小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

隅田八幡神社の人物画像鏡の読み(後編)

2007年06月25日 | 歴史

 前編で鏡の銘文「日十大王」を「日」と「十大王」に分けて読むべきだとの説を発表したが、今回は全銘文の読みを考察する。(便宜上、分けて書く)
 

     癸未年八月日 十大王年 男弟王 在意柴沙加宮時 斯麻 念長寿 遣開中費直
  穢人今州利 二人等 取白上同二百旱 作此鏡
 
(読み) 癸未年(503年)八月(ある)日、十大王年(武烈天皇の時代)、男弟王(ヲオト王、後の継体天皇)が意柴沙加宮に在る時、(百済王)斯麻は長寿を念じて開中費直(河内直)と穢人の今州利(クムスリ)二人を遣わして白上銅二百旱でこの鏡を作らせた。
 
 
 今州利は「州利」が名前で「今」は新羅の王姓「金」と同じで、朝鮮半島東北部から満州にかけて居住していた穢人(後の女真・満州人)の王族・貴人の姓(本来は氏族名)  aisin (アイシン・・金、ゴールド)と同起源と考えられる。現代朝鮮語では姓の「金」は  kim (キム) で、日本語の「きん」同様、唐の長安音であるが、ゴールドの「金」は  kum  (クム) と読み、日本語同様呉音系を使っている、(金銅・・こんどう)。「金(ゴールド)」と「今」の朝鮮漢字音は同じ  kum  (クム) である。おそらく、百済の王姓「余」に配慮して、より権威のある新羅の王姓「金」をあえて使わず、同音の「今」を姓にしていたのであろう。

 百済と日本はこの時代(5世紀ごろ)中国南朝(呉音系)に朝貢していた。百済武寧王は501年即位したが、当時、北の高句麗、東の新羅の圧迫を受け、国の存立は危うかった時代でもある。倭国は百済を支援するため何度も半島に兵を送っている。このことは『日本書紀』の「雄略紀」や「継体紀」に詳しく書かれている。その感謝の意と百済王位(倭王は武烈)に就いたことを記念してこの鏡を作らせたのではないか。「書紀」継体紀に百済の将軍、州利即爾 (スリソニ)が出ているが、「即爾」は尊称と考えられるので、鏡の銘文と同一人物と思われる。現代朝鮮語でも  nim (ニム)  は尊称としてある。 百済武寧王「斯麻」の願いの甲斐なく、百済の首都・熊津(クマナリ、今の公州)は538年に陥落し、南の扶余に遷都したが、最終的に663年、日本の救援もむなしく滅亡した。(白村江の戦い)

『日本書紀』武烈紀と百済武寧王の墓誌が「斯麻」で一致しているのは当然と言えば当然であったのである。「書紀」は武烈天皇を悪逆非道な王として描いているが、これは王位をさん奪した継体天皇側の粉飾であろう。実体は不明である。

 <追記>
 NHK教育テレビ「日本と朝鮮の2000年」という番組で、10月25日の「倭寇」のとき、李氏朝鮮王が対馬の海賊の頭領、早田(そうだ)氏に、倭寇を懐柔する目的で送った「告身」(朝鮮王朝官位任命書)には「弘治六年三月 日」とある、日付の数字は入っていない。つまり、朝鮮王の命令はこの「告身」を三月中に早田氏に渡すようにとのことであり、その日までは特定できないので一字空けてあるのである。(実際、「弘治」は3年まで、西暦1561年に当たる。朝鮮側に正確な情報が伝わっていなかったようである)
 この「告身」と千年の時間差はあるが、百済武寧王が送った隅田八幡宮の鏡「日十大王」もやはり、「日 十大王」と読むのが正しいであろう。この鏡が「男弟王」(後の継体天皇)に渡る正確な日は武寧王にも分からないのであるから。がしかし、八月中には渡すようにと命じたことだけは言える。

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隅田八幡神社の人物画像鏡の読み(前編)

2007年06月18日 | 歴史

 和歌山県橋本市にある隅田八幡神社の鏡の銘文の読み方については、これまで多くの説が出されている。福山敏夫説が一番有力で日本史教科書にも出ている。しかし、冒頭の「癸未年八月日十大王年」の解釈は「日十 (ひと) 大王」と読むことですべての説が一致している。果たしてそうであろうか ?

