小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

日本語の諸問題(8) 国語学者の奇妙な論考

2008年12月10日 | 言語

1) 国語学者の奇妙な論考 (その1)
 国語学者大野晋氏はその著『日本語練習帳』(岩波新書)の中で、助詞「の」と「が」の違いについて世にも不思議な論を展開している。原文では次のようにある。
 
「原始日本語の社会では、ウチとソト(話し手のごく近い所とそれ以外)の区別が鮮明で、助詞でもウチ扱いには「ガ」、ソト扱いには「ノ」と区別していたのです」

 同氏はウチ扱いの証拠として、万葉集では「我が子」「君が代」のように「が」は、わ(我)・あ(吾)・おの(己)・な(汝)・きみ(君)・いも(妹)・せこ(背子)などに付くという。その数は、「が」全体の8割を占めると言う。つまり、2割はそうでないということでもある。そうして、ソト扱いの「ノ」は「大君の命」とか「神の社」のように天皇も神もソト扱いであったとし、天も地も雨も風も、春夏秋冬も同じだと言っている。

 ところが、続けて、「ガは少数、地名とか動植物に付くこともありますが、それは内部の人に準ずる扱いを受けるようになったものと見られます」と、内部の人に準ずる扱いとは一体全体どういう意味か、単なるご都合主義である。この論理でいけば「梅が枝(え)」の梅はウチ(身内)の物だが、「桜の枝(えだ)」の桜はソト(他者)の物と見なしたことになる。では「梅の木」の梅はどう説明するのか、「梅が木」とは言わない。
 万葉集にも「梅の花(烏梅能波奈)」があれば、「梅が下枝(梅我志豆延)」(巻5)がある。このニ首を比較すると、「の」は単に「花」を修飾しているだけであるが、「が」は前の名詞に付属する意味を持たせていることが分かる。つまり、「梅が枝」とは「梅の木から延びたまさにその枝」との意味である。一方、すでに切られた「梅の枝(えだ)」を「梅が枝(え)」とは言わない。この区別だけは明確である。しかし、すべてがこの用法どおり解釈できるものでもない。万葉集でも「が」と「の」の使い方は多様である。(なお、ウズベク語には日本語の助詞「に」に当たる  ga  があり興味深い)
 いや、そうではなく後世にはその区別 (ウチとソト)がなくなったと大野氏は述べているが、はたしてそうであろうか、万葉集の防人の妻の有名な歌
    
    「防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思いもせず」
 
「誰(た)が背(せ)」(原文は「多我世登」)とは「誰の夫か」とまるで他人事のように問い掛けているのである。「が」は身内の人にのみ使われる助詞ではないことはこれからも明らかである。

  たしかに、日本人がウチとソトを区別する意識は世界の他の民族より強いことは事実である。これは、日本の歴史的、文化的所産である。それゆえか、敬語の使い方などは世界のどの言語よりも複雑であることぐらいだれでも知っている。しかし、それと言語の機能(文法形態論)とは何の関係もない。同氏は日本人の国民性と日本語の機能をまるで混同している。現在でも「鬼が島」とか「佐渡が島」があれば「沖の島」があるように、なぜガとノの使い分けがあるのか、説明不可能である。しいて言えば、言葉の語感や語調の良さが影響していると思う。「梅が枝(うめがえ)」も「枝」を「えだ」と読めば「梅の枝(うめのえだ)」となるように・・・。(万葉集には「松が枝」の例もある)

2) 国語学者の奇妙な論考 (その2)
 町田健著『まちがいだらけの日本語文法』(講談社現代新書)にも世にも不思議な論考が展開されている。日本語で動詞が文末に来る理由として、

「いろんな言語に見られる語順の決まりは、伝えたい事柄のあらましが早くわかる、という原則を使えば説明できそうに思えます・・・語順が決まるときに伝達の効率性が関係しているだろうということは、今までの説明でも、ある程度は明らかになったのではないかと思います。」
 
 まさに驚天動地、たしかに動詞が主語の次に来れば伝達速度が早くなるのは当たり前のことであり、英語で  Ⅰ love  と来れば、愛していることがすぐ分かるが、日本語で「私はあなたが」と来れば、最後に「好き」と言うのか、はたまた「嫌い」と言うのか、しばしの猶予がある。しかし、これは結果的にそうなるのであって、日本人がそれを選んで使っているわけではない。言語は政治制度や経済システムのように人間が選択して決められるものではない。
 また同書には次のような記述もある、「英語や中国語のような、主語や目的語を表すための「が」や「を」のような単語がない言語では動詞が主語と目的語の間に来る順番が選ばれているのが普通です。これがどうしてなのかということについては、言語学でもまだ説得力のある説明はできていません・・」
 当たり前のことである。もし上記のことが学問的かつ科学的に証明できたと言う人が現れたら、その人は学者というより、むしろ宗教家である。歴史的にも偉大な宗教家はすべて神(天)の啓示を受けている。信者はそれを信じるかどうかである。学問と宗教は違う。学問は科学的証明が必要である。

 ー文字と言語は違うー
  文字の起源は明らかに出来る。漢字もアルファベットも元々、象形文字(絵文字)から生まれたものである。漢字「山」は山の形から出来た文字であるが、中国語でなぜ「サン」と発音するのか、日本語ではなぜ「やま」が 山(  mountain  )を意味するのか、だれも説明できない。神の配慮としか言いようがない。
 
 英語は主語の次に動詞が来るというが、英語と同じ印欧語に属するペルシャ語(文法形態論は英語と全く同じ)は、なんと動詞は日本語と同じように文の一番最後に来る。勿論、英語同様に前置詞を持つ言語である。なぜ、ペルシャ語の語順が他の印欧語と違い、動詞が文の最後に来るのか誰も説明できない。こじつけようと思えばどのような論も成り立つが、それは学問ではない。言語学で解明できることは、例えば、英語の  state (国)とペルシャ語の  -stan が印欧語の共通祖語に由来するということである。ウズベキスタンとかアフガニスタンの「スタン」(国)がそうである。ある言語の語順などというのは、そこにその語順があるということしか言えない。(アルタイ系言語はすべて動詞は最後に来る)
 日本人とイラン人は物事の曖昧さを好むから動詞が文末に来るようになった。「曖昧なイラン」という題の本が一冊書ける。-これはジョークー。

 同書には、日本語の否定語「ない」について、英語が  be  動詞プラス  not、中国語でも「没有(メイヨ)」のように、動詞に否定語 (not や 没 ) を付ける形で表わすが、日本語は「ない」だけでそれと同じ機能があると説明して、「日本語のように否定を表す単語一つだけで、同じ内容を表すのは珍しいと言えるでしょう。」と書いている。
 とんでもない! 日本語と同じ文法構造を持つアルタイ系のチュルク語や朝鮮語にはそれがある。チュルク語の一つウズベク語では   yo`q  (ヨク)、朝鮮語でも   ops-o  (オプソ) だけで日本語の「ない」と同じ機能を持つ。例えば、「家なき子」をウズベク語で言うと uy   yo`q   balo となる、( uy  家、balo  子供 )。日本語がアルタイ系の言語に属することはこのことからも分かる。日本語文法はアルタイ語文法で解釈すべきである。それをやって行こうと思う。乞う、ご期待。

 


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