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日本史驚天動地の新事実を発表

日本語の諸問題(18) 国文法と日本語文法  その1.

2011年01月20日 | Weblog

 よく言われていることであるが、日本語には義務教育で学ぶ国文法と外国人の日本語学習者に教える日本語文法の二通りの文法体系がある。私はかねがね不思議に思っていたが、義務教育の国文法教科書は文科省検定の教科書であり、日本政府公認の日本語文法であるはずなのに、外国人には違った文法が公然と教えられている。国文法が正式の日本語文法である以上、日本国文部科学省はなぜこのような間違った、つまり、偽りの日本語教育を野放しにしているのか理解に苦しむ。外国にはこのような例があるのだろうか・・。
 これまで私が述べてきたように、国文法は言語の文法とは言いがたいシロモノである。日本の中高生でも理解できない文法が外国人に分かるはずがない。しかし、外国人のための日本語文法といえども国文法の呪縛から完全に脱却できていない。そのことを明らかにしてゆく。
 
 -日本語文法の形容詞ー
 国文法では形容詞も形容動詞も動詞と同じよう活用(語尾変化)するとされている。形容詞の語尾が変化すると言えば、日本語はドイツ語やロシア語のように名詞に男性、中性、女性などの区別があるのか、日本語は印欧語の一種かとの誤解を招きかねない。では、外国人用の日本語文法ではどうなっているのか。さすがに、形容動詞との項目はない。形容詞のみで、国文法の形容動詞は「な形容詞」と称されている。つまり、日本語形容詞には「い形容詞」と「な形容詞」の2種類がある。

 1.い形容詞は国文法と同じく「高い」「広い」「大きい」など
 2.な形容詞は国文法の形容動詞で「静かな」「穏やかな」「明らかな」など

 ところが、「高く」「広く」「静かに」「明らかに」は形容詞の副詞的用法と説明されている。つまり、日本語形容詞はやはり活用するのである。まさに国文法の呪縛である。
 そうして、「高かった」とか「静かだ」、「高ければ」とか「静かならば」と様々な活用を暗誦させるようになっている。形容動詞を排除していることは一歩前進と言えないこともないが、これでも外国人には難解である。私の考えは次のとおり。

 -語幹の重要性ー
 1.の「い形容詞」には語幹がある。「たか(高)」「ふか(深)」「あか(赤)」「うつくし(美し)」「などがそれである。この語幹には二つの型がある。
 
 第一型は語幹そのものは名詞として独立した意味を持たない。
 例えば、「やま」「かわ」と聞くと、普通「山」「川」を連想する。しかし、「たか」「ふか」と聞くと鳥類の「タカ」かも知れないし、魚類の「フカ」かとも思う。漢字で書けば一目瞭然であるが、これは日本に漢字が流入して以後の話である。
 この語幹に様々な接尾語を付けて単語、熟語、文を作っていく。このような言語を膠着語と言いアルタイ諸言語に特有のものである。日本語はその法則性はきちんと守られている。
つまり、語幹「高(たか)」から「高い(形容詞)」「高く(副詞)」、その他「高さ」「高め」「高御座」などの名詞、「高まる」「高める」などの動詞をつくる。さらに「高見の見物」とか「高止まり」などのように動詞の名詞形(連用形)「み(見)」や「止まり」とも結びつき熟語をつくる。

 第二型は語幹そのものが独立した意味を持っており、名詞としての機能もある。
 例えば、「赤の広場」の「赤」は名詞である。この「赤(あか)」から「赤い」「赤く」「赤み」「赤らむ」など、「黒」から「黒目」「黒ずむ」「白」から「白ける」などのように様々な単語が作られる。問題は「美しい」や「明るい」である。
 この「美しい」の語幹「うつくし」は文語から生まれたものであり、現代日本語では第一型と第二型の2種類に分化している。例として、「なつかしの名曲集」とか「うるわしのサブリナ」「なしの礫(つぶて)」などの場合は「なつかし」「うるわし」「なし」は独立した名詞機能を有しているが、「うつくし」は独立した名詞ではなく、「たか(高)」や「ひろ(広)」と同じ第一型である。「明るい」の語幹「あかる」も同様。つまり、形容詞語幹は名詞機能を持つものと、持たないものとに分けられる。これら語幹から「美しく」「美しさ」とか「明るく」「明るさ」などの単語が作られてゆく。口語では「たかをくくる」という言葉があり、この場合の「たか(高)」は名詞である。