 ー人名を「日十」で表記するのは不自然ー
 
 古代の人名で「ひと」の名を持つ人は数多い(彦人皇子、古人皇子、山部赤人など)。「ひと大王」では誰のことか分からない。また、万葉仮名では「人」は「比登」とか「比等」と表記され(例、藤原不比等)、「人」を「日十」と表記した例はない。(「彦」を「日子」、「姫」を「日女」との表記は「記紀」にある)。
 これは八月と日を分けて読むべきではないのか。つまり「癸未年八月(ある)日」と、これは後代に「寛政八年三月 吉日」のように、よく神社の鳥居などに刻まれている用法の原形ではないのか。では「十大王」とは誰なのか。これはこの時代(5世紀頃)中国の南朝の宋に朝貢していた倭の五王にそのヒントがある。倭の五王はすべて「讃」とか「興」とか「武」のように漢字一文字で自身を表わしている。同時代の百済・武寧王は中国の南朝に「余隆」という名で朝貢している。(「余」は百済の王姓なので、「隆」一文字で自身を表していた。他にも、「余映」とか「余固」「余歴」などの例もある)。
 
 この「十大王」も「十」でもって自身を表していたのではないか。その人はだれか。倭の五王も「記紀」に表記された和名と一致するのは雄略天皇ただ一人である。(「大泊瀬幼武」・・倭王武 )。このことから「十」が誰かは特定できないが、雄略のあとの武烈天皇が最有力であると思われる。なぜなら、この銘文にはある特定できる人物名が出ている。それは「斯麻(シマ)」である。その人物こそ百済の武寧王である。

「書紀」武烈紀は「斯麻」、雄略紀は「嶋」と出ている。朝鮮の『三国史記』百済本紀は「斯摩」、そしてなによりも半世紀ほど前、朝鮮半島で未盗掘の状態で発見された唯一の古代の王墳である百済・武寧王陵、その墓誌銘には「斯麻」とあり人々を驚かせた。(武寧王、462~523年) 従って、「十大王」も百済武寧王時代に重なる人物であることは間違いないと言える。「宋書倭国伝」ふうに書けば「倭王十」となる。
 
 現在、韓国・公州市の国立博物館で武寧王陵の出土物は常設展示されているので、一度、行って見学されることをお勧めする。圧巻は日本自生の高野槇で作られた巨大な木棺である。これからも武寧王と倭国との親密な関係がうかがえる。

 <追記>
 歴史雑誌「歴史と旅」(昭和59年5月号)の特集記事で、京都大学の岸俊男教授が「稲荷山古墳の鉄剣」と題して小論を寄せているが、その中で、古代の中国や朝鮮の金石文を何例か出している。それによると、中国で出土した鉄刀のなかに「元嘉三年五月丙午日 造此口官刀・・・」(後漢元嘉3年・・153年)との例が紹介されている。漢代中国では日付を干支で表していた。これを受けて『日本書紀』でも同じ用法を使っている。(下記の史料1.2参照)。

 つまり、隅田八幡宮の鏡の銘文「癸未年八月日十大王年」の場合、日本や百済では元号が無かったので、文頭に干支(癸未)を入れることにより年号を表わし、不特定の意味で「日」のみを刻印したと見るのが一番妥当な考え方ではないだろうか。
 また、日本での発見例として東大寺山古墳出土の鉄刀銘文「中平口年五月丙午 造作大刀・・・」(後漢中平年間・・184~190年)の例も紹介している。やはり、この銘文は「八月(ある)日 十大王年」と読むべきであろう。

 史料1.建始ニ年十月乙卯朔丙子(建始ニ年十月二十二日)・・西域出土の漢代木簡 (籾山 明著『漢帝国と辺境社会』)

 史料2.十二年春三月丙辰朔甲子(十二年春三月九日)・・『日本書紀』継体紀

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昔は夫婦別姓だったのか?

