小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

昔は夫婦別姓だったのか? 再論 -学者の無知と誤解 ー

2009年12月18日 | Weblog

「昔は夫婦別姓だった」というのが日本史の通説となっている。NHKの番組でそれを話した日本史学者、今谷明だけの説かと思っていたが、日本人の姓に関する本を調べてみると、なんとそれが定説のように書かれていた。まさに驚天動地、一体全体、どうしてこのような誤った説が定着しているのか。そうして、その根拠は判で押したように北条政子と日野富子があげられている。前回、私が述べたように、なぜ「細川ガラシャ」の名称が権威ある日本史の本で使われているのか。「明智ガラシャ」が正しいはずである。
 また、大石内蔵助の妻は「大石りく」と呼ばれている。「りく」の故郷、兵庫県豊岡市の観光案内には、「大石りく」と出ている。なぜ、日本史学者は、それは間違いで「石束りく」と訂正させないのか。(「りく」は内蔵助と離縁後、幼い子供を連れて実家の但馬豊岡藩家老・石束家に戻っている)。なぜ、このような相反する事例が存在するのか。その原因を再考してみる。

(1)夫婦別姓の定義が曖昧
 我々は普通、「夫婦別姓」と聞くと、中国や朝鮮のそれを思い浮かべる。中華民国総統、蒋介石の妻の名前は宋美齢である。彼女の親が「美齢」と名付けた瞬間から死ぬまで「宋美齢」である。けっして「蒋美齢」とは名乗らない。これが正式の夫婦別姓である。 では、日本史の通説のように、昔は日本も夫婦別姓だったと言うなら、秀吉の正室・北政所は生涯「浅野ねね」とか「杉原ねね」を名乗っていたのだろうか。(北政所の生家は杉原氏であるが浅野家の養女となった)。同じく、側室淀殿は生涯「浅井茶々」を称していたのだろうか。(両親は浅井長政とお市の方)。無論、そのような文献史料はない。
 
 北条政子と日野富子も同様、そのように書かれた史料はない。単なる歴史用語である。ただ、北条政子の場合は「平 政子」と署名した願文があるらしい。だが、「政子」の実家の姓は「北条」であり「平」ではない。伊豆・北条氏の遠祖が平氏であることから、姓の代わりに使ったにすぎない。ただ「政子」だけでは誰のことか分からないので・・。
 
 日本では通例、女性はその実家の姓で呼ばれてきたのである。例えば、三条夫人(武田信玄の正室、京三条家から来た)、大井夫人(武田信虎の正室、信玄の母、国人大井氏出身)、京極殿(秀吉の側室、北近江守護京極家の出)。また、系図にも「母〇〇氏」などのように実家の姓が書かれている場合がある。稀な例であるが、江戸時代の夫婦墓には、妻の実家の姓と名を刻んだものもある。また、同じく婦人の墓の側面に俗名として、実家の姓と名が刻まれた例が報告されている。(正面は戒名)
 上記のことから、昔は夫婦別姓だったとの誤解が生まれたのであろう。しかし、これらは中国の「宋美齢」とは根本的に違う。夫婦同姓でない以上、本人の意思で、実家の姓を表記する事例が少なからず散見されるに留めるべきである。

(2)夫婦同姓の由来
 現代日本の夫婦同姓はいつから始まったのか。意外と新しく明治31年施行の民法からである。調べてみると、この制度が決まるまで紆余曲折があったことが研究者によって明らかにされている。
 明治8年2月、明治新政府は「平民苗字必称令」を布告した。つまり、すべての日本国民は苗字(姓)を称すること、との布告である。しかるに、その3ヵ月後には石川県から、「婦人はその生家(実家)の姓を称するべきか、それとも夫の姓を称するべきか」の伺いが内務省に出されている。当時の日本国内で、姓をどちらにすべきか相当の混乱があったようである。これに対する太政官の回答はなんと、婦女は結婚してもなお元の実家の姓を称すべきとのものだった。この回答が後世の研究者を誤解させる根本原因となったと思われる。
 
 つまり、日本は夫婦別姓だったから、従来どおりにしなさいという意味に解釈したのである。それは違う。その証拠に明治30年頃まで全国各地から、「嫁家ノ氏ヲ称スルハ地方ノ一般ノ慣行」(宮城県の伺い)、つまり、宮城県では一般的に妻は夫の姓を名乗ると言っているのである。また、お膝元の東京府からも、「嫁した婦人が生家の氏(姓)を称するのは極めて少数」とまで言っているのである。つまり、明治初期には日本は夫婦同姓であったのである。

