小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

坂本龍馬の妻 「 おりょうさん 」異聞 ー番外編ー

2010年07月06日 | Weblog

 「おりょうさん」の画像検索結果

   

おりょう写真の画像

                                裏面に「たつ」と署名のある写真

 

 -例の写真はやはり「おりょうさん」-
 
 先に坂本龍馬の妻「おりょうさん」異聞の <追記> で書いたことを龍馬の手紙を元に再度検証してみる。龍馬は「おりょう」について詳しく高知の坂本家に書き送っている。

 1)慶応ニ年(1866)12月4日付、乙女姉あて
「兼而申上妻龍女ハ」(兼ねてから話していた妻龍女)とあり、この時点で二人は結婚していた。おりょうを龍女と書いている。続けて池田屋事件に連座して隠れ家を失い困窮していたおりょう一家を、妹と弟は勝安房に頼み、龍女は寺田屋の女将・お登勢に頼んだことを書いている。続けて「今年正月二十三日なんにあいし時も、此龍女がおれバこそ龍馬の命ハたすかりたり。京のやしきニ引取て後ハ小松、西郷などにも申、私妻と為レ知」とある。
(大意は、この年の正月に起きた寺田屋の難の後、京都の薩摩藩邸におりょうを呼んだこと、その後、小松帯刀と西郷隆盛を立会人として正式に妻としたことを乙女姉に知らせている)。このあと、二人は鹿児島に行き、小松の配慮で霧島温泉に新婚旅行に行った話は有名。さらに続けて、
  「私妻ハ則、将作女也、今年廿六歳、父母の付たる名龍、私が又鞆とあらたむ」とある。
 この文は重要である。父母の付けた名は「龍」とのみ書き、その読みは仮名で書いていない。ここで分かることは、妻の名は「龍」であり、音読みで「りゅう」又は「りょう」、もしくは訓読みで「たつ」であるのかは不明であるとのことである。龍馬が「おりょうさん」と呼んでいたことは分かっている。夫が妻をそう呼ぶのだから名前は「龍(りょう)」だとの先入観に龍馬研究者も龍馬ファンもとらわれ過ぎていないか。

 2)慶応二年(1866)11月20日付、お登勢あて
 「龍子が老母元より御家計の御セ話ニ候」(妻お龍が前々から母の生活の世話をしています)。
 ここで注目すべきは妻、おりょうのことを公家風に「龍子」と表記していることである。龍馬の茶目っ気たっぷりの性格が表われている。ときには「龍女」と書いたり、また公家風に「龍子」と書く。このことからも、「りょう」が妻「龍」の本名かどうかも怪しくなってくると考えるのは私だけだろうか・・。
 
 

 3)慶応元年(1865)九月九日付、乙女とおやべ(姪)あて
 年代が前後するが、この手紙こそ「おりょう」本名「たつ」説の核心に迫るものである。先に「おりょうさん異聞」で触れたように、この手紙の時点ではまだ二人は夫婦ではない。正式に結婚したのは翌慶応二年正月に起きた寺田屋遭難の後である。
 この手紙で龍馬は、お龍が乙女姉を実の姉のように思って会いたがっていることや、姪のおやべには本を、乙女姉には帯か着物を(お龍)に送ってやってほしいと頼んでいる。いよいよ核心部分にはいる。それには
 

 「今の女ニつかハし候、今の名ハ龍と申、私ニにており候、早々たずねしニ、生レし時父が
  つれし名よし」(ママ・・つけし名の誤記であろう)
 

 つまり、送ってくれた本や着物などを、今の女(寺田屋の女中お龍)にやりますと言っており、続けて、今の名は龍で自分の名に似ている。似ている以上「龍」は「りょう」又は「りゅう」であろう。たずねたところ生まれたとき父が付けた名だと言っているのである。
 
 この一文は非常に奇妙である。寺田屋のお登勢におりょうを頼んだのは他ならぬ龍馬自身である。当然、彼女の名は知っていたはずなのに、今また「今の名は龍」と書いているのである。これは一体全体どう解釈すべきか。そこで考えられるのはお登勢が「龍」を女中名として「おりょう」と呼んだ。こう考えるのがもっとも自然である。龍馬はその「おりょう」をそのまま使って「おりょうさん」と呼んだ。これが真相ではないのか。

 元々、龍馬がおりょうを寺田屋のお登勢に頼んだいきさつは、おりょうの父、楢崎将作が安政の大獄に連座して死亡した後、おりょうと母親は京の大仏(方広寺)近くの勤王の志士たちの隠れ家で炊事などをやっていた。
そこで起こった池田屋事件(元治元年・1864年6月5日)で、捕縛された浪士のだれかが自白したのであろう、その隠れ家に捕り手がやってきて家財道具をみな持ち去ってしまった。そのため、おりょう親子は食事にもこと欠く困窮ぶりで、それを見かねた龍馬が寺田屋のお登勢に頼んで女中奉公するようになったのである。その間の事情はこの手紙(慶応元年9月9日付)にかなり詳しく書かれているので事実である。大河ドラマ「龍馬伝」でも、このことを取り上げていた。
 
