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日本史驚天動地の新事実を発表

日本語の諸問題 (41) 中学国文法教科書の作為

2017年11月10日 | Weblog

 今、手元にある中学国文法教科書の序文には次のようにある(抜粋)「・・・この一冊には “ことば のきまり”  が、体系的に、やさしく、わかりやすく、ていねいに述べられています・・・どうか一生懸命勉強してください」。 とんでもない、だれが国文法など真面目に勉強するものか、その証拠にほぼすべての日本人の頭には、中学で学んだはずの国文法の知識など何にも残っていない。例えば、英語の  throw (投げる) は  throw   threw   thrown  と活用する。今、どの日本人に聞いても、「投げる」の活用を、語幹は「な」で、「げ、げ、げる、げる、げれ、げろ」と正しく言える人は国語教師以外、まず皆無であろう。英語の  throw  の活用は言えても・・。 

 この国文法教科書には不思議なことに「日本語」の文字がどこにも出てこない。「国語」とは「日本語」のことであるはずなのに・・。 ここに、私は意図的な作為を感じる。その代わりに 「ことばのきまり」 との言い方をしている。「ことば(言葉)」は曖昧で抽象的な用語である。英語であれ、ロシア語であれ、世界のすべての言語は「言葉」である。それと「きまり」との言葉も同じく曖昧である。「きまり」とは交通法規などと同様、人間が人為的に決めた約束事に使う用語でもある。言語の文法  grammar  というのは世界のどの言語であれ、一定の法則性を見出し、それを体系化したものである。国文法教科書はあくまでも「言葉のきまり」であって、「日本語のきまり」ではないのである。いわんや、「日本語の法則」でもさらさらない。明治の昔、東京帝国大学のエライ先生が決めた「 きまり(約束事)」であるということか。 現代日本語には一定の法則性がある。その一例を上げる。

  ―「え(得)る」で作る「静止・状態の動詞」―

   見る ➝  見える、 押す ➝  抑える、押える、 聞く ➝  聞こえる、 引く ➝  控える、    添う ➝  添える(添え物)

   つく(手をつく)➝  仕える( 宮仕え )、(仕事が)つかえる、 向く ➝  迎える( お迎え )、 こる(肩がこる)➝  こらえる 

   さす (傘をさす、花を挿す)➝ 支える(心の支え)、 揃う  ➝  そろえる( 一揃え )、 取る  ➝ 捉える、 捕らえる

   かまう ( 構わない、お構いなく) ➝ 構える、  盛(さか)る ( 燃え盛る、咲く花の匂うが如く いま盛りなり ) ➝ 栄える 

 上記の「押し」「聞き」「引き」「添い」「付き」「向き」「凝り」「差し」「揃い」「取り」「構い」「盛り」などは名詞形であり、「見(み)」「見え」「抑え」「控え」「支え」「構え」「迎え」などは名詞語幹である。このように日本語動詞には一定の法則性がある。これらは国文法では連用形であり、それが名詞化したものである。こんな国文法の「きまり」を日本人の一体何人が憶えているだろうか。この国文法教科書を執筆した大学の国語学の先生は、日本の中・高生がきちんと国文法を理解し、母語である日本語に愛情を持っていると本当に思っているのだろうか・・。まず、すべての日本人は無視し、無関心であろう。これが現実である。

 <追記>

 中学国文法教科書が意図的に「日本語」との言葉を使わないのは、「日本語」は外国人日本語学習者のための用語であるからである。日本語は日本人にとっても第二言語,外国語であるからにほかならない(勿論、第一言語は国語)。こんな例は世界にない。これではいけないと思っている国語学者もいるとは思うが。しかし、国文法はイスラム教のコーラン同様、一字一句変えてはいけないものであり、最早、学問というより宗教となっている。国語・国文法教と言えるが、一般日本人には唯の一人の信者もいない。

 

 

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