2007年06月04日 | その他

 近年、夫婦別姓問題が巷をにぎわせているが、NHKがこの問題を特集した折、著名な日本史の大学教授が、日本も昔は夫婦別姓だったと断言していた。その証拠として 北条政子と日野富子の例をあげていた。私は愕然とした。この二人は、「北条政子」「日野富子」という歴史用語であって、「北条政子」「日野富子」という人格があったわけではない。ただ、京の朝廷では女性に官位を与える時、生家の姓を使っている。「政子」「富子」では誰のことか分からないからである。苗字がどうしても必要な場合、生家の姓を使うということにすぎない。

 北条政子は北条時政の女(娘)「政子」であり、結婚後は源頼朝の妻、「政子」なのである。また日野富子は権中納言・日野家の女であり、足利八代将軍・義政の御台所、「富子」なのである。忠臣蔵の大石内蔵助の妻は「りく」と言うが、歴史用語としては普通「大石りく」と呼ばれている。昔は夫婦別姓ならば「石束りく」でなければおかしい。(「りく」は但馬豊岡藩の家老・石束家より赤穂藩の家老・大石家に嫁にきた )
 
 ごく最近、関西地方のある歴史博物館で「細川ガラシャ展」というのがあった。これも先の大学教授に言わせると、昔は夫婦別姓だったので「細川ガラシャ」は間違いで、正しくは「明智ガラシャ展」にしなければならない。(洗礼名ガラシャ、本名「たま」は明智光秀の娘で、細川忠興の妻となった)。
 夫婦別姓・同姓どちらがいいかはさておいて、学問的には正しい知識を国民に知らせるべきであると思う。明治以前、日本の女性が「姓・名」を名乗ることは基本的になかった。例外的に実家の姓を使った表記はある。昔から、「家名を汚すな」という言葉があるように、元々、苗字(姓)とは家に付くものである。「女、三界に家(姓)なし」であったのは歴史的事実なのであるから。

 <追記>
 中国や朝鮮は昔から夫婦別姓である(朝鮮は中国をそっくり真似た)。このニ国では昔から男女同権で、女性の人権が保障されていたからなのか・・。 とんでもない、日本では昔から妻は婚家の一員と見なされてきたが、中国や朝鮮では婚家の一員、つまり、夫の一族とは見なされなかったからである。つまり、「腹は借りもの」であったのである。日本では、大河ドラマ「篤姫」を見ても分かるように、篤姫も和宮も婚家、徳川家の一員との意識を持っていた。戦国時代、武田勝頼に殉じて、天目山で自害した妻は、北条氏康の娘であった。なにも死ななくても、織田信長は丁重に小田原に送り届けたであろう。この一件からも分かるように、日本では妻は婚家の一員との意識を強く持っていたことが分かる。このような事例は中国や朝鮮ではほとんど聞かない。日本の歴史的文化の一つと言える。

 最近、この私の説を補強する古い資料が見付かった。1998年(平成10年)9月19日付の朝日新聞の記事に  ー震災復興に「ねね」尽力 ー との見出しで、京都の東寺の仏像(大日如来)の修復の過程で頭部から木札銘が見付かり、それには

         大壇那亦大相國秀吉公北政所豊臣氏女

 とあり、年号は慶長3年(1598年)であった。この年の8月に秀吉は死んでおり、月日が無いので秀吉の死の前か後かは不明であるが、この2年前に起きた慶長大地震で東寺も相当の被害を受けたようである。その修復に北政所がかなりの喜捨をしたことがうかがえる。この銘文で興味あるのは北政所が夫の姓(豊臣氏)を称していることである。つまり、「豊臣氏の女」であると。もし本当に夫婦別姓であれば、「杉原氏女」か「浅野氏女」としたはずである。(北政所は生まれは杉原氏であるが、浅野家の養女となった)。また、この木札に「豊臣氏禰々(ねね)」と書いてあったら、北政所の本名論争など起きなかったのに、やはり天下人・秀吉の正室であっても当時のしきたりに従ったのであろう。

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