小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

北政所の本名は「ねね」か「おね」か ? 番外編 ー秀吉の遺骸は今どこにー

2016年07月06日 | Weblog
京都で自然を満喫!「豊国廟」 | 京都テナントプラスの画像

 北政所ねねの夫、豊臣秀吉の遺骸は今、どこにあるのか。この話でもってこの本名論争の終わりにしたい。豊臣秀吉の死(慶長3年・・1598年)の翌年、京都・東山に壮大な豊国神社が完成し、秀吉は「正一位豊国大明神」として祀られた。(神社の地は現在の京都国立博物館の東側の山麓)。神として祀られたので遺骸は火葬されず、大きな甕に生前の姿そのままに葬られた。このような例は伊達政宗も同じで、仙台市にあったその霊屋(おたまや)瑞凰殿が戦災で焼失したため、その再建時に甕(かめ)が開封されて遺骸が調査された。
 
 豊臣秀吉の場合、大坂夏の陣で豊臣家が滅んだあと、家康の命令で豊国神社は完全に破却され、霊屋(おたまや)のあった場所は明治の世になり、豊国神社再建のための調査で、そこを掘り返してみたが石ころ以外なにも出ず、完全なさら地であったことが分かっている。(現在の豊国神社は方広寺の隣、かって秀吉が建てた方広寺・大仏殿のあと地にある)。ところがである、北政所が建立した菩提寺、高台寺にはちゃんと霊屋があり、秀吉と北政所の大きな木像とその下におそらく大きな甕に葬られた二人の遺骸があることになっている。この霊屋は高台寺のたび重なる火災の被害からも免れ、建てられた当時(寛永年間)のままの姿を留めており、重要文化財となっている。北政所はともかく、本当に秀吉の遺骸はそこにあるのだろうか。私は長く秀吉の遺骸はそこにはないであろうと思っていた。その理由は司馬遼太郎の小説を信じていたからである。

 司馬遼太郎はその小説(本の題は忘れたが)の中で、豊国神社が破却された時、そのご神体(遺骸)は賀茂川の河原に運ばれ、ご神体の入った甕を叩き割らせたあと、遺骸は焼却されその灰は賀茂川に投げ捨てられたと書いている。司馬がこのような話を創作したのは無理もない。豊国神社は完全に破却され、明治の調査でも何も出なかったのであるから・・。家康の豊臣家に対する仕打ちから考えると、さもあらんと本当に信じていた。高台寺の霊屋にはおそらく秀吉の遺品などがあるだけであろうと・・。しかし、ある本を読んだ時、とんでもない事実を知った。

 
 -津田三郎著『北政所』(中公新書)-
 
 豊臣秀吉の研究家、津田三郎(故人)は同書の中で豊国神社に祀られていたご神体(秀吉の遺骸)について、全三十三巻に及ぶ神龍院梵舜の日記『梵舜日記』を元に新事実を紹介している。神龍院梵舜は京都の吉田神社の神職、吉田兼見の弟であり、吉田神社の神宮寺、神龍院の別当でもあった。兄の兼見は本能寺の変のあと、朝廷の使いでそのとき安土城にいた明智光秀に会いに行っているが、後に日記『兼見卿記』のその部分だけを破り捨てていることでよく知られた人物である。(おそらく、朝廷から光秀へのお褒めの言葉が書かれていたのであろう)。

 梵舜は豊国神社の創建に力を尽くし、同神社の神宮寺の別当になっている。その後、家康の命令で豊国神社が破却されるときも、同神社の存続に奔走したがどうすることも出来なかった。ただ、家康とも懇意であったことから (伏見や駿府で家康にも会っている)、北政所の指示で同神社の霊屋(ご神体)だけには手を付けず、自然に朽ち果てるまでそのままにしておくとの了解を家康から取り付けている。それこそ高台院、北政所の狙いだったと思われる。梵舜は常に北政所と相談している。なお、家康は北政所には甘かった。昔、子の秀忠が人質として大坂城にいたとき、北政所が我が子のようにやさしく接してくれたことに恩義を感じていたのであろう。(家康は北政所が秀吉の遺骸を高台寺に運ぶことを黙認したのであろう)。
 

