小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

日本語の諸問題(3) NHKのデタラメ語源論 

2007年09月21日 | その他

 NHKには日本語の語源についての番組がある。しかし、語源がハッキリしている歴史的、文化的用語以外の言語学的語源の説はそのほとんどがデタラメである。

  その1.「ハメを外す」
「ハメを外す」の語源について、著名な国語学者が次ぎのように述べていた。 「ハメ」とは馬に噛ませる「ハミ」のことで、これを外すと馬が暴れることから生まれたと・・。 とんでもない、馬から「轡(くつわ)」や「ハミ」を外すと逆におとなしくなる。馬が暴れるのはサカリ(盛り)がついた時か、突然何かに驚いたときである。また、「ハメ」と「ハミ」は母音が違う。馬に噛ませる「ハミ」とは、古語の動詞「はむ(かじる、噛む)の名詞形(連用形)である。万葉集にも「瓜はめば子ども思ほゆ・・・」と山上憶良の有名な歌がある。現代語でも鳥が餌を「ついばむ(つき・はむ)」とか「黄ばむ」(名詞形は「黄ばみ」)として複合語で使われている。

 では、「ハメを外す」の「ハメ」とはなにか。これは寺院の回廊にある「はめ板」の「ハメ」である。「はめる」という動詞は「はめ込む」のように物を動かないように固定することであり、「はめ」はその語幹(国文法の連用形)に当たる。つまり、「ハメを外す」とは「タガがゆるむ」と同じ発想から生まれた言葉である。私のこの説はごく常識的な考えなので、すでにどこかで先人が発表しているとは思うが・・。なお、「はまる」はその自動詞形であり、「当てる」と「当たる」の関係と同じ。
 
 
 その2. 「とどのつまり」
 同じ番組で「とどのつまり」の語源について著名な国語学者が回答していた。 「とど」とは魚のイナ、ボラ、トド(出世魚)の「トド」から来たと。これは「国語辞典」の「とど」の項目に例文として「とどのつまり」が出ており、「語源辞典」にもそう書いてある。「とど」とは古語の「とどむ(止む)」の語幹「とど」から生まれたものに相違ない。現代語では「届く」「届ける」「とどまる」「とどめる」「とどめ」のように使われている。魚の「トド」も元々「とどめ(終了)」から生まれた言葉であろうから無関係ではないが、語源としては古語動詞「とどむ」、現代語「とどく」「とどめる」「とどまる」の語幹「とど」から出来た言葉と言うのが正しいであろう。なお、古文の「おとど(大臣)」の「とど」も同じ語源であろう。臣下の最終官位であるので・・。

 その3. 「盆(ぼん)ぼり」の語源
 以前、NHKで「面白ゼミナール」というクイズ番組があった。そこで、「盆ぼり」の語源は「ほんのり」からきたというのが正解であった。これもとんでもない俗説である。たしかに、『広辞苑』にはそのように取られかねない記述があるが、果して、そうであろうか。
「ほんのり」は元々「ほのを(炎)」、「ほむら(火群ら)」、「ほてる(火照る)」などの例のように「ほ(火)」から出た言葉である。古事記にも「火明命」を「ほあかりのみこと」と読ませている。(古代語では「ほ」は 「Fo」の音)。これから、「ほのぼの」とか「ほのかに」と同じように「ほんのり」という言葉も生まれたと考えるのが妥当であろう。言語学でいう  word family (単語家族)である。「ほんのり」とは、ほのかに明かりが灯るさまである。太陽の光が「ほんのり差す」とは言わないように。「火」から生まれた言葉だからである。
 
 では、「盆ぼり」の語源は。これは漢字「盆」そのものにある。「盆」とは「お盆」とか「盆栽」の例にあるように、底が小さく上に広がった鉢状の器のことであり、「盆ぼり」とは鉢状に和紙を張り付けた器にローソクや油の皿を置いて棒で立てる照明器具、江戸時代の行燈(あんどん)、今日の電気スタンドのことである。『広辞苑』にもその絵が出ている。
 この「盆」だけでは鉢と区別できないので、「盆々(ぼんぼん)」と繰り返し、かつ、「ほんのり」のように擬態語的で、やわらかい大和言葉的表現として「盆ぼり」が生まれたのであろう。その後、拡大解釈されて紙で出来た照明器具は「盆ぼり」と呼ばれている。お花見や盆踊りには欠かせない小道具であることは皆様ご存知のとおり。
 

