ドラマや小説などで豊臣秀吉の正室・北政所(高台院)の本名は「ねね」と「おね」と二通り出てくる。最近はほとんど「おね」が使われているが、京都の観光名所、東山・高台寺前の通りは「ねねの道」となっている。一体、どちらが正しいのか。結論は両方とも妥当性があると言える。
1)「ねね」説の由来
戦国時代の女性の名前で文献資料ではっきり分かっている人は少ない。武田信玄の正室・三条夫人は京都の三条家から来ているのでそう呼ばれているが、本名は分かっていない。同じく、土佐の藩祖・山内一豊の妻「千代(ちよ)」も文献資料にはない。代々、土佐藩でそう言い伝えられてきたにすぎない。北政所の場合は、江戸時代の初期に二代将軍秀忠の馬廻りで、大阪夏の陣にも参加した土屋知貞という武士が書き残した『太閤素性記』という書物があり、それには
「太閤本妻ハ同国朝日郷ノ生レ父タシカナラス同国津島ノ住浅野又右衛門姪ナリ幼名禰々」
とあり、明確に「禰々(ねね)」と書かれている。また続けて「幼名禰々御料人後政所 後号高台院」とも書かれている。この『太閤素生記』という本があったからこそ、北政所の名前は「ねね」と分かったのである。有名な『太閤記』には「北政所」や「政所様」はあるが「禰々(ねね)」はない。(『太閤素生記』は「史籍集覧・第13冊」に収められており、大きな図書館にはある)
なお同書には、お市の方の三人の娘の名前を
「太閤別妻淀ノ御方幼名チャ へ 御料人秀頼御母・・二女ハ幼名ハツ御料人高次京極宰相方ヘ・・三女ハ幼名督御名小督御料人ト云」
と正確に書かれている。三女「督(ごう)」は、普通は「江」の字が使われるが、通称「おごう」と呼ばれていたようである。(『徳川幕府家譜』には「於江与君」とあるので、本名は「江与(えよ)」であったのかも知れない。通称がそのまま本名のように使われていたのであろう)。 この時代、別に戸籍制度があるわけでないので通称名が一般化する場合も多い。例えば、「阿姫」とか「小姫」などの人名が史料に出てくるが、日本には「阿(あ)」とか「小(こ)」などの一音節の名前はないので通称名であることは明らかである。源頼朝と妻、政子とのあいだに生まれた娘は「大姫(おおひめ)」と呼ばれているが、これも通称であろう。本名は伝わっていない。また、漢字表記も様々あるのが普通である。二女「初(はつ)」も「発」と書かれた例もある。土屋知貞は『平家物語』の「小督(おごう)」にちなんで「督」の字を使ったようである。おそらく、土屋知貞は『平家物語』を愛読していたのであろう。
2)「おね」説の根拠
北政所の甥の家系、木下家の備中足守藩の文書(足守文書)の中から近年、夫の秀吉が肥前名護屋から大坂の北政所に書き送った手紙が発見された。それによると 「(秀吉が)大坂に戻ったらそもじと抱き合ってゆるゆる昔物語りなどしたい」とあり、われわれ現代人でも赤面するような文面である。人たらしの名人、秀吉の面目躍如たるゆえんである。自身は肥前・名護屋城に側室の「淀殿」や「京極殿」を伴っているのに・・。
この手紙の末尾に 「 お祢へ 」と秀吉が署名しているのである。(祢は禰の略字) このことから、日本史の学者らが、夫が妻の名前を間違えるはずがないと、北政所の本名は「ねね」ではなく「おね」が正しいと言い始めたのである。他にも、秀吉が小田原の陣所から北政所に送った手紙の宛名も「 お禰 」になっている。
この時代、女性の名前には「お」を付けて呼ぶのが普通である。「おまつ」とか「おたま」のように、「ねね」の場合は「おねね」と言いにくいので、夫、秀吉が「おね、おね」と愛称として呼んでいたのではないか。秀吉の手紙も書状というより会語体の今でいうメールである。秀吉が日常そう呼んでいたにすぎないと考えるのが一番無理がない。近親者を本名ではなく愛称や通称で呼ぶことは古今東西どこにでもあることである。ただ文献史料には残りにくいだけである。
結論として、北政所の本名は『太閤素生記』にあるとおり「ねね」であり、「おね」は夫・秀吉にのみ許された愛称であったと思われる。この時代「ねね」の名を持つ女性は数多い (諏訪頼重に嫁いだ武田信玄の姉など)。
なお、子がなかった北政所は甥たち(実兄、木下家定の子供)をとても可愛がり、彼らに書き送った愛情細やかな手紙が何通か残されている。そして、その手紙に「寧」とか「祢」と署名している。このことから北政所の名前は「禰(ね)」だと主張する人がいるが、これは論外である。日本人の名前は古代の女王・卑弥呼以来、今日に至るまで「ね」などの一音節の名前はない(中国や朝鮮には「美(ミ)」などの一音節の名前はある)。
織田信長が長浜時代の「ねね」に書き送った手紙(秀吉の浮気を大目にみてやれとの内容)があるが、それにはなんと平仮名で「 のぶ 」と署名しているし、坂本龍馬が高知の家族に送った手紙にも「 龍 」とのみ署名されているものが多い。このような例は日本史上いくらでもあり、人間の心は今も昔も変わりない。また、自筆の書状には「寧子」と署名されたものもある。これは従一位の官位を持つ北政所が公家風に署名したものであり何の不思議もない。
<追記>
秀吉の死(慶長3年・1596年)の翌年、徳川秀忠とお江の間に生まれた娘が「ねね(子々姫)」と名付けられている。秀忠は子供のとき、秀吉の人質として大坂城にいた。その時、北政所から我が子のようにやさしく可愛がられたことを生涯忘れなかったようである。自身の娘に「 ねね 」と名付けただけでなく、豊臣家滅亡後も高台寺に小大名並みの寺領を安堵している。また、京都に来たときはいつも高台寺に北政所を訪ねている。なお、北政所「ねね」の妹は「やや」という。
最近、興味ある古い資料が見付かった。1998年(平成10年)9月19日付の朝日新聞の記事に ー震災復興に「ねね」尽力 ー との見出しで、京都の東寺の仏像(大日如来)の修復の過程で頭部から木札銘が見付かり、それには
「 大壇那亦大相國秀吉公北政所豊臣氏女 」
とあり、年号は慶長3年(1598年)であった。この2年前に起きた慶長大地震で東寺も相当の被害を受けたようである。その修復に北政所がかなりの寄付をしたことがうかがえる。この銘文で北政所が夫の姓(豊臣氏)を称している。つまり、「豊臣氏の女」であると。もし本当に夫婦別姓であれば、「杉原氏女」か「浅野氏女」としたはずである。(北政所は生まれは杉原氏であるが、浅野家の養女となった)。この木札に「豊臣氏禰々(ねね)」と書いてくれていたら、北政所の本名論争など起きなかったのに、やはり天下人・秀吉の正室であっても当時のしきたりに従ったのであろう。
これは「一音節」でなく「一拍」と改めるべき。一音節なら「江」も不可となる。
https://www.ekafbf.com/2021/03/25/how-do-you-cite-your-own-writing/
https://www.limonlu.com/blog/how-do-you-present-a-good-argument-22696/
http://99boxers.com/2021/03/27/what-is-a-good-h-index-in-economics/
http://healingforlifeministry.org/2021/05/06/can-i-lie-about-my-grades-on-ucas/
http://yogatherapynj.com/2021/04/28/what-is-a-good-book-report/
http://unifymycare.com/biography-writer-online-an-incredibly-easy-method-that-works-for-all