小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

木戸から龍馬あての手紙出現  - これもニセモノ -

2018年04月13日 | Weblog

 今日、4月13日(2018年)、朝日や読売などの朝刊に、木戸(桂小五郎)から龍馬あての手紙の原本が新発見されたとの記事が出た(この手紙の写しの存在は知られていた)。日付は慶応3年(1867)9月4日、大政奉還の40日ほど前である。この記事を読んで、早速、ヘボンの『和英語林集成』を見たが、すぐに完全なニセモノであると判断した。その理由は二つある。なお、手紙の写しがあるからといって原本が本物とは限らない。ニセモノのニセモノである。

 理由その1)

 手紙の中で、土佐藩兵の上京を要請して、「場合に後れてハ・・・大舞台は其れきりと奉存申候」とあることである。この「大舞台」は「語林集成」第3版(明治19年)にも無い。勿論、「舞台」はあるが、現代風に「甲子園の大舞台に立つ」などの表現は明治以後の用語である。一方、「大舟(おおぶね)」はすでに初版(慶応3年)にある。それは「大舟にのったつもりで・・」などの表現は江戸時代にも使われていたからである(『江戸語大辞典』講談社)。なお、この『江戸語大辞典』にも「舞台」や「檜(ひのき)舞台」はあるが「大舞台」はない。他の「国語辞典」にも明治以降、「大舞台」を使った例文は出ている。言うまでもないが、「大舞台」は「大きい舞台」の意味ではない。「檜舞台」とほぼ同じような意味である。「大地震」や「「大騒動」とは違う。

 理由その2)

 手紙の中で、板垣退助を芝居興行の「頭取」、西郷隆盛を「座元」に擬して書いていることである。「頭取」とは一座の首領、「座元」とは興行主のことであり、この文を書いた人は明らかに江戸時代の身分社会を知らない「四民平等」の時代、つまり、明治以後の人である。江戸時代には歌舞伎役者は河原者とさげすまれ、幕府や諸藩は歌舞伎などの芝居小屋への武士の出入りを禁止していた。しかし、これは建前だけで、実際、尾張藩土、朝日文左衛門の『元禄御畳奉行の日記』を読んでも武士も芝居見物には行っている。

 天和元年(1681)の「絵島・生島事件」で江戸城大奥の御年寄、絵島が歌舞伎役者とねんごろになったことがバレて処罰された話は有名。たしかに、明治以後は歌舞伎役者も人々の尊敬を受けるようになり、現代では人間国宝にもなっている。だが、江戸時代は違う。れっきとした武士(桂小五郎)が芝居興行をたとえ話に、同じ武士にこんな手紙を書くことは100パーセント有り得ないことである。龍馬を暗殺した京都見廻組にも「芝居小屋には一切、立ち入らないこと」とのお達しが幕府差配役から下されている(菊地明著『京都見廻組秘録』)。裏を返せば、芝居見物に行く者がいたということでもある。この手紙を偽造した人物は本当に江戸時代を知らない。おそらく、金持ちの御大尽をだまして大金をせしめたのであろう。

 <追記>

 世界の浮世絵ファンを魅了してやまない謎の絵師、東洲斎写楽とは誰かとの本が数多く出版されているが、 斎藤月岑の『増補浮世絵類考』(天保15年・・1844年)には写楽、「斎藤十郎兵衛、居江戸八丁堀に住す。阿波候の能役者也」 とあり、斎藤十郎兵衛は阿波徳島藩主・蜂須賀公のお抱え能役者であったことは間違いない。十郎兵衛本人の過去帳も見つかっている。私の住む徳島県にも写楽を顕彰するNPO法人もできている。

 たが、たった一年でなぜ役者絵を描くことをやめたのか。これにはやはり、能役者とはいえ、徳島藩の下級武士であったことが大きく影響していると思われる。おそらく、何かの事情で江戸藩邸の重役の知るところとなり、幕府や他藩のてまえ、芝居小屋に出入りすることはよろしくないと禁止されたのであろう。本人は不本意であったろうが、武士としては仕方なかったと思われる。そのため、たった一年で消えた謎の絵師となった。江戸幕藩体制とはそういう時代であったのである。木戸が芝居興行をたとえ話に出すわけがない。もし、この話を西郷が龍馬から聞いたら、薩長同盟も破棄されかねない。                                  

 

 

 

 

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