小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

赤報隊はなぜ偽官軍にされたのか -通説は間違い-

2009年01月28日 | 歴史

 官軍先鋒として鳥羽伏見の戦いの直後に結成された赤報隊は、隊長・相楽総三以下8名の幹部が信州・下諏訪において斬首(慶応四年3月3日)されたことによって終結する。この赤報隊事件については、これまで、明治新政府が太政官布告として出した年貢半減令(正月14日には備前、安芸などの西国諸藩にその通達を出している)を、その直後、取り消したため、それとも知らず、新政府の年貢半減令を行軍途中の村々に触れて回った赤報隊を、自分たち(太政官政府)の面子(メンツ)を守るため偽官軍の烙印を押して抹殺したというのが通説である。
 しかし、この通説はおかしい。古今東西、権力者が己の約束した政策を実行できないからといって、人民大衆に謝罪したり、自己を恥じたりした例があるだろうか。朝令暮改という言葉があるように、そのような小心者はもともと権力の座に就いたりはしない。(ごく最近でも、民主党の鳩山首相の例がそうである) 。
 明治新政府の実質の支配者、岩倉具視や西郷隆盛、大久保利通もしかり、朝令暮改など意にも介さない権力者である。赤報隊が偽官軍とされ処断されたには他に理由がある。
 
 1)西郷隆盛と赤報隊
 この事件の発端と終結には西郷隆盛が深くかかわっている。相楽総三(本名・小島将満)は下総の庄屋階級出身で、父親がすでに江戸で両替商などをやり財をなしていた。その金を元手に相楽総三は江戸で国学・勤王塾を開いていた。(このような私塾が江戸にあったこと自体、幕府権力の衰退を物語っている)。
 幕府と薩長との緊張が頂点に達していた慶応3年暮れ、西郷隆盛は幕府との開戦を急がせるため、江戸で浪士を雇って騒擾を起こさせた。これに応じたのが勤王家の相楽総三とその同志たちであった。幕府はこの挑発に乗って、三田の薩摩藩邸を焼き討ちした。上方に先立って幕府と薩摩との戦闘は始まっていたのである。
 この報が大坂城に集結していた幕府側に伝わると、激昂した幕府軍は「薩摩討つべし」と、京都に進撃を始める。(形としては徳川慶喜がそれを命じたことになっているが、もはや慶喜もそれを制止するだけの力もなかったのであろう)。西郷の作戦はものの見事に成功したといえる。このことが赤報隊事件への伏線となってゆく。
 

 江戸を船で脱出した相楽総三たちは、鳥羽伏見の戦いの真っ最中の正月4日には京都に入る。そこで、西郷隆盛に官軍先鋒として江戸まで進軍したい旨を伝える。このときの西郷の判断が後の赤報隊の悲劇を生む。 鳥羽・伏見ではかろうじて勝ったが、まだ徳川政権は江戸に健在であり、諸藩の動向もつかめない。まさに、世情は混沌としていた。がしかし、ただ一つ言えることは、もはや時代は相楽など草莽の志士たちを必要とはしない、日本国の正式の権力機構である各藩の軍隊(藩兵)が正面に出て戦う国内戦に移っていた。 赤報隊事件はその時代の転換点に翻弄された結果、起こるべくして起きた悲劇といえる。
 
 2)官軍先鋒の進発
 史実をひも解くと、鳥羽伏見の戦いが薩長軍の勝利に終わった5日には、太政官政府は東海道鎮撫総督に公卿、橋本実梁を任命し、熊本、岡山などの藩兵を率いて京都を進発させている。なんと、相楽たちが草莽の同志を募って江戸まで諸藩を鎮撫して進軍したいと西郷に申し入れしたのとほぼ一致する。西郷はこの相楽の申し入れに許諾の返事を与えた。この瞬間、赤報隊の運命は決まった。また、9日には岩倉具定を総督に、東山道鎮撫軍も京を進発している。
 

