiyomori  Tairano  (清盛  平) の如く「名・姓」に統一するように行政指導するべきではないか。 -これはジョーク-

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日本語の諸問題(3) NHKのデタラメ語源論 

2007年09月21日 | その他

 NHKには日本語の語源についての番組がある。しかし、語源がハッキリしている歴史的、文化的用語以外の言語学的語源の説はそのほとんどがデタラメである。

  その1.「ハメを外す」
「ハメを外す」の語源について、著名な国語学者が次ぎのように述べていた。 「ハメ」とは馬に噛ませる「ハミ」のことで、これを外すと馬が暴れることから生まれたと・・。 とんでもない、馬から「轡(くつわ)」や「ハミ」を外すと逆におとなしくなる。馬が暴れるのはサカリ(盛り)がついた時か、突然何かに驚いたときである。また、「ハメ」と「ハミ」は母音が違う。馬に噛ませる「ハミ」とは、古語の動詞「はむ(かじる、噛む)の名詞形(連用形)である。万葉集にも「瓜はめば子ども思ほゆ・・・」と山上憶良の有名な歌がある。現代語でも鳥が餌を「ついばむ(つき・はむ)」とか「黄ばむ」(名詞形は「黄ばみ」)として複合語で使われている。

 では、「ハメを外す」の「ハメ」とはなにか。これは寺院の回廊にある「はめ板」の「ハメ」である。「はめる」という動詞は「はめ込む」のように物を動かないように固定することであり、「はめ」はその語幹(国文法の連用形)に当たる。つまり、「ハメを外す」とは「タガがゆるむ」と同じ発想から生まれた言葉である。私のこの説はごく常識的な考えなので、すでにどこかで先人が発表しているとは思うが・・。なお、「はまる」はその自動詞形であり、「当てる」と「当たる」の関係と同じ。
 
 
 その2. 「とどのつまり」
 同じ番組で「とどのつまり」の語源について著名な国語学者が回答していた。 「とど」とは魚のイナ、ボラ、トド(出世魚)の「トド」から来たと。これは「国語辞典」の「とど」の項目に例文として「とどのつまり」が出ており、「語源辞典」にもそう書いてある。「とど」とは古語の「とどむ(止む)」の語幹「とど」から生まれたものに相違ない。現代語では「届く」「届ける」「とどまる」「とどめる」「とどめ」のように使われている。魚の「トド」も元々「とどめ(終了)」から生まれた言葉であろうから無関係ではないが、語源としては古語動詞「とどむ」、現代語「とどく」「とどめる」「とどまる」の語幹「とど」から出来た言葉と言うのが正しいであろう。なお、古文の「おとど(大臣)」の「とど」も同じ語源であろう。臣下の最終官位であるので・・。

 その3. 「盆(ぼん)ぼり」の語源
 以前、NHKで「面白ゼミナール」というクイズ番組があった。そこで、「盆ぼり」の語源は「ほんのり」からきたというのが正解であった。これもとんでもない俗説である。たしかに、『広辞苑』にはそのように取られかねない記述があるが、果して、そうであろうか。
「ほんのり」は元々「ほのを(炎)」、「ほむら(火群ら)」、「ほてる(火照る)」などの例のように「ほ(火)」から出た言葉である。古事記にも「火明命」を「ほあかりのみこと」と読ませている。(古代語では「ほ」は 「Fo」の音)。これから、「ほのぼの」とか「ほのかに」と同じように「ほんのり」という言葉も生まれたと考えるのが妥当であろう。言語学でいう  word family (単語家族)である。「ほんのり」とは、ほのかに明かりが灯るさまである。太陽の光が「ほんのり差す」とは言わないように。「火」から生まれた言葉だからである。
 
 では、「盆ぼり」の語源は。これは漢字「盆」そのものにある。「盆」とは「お盆」とか「盆栽」の例にあるように、底が小さく上に広がった鉢状の器のことであり、「盆ぼり」とは鉢状に和紙を張り付けた器にローソクや油の皿を置いて棒で立てる照明器具、江戸時代の行燈(あんどん)、今日の電気スタンドのことである。『広辞苑』にもその絵が出ている。
 この「盆」だけでは鉢と区別できないので、「盆々(ぼんぼん)」と繰り返し、かつ、「ほんのり」のように擬態語的で、やわらかい大和言葉的表現として「盆ぼり」が生まれたのであろう。その後、拡大解釈されて紙で出来た照明器具は「盆ぼり」と呼ばれている。お花見や盆踊りには欠かせない小道具であることは皆様ご存知のとおり。
 

