小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

坂本龍馬の妻「 おりょうさん 」異聞

2007年07月28日 | 歴史

                                   

おりょう写真の画像

                              写真 2

おりょう写真の画像

                              写真 1          

 坂本龍馬の妻は「おりょう(龍)」と呼ばれている。よく雑誌の幕末特集号にその写真が掲載されご存知の方も多いと思う(写真 1)。ところが近年もう一枚のおりょうの写真が偶然古本市で、明治の古写真として売られていた。それはこれまでの立ちポーズと違い、椅子に腰掛けたものであった(写真 2)。ところが、なんとその写真の裏面に墨書で「 たつ 」と書かれていたことから、これまでの「おりょうさん」の写真も本当におりょうさんか疑わしくなった。このことを京都国立博物館の宮川学芸員が雑誌「歴史読本」(2002年2月号)で紹介されていた。私の結論として、このもう一枚の写真が出てきたことで従来のおりょうの写真がまぎれもなく「龍馬の妻、おりょうさん」その人であることが証明されたと思う。その理由は・・・

 (1)本来の写真の所有者・中井 弘にある
 写真の所有者、中井 弘は薩摩藩士であったが脱藩し、攘夷活動のなかで土佐の後藤象二郎の知己を得て英国に留学した。帰国後は宇和島藩主・伊達宗城に見込まれて、幕末の京都で宇和島藩の(外交)周旋方として活躍した。このとき坂本龍馬とも知り合ったものと思われる。 明治新政府のもとで外国事務応接係に任命され、明治元年、御所に向かう英国公使パークスが尊攘浪士に襲撃されたとき、先導役であった中井は自ら抜刀して応戦し、浪士を斬り倒したことで知られている。その後、明治政府の要職を歴任し、明治17年滋賀県知事、元老院議員、27年には京都府知事になったがほどなく病で57歳で死去した。この中井 弘が死の直前、所有していた遺品、書簡類や写真アルバムを、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された京都の近江屋の主人、井口新助に託したものである。最近、それらが井口家から京都国立博物館に寄贈された。
 

 そのアルバムの中に丸々一ページをさいてきちんと装丁されていたのが(写真 1)の立ち姿なのである。そのアルバムには中井と親交のあった明治の顕官、黒田清隆なども含まれており、これまでよく言われてきた ーあれはお龍さんの写真ではない、明治時代に外国人にみやげ用として撮影された芸者とか遊女の写真だー と。しかし、残されている芸者の写真はきちんとお座敷に出る正装をしているし、明治の元勲、中井 弘が同じアルバムにそのような写真をはめ込む訳がない。また、井口家では代々、その写真は龍馬の妻、おりょうであると言い伝えられてきた。近江屋主人、井口新助は幕末に多くの志士たちを陰で援助していたことが知られている。龍馬はたまたま偶然、近江屋に止宿していたのではないのである。また、中井弘の京での下宿先は近江屋があった河原町のすぐ隣の木屋町であった。近江屋を介して龍馬と中井 弘がつながった。

 (2)新発見のもう一枚の写真にある
 もう一枚の写真の裏面の文字「たつ」こそ「おりょう」の本名であったと考えられる。そのいきさつは先の「北政所」と同じで、坂本龍馬は本名「たつ」を漢字で書けば自分の名前「龍」と同じことから愛称として「お龍(おりょう)」と呼ぶことにしたのであろう。龍馬が「おりょうさん」と呼んでいたことは、有名な霧島温泉への新婚旅行に同行した薩摩藩士、吉井幸輔の孫の証言から分かっている。「おりょう」は龍馬の死後一時、土佐の坂本家に身を寄せていたが、ほどなく京都に戻っている。その後、龍馬ゆかりの人を頼って東京に出て、明治8年に再婚している。「おりょう(龍)」が頼った人こそ中井 弘その人ではなかったか。「おりょう」の上京を世話したのは近江屋主人、井口新助であろう。
 

 「おりょう」は上京するまでの数年間は京都にいた。両親はすでに無く、弟はいたが京都で頼れる所は近江屋以外に考えられない。龍馬が暗殺された後、土佐の坂本家に行く前、いったん京都に戻り、その時、近江屋に泊まっていたことをお龍本人が後年語っていることから推測される。(一坂太郎編『わが夫、坂本龍馬』)
 撮られた2枚の写真は当時東京の有名な写真館で、その背景や備品などから多くの明治の顕官やその妻女が撮影している所である。芸者や遊女が撮影できるような場所ではない(その経営者は明治天皇のお抱え写真師でもあった内田九一である)。そこに「おりょう」を連れて行ったのは中井 弘その人だったと私は思う。だからこそ、立ち姿の一枚を中井に渡し、おりょう本人がもう一枚を所持した。そこに本名の「 たつ 」と署名した。坂本龍馬の妻としての「おりょう」と決別しようとしたのであろう。これが真相ではないのか。 
 この「 たつ 」と署名された写真がどのような経緯で現代の古書市に出回るようになったのかは知る由もない。龍馬に愛称で「おりょうさん」と呼ばれ可愛がられた京の町屋の娘「たつ(龍)」の薄幸の人生に思いをはせるばかりである。