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坂本龍馬の妻「おりょうさん」 異聞  -終章ー

2007年09月01日 | 歴史

  龍馬の妻「おりょうさん」の墓は横須賀市の信楽寺にある(写真)。このお墓にまつわる物語でもってこの話の終章としたい。
 このお墓の建造者は鈴木清治郎という人物である。この墓ができた時(大正3年)当時の新聞などで報道された。その後、清冶郎は何度かマスコミ関係者から取材を受けている。この鈴木清冶郎へのインタビュー記事が、昭和15年1月15日号の「サンデー毎日」に掲載された。この記事を『歴史読本・特集号』(1989・5)が「日本史の目撃者」と題して引用している。この記事のなかで語る清治郎の話が一番信用できる(同氏の写真も出ている)。

 鈴木氏が語るには、おりょうの死の2年ほど前(明治37年ごろ)横須賀の町の露店で、おりょうの夫、西村松兵衛と知り合う。清治郎は大道易者であり、松兵衛も露天商を営んでいた。二人は親しくなり松兵衛の家に泊めてもらうほどになった。横須賀の裏長屋のその家に松兵衛の妻「おりょう」がいたのである(その時は西村ツルであった)。そのツル本人が「自分は坂本龍馬の妻、おりょうだ」と言ったのである。同氏の印象では酒好きの鉄火婆さんだったとのこと。今、信楽寺にある「おりょう」の晩年の写真は本人が死ぬ数年前にある雑誌社の取材を受けたときに撮影されたものである。
 

 その後、しばらくして坂本龍馬のことが新聞に載り(これは日露戦争のとき、龍馬の姿が皇后の夢枕に立ったとのことであろう)、清冶郎は松兵衛の家を訪ねたが、そこで「おりょう」が死んだことを知ったと語っている(明治39年)。しかし、夫、松兵衛は零落しており、お墓もないとのことなので、自分が「おりょう」のお墓を建ててやろうと思い立ち、龍馬ゆかりの元勲、香川敬三とか当時の横須賀鎮守府長官などからお金を集めて建てたのが、横須賀・信楽寺に残る「おりょうの墓」なのである。

 お墓の銘には 「 贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓 」とある。(阪は間違い)
 墓の土台部分の側面に4人の名前が刻まれており、西村松平(松兵衛)、鈴木漁龍(清次郎)、あと一人は不明、それと石工の名前である。

「龍子」は「たつこ」と読むべきだと考えている。新発見の写真から「おりょう」の本名は「たつ」であり、夫、龍馬が「おりょうさん」と愛称で呼び、その周辺の人は通称として「おりょう」と認識していた。「龍子」とは夫が正四位の官位を持っているので、当然、公家風に「龍子」とするのが当時のならいであった。(木戸孝允の妻は幾松という名の芸者だったが、明治以後は松子を名乗っている)。
「おりょうさん」は明治8年に西村松兵衛と「ツル」という名で再婚しているが、その人生はけっして幸せではなかったのである。
 

 <追記>

 秋篠宮の長男の名前は悠仁(ひさひと)と言う。秋篠宮が記者会見で「悠仁親王を家庭ではどう呼んでいますか」との質問に、同宮は「ゆう(悠)ちゃんと呼んでいます」と答えていた。父親が子供の名前を間違えるはずはないので、「悠仁(ひさひと)」は間違いで「悠(ゆう)」が正しいと主張する人はいないであろう。
 昔の女性の名前は文献資料が非常に少なくほとんど伝わっていない。初代土佐藩主山内一豊の妻の名「千代」も確実な文献史料では確認されていない。織田信長の正室・濃姫も「美濃の姫様」という通称名であろう(斎藤道三の娘)。同じく、源頼朝と妻、政子の娘「大姫」も通称であろう。本名は伝わっていない。
 北政所の「おね」も、龍馬の妻「おりょう」も、夫が妻を日常そう呼んでいたにすぎないというのが私の考えである。秋篠宮の例を出すまでもなく、親しい人を愛称や通称で呼ぶという人間の心は古今東西、民族と時代を超えて変わらないものである。

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