 
 このことは何を意味しているのか。武家の婦人はその出自を表すため、実家の姓で呼ばれてきたし、そのように書かれた史料も多く存在する。大多数の農民はどうか、一般的に農民には苗字(姓)がなかったとされているが、それは常識の嘘で、戦国時代は地侍として姓はあったし、そのまま江戸時代は庄屋や中小の自作農として姓は持っていた。ただ、幕府の政策として公称することが禁じられていたにすぎない。今に残る江戸時代の村の神社・寺院の寄進帳には、ほぼ全員、堂々と「姓・名」で署名・寄進している。現在の学校の歴史教育はそのことを教えていない。私自身、武士と苗字帯刀を許された一部の者だけが姓を持っていたと誤解していた。
 
 これら農民階級も婦人の姓に対しては武士と同様の意識を持っていたと思われる。つまり、日本では夫婦同姓ではないし、といって中国式の夫婦別姓でもなかった。つまり、女性は基本的に姓を名乗ることがなく、きわめて曖昧な状態であったというのがことの真相であろう。
 そのため、明治新政府が全国民に姓を持つように布告したとき、子供は父親の姓をそのまま使えるが、すでに夫婦である者とか、その後、他家に嫁したとき姓をどうするかについて社会的混乱が起きたのであろう。では、明治新政府はどのような決定をしたのか・・。

(3)夫婦同姓の決定
 明治31年、公布された民法で妻は夫の氏(姓)を称することが決められた。この明治民法は家を中心に考えられ、すべての家族はその家の苗字(姓)を名乗ることが法的に義務化されたのである。いわゆる、家制度の確立である。
この決定まで紆余曲折があったことが分かっている。なぜか、それは明治新政府が当初、武家の慣習を踏襲して、妻は実家の姓で呼ばれてきた事実のみを念頭に置いて、妻は実家の姓を名乗るように通達を出したことによる。
 
 しかし、日本の女性は中国のように「姓・名」で自身を名乗ることはほとんど無かったゆえ、「浅井茶々」も「石束りく」も、無論「北条政子」もそのような人格は存在しなかった。あるのは「伊豆北条家の女、政子」であり、「大石家の奥方、りく」であったのである。つまり「女、三界に家(姓)なし」であった。そこに、明治政府に対する反発が起きた理由がある。(苗字とか姓とは家名でもあったのである。)
 
 お上から、苗字(姓)を新たに名乗るようにと指示が出されたとき、ほとんどの日本の女性は夫の姓を名乗ることに何の抵抗もなかったであろう。むしろそれはごく当たり前のことだと思ったであろう。だからこそ混乱が起きたと考えられる。私は明治31年の民法は決して欧米を真似た結果だとは思わない。むしろ自然の成り行きであったと考えている。
 大石内蔵助の妻「りく」も、もし幕府から武家の女性も「姓・名」を名乗れと指示されたら、迷わず「大石りく」と名乗ったであろう。自分は「石束りく」などと称したことは唯の一度も無かったのであるから・・・。

 <追記>
 日本では昔は夫婦別姓であったとの通説は完全な誤りとは言えないまでも、一般大衆に大きな誤解を与えるものである。夫婦同姓の対極に夫婦別姓(中国式の)があるのではないという基本的な認識が日本史学者に欠けているとしか思えない。
 たしかに、実家の姓を表記した資料は存在する。それは例外的なもので、基本的に女性が苗字(姓)を名乗ることはほとんどなかった。苗字は家に付くものであり、女性はその家の娘であり嫁であった。「女、三界に家なし」とはまさに言い得て妙である。昔の人は真実をついていた。今に残る江戸時代の系図には、女性は名前さえ書かれず、「女」とのみあることは誰でも知っている事実である。
 

  ただ、日本の女性が婚家の一員であるとの意識を強く持っていたのも紛れもない事実である。戦国時代にも夫に殉ずる悲劇の女性は数多い(武田勝頼の妻など、このような例は中国や朝鮮にはまず見かけない)。また、農民や商家の妻も、夫に先立たれたとき、その家業を一人で切り盛りして家を守る男勝りの女性は江戸時代にはいくらでもいた。実家より婚家こそ自分の居場所であったのである。
 

 幕末の篤姫や和宮などのエリート女性も徳川家の人との意識は強かった。和宮(静寛院宮)にいたっては、徳川慶喜の助命嘆願の手紙を京の朝廷に送ったとき、「徳川家を朝敵として討つなら、自分も徳川と共に滅ぶ覚悟」とまで書いている。これには京の新政府もまいったようである。江戸無血開城の真の功労者は勝海舟ではなく和宮であったのが歴史の真実であろう。
 このように日本女性が婚家の一員であるとの意識を強く持っていたことが、明治新政府の初期の方針に反発し、夫婦同姓を認めさせた要因であろう。しかし、現代ではこの意識も過去の遺物になってしまった。

コメント (2)
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