 実は「おりょう(たつ)」の名前は晩年に再び当時のマスコミに登場する。このことは次回に。乞御期待
  
 <追記>
 この文を書いたときは気付かなかったが、最近(2010年)自説を補強する新事実を発見した。それは「おりょう」について故郷の乙女姉に書き送った手紙の内容であるが、それには「今の名ハ龍と申 私しニにており候」とあり、続けて「早々たずねしニ、生レし時父がつれし名よし」とある。(「つれし」は「つけし」の誤記であろう)
 この手紙の日付は慶応元年9月9日(1865年)、この時、二人はまだ結婚していない。ここで「今の名」とは寺田屋の女中としての呼び名ではないのか。龍馬はそれをそのまま使った。「おりょう」の父(楢崎将作)は安政の大獄に連座して亡くなった。その後、おりょう自身は寺田屋の女将・お登勢の世話で女中奉公していた。その寺田屋におりょうを連れて行ったのは他ならぬ龍馬その人であった。
 

 この時代、旅籠やお茶屋の女中、あるいは芸者などの呼び名は本名を使わず通称名を使うのが一般的であった。現代でも水商売関係では「源氏名」を用いる。この「今の名」とは寺田屋での女中としての呼び名であったと解釈すればすんなり理解できる。
 漢字「龍」は「りゅう」と「たつ」の音訓二つの読みがある。本名は「たつ」であるが、寺田屋では「おりょう」と呼ばれ、漢字で書けば「龍」なので自分の名前と似ていると言っているのがこの手紙の真意ではないのか。そうでなければ「今の名」の意味が理解できない。この手紙だけでは父が「龍」と名付けたことしか証明できないし、振り仮名はない。
 
 この手紙の全文を読むと、龍馬とおりょうは寺田屋以前に既知の間柄であったことが分かる。それも単なる知人ではなく、相当親密な関係であったことが推測される。その理由は、おりょうの身の上話をかなり詳しく書いていること、おりょうが乙女姉を真の姉のように思い、会いたがっているとまで書いていることである。つまり、龍馬自身が故郷高知の家族の話をおりょうに語っているのである。普通、自分の家族のことや身の上話をする場合、当然、相手の名前は知っているはずである。
 だからこそ、龍馬は「元の名」を知っていた上で、「今の名」と書いたのであろう。元の名は「たつ(龍)」、今の名は寺田屋の女中名「おりょう(龍)」、このように理解するのが一番自然である。龍馬が日常、「おりょうさん」と呼んでいたので、三吉慎蔵などその周辺の人もそう認識していた。新発見の写真の裏面の墨書「たつ」の真相はこんなところにあるのではないか。

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北政所の本名は「 ねね 」か「 おね 」か ?

2007年07月09日 | 歴史

 ドラマや小説などで豊臣秀吉の正室・北政所(高台院)の本名は「ねね」と「おね」と二通り出てくる。最近はほとんど「おね」が使われているが、京都の観光名所、東山・高台寺前の通りは「ねねの道」となっている。一体、どちらが正しいのか。結論は両方とも妥当性があると言える。

1)「ねね」説の由来
 戦国時代の女性の名前で文献資料ではっきり分かっている人は少ない。武田信玄の正室・三条夫人は京都の三条家から来ているのでそう呼ばれているが、本名は分かっていない。同じく、土佐の藩祖・山内一豊の妻「千代(ちよ)」も文献資料にはない。代々、土佐藩でそう言い伝えられてきたにすぎない。北政所の場合は、江戸時代の初期に二代将軍秀忠の馬廻りで、大阪夏の陣にも参加した土屋知貞という武士が書き残した『太閤素性記』という書物があり、それには

 「太閤本妻ハ同国朝日郷ノ生レ父タシカナラス同国津島ノ住浅野又右衛門姪ナリ幼名禰々」
 
 とあり、明確に「禰々(ねね)」と書かれている。また続けて「幼名禰々御料人後政所 後号高台院」とも書かれている。この『太閤素生記』という本があったからこそ、北政所の名前は「ねね」と分かったのである。有名な『太閤記』には「北政所」や「政所様」はあるが「禰々(ねね)」はない。(『太閤素生記』は「史籍集覧・第13冊」に収められており、大きな図書館にはある)

