小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

昔は夫婦別姓だったのか?  番外編 -古代日本は北方騎馬民族に同じー

2021年07月11日 | Weblog

 前に-最終章-で法学部の大学教授の一文を紹介したが(毎日新聞の記事)、今度は朝日新聞が別の法学部の元女性教授の小論を掲載した(2021・7・6)。これは最高裁が夫婦同姓は違憲ではないとの判断を下したことを受けての反論であった。その見出しは ー同姓は「伝統」と言えないー というものであった。この両者の主張はほぼ同じものであったが、この二人は憲法や法律の専門家であって、明治以前の日本の歴史についての知識はあまり無いようである。ただ、日本史学者がいとも簡単に「日本も昔は夫婦別姓であった」と言うものだから、それを信じ込んでいるようである。それは無理もない。大方の日本人がそうなのだから・・。

 ― たしかに、夫婦同姓は日本の伝統とは言えないが、また夫婦別姓も日本の伝統とは言えない ―

 この問題に関してすでに3回書いているのでここでは繰り返さないが、この女性教授の小論には事実誤認がある。それを指摘したい。「武家の女性は結婚後も実家の名字を名乗っていた」とある。 これは大きな誤解である。実家の姓で呼ばれてきただけであり、自分自身を中国や朝鮮のように「姓・名」で名乗っていたわけではない。「北条政子」「杉原ねね」「浅井茶々」「明智たま」「石束りく」もそのような人格は存在しなかった。江戸時代の婦人の墓の側面に俗名として実家の「姓・名」を刻んだものがある(正面は戒名)。これを日本史学者が「姓・名」で自分を名乗っていた証拠だと判断したことから生まれた誤解である。

 続けて、「夫婦同姓制度は、西洋の影響を受けた明治政府によってつくられ・・・日本の伝統ということはできない・・」とあるが、私が-再論-で書いたように、明治8年にすべての日本国民は姓を持つように政府から布告があったとき(平民苗字必称令)、 石川県、宮城県など全国各地から夫婦の姓をどうするのかとの伺いが内務省に出され、これらの地域では、妻は夫の姓を名乗るのが普通であるとのことであった。東京府からは「嫁した婦人が生家の氏(姓)を称するのは極めて少数」との上申書まで出されている。 この女性教授は私(小松)と同じ資料を使っているが、自分の主張と合わないので意図的にこの事実は取り上げていない。あくまで、日本の女性は江戸時代以来の夫婦別姓を望んでいたことにしたいようである。

  がしかし、日本の女性の大半は嫁入りすることにより、夫の家の一員となるのであり、それは当然のことと思っていたのである。大石内蔵助の妻「りく」の例を上げるまでもない。(勿論、例外はある。東京府でもごく少数ではあるが、夫婦同姓が法的に決まった明治31年まで生家の姓を名乗っていた婦人がいたのである)。夫婦同姓は決して西洋を真似たものではない。夫の家の一員で、妻であり母でもある自分ひとりが別姓を名乗る。それは当時の日本女性には耐えがたいことであったのであろう。小家族化した現代の感覚で江戸、明治を判断してはいけない。

  今一度、言っておくが、明治31年の民法(夫婦同姓の決定)は当時の日本女性が選択した事実上の夫婦同姓を政府が法的に追認したにすぎない。日本人の「姓」に関してはあまりにも俗説が多すぎる。日本地図を作った伊能忠敬は下総・佐原の商人かつ名主であったが、ちゃんと姓名で自身を名乗っている。このような例は江戸時代にはいくらでもあった。(大河ドラマでも「渋沢栄一」と名乗っているし、龍馬暗殺の現場となった近江屋の主人も「井口新助」との姓名を持っていた)

 阿波徳島藩でもある村の庄屋が連名で藩に提出した文書が残っている。最初の一人だけ「姓・名」で署名しているが、あとの数名は名前だけである。これを姓がなかったからだと判断した日本史学者の無知に驚くばかりである。最初の一人は苗字帯刀を許された人(つまり、武士と同格の身分を与えられた庄屋)。あとの人たちも勿論、姓(苗字)はあったが藩庁に出す文書には「姓・名」で署名できなかっただけである(武士身分でないから)。だが日常、普通に姓は使っていた。なにも、武士と苗字帯刀を許された一部の者だけが姓を持っていたわけではない。しかるに、現在の中・高の日本史教育ではこれらの事実(多くの百姓・町人にも姓はあった)は教えられていない(私の中・高時代もそうだった)。今なお、昔の学説は生き続けているのである。

 <追記>

「夫婦別姓・同姓」問題は日本の「姓」の歴史と深くかかわっている。日本の古代氏族(大伴氏、久米氏、蘇我氏など)は北方騎馬民族トルコやモンゴルに近い存在である。その氏族に生まれた者は生涯、その氏族に属した。他氏族の男の妻となっても、生まれた氏族の女であった。この歴史的伝統が武家社会になっても生きていた。だからこそ実家の姓で呼ばれてきたのである。それは公家社会も同じであった。この古代の氏族制度(女も生涯、生まれた氏族に属する)は明治時代まで日本の伝統文化として存続していたのである。

