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日本語の諸問題(16) 中学国文法教科書のデタラメ

2009年05月16日 | 言語

 今、手元に全国の中学校で学習されている国文法の教科書と教師用の手引書がある。私も中学時代、同じような教科書で授業を受けた筈であるが、まるでその内容が理解できず、苦痛以外なにものでもなかった。大方の人はそうであったろう。その原因はどこにあるのか。それはこれまで私が述べてきたように、日本語を世界の言語の一つと見ることの出来なかった明治の国語学者にある。そして、それをいまだに踏襲している日本の国語学界にある。世界のどの言語でも、自国民も外国人も同じ文法書でその言葉を学ぶことが出来る。もし、日本語を学ぶ外国人に中学国文法教科書で日本語を教えると、日本語は世界一難解な言語と思うであろう。しかし、事実は逆で、日本語はどちらかというとやさしい部類に入る(表記法は別)。その原因はデタラメな国文法教科書にある。そのことを書く
1)口語と文語
 国文法教科書では、現代日本語を口語、古語を文語と分類している。この用語の設定からしておかしい。本来、口語(colloqual)とは日常の話し言葉であり、世界のどの言語でも、大なり小なり書き言葉(文章語)と話し言葉(口語)は違うものである。文語という用語も曖昧である。古語は明確に「古典文法」とし、「文語」とは現代日本語の一部であり、古語に由来する表現の一形態とするべきであろう。つまり、現代日本語の口語には、「あちら」を「あっち」、「こちら」を「こっち」、「端」を「はしくれ」、「根」を「根っこ」など無数の口語表現がある。一方、文語には「寄らば大樹の陰」とか「死なばもろとも」、「若かりし頃」など、古語に由来する多くの文語表現があり、これらも現代日本語である。「古き良き時代」「良かれと思って」「遅かれ早かれ」などの言葉は今でも日常使われている文語表現である。
 

2)動詞の活用
(1) 未然形と連用形
五段活用「か、き、く、く、け、け」に「書こう」との呼び掛けを入れて、五段としているが、「書こう」は「書か・う」から変化した言葉であり、活用に加える必要はない。音変化を説明すればよい。その他、未然形は「せる」「れる」などの助動詞が付くと説明されているが、これはご都合主義で、未然形はまだそうなっていない意味の筈であるのに、(「読まない」「読まなかった」は確かに「読む」という動作はやっていないが、「本を読ませた」とか「お金を取られた」は「読む」「取る」との行為を行っている)。このことは以前に述べたとおり。また、「毎日、学校へ行きます」は「行く」という動作を行うことであるが、「明日、学校へ行きます」とか「外国へ行きたい」は、まだその動作は行われておらず、この場合の「行き」(連用形)は未然形とも言える。日本語動詞はその使われ方によって、多様な意味を持つのである。(世界には未来と現在を区別しない言語はいくらでもある)

(2) 動詞の語幹と語尾
 日本語動詞に語幹と語尾があることを、国文法教科書を見て初めて知った。それには「書く」の語幹は「か(書)」、「読む」の 語幹は「よ(読)」とある。まさに唖然呆然、世界のどの言語でも語幹というのは、その単語の元になっている部分であり、それなりの意味は分かるものである。英語の  going  の語幹  stem  は  go であり  -ing  が語尾に当たる。 日本語の「か」や「よ」に何か意味があるのだろうか。「書く」「読む」はこれ以上分離できない単語である。たしかに活用するのは語尾であるが、語幹と語尾に分けるには無理がある。
 昔、英・独語などを学んだ人が「日本語に文法はない」と言ったそうだが、うなずける。たしかに、語幹を持っている動詞もある。例えば、擬態語「そよそよ」から出来た「そよぐ」という動詞は語幹が「そよ」であり、動詞形成の接尾語「ぐ」が語尾と言える。また、「捨てる」「上げる」「真似る」などの場合、「捨て」「上げ」「真似」が語幹であり、「る」が語尾である。
 
 しかるに、教科書には奇妙な記述がある。「語幹・語尾の区別のつかない語は、上一段活用の「居る」、「着る」など、下一段活用の「得る」、「出る」などである。これらの語はニ字(ニ音)で構成されている言葉である」。この文は奇妙というより呆れてものも言えない。では五段活用の「行く」も「切る」も同じくニ字(ニ音)である。こちらは語幹は「い(行)」、「き(切)」とある。支離滅裂である。
 これらの違いは私がすでに述べたように、日本語の動詞の基本は(文法用語としての基本形ではない)は名詞形(連用形)であること。つまり、「行く」は「行き」(例、東京行き、行き違い)、「切る」は「切り」(例、切り株、大根切り)、一方、「居る」の名詞形は「居(い)」(例、居留守、敷居)、「着る」は「着(き)」(例、着物、晴れ着)、「得る」の名詞形は「得(え)」(獲物、心得)、「出る」は「出(で)」(例、出口、思い出)である。つまり、一字(一音)の名詞語幹なのである。分かりやすく言うと、上一段、下一段活用と分類されている動詞の未然形と連用形は同じものなのである。日本語の動詞には基本的に二つの型があると説明すればよいのであり、あと「来る」と「する」の変格活用があるだけである(名詞形は「来(き)」と「し」)。「出来る」は名詞語幹「出」と「来」がくっ付いたもの、「おでき(腫れ物)」も同じ。
 