 つまり、池田屋事件のほぼ1年後にこの手紙は書かれているのである。この手紙の内容からして、龍馬とおりょうは相当親しい間柄であったことが分かる。当然、おりょうの名前は知っていた。しかるに、なぜあえて「今の名は龍」と書いたのであろうか。この時、おりょうは龍馬の世話で寺田屋の女中をやっていたはずである。そこで考えられるのは、自分の知っていた名「たつ」が「おりょう」に変わっていたからこそ、そのように書いたのであろう。
 龍馬は、本名「たつ」、女中名「おりょう」が漢字で「龍」と書き、この「龍」は父母が生まれた時に付けてくれた名であることは、二人が知り合った頃には本人から聞いて知っていた。(このことは晩年のおりょう、その時は西村ツルの証言で明らかである)。これが龍馬の手紙の真意ではないか。そうして、最初の手紙(慶応二年12月4日付乙女あて)の「父母の付たる名、龍」につながって行くのであると考えられる。 結論をまとめると
  
 

 (1) 自分の妻の名は「龍」と高知の家族に書き送っているが振り仮名はない。
 (2) この「龍」は父母が生まれたとき付けた名である。
 (3) 以前から親交があったのに「今の名は龍で自分に似ている」と書いている。
 (4) されば、元の名があったと考えるのが自然である。「龍」の読みは他に「たつ」しかない。
 (5) 龍馬は妻を「おりょうさん」と呼んでいた。(三吉慎蔵や薩摩藩士、吉井幸輔の孫の証言)
 
 

 いよいよ、「おりょうさん」の写真の真実が明らかになる。

 今、おりょうの写真として流布しているのは、明治の元勲・中井弘のアルバムにあったそれであり、今年の高知の「龍馬出会い博」にも使用されている。晩年、中井弘が以前から親交のあった近江屋(龍馬暗殺の現場)の主人、井口新助に託したものである。井口家では代々、坂本龍馬の妻「おりょう」の写真として言い伝えられてきた。なお、中井弘は幕末京都では田中幸助と名乗り、近江屋のあった河原町のすぐ隣の木屋町に下宿していた(『桐野利秋日記』)。当然、近江屋にも出入りしていたと思われる。井口新助は町人勤王家で、勤王の志士たちを支援していた。また、中井は長崎で後藤象二郎や海援隊士とも交流があったことが分かっている。龍馬との接点もこの頃できたと思われる。その証拠に、この中井アルバムには黒田清隆のほかに海援隊士、長岡謙吉や菅野角兵衛(お龍の妹の婿)など、数名の隊士の写真がある。(宮川禎一著『龍馬を読む愉しさ』)
 

 ところが近年、もう一枚の同じ写真が出てきた。井口家の写真は立ち姿であるが、それは腰掛け姿であった。なんとその写真の裏面に墨書で「 たつ 」と書かれていた。このことから、あれは「おりょう」の写真ではない。別人の芸者「たつ」の写真だとの主張が勢いを増してきた感がある。
 しかし、私のこの小論を読んでいただければ分かると思うが、「たつ(龍)」こそ龍馬の妻「おりょう」の本名なのである。明治五年頃、東京に出たお龍は、坂本龍馬の妻「おりょう」と決別し、本名「たつ」で生きていこうと決心した。その証しであろうと思われる。しかし、なぜか「たつ」は明治八年再婚した時、「西村ツル」という名前で入籍している。その間、何があったのかは知る由もない。

 <追記>
 近年、「おりょう」と思えるもう一枚の写真が出現し、その裏面に「 たつ 」との墨書があったことは、はからずも井口家の写真は紛れもなく龍馬の妻「おりょう」その人であると証明することになったと思う。このことは、おりょうの霊が命じた結果ではないかと思えてくる。あの写真の主は私「おりょう」本人である、もう真贋論争はやめてほしいと・・。
 

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10 コメント

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妄想です (森重和雄)
2010-08-07 23:52:51
全くの誤りです。
この写真は現在のところ「中井弘旧蔵写真アルバム(井口家アルバム)」の全身像の写真以外に、明治三年の記述のある芸者の写真アルバムに同じ写真があることが判っています。
(明治三年におりょうさんは東京にはいません)
また井桜さんの半身像のタイプの写真と全く同じ写真が京都の山科の古写真コレクターが所蔵していました。
この半身像の写真は現在は京都国立博物館の宮川氏が預かっています。
さらにこの芸者が何者なのかは、東京の新橋芸者・松屋のお辰ということも中井弘の関係で傍証資料があります。
また、科捜研の鑑定は明らかに誤りです。
どうしてこれでこの芸者の写真がおりょうさんだと断定できるのでしょうか?
返信する
おりょうさんの本名 (森重和雄)
2010-08-07 23:57:12
そもそも、「「たつ(龍)」こそ龍馬の妻「おりょう」の本名なのである。明治5年頃、東京に出たお龍は、坂本龍馬の妻「おりょう」と決別し、本名「たつ」で生きていこうと決心した。その証しであろうと思われる。」と書かれていますが、おりょうさんの本名は「おりょう」ですので、根本的に誤りです。
もっとちゃんと勉強した方がいいですよ。
返信する
どうぞ (森重和雄)
2010-08-08 00:04:26
ぜひ下記もご覧の上、ご意見があれば参戦してくださいませ。
(題名の「お竜」については僕は反対です。そのような名称は司馬遼太郎以降のことでしょう)