 なぜ、西郷、岩倉がこれを認めたのか、これこそ幕末維新史の謎の一つである。西郷はもはや草莽の志士は必要ないことを十分認識していたはずである。江戸での騒擾行動に対する慰労として、なにがしかの金品を渡し、それでもって縁切りとすれば何んの問題もなかった。西郷が相楽の熱意に負けたのか、それとも、いまだ諸藩の動向がはっきりしない今、探りを入れるため赤報隊を利用しようとしたのか、西郷の性格からして、後者の方が真の狙いだったと思われる。軍事用語でいう「武力偵察」である。
 

 とにかく、西郷、岩倉の承認を得た相楽は、8日には近江の金剛輪寺で近在の勤王の同志を募り旗上げする。それでも不安であった相楽は、自から京都に出向き、太政官から官軍先鋒のお墨付きをもらう。太政官の坊城大納言の名で、官軍の「饗導先鋒」を命じるとの勅書を得た相楽は、これで名実共に官軍先鋒であるとの誇りのもと、1月15日、勇躍出発する。(この太政官から官軍先鋒を命じるとの勅書は、後年、赤報隊復権の理由となる)
 

 3)赤報隊の輝かしい戦果
 相楽総三率いる赤報隊本隊は道中の幕府方の諸藩や旗本陣屋を恭順させ、木曽路から伊那谷に抜け、諏訪湖方面に向かう。実は、赤報隊には別働隊(第2隊、第3隊)があり、大垣から南の桑名に向かう。この別働隊には京を無断で脱出した下級の公家2名が参加していた。(太政官は公家が無断で京を離れることを禁じていた)。出発から僅か一週間ほどでこの別働隊は悲劇的な結末を迎える。この顛末が赤報隊事件のすべてを物語っている。

 別働隊が桑名近郊まで来たとき、なんと、桑名藩の重役が嘆願書を携えて、宿舎となっていたお寺(安永村・清雲寺)に現れ平伏した。桑名藩としては、別働隊は公家(滋野井公寿)を伴っており、官軍の先鋒隊と思ったことは無理もない。しかし、その頃すでに四日市まで来ていた東海道鎮撫軍は、その報に接するや、すぐさま兵を差し向け、別働隊の幹部7名ほどを四日市に連行し、何の弁明も許さず、即刻、首をはねてしまった。隊は解散させられ、公家二人は京に戻された。

 鎮撫軍にすれば、公権力である桑名藩(幕末、京都所司代の任にあった)と一介の草莽の集団が交渉するなどもってのほかの越権行為であり、同行の公家たちにはなんの権限も太政官から付与されていない。正式の官軍からすれば、これまた当然の行動であった。このとき、相楽の赤報隊本隊の運命も決まったと言える。なお、桑名藩はこのあと家老が幼い新藩主を伴い、四日市の総督府に出向いて正式に恭順の意を表わした。これに対し、総督・橋本実梁は寛大な処分で桑名藩を赦している。 

 4)西郷の配慮
 この桑名の事態を知った西郷は、すぐさま赤報隊討伐を命じたわけではない。西郷の狙い、つまり、街道筋の諸藩の動向を探るという目的は桑名の一件で達成された。このまま赤報隊を放置しておけば、本当に江戸まで行ってしまい、徳川慶喜さえ恭順させかねない。西郷は赤報隊に戻ってくるように命じた(この時、赤報隊は美濃・中津川あたりにいた)。それを受けて、西郷が目付として同行させていた薩摩人、富山弥兵衛(高台寺党の一員)や元新撰組隊士(高台寺党)らは京に戻っている。しかし、相楽とその同志たちはそれを無視し進軍を続けた。
 
 それでも西郷は伊牟田尚平を相楽の元に派遣して説得にあたらせた。伊牟田こそ、江戸での騒擾を指揮した薩摩藩士であり、相楽と船で上方に脱出し、共に戦った同志でもあった。この配慮に西郷隆盛という人間の温情を感じる。西郷は相楽とその同志たちによって江戸で受けた恩義に報いようとしたのであろう。相楽はその命を受けて2月初め、その時、大垣にまで来ていた東山道鎮撫軍総督府まで出頭している。この時、相楽が素直に伊牟田の説得を聞き入れて戻ってきておればなんの処分もなかったと思われる。しかし、相楽とその同志たちは純粋であった。一身を投げ打ってでも天朝のため尽くそうとの赤心の思いがさらに江戸への進軍に駆り立てた。それに、自分たちは太政官から官軍先鋒を命ずるとの勅書をもらっているとの自負もあった。伊牟田の説得は失敗した。この時点で赤報隊の運命は定まった。


