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日本語の諸問題(27) 「学ぶ」と「まね(真似)ぶ」の問題 ー再論ー

2013年01月19日 | Weblog

 この国語学の通説には大きな見落としがある。本当に「学ぶ」が「まね(真似)ぶ」から出来た言葉だとすれば、漢字「学」に対して飛鳥・奈良時代はどのような訓読みを与えていたのか、答えに窮してしまう。前述の『日本書紀』に出て来る「学」は、「まなぶ(学)」と読み解かれている(岩波版「日本書紀」)。通説どおりなら、「まね(真似)ぶ」の可能性も否定できない。国語学の先生方はどう説明するのだろうか。

 ー漢字「学」はすでに漢代にあるー

 白川静『字通』には、「学」について中国の古代文献(漢代~唐代)から多くの例があげられている。それには、「学者」「学習」「学術」「学芸」「学校」「学士」「学究」「学識」などなど、これらの単語は現代日本語でも普通に使われている。この中で、「学習」がこの問題を解く重要な鍵となる。「学習」はすでに『論語』に出ており、漢字「習」に対して、日本語では「ならふ」との訓読みを与えている。この「ならふ」は古語辞典や国語辞典には次のような説明がなされている。

 1、繰り返しにより習慣・くせになっている。慣れる。習性 (例、ならい癖)

 2、習う、習得する、学習する 

 3、なら(倣)う、模倣する

 4、通例、 常(つね)、よく有りがちなこと (例、人の世のならい)

 また派生語「ならわし」は「風習、習俗、しきたり」 の意味にも使われる。この漢字「習」に対する訓読みは非常に正確である。「ならふ」とは「模倣する、真似をする」の意味もあるのである。つまり、平安時代の「まね(真似)ぶ」と同じ言葉である。

 では古代に日本に入ってきた漢字「学習」に対し、「習」は正確に「ならふ」と訓読みしているのに、「学」にはどのような訓読みを与えていたのか。漢字「学」は「習」とはまったく意味が違う。『字通』にある「学術、学者、学士」などから分かるように、英語の study に当たる言葉であり、けっして「真似る」とか「模倣する」意味ではない。「学」とは深く思索して知識を得ることであり、「学問」「学僧」「学識」という言葉がそれを物語っている。

 ー万葉仮名は漢字の音と訓を併用しているー

「万葉集」と「古事記歌謡」は現存する日本最古の日本語文献資料である。その万葉仮名はなにも漢字の音のみを使って表記しているわけではない。例えば、日本語の「き」を表すのに、「記、紀、基、寄、気」(音読み)、「木、城、樹」(訓読み)、同じく「こ」は「古、胡、固」(音読み)、「小、粉、籠」(訓読み)。このように、飛鳥・奈良時代には漢字の訓読みは日本語に定着していた。

 もし、この万葉時代に、漢字「学」に模倣する意味の「まね(真似)ぶ」との訓読みを与えていたとしたら完全な誤訳であり、当時の日本人の知性の低さを証明しているといえる。そんなバカなことがあろう筈がない。古代の日本人の漢字の習熟度は弘法大師・空海の例をあげるまでもなく、本家の中国の人を驚かせるほど高かった。 結論として、『日本書紀』の「学」は「まなぶ」との訓読み以外あり得ない。

 平安末期の院政時代に成立した漢和辞典『類聚名義抄』(作者は不詳、法相宗の僧だと言われている)には、「学」に、「まなぶ」「まねぶ」「ならう」の三つの訳語を与えている。つまり、この内のどれかが飛鳥・奈良時代の訓読みであったことになる。国語学の通説どおりなら、「まねぶ」しかない。「万葉集」や「記紀」にはたまたま記録されなかっただけで、この時代すでに「まね(真似)」「まねぶ」という言葉があったということにするしかない。つまり、「まなぶ(学)」より「まね(真似)ぶ」が先にあったのだから・・。現代の国語学者は昔の日本人の漢字能力を軽視していると言わざるをえない。たしかに、平安時代の「まねぶ」は「学ぶ」(学習)の意味でも使われている。これは意味が拡大されて使われるようになっただけで、言語の世界ではよく起こる現象の一つにすぎない。英語でも「成程、分かった」を  I see. と言う。「私は見ている」とは訳さない。それと、「まねぶ」は王朝時代の仮名書きの和文に出てくるだけなので、王朝時代の女房言葉であったのではないかと指摘している「国語辞典」もある。

 <追記>

 「学ぶ」の語源は「まね(真似)ぶ」であるとの国語学の常識は、おそらく、映画やテレビでよく見る江戸時代の寺子屋の授業風景が頭にあったのだと思う。そこでは子供たちが師匠の書いた手本を真似て、同じように書く姿が画面に映し出される。それはその通りである。だからこそ「習字」というのである。今日でも、「お茶」「お花」「日本舞踊」などは「習い事」と言う。師匠の手本、作法を倣(なら)うのである。「学問」はもっと奥が深く、より高い知識が要求される。寺子屋の基礎的な学習とはちがうのである。「学ぶ」とは師匠の高い知識に並ぶよう努力する「ま・なび(並)」なのである。なお、「なら(習)ふ」の語源も「なら(並)ぶ」から来たものと思われる。「並ぶ」もすでに「万葉集」に出ており、万葉仮名で「布多利那良比為」(二人並びゐ)とある(万・794)。「ならぶ」の「ぶ」を清音化して、「習」の訓読みに当てたのではないのか。「学」も「習」も共に師匠の水準に「なら(並)ぶ」ことが古代の日本人の願望であったのであろう。

 最後に、あと一つ見落としている問題がある。「まねぶ」は日本語動詞における漢字の訓読みの法則から逸脱している。「まね」は純粋大和言葉であり、「真似」はその万葉仮名風の当て字にすぎない。日本語動詞は「学ぶ」「習う」「遊ぶ」「走る」「聞く」「書く」「読む」などのように、その意味に対応する漢字を使ってより分かり易く表記する。たとえ同じ発音でも(アクセントは違うが)、「着る」と「切る」のように漢字を使うことにより一目瞭然である。この法則が「まねぶ」にはない。同じような意味の「習う」「倣う」(ならう)はあるのに・・。つまり、このことは、「まねぶ」という言葉自体が、漢字の訓読みが定着していた飛鳥・奈良時代には存在していなかった何よりの証拠である。「まね(真似)ぶ」とは平安時代に新語として流行した王朝の女房言葉であった可能性が高い。だからこそ仮名書きの和文にのみ出てくるのであろう。勿論、現代語では「真似る」にとって代わられている。

 

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