 本来、言語というものは、理科系の諸現象とは違って必ず一定の法則があるわけではない。同じ形容詞でも「いとしのクレメンタイン」とは言えても「うつくしのクレメンタイン」と言うと何か変である。「いとしい」「美しい」は共に形容詞であるのに、また「少し」という言葉は「古語辞典」でも「国語辞典」でも副詞とされているが、「少しの辛抱」となると明らかに名詞扱いである。このように言語は本来、柔軟性を持っているものなのである。


 ところが、外国人用日本語文法でも「い形容詞」は活用(語尾変化)すると教えられている。この国文法の用法がすべての混迷の根本である。形容詞「若い」は活用などしない。何度も言うが、語幹「わか」に様々な接尾語が付くだけである。
 
 「私は若い」は英語で  I am young.  だが、過去の「私は若かった」は I was young. であり  be  動詞が変化する。膠着語である日本語は語幹「わか」に英語の  be  動詞に当たる助動詞「かる」を付けて活用させる。この「かる」は文語形容詞の活用語尾とされており、独立した助動詞とはされていない。そこから「かろ(かっ)、く、い、い、けれ」との形容詞活用表なる奇妙なものが日本の生徒に強制されている。「かる」は「そういう状態にある」との意味の助動詞と見るべきである。「かる」は「から、かり、かれ」と活用する。

 日本語助動詞とは、それだけで独立した意味を持たないが、動詞や形容詞語幹に付き様々な文を作っていく。文字通り動詞を補助する役割を有するものであり、原則的に動詞と同じ法則で活用する(活用しない助動詞もあるが)。動詞、助動詞の活用は「読ま、読み、読め」「たら、たり、たれ」などの3種類しかない。
 文語表現として「良かれと思って」とか「遅かれ早かれ」という言葉は今でも日常使われている。「良(よ)」「遅(おそ)」「早(はや)」は形容詞語幹である。この「良かれ」「遅かれ」の「かれ」を日本語教師はどう説明するのだろうか。(「良かれ」の語源は「良く-あれ」からきたとされているが、「かる」は助動詞化している)

 ー「安かろう」は文 sentence  ー
 形容詞未然形とされている「安かろう」は「安・から・う」から、過去形の「安かった」は「安・かり・た」から、仮定形の「安ければ」は「安・かれ・ば」から音変化して出来たと考えられる。このように、助動詞「かる」は動詞(例、刈る)と同じように「から、かり、かれ」と活用する。(動詞の基本形はもともと連体形であり、文を終止させることもできることはすでに同ブログで述べたとおり)。文語表現として「若かりし頃」などがある。
 この「かる」を国文法のように文語形容詞の活用語尾とするか、独立した助動詞と見るかによって、日本語学習者(日本人も含めて)の理解に大きな違いが生じると思う。
 
 2.の「な形容詞」(国文法の形容動詞)も語幹がある。「静かな」「穏やかな」「明らかな」から「な」を取ったものである。「静か」も「明らか」も名詞として独立した意味を持っているので、第二型に属する。これに形容詞形成の接尾語「な」が付き「静かな」、副詞形成の接尾語「に」がつくと「静かに」となると教えるとスンナリ理解できる。語幹が名詞機能がある以上、「静かです」とか「明らかだ」のように様々な助動詞が付いて文を作っていくのは当然のことであり、形容動詞という用語(形容詞意味を持った動詞、つまり国文法では動詞扱い)は意味不明である。(「な」は文語助動詞「なる」からきた)。

