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日本語の諸問題(46) 「すべからく」の語源  ーボタンの掛け違いー

2021年10月30日 | Weblog

 今ではあまり使われなくなったが、「すべからく」との言葉がある。例文として「学生はすべからく学業に専念すべし」などと、最後に「すべし」を伴って使うのが一般的である。国語辞典には「当然」「必須」「義務」などの意味であるとある。また、昨今では誤用として、「全部、全体、すべて」などの意味にも使われるようになったともある。しかし、この説明はおかしい。「必須」「義務」などの意味を表わしているのは最後の「すべし」であって「すべからく」ではない。英語で言えば「・・すべし」は  You should do it  である。むしろ、誤用とされている方がより近い意味であると私は思っている。今ここでそれを明らかにしたい。

 -この言葉の語源を取り違えているー

「すべからく」の語源はどの「国語辞典」「古語辞典」「語源辞典」を見ても「・・すべし」から来たとされている。誰でも、「・・す(る)べからず」(禁止)から、「すべから」と4文字まで一致しているので当然そう思ったのであろう。だが、助動詞「べ」に活用語尾「から」が付くと必ず否定の「ず」を取る。なぜ「すべからく」と「く」が付くのか。辞典類には様々な説が出ているが、納得できる説は一つもない。『新明解国語辞典』には「す・べから・く」のこととある。岩波版『古語辞典』には「スベク・アラク」の約とあるが、「アラク」についての説明はない。一体、どちらの辞書が正しいのか一般の人は迷ってしまう。国文法では「良かれと思って」は「良く・あれと・思って」からきたというのが定説であるが、語源はどうであれ、事実上、助動詞「かる」は存在している。「遠からず(近い内に)地震は起きる」の「から」をなぜ助動詞としなかったのか(国文法では文語形容詞の活用語尾)。この時点で国文法は言語の文法から逸脱したと私は思っている。

 ー助動詞「かる」はすでに万葉集にも使われているー

 山上憶良の有名な歌「士(をのこ)やも空(むな)しかるべき万代(よろずよ)に語り継ぐべき名は立てずして」(万-978)の「空しかるべき」の「かる」がそうである。また、大伴旅人の歌「世の中は空しきものと知る時しいよいよますます悲しかりけり」(万‐793)、原文は「余能奈可波|牟奈之伎母乃等|志流等伎子|伊与余麻須万須|加奈之可利家理」とあり、この「可利」(かり)が「かる」の名詞(連用)形である(例、若かりし頃)。後世の国語学者が「かる」は「空しく・あるべき」から来たとか、「かり」は「悲しく・ありけり」が語源などと決め付けること自体、山上憶良や大伴旅人に対して失礼である。別のそういう言い方もあるとするのが常識ではないのか。なお、紫式部の『源氏物語』にも「ありがたかりけり」との表現があり、「かり」は使われている。では、真の語源は。

 ー「す(統)べる」の語幹「すべ」にあるー

 国語辞典には、「すべる」の意味として、(1)バラバラの物を一つにまとめる (2)全体をまとめて支配する。統治する・・とある。日常、よく使う「すべて」はこの語幹「すべ」に「て」がついたものである。(例、食べてみた)。つまり、「すべて」とは元々「集めて」「まとめて」との意味であり、そこから「全部、全体」の意味に変化したのであろう。

 「すべからく」の「から」とは、私の日本語文法理論の接尾語「かる」(そうある)の発展形の「から」である。(例、「良かろう」は「よ・から・う」からきている)。この「すべ・から」に「良く」「高く」の「く」 が付いたものであり、「すべ・から・く」と分析できる。意味は「全身全霊」「全力で」「集中して」「全面的に」など沢山ある。「すべる」とはバラバラのものを一つに集めること。転じて、「精神を集中して何かをやること」、これから「統(す)べる、支配する」の意味が生じたのであろう。つまり、「すべて」も「すべからく」も共に語幹「すべ」に「て」と「からく」という接尾語が付いたものであり、その意味にも大きな違いはない。言語学でいう word family (単語家族)である。(国文法では「統べる」の語幹は「す(統)」であり、「すべ」はその連用形・・念のため)

 「思えらく」との言葉があるが、これは「思える」の「る」が「ら」に変わり、接尾語「く」が付いたものであり、意味は「思うに・・」「思うところ・・」である。また、「おそらく」(多分)も古語の「恐(おそ)る」に「く」が付き、「る」が「ら」に変わって「おそ(恐)らく」が出来ている。現代語でも「恐る恐る近つ゛く」とか「恐るべきパワー」などの表現はある。(現代語は「恐れる」、その語幹「恐れ」は「明日は大雪の恐れ」などと使う)。

 他にも、「思わく(惑)」「言わ(曰)く」も同じ語法である。未然形「思わ」「言わ」に「く」が付いたもの。(「思惑」の「惑」は当て字、元の意味は「思えらく」と同じ)。「思える」の語幹は「思え」であり、「る」自体は活用しないが、「く」が付くと「ら」に変わる。この点では「すべる」も同じで、語尾の「る」は活用しない。同じ発音の「すべ(滑)る」は活用する(例、滑り台)。この「思わく」「いわく」は名詞化して、「思惑」とか「いわく付きの物件」として日常よく使われている。

 「すべからく」も上記の「思えらく」「恐らく」と同じ語法で成り立っている。「すべ・かる」(集中すること)に「く」が付いて「すべ・から・く」との言葉が生まれたのであろう。「学生はすべからく学業に専念すべし」とは、「学生は全身全霊(全力集中して)勉学に励むこと」と言っているのである。誤用とされている現代風の「全部、全体、すべて」とは多少の意味上の違いはあるが、基本的には同じような意味である。つまり、「すべて」は静止の状態、「すべからく」は発展・向上の意味を持たせているのである。(「すべからく」を「須く」とも表記するが「須」は当て字。「思惑」の「惑」と同じ)

  <追記>

 何度も言うが、日本語の構造は単純でやさしい言語である。この助動詞(接尾語)「かる」は「から」「かり」「かれ」と活用する。「良からぬ噂」「浅からぬ因縁」「良かれと思って」「遅かれ早かれ」「若かりし頃」「良ろしかるべし」「良ろしからず」「悪(あ)しからず」「・・するべからず」、また、「安かろう」は「安・から・う」、「良かった」は「よ・かり・た」からきている。(「取った」が「取り・た」から来ているのと同じ)。「良ろしければ」は「かれば」からの音変化であろう。これらは国文法ではすべて形容詞・助動詞の活用語尾として一覧表に出ている(国文法助動詞に「かる」はない)。この活用表を見るだけで大方の日本人はウンザリする。他にも、「寒がる」「怖がる」「淋しがる」「また(股)がる」「つな(綱)がる」「不思議がる」「欲しがる」の「がる」も濁音化しているが同じものであろう(動詞形成の接尾語化)。日本語は論理的に成り立っている言語である。故・井上ひさし氏は自著に「日本語に文法はいらない」と書いていた(当然 国文法のことだと思うが)。私も真実、国文法はいらない。

 

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