小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

日本語の諸問題 (37) 「学ぶ」と「まね(真似)ぶ」の問題  ー再々論ー

2015年12月11日 | Weblog

「まなぶ」の「なぶ」の語源についての質問があったので、回答として再論する。すでに述べたように400年前の宣教師ロドリゲスは日本語動詞が「読み」とか「書き」のように、国文法でいう連用形(名詞形)がよく使われていることに気付いたようである。つまり、「読み・たり」「読み・き」「読み・たまう」。そこでこの「読み」を語根と見なしていた。そうして、否定形は「読ま・ず」、完了形は「読め・り」のように日本語動詞(私の文法理論での第一型動詞)は語尾が   -a   -i   -e   の三種類に変化すると認識していたようである(当時の発音は今とは少し違うが)。私の日本語文法理論とほぼ同じである。

 ー日本語動詞の根幹をなすのは名詞形ー

 ところが、いまだ国文法の呪縛の解けてない人は「読み」「書き」「取り」などは連用形であるとの思い込みがある。ある外国人向けの日本語教科書にも、例えば、過去形の説明として 「読む」 →「読んだ」「書く」→「書いた」「取る」→「取った」のようになると書かれているが、過去形を作る「た」が付くとなぜこのようになるのかとの説明はない。つまり、深く考えずにただただ暗記しなさいということか。これらはすべて、「読み・た」「書き・た」「取り・た」から来たものであり、この「読み」「書き」「取り」はすべて名詞形と説明すれば外国人もすんなり理解できるはずである。しかし、この教科書を書いた日本人にとっては、これらは動詞の連用形であり、連用形をどう説明していいのか分からないので何も書かなかったのであろう。つまるところ、動詞の「連用形」なる言葉は我々日本人でさえよく分かっていないのである。

 また、私の文法理論第二型動詞の場合は過去形は 「見・た」「捨て・た」「上げ・た」となるので、この「見(み)」「捨て」「上げ」がすべて語幹である(国文法では連用形)。ロドリゲスはこれらを「語根」と設定していた。このように外国人日本語学習者に説明すれば何の問題もないと思うが、この日本語教科書には何の説明もない。ただただ憶えなさいと言うだけである。

 -「まなび」の「なび」は「なみ(並)」ー

 現代日本語で普通に使われる「並木道」とか「人並みの生活」の「並み」は『古事記』や『万葉集』にすでに用例がある。 古語に 「な(並)む」「な(並)ぶ」という言葉がある。この場合「む」と「ぶ」は本来同じもので、清音と濁音との違いにすぎない。現代日本語では「並(なら)ぶ」「並べる」「連なる」「続く」の意味である。 「古事記歌謡」に「日々なべて」とあり、原文は万葉仮名で「那倍(なべ)」と表記している(古事記歌謡26)。この「なべ」は文語文法でいう「なぶ」の「已然形」である。 意味は「日々を送り」「日々が過ぎ」のこと。今は死語化したが「夜なべ仕事」も同じ。また、「並(なら)ぶ」もすでに「万葉集」に出ており、万葉仮名で「布多利那良比為」(二人並びゐ)とある(万・794)。

 結論として、「まなぶ」の「ま」は「まこと(誠)」「まなつ(夏)」「真っ盛り」の「ま」であり、「なび」とは古語「なむ(並)」の名詞形「なみ(並)」と同じである。真実、最高の意味の接頭語「ま」が付いて「ま・なび」が出来たと考えられる。「なみ」が「ま・なび」 mi  →  bi  と濁音化しているのは、日本語の音声構造上よく起こる現象である。「寒い」が口語で「さぶい」と濁音化するように、日本語では清音と濁音の境界が曖昧である。この音声現象はウズベク語や朝鮮語にもある。つまり、「学ぶ」も「真似ぶ」も明治時代に国語学者によって決められた基本形であり(元々は終止形を兼ねた連体形)。昔の人は無意識的に「学びたり」とか「学舎(まなびや)」と使っていたのである。

 <追記>

「学ぶ」の名詞形は「ま・なび」であり(例、学び舎)。「ま・なみ(並)」が濁音化して「ま・なび」となったものであろう。 真剣に師の水準に並ぶことを願うことから生まれた言葉であるというのが私の解釈である。この「なび」を動詞の連用形と思い込まされている限り、外国人日本語学習者に日本語文法を教えることは不可能であろう(日本語教師自身が「連用形」の意味が分からないのであるから)。「日本語に文法はない」とか「日本語に文法はいらない」などの発言が出てくるのも至極当然のことである。「学ぶ」とは師を「まね(真似)ぶ」ことから生まれた言葉ではない。師を真似る意味の言葉は「習う」「倣う」(ならう)としてちゃんと日本語には存在している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本語の諸問題 (36) 文語形容詞語尾「し」について

2015年12月03日 | Weblog

「古い」「高い」「深い」などの形容詞語尾「い」は古語の「古き」「高き」「深き」の「き ki 」の  k 音が消失したものである、(例、古き良き時代)。文語形容詞の活用表では「古き」は連体形、言い切る形の「古し」は終止形となっている。この「し」についての説明はいっさいない。以前、書いたように、この「し」には意味がある。それは「たる」や「なる」と同じで「そういう状態にある」との意味の助動詞であり、英語の  be  動詞に当たるものである。