 なお同書には、お市の方の三人の娘の名前を
 
「太閤別妻淀ノ御方幼名チャ へ 御料人秀頼御母・・二女ハ幼名ハツ御料人高次京極宰相方ヘ・・三女ハ幼名督御名小督御料人ト云」
 
 と正確に書かれている。三女「督(ごう)」は、普通は「江」の字が使われるが、通称「おごう」と呼ばれていたようである。(『徳川幕府家譜』には「於江与君」とあるので、本名は「江与(えよ)」であったのかも知れない。通称がそのまま本名のように使われていたのであろう)。 この時代、別に戸籍制度があるわけでないので通称名が一般化する場合も多い。例えば、「阿姫」とか「小姫」などの人名が史料に出てくるが、日本には「阿(あ)」とか「小(こ)」などの一音節の名前はないので通称名であることは明らかである。源頼朝と妻、政子とのあいだに生まれた娘は「大姫(おおひめ)」と呼ばれているが、これも通称であろう。本名は伝わっていない。また、漢字表記も様々あるのが普通である。二女「初(はつ)」も「発」と書かれた例もある。土屋知貞は『平家物語』の「小督(おごう)」にちなんで「督」の字を使ったようである。おそらく、土屋知貞は『平家物語』を愛読していたのであろう。

2)「おね」説の根拠
 北政所の甥の家系、木下家の備中足守藩の文書(足守文書)の中から近年、夫の秀吉が肥前名護屋から大坂の北政所に書き送った手紙が発見された。それによると 「(秀吉が)大坂に戻ったらそもじと抱き合ってゆるゆる昔物語りなどしたい」とあり、われわれ現代人でも赤面するような文面である。人たらしの名人、秀吉の面目躍如たるゆえんである。自身は肥前・名護屋城に側室の「淀殿」や「京極殿」を伴っているのに・・。
 この手紙の末尾に 「  お祢へ  」と秀吉が署名しているのである。(祢は禰の略字)  このことから、日本史の学者らが、夫が妻の名前を間違えるはずがないと、北政所の本名は「ねね」ではなく「おね」が正しいと言い始めたのである。他にも、秀吉が小田原の陣所から北政所に送った手紙の宛名も「 お禰 」になっている。
 

 この時代、女性の名前には「お」を付けて呼ぶのが普通である。「おまつ」とか「おたま」のように、「ねね」の場合は「おねね」と言いにくいので、夫、秀吉が「おね、おね」と愛称として呼んでいたのではないか。秀吉の手紙も書状というより会語体の今でいうメールである。秀吉が日常そう呼んでいたにすぎないと考えるのが一番無理がない。近親者を本名ではなく愛称や通称で呼ぶことは古今東西どこにでもあることである。ただ文献史料には残りにくいだけである。
 結論として、北政所の本名は『太閤素生記』にあるとおり「ねね」であり、「おね」は夫・秀吉にのみ許された愛称であったと思われる。この時代「ねね」の名を持つ女性は数多い (諏訪頼重に嫁いだ武田信玄の姉など)。
 
  なお、子がなかった北政所は甥たち(実兄、木下家定の子供)をとても可愛がり、彼らに書き送った愛情細やかな手紙が何通か残されている。そして、その手紙に「寧」とか「祢」と署名している。このことから北政所の名前は「禰(ね)」だと主張する人がいるが、これは論外である。日本人の名前は古代の女王・卑弥呼以来、今日に至るまで「ね」などの一音節の名前はない(中国や朝鮮には「美(ミ)」などの一音節の名前はある)。                                                             

 織田信長が長浜時代の「ねね」に書き送った手紙(秀吉の浮気を大目にみてやれとの内容)があるが、それにはなんと平仮名で「 のぶ 」と署名しているし、坂本龍馬が高知の家族に送った手紙にも「 龍 」とのみ署名されているものが多い。このような例は日本史上いくらでもあり、人間の心は今も昔も変わりない。また、自筆の書状には「寧子」と署名されたものもある。これは従一位の官位を持つ北政所が公家風に署名したものであり何の不思議もない。

 <追記>
 秀吉の死(慶長3年・1596年)の翌年、徳川秀忠とお江の間に生まれた娘が「ねね(子々姫)」と名付けられている。秀忠は子供のとき、秀吉の人質として大坂城にいた。その時、北政所から我が子のようにやさしく可愛がられたことを生涯忘れなかったようである。自身の娘に「 ねね 」と名付けただけでなく、豊臣家滅亡後も高台寺に小大名並みの寺領を安堵している。また、京都に来たときはいつも高台寺に北政所を訪ねている。なお、北政所「ねね」の妹は「やや」という。

 最近、興味ある古い資料が見付かった。1998年(平成10年)9月19日付の朝日新聞の記事に  ー震災復興に「ねね」尽力 ー との見出しで、京都の東寺の仏像(大日如来)の修復の過程で頭部から木札銘が見付かり、それには

        「 大壇那亦大相國秀吉公北政所豊臣氏女 」

 とあり、年号は慶長3年(1598年)であった。この2年前に起きた慶長大地震で東寺も相当の被害を受けたようである。その修復に北政所がかなりの寄付をしたことがうかがえる。この銘文で北政所が夫の姓(豊臣氏)を称している。つまり、「豊臣氏の女」であると。もし本当に夫婦別姓であれば、「杉原氏女」か「浅野氏女」としたはずである。(北政所は生まれは杉原氏であるが、浅野家の養女となった)。この木札に「豊臣氏禰々(ねね)」と書いてくれていたら、北政所の本名論争など起きなかったのに、やはり天下人・秀吉の正室であっても当時のしきたりに従ったのであろう。

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