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日本語の諸問題 (29) 国文法の呪縛  -トド も ハメ も名詞語幹ー

2013年11月03日 | Weblog

 前に書いた「トドのつまり」と「ハメを外す」の語源についての著名な国語学者の説は非常に象徴的である。この場合「トド」も「ハメ」も名詞形である。これには誰も異論はない。助詞「の」「を」をとる。ほとんどの国語辞典や語源辞典では、「トドのつまり」の「トド」とは魚の一種「イナ」が「ボラ」になり、最終的に「トド」と呼ばれる出世魚になることから生まれた言葉と書いてある。つまり、「トド」が名詞である以上、それにふさわしい意味を持つ単語をさがした結果、行き当ったのであろう。この説を立てた人は日本語の文法は国文法以外あり得ないとの絶対的な思い込みがある。まさに国文法の呪縛である。国文法は決して言語(日本語)の文法   grammar  ではない。

 ー「トド」は動詞の名詞語幹ー

  私がこれまで述べてきたように、日本語動詞は語幹を持つ動詞がある。「読む」とか「書く」には語幹はないが、「見る」「着る」「寝る」「似る」「捨てる」などは、「み(見)」「き(着)」「ね(寝)」「に(似)」「捨て」などがそうである。これらは単独で普通名詞にはならない。例えば、「み(身)」は普通名詞であるが(例、身の程知らず)、 同じ発音の「み(見)」は普通名詞ではない。しかし、熟語(複合語)としては「花見」「味見」「見所」として名詞として使われる。「着物」「晴れ着」「昼寝」「寝言」「母親似」「捨て猫」「世捨て人」なども同じ例である。

 では「トド」はどうか。これは古語の「とどむ」、現代語の「とどまる」「とどめる」の語幹「とど」であることは疑いの余地がない。このように動詞の語幹は独立した普通名詞になる可能性があるのである。だからこそ魚の成長が止まる最終魚の俗称になったのであろう。「届く」『届ける」も「最後に行き着く」意味なので語幹「とど(届)」に由来する言葉であろう。この場合、「む」「まる」「める」「く」「ける」も動詞形成の接尾語である。また、「とどめる」から「とどめ」という二次的語幹が生まれ、「とどめの一撃」というふうに日常使わている。他にも、「滞る(とど凍る)」や王朝時代の「大臣(おとど)」の語源も「とどむ」の語幹「とど」に由来する言葉であろう。「大臣」は飛鳥時代には「おほおみ」と読まれ、臣下の最高位であった。つまり、「大臣(おとど)」とは最終官位なのである。

 ー「ハメ」も名詞語幹ー

 古語「はむ」(噛む)の連用形(名詞形)は「はみ」であり、これが馬の口にかませる「ハミ」に使われるようになったのであり、国文法の法則(連用形の名詞化)にかなっている。ところが、「ハメ」という名詞がどうしても見付からなかったので、古語動詞「はむ」の連用形「ハミ」が音変化を起こして「ハメ」になったとの説が立てられ、実際、国語辞典にはそうある。 国文法では「連用形の名詞化」は学校教科書に書かれているが、ほとんどの日本人はそんなことは記憶にないし知らない。国文法では「はめ」は仮定形(文語では已然形)であり、これが名詞化することはないので、そんな無茶苦茶な説が立てられたのであろう。(例外的に、「成れの果て」という表現がある)。語尾が「イ列段」で終わる動詞連用形(名詞形)が音変化した例など聞いたことがない。

 「連用形」という言葉自体が意味不明である。国語学では「疲れ」「流れ」「別れ」などの名詞は、「疲れる」「流れる」「別れる」という動詞の連用形が名詞として使われる。つまり「連用形の名詞化」ということになっている。私の説はまったく逆で、名詞語幹「疲れ」「流れ」「別れ」に「る」という接尾語が付いたものである。これらは独立した普通名詞になっている。「はめる」の「はめ」も名詞語幹にすぎない。この「はめ」は「はめ板」のように熟語にもなり、「はめ込む」と動詞に付き造語してゆく。「ハメを外す」の場合は普通名詞として使われている。「ハメを外す」とは「タガがゆるむ」とよく似た意味の言葉である。

 <追記>

 王貞治選手の全盛時代、よくガンバルことを流行語で「さだはる」と言っていた。このことは日本語動詞を考える上で非常に象徴的である。国文法教科書には動詞形成の接尾語として「る」があるなどと一切書かれていない。しかし、大方の日本人は学校で教わらなくとも、「さだはる」の「る」がそのような機能を持っていることを遺伝子的に分かっているのである。若者語の「事故った」「ミスった」も、「事故る」「ミスる」という動詞を無意識的に造語しているのである。このような文法法則はアルタイ系言語に特有のものである。日本語にはこの種の動詞形成接尾語が他のアルタイ諸語(チュルク語、モンゴル語、満州・ツングース諸語、朝鮮語)よりずっと豊富である。 

  例を上げれば、名詞「雲」を動詞化して「くもる」、「帯(おび)」から「帯びる」が、形容詞語幹「たか(高)」から「たかる」ができている。口語の「タカをくくる」に至っては「タカ(高)」は普通名詞として使われている。動詞形成接尾語はなにも「る」だけでない。名詞「つな(綱)」に接尾語「ぐ」が付いて「つなぐ」が、同じく「また(股)」から「またぐ」という動詞が生まれている。また、擬態語「そよそよ」を動詞化して「そよぐ」が、「ゆらゆら」から「ゆらぐ」が、同じく「ころころ」から「ころぶ」という動詞ができている。前に書いた「まね(真似)ぶ」も同じ用法。この「る」「ぐ」「ぶ」はそれ自体に意味はないが、すべて動詞形成の接尾語である。

 国語(日本語)の授業もこのように言語として学習すれば、子供たちも新鮮な発見があり、興味を覚えるのではないだろうか。国文法(学校文法)には生徒も教師もウンザリしている。もはや救いようのない絶望的な状況であると言える。義務教育で学んだ母国語の文法の記憶が全くない。こんな国が他にあるのだろうか・・。

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