 5)赤報隊の最期
 2月末頃になって、諏訪湖周辺で小戦闘が発生する。赤報隊にとっては結成以来初めての戦闘であった。相手は小諸、上田、岩村田などの北信濃諸藩であった。赤報隊としては天朝にそむく逆賊との戦いと思い込んでいたであろうが、実は、これら諸藩は太政官からの布告により、偽官軍である赤報隊を討伐せよとの命令により出兵してきた官軍にほかならなかった。すでに、自分たち赤報隊が朝敵とされていたことに相楽とその同志たちも夢にも思わなかったであろう。まさに悲劇である。
 そうして、最後の時がやってくる。3月2日、下諏訪に本営を置いていた東山道総督府に出頭するようにとの通達があった。そこで相楽たちは捕縛され、翌3月3日、赤報隊の隊長・相楽総三以下幹部8人が斬首され、その首は街道にさらされた。罪状は官軍の名をかたって強盗無頼を働いたという簡単なものであった。これでもって、赤報隊は結成からわずか2ヵ月ほどの短い歴史に幕を閉じた。

 <追記>
 幕末・赤報隊に関する本は何冊かあるが、なぜ偽官軍とされ処断された理由については、年貢半減令以外に十分な理由が見当たらない、というのが一般的である。私が本稿で述べたとおり、相楽とその同志たちはあまりにも若く、純粋な勤王家であり、政治の世界の非情さが十分理解できなかった。(相楽は30歳、他の同志たちもほとんど20歳代だった)。このことが悲劇を生んだ最大の原因であると思っている。この点では昭和の二・二六事件の青年将校にあい通じるものがある。

 古今東西、政権の委譲にはそれなりの手続きと儀式が要るものである。鳥羽伏見の戦いのあと、時代はすでに政治の舞台に移っていた。戦争は政治の延長にすぎない。ただ、赤報隊は太政官から正式に官軍先鋒を命ずるとのお墨付きをもらっていた。この頃、官軍を私称して街道筋の旗本陣屋や庄屋から御用金を巻き上げていた偽官軍が横行していたが、これら偽官軍と赤報隊とは根本的に違う。後年、処刑された赤報隊士の子孫からの請願により、昭和3年、時の政府はこれを認め、赤報隊の名誉が回復された。相楽総三には正五位が追贈された。天皇の名で忠勇なる兵士を徴兵していたときの政府にとって、天皇の代行機関である太政官発行の勅書を無視するわけにはいかなかったのであろう。
 

 赤報隊の悲劇は現代社会にも通じる多くの教訓を与えてくれる。一つの思想、理念、イデオロギーに固執する人は今でも多い。しかし、現実世界は利害の衝突する争いの世界である。日本の平和憲法の理念を世界に訴えても、世界中の人は誰もそんなことは知らないし、もともと他国の憲法などに何の興味もない。対応を誤ると日本が赤報隊になりかねない。歴史から学ぶことは多い。
 
 

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日本語の諸問題(13) 形容詞に活用はあるのか

2009年01月17日 | 言語

 「かろ(かっ)、く、い、い、けれ」、このおまじないのような言葉を聞いて、これが日本語形容詞の活用だと分かる人は、よっぽど中学時代に国語の試験でいい点を取ろうとがんばった人である。まったく無駄な努力であり、形容詞は活用などしないのに、まさに嘘を教えられた被害者でもある。
 形容詞というのは「美しい花」とか「桜は美しい」というように「美しい」が形容詞である。「美しい」「広い」「大きい」などは動詞のように活用はしない、するのは形容詞語幹に付く助動詞にある。助動詞は動詞に準ずるもので活用する(活用しない助動詞もあるが)。形容動詞「静かな」の「な」は助動詞「なる」の「る」が消失したものであり、英語の be 動詞に当たるものである。意味は「そういう状態にある」、つまり、形容動詞 (形容詞的意味を持つ動詞) などという品詞は存在しないのである。名詞語幹に助動詞が付いた言葉にすぎない。
 