お竜の写真
http://yoppa.blog2.fc2.com/blog-entry-590.html
お竜の写真 No2
http://yoppa.blog2.fc2.com/blog-entry-593.html
お竜の写真 No3
http://yoppa.blog2.fc2.com/blog-entry-600.html
お竜の写真 No4
http://yoppa.blog2.fc2.com/blog-entry-606.html
返信する
追伸 (森重和雄)
2010-08-08 00:13:46
「あの写真は私「おりょう」本人である、真贋論争はもうやめてほしいと・・・。」と書かれていますが、これはこちらこそ、「近年、おりょうさんと言われている写真が、しっかりとした根拠もなく、おりょうさんとして紹介されているのはいかがなものか」と思います。
返信する
お龍に似た? (鳥姉)
2010-08-10 07:01:03
確証バイアスによって、お龍の父が安政の大獄で亡くなった、とするのは小説の孫引きですね。
文久2年逝去は知る人は知るです。

岩崎日記や桂小五郎は、龍馬を良馬と記していますが、お龍もまた、お良(三好日記等)とありますから、「たつ」ではなく「りょう」でしょう。

あの若きお龍写真は、土居晴夫氏等数人の研究者からは早い時期から無視されています。

科警研の結果以前に、ソニー龍馬研究会がコンピューター技術を駆使して同様な発表をした頃、土居氏見解を待たずに、独自に詳細を調べた写真研究家がいました。

現に、彼の足で調べた資料を今や現地調査もせず、その著から龍馬研究家・作家等は全て孫引いています。
だから、それに拠ればなにを今更、というところでしょうか。

勝手な創造私見で言えば、お龍に似た新橋金春芸者を中井弘が撮らせた、そして近江屋に残した、ただそれだけなのかも知れません。

お龍語る長州人楢崎源八、大蔵(大造)、将作の流れに、お龍養女説があるなら、全くの京美人だったとも言えなくもありませんが、ともあれもうあの写真は使えないでしょう。
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感想です (森重和雄)
2010-08-14 03:29:05
鳥姉さま

初めまして、こんにちは!

「勝手な創造私見で言えば、お龍に似た新橋金春芸者を中井弘が撮らせた、そして近江屋に残した、ただそれだけなのかも知れません。」

これについては中井弘のことをちゃんと調べればよくわかりますが(出展根拠については今度、本に書く予定ですのでまだここに提示するわけにはいきませんので、ご了承くださいませ)、中井弘は懇意にしていたのが新橋芸者・松屋のお辰(おたつ)という芸者です。
また京都の「井口家アルバム」の全身像の写真は現物もこの目で確認しましたが、明らかに複写のブロマイド写真でした。(これも物理的に複写の跡が残っています)
だから、「中井弘が撮らせた」はちょっと考えられません。
普通に考えれば自分の贔屓にしていた芸者の写真を誰かから貰って(あるいは自分で購入して)それを写真アルバムに入れて大事にしていたかです。

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根拠は? (森重和雄)
2010-08-16 02:59:48
小松さま

「私のこの小論を読んでいただければ分かると思うが、「たつ(龍)」こそ龍馬の妻「おりょう」の本名なのである。」
この根拠もお書きくださいませ。
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おたつ写真は… (鳥追い姉)
2011-10-19 15:34:41
森重様、ありがとうございました。

中井が撮らせたのは間違いかも知れません。

ある筋から、あの女性は中井家の女中との話も伝え聞きましたが、新橋から引かせたのでしょうか?

引かせた後に女中として近くにおいた…結局、宮川氏や龍馬記念館の間違い伝承はもはや否定せざるを得ません。
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あとから書いたのは… (鳥姉)
2014-03-21 17:14:53
井口家アルバムにあるお竜とする写真の裏にあるお竜の文字は、物故した郷土史家N氏の文字です。

向日市の井口家で、見た折の発見当初にはない文字でした。

だから、ずいぶん後になってお龍にしたのではと思います。
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お龍の顔は… (鳥姉)
2014-03-21 17:25:31
お龍に会った晩年の印象は、丸顔で足が少し悪かった、とかですが、お龍母が京都人なら、目が細くおちょぼ口がする気がします。

或いは、井筒屋からのお龍養女なら尚更で、かってな思い込みで言えば父親系の長州人も目が細い感じが少なくありません。

吉井幸輔や長州に伝わるお龍印象の語り残りに、気の強さがあったのも見逃せませんね。
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