 14~15世紀のウズベキスタンの英雄、チムールの正妃、ヴィヴィ・ハヌイムは北方キプチャク汗国の王族、ジュチ・ウルス出身であった。(ウルスはモンゴル語で氏族、部族、国の意味、ジュチはジンギス汗の長男の名前に由来している)。生涯、ジュチ・ウルスの女であった。このキプチャク汗国がロシアのロマノフ朝の勃興により東に逃がれ、カザン汗国となり、現在のタタール自治共和国となっている。金メダリスト、ザキトワ は実はタタール人である(タタール語とウズベク語はほゞ同じ)。今でこそ アリーナ・ザキトワ とロシア風の名を名乗っているが、元々、タタール人には ザキトワ という名前しかなかったのである。(姓名を名乗るようになるのはソ連時代になってから)。チムールも、そのひ孫でインド・ムガール帝国の創始者、バーブルも名前だけである。氏族・部族の名称はあったが「姓」は無かったのである。(今でも新疆のウイグル人には固定した姓はない。モンゴル共和国では21世紀になって全国民が姓を持つようになった)。これがヒントになる。なお、中国で使う「韃靼(ダッタン)」はこの「タタール」の漢字表記である。

 日本の場合もトルコやモンゴルと同じく、本来は自分の所属する氏族名と名前だけであった。だが、日本は邪馬台国以来、中華文明の影響を受け、漢字の使用と中国の「姓」の文化を導入した。最初に「姓」を持ったのは当然、氏族集団つまり貴族階級であった。その後、一般の官人も「姓」を持つようになった。だが、日本は男女とも「姓・名」で自分を名乗る中国式は採用しなかった。丁度、中国の科挙や宦官制度は拒否したように・・。つまり、女性は北方騎馬民族と同じく生まれた氏族(姓)に属する女であった。それは中世の武家社会になっても変わりなかった。日本の女性は古代以来の歴史的伝統が明治の時代になるまで原則維持されてきたのである(勿論、なんでもそうであるが、例外はある)。

 もしも、古代日本が男女とも「姓・名」で自身を名乗る中国式の姓制度を受け入れていたら、今の朝鮮と同じようになっていたであろう。だが、事実はそうはならなかった。私はそこに日本古代国家の建設に大きな影響を与えた北方騎馬民族の存在を感じている。日本語は間違いなく北方騎馬民族と同じアルタイ語文法を保持している。日本語の豊富な擬態語はアルタイ諸言語に特有なものである。また、流鏑馬(やぶさめ)や相撲は高句麗古墳の壁画に描かれているし、信長や家康が好んだ鷹狩りは今でもモンゴルやキルギス(トルコ系)の伝統文化である。余談であるが、親日国キルギスでは自分たちは日本人と兄弟であると言っている。元は北アジアにいた同民族のうち、西に移動したのがキルギス人で、海を渡って東に行ったのが日本人だということらしい。あながち、おとぎ話とも言えない・・。

 北政所が東寺の仏頭に納めた木札の銘文 「 大壇那亦大相國秀吉公北政所豊臣氏女 」、もし日本が本当に中国式の夫婦別姓であったら、「大壇那亦大相國秀吉公北政所杉原ねね」と書いたはずである。杉原氏に生まれて名前が「ねね」なら、生涯、「杉原ねね」なのであるから。日本史の通説、「日本も昔は夫婦別姓であった」は人々に誤解を与えかねない。必ず、「ただし、中国式の夫婦別姓ではなかった」との文言を付記する必要がある。これが私の結論である。

 ごく最近、『夫婦別姓』(ちくま新書・・2021年11月)なる本が出版された。著者は海外で活躍されている7名の女性ジャーナリストで、欧米諸国と中国、韓国の夫婦の姓についての論考であった。それによると、欧米諸国はほぼすべて選択的夫婦別姓で、完全な男女同権であるとのこと。先進国で夫婦同姓を法律で義務化しているのは唯一日本だけであるとの要旨であった。それはいいとして、ただ、明治以前の日本人の姓についてはやはり世間一般に流布している俗説を踏襲している。本の末尾に「明治以前は特権階級のみ姓(氏・苗字)を持つことができ、女性は婚姻後も生家の姓を名乗った」とある。先の法学部の教授と同じである・・日本の女性は中国のように日常、姓名で自身を名乗っていたわけではない。また、伊能忠敬や井口新助は特権階級なのか?  この程度の商人は日本全国どこにでもいた。中学・高校の日本史教育はいまだ旧態依然である。

 

コメント (1)
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