 ー形容詞の語幹ー
 形容詞の語幹の中には例外的に名詞機能を持っているものもある。例えば、「タカをくくる」という言葉があるが、この場合「タカ(高)」は明らかに名詞である。つまり、形容詞「高い」では語幹「高(たか)」に形容詞形成の接尾語「い」(古文では「き」)が付いたものである。「高(たか)」は次のように単語を作ってゆく。「高い」「高く」「高さ」「高々と」「高窓」「高見の見物」「高まる」「高める」「たかる」「高ぶる(振る)」、つまり、形容詞の「高い」もこれら単語群の一つに過ぎない。動詞・助動詞は活用するが(それも、「読ま」「読み」「読め」のように、-a   -i   -e  の3種類だけである)。形容詞「高い」は活用するのではなく、これ自身独立した言葉である。語幹にまったく別の接尾語が付いただけである。
 
 未然形とされている「高かろう」は「から-う」からの音変化した接尾語であり、助動詞「かる」は「から、かり、かれ」と活用する。仮定形とされている「高ければ」には「けれ」が付く(「かれ」からの音変化であろう)。つまり、形容詞「高い」の「い」とはまったく別の機能の接尾語である。これらを一つの活用形にまとめることには無理があるし、学習者に誤解を与える。この仮定形「ければ」は「かれ・ば」が音変化して出来たものであり、活用するのは「かる」の部分である。この「かる」は古文にはあるが、国文法では助動詞に分類されていない。あくまでも形容詞の活用語尾とされている。これは根本的におかしい。
 
 ー助動詞「かる」ー
 古文で、「良ろしかるべし」という言葉がある。この「かる」は文語形容詞の活用語尾とはせず、「たる」「なる」と同じ助動詞とするべきである。文語表現の「若かりし頃」の「かり」は「若く・有り」から出来た言葉とされているが、それより、助動詞「かる」の名詞形(連用形)とした方がより自然である。従って、「かり」は名詞形なので、名詞に付く接尾語「し」が付いて「若-かり-し-頃」との言葉ができた。つまり、「若ければ」と同じく元は「かる」である。 要するに、「高い」という形容詞が活用するのではなく、「高(たか)」という形容詞語幹に付く助動詞「かる」が活用するのである。文語の形容動詞とされている語尾「たる」「なる」も形容詞語幹に付く「かる」も、これらはすべて「そういう状態にある」という意味を持つ助動詞とすべきである。「なる」は動詞の意味もあり、 英語の  become  に当たる。
 

 結論として、形容詞語幹に付く助動詞「かる」(そうある)を設定すべきである。日本語の文語表現「良かれと思って」「良からぬ噂」とか「遅かれ早かれ」「浅からぬ因縁」という言葉は古語の「かる」が残存している好例である。これらは古文ではない。今でも日常よく使われる現代日本語の文語表現である。
 このように考えると、日本語の単語の構造がよく分かる。例えば、「長(なが)」は次のように造語してゆく。「長い」「長く」「長さ」「長々と」「長らく」「長袖」「長めの袖」「眺(長)める」「流(長)す」「流(長)れる」(古語は「流る」)の如く言葉が作られてゆく。「日本語に文法はない」と言った人がいるらしいが、日本語はむしろ理路整然とした単語造語法と文法体系を持っている。それを意味不明の難解なパズルのようにしたのは他でもない、「国文法」である。

  この助動詞「かる」はすでに万葉集にも用例があることを書いているので併せて読んで欲しい、(「すべからく」の語源 2021・10・30)