 ただし例外もある。すでに時枝誠記は私と同じく形容動詞不要論に立っているが、形容詞「大きい」はともかく、「大きな」の扱いに困ったのか、これを「この」「その」などと同じ連体修飾語としている。「大き」が「静か」のように独立した名詞ではないからである。(「大き・だ」とは言えないので)
 

 しかし、これはおかしい。もともと古語では「おほき」は「大」と「多」の両方の意味があったが、中世期に「おほき」は「多き」のみに使われるようになり、現代語の「多い」となった。その代役として「大きな」「大きい」の形容詞が生まれたのであり、第一型の語幹(独立した名詞ではない)とすればよいことである。つまり、語幹「大き」に接尾語「い」「な」を取るようになったにすぎない。

 古語では「古き」「良き」は形容詞の連体形であり、名詞を修飾する。(例、古き良き時代)。ところが、「古きを訪ね、新しきを知る」とか「水、低きに流れる」などの言葉があるように、この場合、連体形の「高き」「低き」に名詞機能を持たせている。これは、「古き(こと)」「低き(所)」との意味を含めていると考えられる。文法機能としては連体形「古き」は助詞に接続することが出来るのである。
 この「大きな」の「大き」も「たか(高)」や「ひろ(広)」と同様、形容詞語幹と見ても何の不思議もない。(例、「大きさ」は「広さ」「高さ」と同じ用法である)。その他、「小さい」と「小さな」も同じく「小さ」は独立した名詞ではないが、形容詞語幹である。

 ー「静かな」の「な」は助動詞から生まれた助詞ー
 もし日本語学習者(日本人も含めて)から次のような質問があったら、国語教師や日本語講師はどう答えるのだろうか。

「平和な国」と「静かな朝」の「な」は同じか違うのか、また「戦争になる」と「平和になる」の「に」は同じか違うのか。また「静かになる」の「に」との関係は・・。
 
 上記の質問がすべてを語っている。国文法の法則を当てはめれば、「戦争になる」の「に」は助詞、一方、「平和な」は形容動詞の連体形、「平和に」はその連用形になってしまう。日本語文法でも「平和に」は「な形容詞」の副詞的用法になりかねない。つまり、「静か」という名詞語幹を設定すれば、この「な」も「に」もすべて同じもの、つまり接尾語(助詞)であり、単純に名詞に付くだけである。日本に漢字が定着した後、「静かな」「静かに」と同じ法則が適用され「平和な国」「平和になる」と言っているだけである。「に」は「な形容詞」の副詞化などとせずに、単純に助詞とするべきである。ただし、「な」は文語助動詞「なる」の「る」が消失したものであり、「ある状態にある、・・である」の意味を含んでいることを日本語学習者に認識させる必要がある。(例、遥かなる宇宙、 静かなるドン) 

 現代日本語には古語に由来する多くの文語表現がある。(例、古き良き時代) 日常、よく使う「君ならどうする」の「なら」は文語「ならば・・」からきている。(文語では「海行かば」と未然形で仮定をつくる) 
 日本語は一見無原則のように思えるが、やはり一定の法則はある。人間の話す言語は本来単純に出来ているものである。日本語とてしかり。今こそ国文法の呪縛から解き放されなければならない。

 <追記>
 日本語は不幸な言語である。学校で日本政府公認の日本語文法(国文法)を学ぶのに、ほとんどの生徒はまったくと言っていいほど理解できない。私もそうだった。形容動詞など、一体全体何のことか分からなかった。多分、それを教える教師とて同じことであろう。ただ渡された教科書にそう書いてあるから生徒にそう言っているだけと思う。自国の子供たちがまったく理解できない母国語文法を学校で教える国が他にあるだろうか・・。

 今、普通の日本人に国文法のことを聞いても、国語教師以外はだれも明確には答えられない。自分の生まれ育った母国語であるのに、その文法のことはまったく分からない。一方、外国語である英語の文法はかなり覚えている人も多いのではないか。
 日本語に文法がないからではない。だれでも理解できるようなやさしい文法体系が構築されてないからである。国文法は国語学者の秘伝の文法書と言っても過言でない。私はこれを中学生でも分かるように説明したいと思っている。次に動詞を書く。
  

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