「まなぶ」の「なぶ」の語源についての質問があったので、回答として再論する。すでに述べたように400年前の宣教師ロドリゲスは日本語動詞が「読み」とか「書き」のように、国文法でいう連用形(名詞形)がよく使われていることに気付いたようである。つまり、「読み・たり」「読み・き」「読み・たまう」。そこでこの「読み」を語根と見なしていた。そうして、否定形は「読ま・ず」、完了形は「読め・り」のように日本語動詞(私の文法理論での第一型動詞)は語尾が -a -i -e の三種類に変化すると認識していたようである(当時の発音は今とは少し違うが)。私の日本語文法理論とほぼ同じである。
ー日本語動詞の根幹をなすのは名詞形ー
ところが、いまだ国文法の呪縛の解けてない人は「読み」「書き」「取り」などは連用形であるとの思い込みがある。ある外国人向けの日本語教科書にも、例えば、過去形の説明として 「読む」 →「読んだ」「書く」→「書いた」「取る」→「取った」のようになると書かれているが、過去形を作る「た」が付くとなぜこのようになるのかとの説明はない。つまり、深く考えずにただただ暗記しなさいということか。これらはすべて、「読み・た」「書き・た」「取り・た」から来たものであり、この「読み」「書き」「取り」はすべて名詞形と説明すれば外国人もすんなり理解できるはずである。しかし、この教科書を書いた日本人にとっては、これらは動詞の連用形であり、連用形をどう説明していいのか分からないので何も書かなかったのであろう。つまるところ、動詞の「連用形」なる言葉は我々日本人でさえよく分かっていないのである。
また、私の文法理論第二型動詞の場合は過去形は 「見・た」「捨て・た」「上げ・た」となるので、この「見(み)」「捨て」「上げ」がすべて語幹である(国文法では連用形)。ロドリゲスはこれらを「語根」と設定していた。このように外国人日本語学習者に説明すれば何の問題もないと思うが、この日本語教科書には何の説明もない。ただただ憶えなさいと言うだけである。
-「まなび」の「なび」は「なみ(並)」ー
現代日本語で普通に使われる「並木道」とか「人並みの生活」の「並み」は『古事記』や『万葉集』にすでに用例がある。 古語に 「な(並)む」「な(並)ぶ」という言葉がある。この場合「む」と「ぶ」は本来同じもので、清音と濁音との違いにすぎない。現代日本語では「並(なら)ぶ」「並べる」「連なる」「続く」の意味である。 「古事記歌謡」に「日々なべて」とあり、原文は万葉仮名で「那倍(なべ)」と表記している(古事記歌謡26)。この「なべ」は文語文法でいう「なぶ」の「已然形」である。 意味は「日々を送り」「日々が過ぎ」のこと。今は死語化したが「夜なべ仕事」も同じ。また、「並(なら)ぶ」もすでに「万葉集」に出ており、万葉仮名で「布多利那良比為」(二人並びゐ)とある(万・794)。
結論として、「まなぶ」の「ま」は「まこと(誠)」「まなつ(夏)」「真っ盛り」の「ま」であり、「なび」とは古語「なむ(並)」の名詞形「なみ(並)」と同じである。真実、最高の意味の接頭語「ま」が付いて「ま・なび」が出来たと考えられる。「なみ」が「ま・なび」 mi → bi と濁音化しているのは、日本語の音声構造上よく起こる現象である。「寒い」が口語で「さぶい」と濁音化するように、日本語では清音と濁音の境界が曖昧である。この音声現象はウズベク語や朝鮮語にもある。つまり、「学ぶ」も「真似ぶ」も明治時代に国語学者によって決められた基本形であり(元々は終止形を兼ねた連体形)。昔の人は無意識的に「学びたり」とか「学舎(まなびや)」と使っていたのである。
<追記>
「学ぶ」の名詞形は「ま・なび」であり(例、学び舎)。「ま・なみ(並)」が濁音化して「ま・なび」となったものであろう。 真剣に師の水準に並ぶことを願うことから生まれた言葉であるというのが私の解釈である。この「なび」を動詞の連用形と思い込まされている限り、外国人日本語学習者に日本語文法を教えることは不可能であろう(日本語教師自身が「連用形」の意味が分からないのであるから)。「日本語に文法はない」とか「日本語に文法はいらない」などの発言が出てくるのも至極当然のことである。「学ぶ」とは師を「まね(真似)ぶ」ことから生まれた言葉ではない。師を真似る意味の言葉は「習う」「倣う」(ならう)としてちゃんと日本語には存在している。