 <追記>
 アルタイ系言語を学ぶと、名詞に付く動詞形成の接尾辞が重要な位置を占めていることに気付く。一見、日本語とは異質の言語のようなイメージを抱くが、実は日本語にも存在する。「帯(おび)」から「帯びる」、「曇(くも)」から「くもる」、「真似」から「真似る」など、その他、擬態語「そよそよ」から「そよぐ」、「ころころ」から「ころぶ(転)」、擬音語「ざわざわ」から「騒ぐ」(「ざわつく」は動詞「付く」が付いたもの)。これら「る」「ぐ」「ぶ」などが動詞形成の接尾語である。国語の授業でも、このように日本語の単語の構造も教えることが大切であると思う。そうすれば、生徒も日本語、ひいては言語そのものに興味をもつようになるはずである。正直言って、現在の国文法(学校文法)には国語教師も生徒も皆うんざりしている。
 

  

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日本語の諸問題(12) 仮定形・已然形とは

2009年01月08日 | 言語

 已然形とは「すでにそうである」との意味であるが、これもチュルク語の用法と基本的に一致している。ウズベク語では bos-ib oldim.(押さえた) この文を直訳すると「押して・得た」となる。( bos-ib 押して ol-dim 私は得た )。  ol-は「得る、取る」、英語の get に当たる。(他のチュルク諸語では  al- 得る)。 ウズベク語では ol- 「得る」を使うことによって、動作が終了もしくは静止した文を作る。つまり、日本語の已然形の文である。この用法は朝鮮語にもある。-ass/-oss がこれに当たる。
 
 -「得る」の重要性ー 
 日本語の已然形にもチュルク語同様「得る」が重要な役割を果たしている。結論から先に言うと、動詞の名詞形(連用形)に「え(得る)」が付いたものであると考えられる。
 例えば、yomi-e から yome(読め)、kaki-e から kake(書け)のように。「得る」による日本語の造語法には「押さえる(押す)」「聞こえる(聞く)」などのように静止・状態の動詞を作ってゆく。現代語の仮定形、つまり古語の已然形「読め」「行け」「咲け」などは動作が終止・静止に向かう状態をさす言葉である。勿論、これらは「読め」「書け」と命令形にもなる。
 
 -已然形(完了形)は今もあるー 
 万葉集にある「夕去れば」(已然形)と「夕去らば」(未然形)では明確な意味上の違いがある。「夕、去れば」は「すでに夕方になっている(完了)状態」であり、一方、「寄らば斬るぞ」は「寄ってくれば(発展)状態」であり、共に「ば」の機能は同じである。後に、未然形「行かば」「鳴かば」が使われなくなったため、後世、已然形が仮定形と称される要因となったと考えられが、実はそうでもない。    

 例えば、現代語でも「私が君ならば、そんなことはしない」と言うように、「なる」の未然形「なら」に仮定の接尾語「ば」が付くと仮定の文になり、なにも古文だけの用法ではない。文語用法は現代語にも生きているのである。「読め」や「降れ」に仮定の意味がある訳ではない。例えば、「読めた」「取れた」などは動作の可能と完了の意味である。なぜ「読め」「書け」が学校文法で仮定形とのみされているのか理解に苦しむ。完了の意味もあるのである。

 英語で If it rains tomorrow. (明日、雨が降れば)は仮定形の文であるが、rains に仮定の意味があるのでなく、文全体にあることは誰でも分かることである。しかるに、現代国文法では「降れ」は仮定形とされている。理解に苦しむだけでなく、学習者に大きな誤解を与える。古語「降らば」は雨がふるかどうか分からないが、現代語「降れば」は、雨が降ったらと、「降る」ということがあればと言っているのであり、共に仮定の文とも言える。私が先に述べたように、未然形は「それに向かっている」ことであり、已然形は「それが完了、終止すること」であり、仮定の意味は助詞「ば」にあるのである。

