小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

長屋門の起源

2012年10月13日 | Weblog

 長屋門とは近世(江戸時代)に上級武家や農村の庄屋屋敷に特徴的に見られる門の形式で、門に小部屋が附設されたものである。( 写真1.徳島県に残る庄屋屋敷の長屋門 )。「歴史事典」にはその起源についてはよく分からないとあるが、その起源は明らかである。それは朝鮮にある。

 ー従来の日本の門ー 

 古代に中国式の建築様式が伝来した後、戦国時代末まで日本の門の形式は基本的に変わっていない。鎌倉時代の 『蒙古襲来絵詞』 には、主人公の竹崎季長が幕府の実力者、御恩奉行の安達泰盛の屋敷に直訴に行く場面が描かれているが、安達邸の門はごく普通の門で、警護の武士たちは門前にむしろを敷いて座っている。 同じ鎌倉時代の 『一遍上人絵伝』 にも筑前の武士の館が出てくるが、普通の門の上に矢を射掛けるための高楼を設けている。この形式の門を歴史用語で 「櫓 (やぐら) 門 」 という 。 時代が下って戦国時代の京の風景を描いた 『洛中洛外図屏風』 には多くの貴族や武士の館が描かれているが、これらもすべて普通の門である、(日本のお寺の山門と同じ)。

 ー韓国・慶尚北道 安東市河回村ー

 この村は李氏朝鮮王朝(1392年)以来、600年の歴史を持ち、王朝時代のたたずまいがそのまま残っている。先の朝鮮戦争でも奇跡的に破壊から免れ、現在、韓国政府の肝入りで保護され、世界歴史遺産として国内外から多くの観光客が訪れている。 さすがに、六百年も前の建物はないが、その伝統的建築様式は受け継がれているとのこと。 この朝鮮の伝統的建物の門の多くに小部屋が附設されている。( 写真2. 韓国・安東市 河回村の屋敷の門 )

 ー文禄・慶長の役ー

 豊臣秀吉の朝鮮出兵で多くの日本の武将たちが渡海した。 当然、朝鮮で両班(ヤンバン)とよばれる貴族、地主の屋敷を接収して宿舎としたであろう。 そこで、日本の武将たちは屋敷門の形式が日本と違っていることを知った。 門に小部屋が附属している。これは便利だと思った各武将たちは、日本に戻ったあと、その朝鮮の屋敷門の形式を取り入れた。 これなら、深夜に来客があっても門をたたけば、その横の小部屋にいる足軽や中間が応対できる。 江戸時代に入り、この長屋門形式は日本の上級武家や庄屋階級の屋敷の門として定着した。(もともと庄屋階級は戦国時代には地侍で武士でもあり、勿論、姓もあった)。

 ただ、日本の長屋門は巨大化している。 幕末、明治の古写真でよく見かけるように、藩邸などの門は、両側にまっすぐ角まで大きな長屋が続いている。 朝鮮の場合は小さい ( 写真3 河回村に残る両側に広がった門 )。 大陸から伝わったもの、寺院や仏像でも何でも巨大化させる日本人の思想がここにも出ている。「歴史事典」は長屋門の起源について書き改める必要があるのではないか。

 

 

 

 

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