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日本語の諸問題(1) 朝青龍の「張り手」

2007年08月26日 | その他

 横綱・朝青龍の問題が世間を騒がせているが、朝青龍がよく使っていた相撲の技に「張り手」がある。ある取り組みで、朝青龍の強烈な張り手を受けた相手がそのまま膝を土につけて負けた。そのときの決まり手は当然「張り倒し」だと私は思ったが、なんと決まり手は「突き倒し」であった。「張り倒し」などの決まり手はもともとないのである。    
 そのとき私は思った。「張り手」の「張る」とは「障子をはる」「ばんそう膏をはる」の「は(張)る」ではないのか。「張り手」の本来の日本語の意味が誤解されているのではないのか。日本語の「張る」は「田に水を張る」「弓の弦を張る」のように静止(固定)の動詞である。つまり、相撲の「張り手」とは相手の出鼻をくじいて、手を広げて顔に当てる(張る) つまり、相手の出だしを阻止する技であったと思う。それが、おそらく昭和の軍国主義の時代に「ほっぺたを張る(平手打ち)」の意味に使われるようになり、相手の頬を張り倒すという全く別の技に誤解されて、これを使う力士が増えたのではないか。
 もし、江戸時代の谷風や雷電に聞くことができたら、多分、「張り手」とは手を張り出して相手の出だしを止める技だと答えると思う。大相撲の技のひとつ「張り手」は「張り倒し」ではないのである。大相撲は本来の日本語の正しい意味を取り戻して、相撲48手の一つ「張り手」を本来の正しい形に戻して欲しいと願うばかりである。

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昔は夫婦別姓だったのか?

2007年06月04日 | その他

 近年、夫婦別姓問題が巷をにぎわせているが、NHKがこの問題を特集した折、著名な日本史の大学教授が、日本も昔は夫婦別姓だったと断言していた。その証拠として 北条政子と日野富子の例をあげていた。私は愕然とした。この二人は、「北条政子」「日野富子」という歴史用語であって、「北条政子」「日野富子」という人格があったわけではない。ただ、京の朝廷では女性に官位を与える時、生家の姓を使っている。「政子」「富子」では誰のことか分からないからである。苗字がどうしても必要な場合、生家の姓を使うということにすぎない。

 北条政子は北条時政の女(娘)「政子」であり、結婚後は源頼朝の妻、「政子」なのである。また日野富子は権中納言・日野家の女であり、足利八代将軍・義政の御台所、「富子」なのである。忠臣蔵の大石内蔵助の妻は「りく」と言うが、歴史用語としては普通「大石りく」と呼ばれている。昔は夫婦別姓ならば「石束りく」でなければおかしい。(「りく」は但馬豊岡藩の家老・石束家より赤穂藩の家老・大石家に嫁にきた )
 
 ごく最近、関西地方のある歴史博物館で「細川ガラシャ展」というのがあった。これも先の大学教授に言わせると、昔は夫婦別姓だったので「細川ガラシャ」は間違いで、正しくは「明智ガラシャ展」にしなければならない。(洗礼名ガラシャ、本名「たま」は明智光秀の娘で、細川忠興の妻となった)。
 夫婦別姓・同姓どちらがいいかはさておいて、学問的には正しい知識を国民に知らせるべきであると思う。明治以前、日本の女性が「姓・名」を名乗ることは基本的になかった。例外的に実家の姓を使った表記はある。昔から、「家名を汚すな」という言葉があるように、元々、苗字(姓)とは家に付くものである。「女、三界に家(姓)なし」であったのは歴史的事実なのであるから。

 <追記>
 中国や朝鮮は昔から夫婦別姓である(朝鮮は中国をそっくり真似た)。このニ国では昔から男女同権で、女性の人権が保障されていたからなのか・・。 とんでもない、日本では昔から妻は婚家の一員と見なされてきたが、中国や朝鮮では婚家の一員、つまり、夫の一族とは見なされなかったからである。つまり、「腹は借りもの」であったのである。日本では、大河ドラマ「篤姫」を見ても分かるように、篤姫も和宮も婚家、徳川家の一員との意識を持っていた。戦国時代、武田勝頼に殉じて、天目山で自害した妻は、北条氏康の娘であった。なにも死ななくても、織田信長は丁重に小田原に送り届けたであろう。この一件からも分かるように、日本では妻は婚家の一員との意識を強く持っていたことが分かる。このような事例は中国や朝鮮ではほとんど聞かない。日本の歴史的文化の一つと言える。

 最近、この私の説を補強する古い資料が見付かった。1998年(平成10年)9月19日付の朝日新聞の記事に  ー震災復興に「ねね」尽力 ー との見出しで、京都の東寺の仏像(大日如来)の修復の過程で頭部から木札銘が見付かり、それには

         大壇那亦大相國秀吉公北政所豊臣氏女

 とあり、年号は慶長3年(1598年)であった。この年の8月に秀吉は死んでおり、月日が無いので秀吉の死の前か後かは不明であるが、この2年前に起きた慶長大地震で東寺も相当の被害を受けたようである。その修復に北政所がかなりの喜捨をしたことがうかがえる。この銘文で興味あるのは北政所が夫の姓(豊臣氏)を称していることである。つまり、「豊臣氏の女」であると。もし本当に夫婦別姓であれば、「杉原氏女」か「浅野氏女」としたはずである。(北政所は生まれは杉原氏であるが、浅野家の養女となった)。また、この木札に「豊臣氏禰々(ねね)」と書いてあったら、北政所の本名論争など起きなかったのに、やはり天下人・秀吉の正室であっても当時のしきたりに従ったのであろう。

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