「宝クジに当たれば」はたしかに仮定であるが、「春になれば桜が咲きます」は仮定とは言えない。「春になると」との意味であり、条件完了と言える。つまり、「夕されば」は現代語でも「夕されば」(夕方になると)であり、現代語と基本的に同じである。
 従って、「読めば分かる」という文は現代語では仮定形とされているが「読むという動作が終了すれば」との意味であり、已然形の要素は残されている。また、「住めば都」とか「勝てば官軍」も同様である。現代日本語でも已然形は使われている。けっして、古文だけの用法ではない。つまり、「得る」自身が動作の終了もしくは完了の意味を持っているのである。これはチュルク語や朝鮮語と同じである。その対極にあるのが未然形であり、前述したように、「読ま」「行か」「咲か」とその方向に向かってゆく意味を持っている。(例、花咲か-じいさん、花を咲か-そう)。
 
 -仮定形には完了の意味もあるー 
 また、仮定形に過去・完了の助動詞「た」が付くと「読めた」(読むことが出来た)と可能の意味にもなる。「読めた」は完了の意味も持っている。つまり、古語の已然形「読め」は「読め・リ」と言って完了の意味であったが、已然形が失われてゆく過程で「読める」との可能の意味を持つようになり、「り」に代わって「た」が使われるようになった。「読めた」は可能と完了の両方の意味を持っているのである。
 
 ところで、「得る」で可能の意味を作る用法はちゃんとチュルク語に存在している。ウズベク語では yoz-a olaman. で「書ける」(可能)となる。また、yoz-ib oldim で「書き取った」の意味になる。 yoz-書く、-a はつなぎの母音、 olaman (私が)得る、日本語「書けた」が「書き終えた」(完了)と「書くことが出来た」(可能)の二つの意味を持っているのはチュルク語と全く同じである。日本語文法はチュルク語と親縁な関係があると思われる。 
 英語でも She got married.(結婚した)と get で完了体をつくるように、人間の感性は共通している。
 現代日本語では「読め・る」「書け・る」などは可能動詞、「取れ・る」は自動詞と呼ばれているが、その起源は動詞「得る」にある。
 
 論点をまとめると、
1)已然形は動詞の名詞形(連用形)に「え(得)」が付いたものであり、終止・完了の状態を表す。学校文法で仮定形とされているのは根本的な誤り。「書け-た」は「書き終えた」もしくは「書くことが出来た」とのことなので、現代語でも已然形又は完了形とするべき。助詞「ば」が付くと仮定の意味を持つ文にもなるだけである。

2)万葉集にもある已然形に「ば」が付く場合、「夕されば・・」とか「夕浪千鳥汝が鳴けば」も現代日本語でも理解できる。つまり、「夕方になれば・・」「汝が鳴くと」であり、現代語と同じ。「去れ」や「鳴け」自体が仮定形ではない。このような名称は学習者に誤解を与える。已然形(完了形)は復権すべきである。

3)現代日本語動詞の活用は次のようになる。
  基本形「読む」(これは連体形であるが、終止形も兼ねる)

 1.発展形・・読ま(その方向に向かう)

 2.名詞形・・読み(連用形と称されているもの)

 3. 完了形・・読め(終止、静止状態)
 
 呼び掛けの「行こう」も未然形「行か」に願望の助詞「う」が付いたものである。 学習者は「読ま、読み、読め」、の3つを暗記すればよく、「ま、み、む、む、め、め」などは廃止すべき。また、「見る」の場合は、基本形が「見る」で、「見(み)」が名詞語幹である。(花見、見もの、見方)。仮定形を作るとき、接尾語「る」が「れ」に音変化するだけである。
 最後に文語とされている「寄らば大樹の陰」「死なばもろとも」などの表現も、現代日本語の文語表現として認知すべき。文語表現は古語に由来しているが現代語の一部である。

 <追記>
 最初に述べたように、国文法(学校文法)はまさに拷問である。動詞の五段活用とか上一段活用などの意味不明の用語が出てくる。生徒は全く理解できない。このような苦痛からの解放なくしては日本語、ひいては日本文化の未来はない。日本語は整然としたアルタイ語文法を持っており、音声構造さえきちんと把握すれば、けっして難しい言語ではない。勿論、これは外国人の日本語学習者にも当てはまることである。なお、助動詞の活用も動詞に準じている。

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