3)形容詞・形容動詞の奇怪さ
 (1) 形容詞の活用
 教科書の説明には「一部形容詞の語幹は名詞として用いられる」とあり、その例として「赤勝て、白勝て」などが上げられている。形容詞に語幹があるのは分かるが、この場合語幹そのものが名詞なのである。英語の red は「赤」と「赤い」の意味がある。日本語の場合は、この語幹に形容詞形成の接尾語「い(古語は「き」)が付いたものが形容詞なのである。モスクワの「赤の広場」の「赤」は名詞であるが「赤い広場」となると「赤色の広場」のことである。
 日本語形容詞は語幹に様々な接尾語が付くことにより言葉を作ってゆく。例えば、語幹「深(ふか)」は「深さ」「深み」と別の意味の名詞を作り、「深情け」のように名詞に付き(これは連用形と称される名詞が、「読み手」とか「書き物」のように名詞に付く用法と同じ)、「深い」と形容詞になり、「深く」、「深々と」と副詞を作る。また、「深まる」「深める」のように動詞をも作る。例外的に、口語の「たかをくくる」の「たか(高い)」は明らかに名詞として使われている。また、「甘え」との名詞は形容詞「甘い」の語幹「あま」に「得る」が付いて出来た「甘える」の語幹である。
 
 未然形とされている「安かろう」は形容詞語幹に付く助動詞「かる」があり、「から・う」から「かろう」と音変化したものであり、連用形とされている「安く」は副詞、同じく連用形の「安かった」は「安・かり・た」が音便化したものである。仮定形とされている「安ければ」は「安かれ・ば」が「安けれ・ば」と音変化したものとも考えられる。いずれにしても、この助動詞「かる」(ある状態にある・・英語の be 動詞にあたる)は文語表現として「若かりし頃」と現代日本語に使われている。この「かり」は「かる」の名詞形であり、「し」はすでに述べたように、阿倍仲麻呂の歌の「三笠の山にい出し月かも」の「し」と同じ用法で、動詞「する」の名詞形(連用形)「し」であろう。意味は「そうある」こと。
 結論として、形容詞(安い、高い)が活用するのではなく、形容詞語幹に、様々な接尾語が付いて単語が作られて行くのである。これを膠着語と言い、アルタイ諸言語の特徴である。この助動詞「かる」は「読む」と同じく「から、かり、かれ」と活用する。
 
 そもそも、形容詞の活用と動詞の活用では根本的な違いがある。動詞の場合は「読む」の「む」が変化するように、語尾が変化する。では、形容詞「高い」の「い」が音変化するのだろうか。「高く」の「く」は副詞形成の接尾語であり、「い」(古語は「き」)とは全く別の機能の接尾語である。「安かろう」と「安ければ」に至っては、助動詞が付いて出来た言葉であり、英語で言えば   It may be cheap. と  If it is cheap.  であり、sentence (文) である。単語と文を同列に扱い、一つの活用表に入れるなど奇妙を通り越して異常である。教科書には「安く」や「広く」を副詞とせず、形容詞の連用形としている。しかるに、「広々と」は副詞としている。形容詞を無理やり動詞の活用形に合わせようとした結果、生まれた珍説、奇説の類である。このことを誰も不思議に思わず、まるで地球の自転のように繰り返されているのが国文法なのである。

(2) 形容動詞の活用
 国文法教科書の形容動詞の記述も形容詞に輪をかけて奇怪である。例文として「静かに」は形容動詞の連用形、「静かな」はその連体形とある。形容詞の活用と同じ理屈である。これも形容詞同様、名詞語幹「静か」に助詞「に」が付いて副詞に、「な」が付いて名詞を修飾するだけである。
 この「な」は助動詞「なる」の「る」が落ちたものである。なぜなら、「大いなる西部」(アメリカ映画の題)とか「遥かなる宇宙」「静かなるドン」などの文語表現があることから分かる。(「なる」は動詞と助動詞二つの意味を持つ)
 
 極め付けは、「こんな」「そんな」「あんな」を形容動詞に分類していることである。「こんな」は「このような」の口語表現であり。「この様」という名詞に名詞を修飾する「な」が付いただけである。また、「急の出費」の「急」は名詞だが、「急な用事」の「急」は形容動詞とのこと。英語で wide (広い)は形容詞で、widely (広く)は副詞(adverb)であることは中学生でも知っている。しかるに、日本語では「広く」は副詞ではなく、形容詞「広い」の連用形なのである。こんな国文法を外国人の日本語学習者に教えても、「そんなの関係ねー」と無視されるであろう。当然、「広く」も「静かに」も副詞だと自己流に解釈するであろう。 もはや言うべき言葉が見付からない。こんなデタラメな教科書で日本語を学習させられる日本の生徒が本当に可哀想である。
 なお、すでに国語学者の時枝誠記が形容動詞そのものを否定している。勿論、この説のプライオリティー(先取権)は時枝誠記にある。

 <追記>

 我々日本人が中学2年で学ぶ国文法は、小学校以来、国語(日本語)に慣れ親しんできた子供たちの柔軟な脳を破壊してしまうほどの毒素を持っていると私は思っている。子供たちは完全に日本語そのものに興味を失ってしまい、テストでいい点を取ろうと、国文法の用語を丸暗記しようとする。そして何も残らない(私もそうだった)。

 勿論、世界のどの言語でも文法は重要である。しかし、国文法は他の言語と比較しても文法とは言いがたい。そこから、「日本語には文法はない」とか、「日本語は系統不明の言語である」などの極論が出てくる。日本語はアルタイ語文法を忠実に保持している言語であり、その法則性はきちんと守られている。 私の郷里、徳島の方言で進行形「行っている」を「行っきょる」と言う。またある地方では「いっちょる」と「き」が口蓋化して「ち」となっている。これらは、いずれも「行き・居る」から来たものであり、「 行き」(名詞形)に存在の動詞「おる(居)」が付いたものである。これこそ、アルタイ系言語の基本と言えるものである。






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