小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

「豊臣」姓の謎

2007年05月19日 | 歴史

 ーそれは聖徳太子の名前だったー

  『日本書紀』に次のようにある。 「故稱其名謂上宮廐戸豐聰耳太子」
 現代訳では、「其の名を称えて、上宮廐戸豐聰耳太子(かみつみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこと)」 つまり、「とよとみみ」が聖徳太子の名前である。
 この名前の根拠は奈良の元興寺に残る露盤銘の万葉仮名表記「有麻移刀等已刀弥弥乃弥己等」(ウマヤトトヨトミミノミコト)にある。
 
 正親町天皇を頂点とする朝廷は、すでに前関白・近衛前久の猶子(養子)となって、関白・藤原秀吉と名乗っていた秀吉が、自ら天皇になる野望(皇位簒奪)を防ぐため、藤原よりも高貴な皇族・聖徳太子の名前、「豊臣(とよとみ)」を下賜した。
 この頃、秀吉は正親町天皇の孫の八条宮を猶子(養子)としており、朝廷の危機感は相当なものだったと思われる。なぜなら、天皇には必ず皇太子が必要であり、八条宮を猶子としたことで豊臣秀吉はこの条件を満たしている。秀吉にはその気はなかったと思うが・・。(八条宮は今に残る国宝、桂離宮の創建者である)

 結論として、聖徳太子は用明天皇の皇太子であったにもかかわらず蘇我氏を警戒して、叔母の推古天皇( 蘇我稲目の孫であり、実力者、蘇我馬子の姪 )を天皇に立て、自身は摂政として実際の政治に携わった。しかし、この聖徳太子の不安は息子の山背大兄皇子の代に現実のものとなり、皇子は蘇我氏に滅ぼされる。朝廷はこの「豊臣」姓を秀吉に与えることで納得させたのではないか。つまり、「トヨトミ」(聖徳太子)は天皇にはなれないのだと・・。
 
 最後に興味ある事実がある。 聖徳太子と蘇我馬子が日本の仏教の中心にしようと飛鳥に建立したのが「法興寺」(ほうこうじ)・・現在の飛鳥寺。秀吉が日本の仏教の総本山にしようと京都の東山に巨大な仏像を建立した寺の名前が同じく「方広寺」(ほうこうじ)。これは全くの偶然の一致だろうか・・・。


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1 コメント

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秀吉は蘇我氏ではと考えてました。 (はな)
2017-01-15 18:59:05
なぜ征夷大将軍にならず、関白になったのか?
「卑しい生まれだから、将軍になれなかった」説をよく目にしますが、変ですよね。関白にはなれたのに?

豊臣(とよとみの)という姓を賜ったのが気になってます。
トヨ・豊一族と関係あるのではと。
豊浦大臣(蘇我豊浦毛人=蝦夷)豊聡耳皇子(聖徳太子)、豊御食炊屋比売命(推古天皇)、豊受大御神(外宮)
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