 私の文法理論では、形容詞語幹に様々な接尾語が付いて単語が作られてゆくことはすでに述べた。この場合、「高い」、「広く」の「い」や「く」に意味はない。ただ単に形容詞や副詞を形成する接尾語にすぎない。「安かろう」は「やす・から・う」が音変化したもの、「安かった」は「やす・かり・た」が音便化して「安かった」となったものである。動詞の「取る」「走る」が「取った」「走った」となるのも「 取り・た 」「 走り・た 」からきており、同じ音変化である。文語形容詞の活用表にある「かる」(そうある)が現代語にも生きているのである。しかるに、国文法では形容詞は活用(語形変化)するのであり、「かる」は独立した助動詞ではなく、たんなる活用語尾である。同じく「高し」の「し」も助動詞とは認定されていない。あくまでも日本語形容詞は活用(語形変化)するものなのである。

 -日本語形容詞は活用などしないー

 英語の形容詞は比較・最上級以外は活用(語形変化)しないが、ドイツ語やロシア語の形容詞は活用する。ドイツ語では  gute nacht  (おやすみなさい)、また  guten morgen (おはよう) のように英語の  good  に当たる語幹  gut  はその修飾する名詞の性によって語形変化(語尾変化)する。この場合  gute も  guten も意味は変わらない。日本語形容詞が「良い、良く、良かった」などと活用すると我々日本人は思い込まされているが、「良い」「良く」「良かった」はまったく意味の違う別の言葉である。これを活用すると決めた明治の国語学者の言語に対する認識不足に唖然とするばかりである。

 日露戦争・日本海海戦の有名な電文「本日、天気晴朗なれども波高し」を英語に訳すと、Today weather is clear, but wave is high. となる。「高し」の「し」はこの  is  に相当するものである。「し」は「する」の名詞形(連用形)であり、語幹「高(たか)」に付いた接尾語にすぎない。朝鮮語の  ha-da (する)には「そうである」との意味もあり、日本語の「し」と一致する。たとえば、「誠実である」を朝鮮語では「誠実 ha-da」と言う。そう考えるには合理性がある。阿倍仲麻呂の有名な歌「・・・三笠の山にい出し月かも」は「い出たる月かも」と言えるし、古今和歌集の序文の「近き世にその名聞こえたる人」も「その名聞こえし人」とも言い換えられる。勿論、「し」を使った方が詩文としては優雅である。このように「し」は「たる」と同じ意味を持つ助動詞とすべきである。またこの「し」は古歌で「・・大和しうるわし」と言うように強調の意味にも使われる(「大和こそうるわしい」の意味)

 -動かざること山の如(ごと)しー

 この「ごとし」は文語文法では助動詞に分類されている。現代語では同じ助動詞ではあるが「様(よう)だ」と国文法教科書にはある。この「ごとし」も「ようだ」もこれで一つの単語とされている。これはおかしい。「ごと」と濁音化しているが、元は「こと(事)」であり、明らかに名詞である。「古語辞典」にも「こと」の意味として、「物事(ものごと)」「言(こと)」「同様、同一」などがあると説明されている。これから「ごとし」は現代語では文語表現としてのみ残り、漢語の「様(よう)」に取って代わられ、断定の助動詞「だ」が付いて「ようだ」との言葉が出来たと考えられる。つまり、文語の「ごとし」の「し」と現代語の「ようだ」の「だ」は同じ意味なのである。また、「ようだ」は口語で「ようです」とか「ようである」とも言える。なお連体形は「ごとき」と「ような」となる。国文法では「様(よう)」は形容動詞とされているが、ただ単に助動詞「なる」を、現代語では「る」が落ちて助詞化した「な」を取るだけである。「こと」も「様(よう)」も名詞なのである。

 <追記>

 国文法で正しく活用(語形変化)すると言えるのは「読む」「書く」などの動詞と「たる」「なる」「かる」などの助動詞だけである。形容詞や形容動詞などは元々活用などしない。語幹部分に様々な接尾語がくっ付いたものにすぎない(膠着語)。その活用も語尾が   -a  -i  -e   の三種類に変化するだけである。400年前の宣教師ロドリゲスもそのことに気付いていた。(勿論、当時の発音は今とは少し違うが・・)

 日本語で日常ふつうに使われる「賭け事」とか「賭けマージャン」の「賭け」という言葉は「かけソバ」「掛け軸」とか「虹のかけ橋」「衣文掛け」「見かける」「読みかけです」などの「かけ」と同一の言葉である。「国語辞典」にも「かける(掛、懸、賭)」と出ている。「かける」とは「空中に浮かんだ不安定な状態にある」意味であり、「水をかける」「ハシゴを掛ける」とか「命をかける」という言葉がそれを示している。そこから、派生して「天(あま)翔ける鳥船」などの表現が生まれ、「駆ける」「かけ足」の意味にも使われるようになった。また、「仕掛ける」とか「呼び掛ける」のように、動作を始動させる意味にも派生している。

 この「かける」の語幹「かけ」が独立した名詞として「賭け」ができている。それが国文法では「かける」の語幹は「か」で「け、け、ける、ける、けれ、けろ」と活用し、「かけ」はその連用形であり、それが名詞化したものである。こんな説明では実際、義務教育の子供たちが国文法を理解できないのは当然である。世界で自国の言語(母国語)の文法を嫌って拒否するのは日本だけであろう。大学の国語・国文法の先生方はこの事実を知っているのだろうか。それとも、真実、知らないのだろうか。一度、中学の教壇に立って国文法を教えてみれば分かるはずである。国語学者が国文法に固執する限り日本語に未来はない。

 

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本ブログ村

にほんブログ村 歴史ブログへにほんブログ村