 それからしばらくして、梵舜はある夜ひそかにご神体を大八車に載せて自身のお寺、神龍院に運んでいる。それがあまりにも大きくて通用門の屋根を壊して中に入れたとも書いている。そうしてそこ(神龍院)でご神体を祀ったと日記にあるが、その後の記録はない。では、ご神体は今でも神龍院にあるのだろうか・・。その神龍院は今はなく、京都大学の正門時計台の前の道を突き当たれば吉田神社があるが、その正面右手にかって神龍院はあった。今では普通の民家が建っている。では、その地下にご神体はあるのか。 いや、梵舜は日記にはあえて書かなかったが、それは将来、どのような災いがご神体に降り掛かるか分からないのでそれを危惧したのであろう。 おそらく、その後、ほどなく北政所の指示どおり、高台寺に運んだと思われる。

 北政所は二人用の霊屋を前もって用意していたはずである。それが今に残る高台寺の霊屋(おたまや)であろう。秀吉と北政所は二人並んでお霊屋で安らかに眠りについていると思う。幕末の火災で高台寺の堂宇の大半が焼失したが、それでもお霊屋は燃えなかった。北政所ねねの、秀吉に対する深い愛情が猛火から霊屋を守ったとしか思えない。二人の遺骸はやはりそこにあると思う。それを証明するには伊達政宗の例のように発掘、調査するしかないが、無論、高台寺がそんなことを許すわけがない。

 なお、現在の東山の阿弥陀ヶ峰山上にある「豊国廟」(写真)は明治天皇の勅命により明治30年に建造されたものである。この時、そこから高さ3尺(約1メートル)の素焼きの壺が発見され、その中に遺骸が入っていた。これこそ秀吉の遺骸ではないかと思った調査責任者が当時の「史学雑誌」に発表した。当時の公家の記録に「太閤秀吉は阿弥陀ヶ峰に葬られた」とあることからの誤解であろう。このあたり一帯は阿弥陀ヶ峰である。(その壺は建造された五輪塔の下に埋葬された)。

  これは論外である。いくら秀吉が小男であったとしても1メートル程度の壺に収まるはずもないし、伊達政宗の大きな甕の中には数本の銘刀が置かれていた。こんな小さな壺に日本刀が収まるわけがない。これは江戸時代の子供の墓であり、秀吉とは何の関係もない。ただ、この「史学雑誌」の記事が一人歩きして、ごく最近もテレビの豊臣秀吉を特集した番組で、出演した日本史学者が秀吉の遺骸は今も東山の阿弥陀ヶ峰の豊国廟に眠っていると言っていた。たしかに、「豊国廟」や「豊国神社」で検索するとそのような記述がある。インターネットには間違いや俗説も多いので注意を要する。

  <追記>
 
 北政所の名前は「ねね」「おね」「ねい」の三通りもある。こんな例は日本史上珍しいことである。現在の高台寺前の通りは「ねねの道」という名の散策路になっている。本家の高台寺が『太閤素性記』にあるとおり、「ねね」が正しいと認定していることでもある。高台寺には俗説に惑わされず、いつまでも「ねね」を守ってほしいと願っている。
 なお、津田三郎氏は一度、徳島・小松島市にある豊国神社を訪れ、ご神体の秀吉の木像を見せてほしいと氏子に頼んだが、すげなく断られて対面することができなかった。大阪城博物館には写真撮影させているのに、官には見せて、民には見せない。この度量の狭さに同じ徳島県民として恥ずかしい限りである。私の質問に丁寧に答えてくださった津田氏に対して本当に申し訳ないと思っている。

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