俺もお前も人生の敗北者

とりあえず否定から入るネガティブ思考で常にB級嗜好なATOPのブログ

個人名

2006-10-31 13:50:03 | 社会問題
 こんにちは、お久しぶりです。名古屋から帰ってきてから意味もなく時間が過ぎていっています…。

 さてさて最近の流行はどこもかしこも”いじめ”。どの新聞、テレビ、雑誌、ニュースサイトを見てもいじめばかりです。とくに岐阜のバスケ部員の自殺。あれが一番理解できないんだけど…自殺する必要なくないか?まぁ私のような人間には理解できないところなんだろうけど。
 でこの事件に私が興味を引かれたのは、遺書の中身。ニッカンのサブ記事にも書いてあったんですけど、いじめていた人の個人名をあげる遺書って最近では珍しいらしい。確かに。その記事によれば個人名を挙げたときと挙げなかったときの違いについて書いてあって、かかれていなかったときはいじめていた側の後ろめたさのみが残るだけで、書いてあったときのほうがいじめた側の責任の所在がはっきりして、いじめた側の今後のためになる…みたいな事が書いてあった。若干残酷かつとんでもない意見な気もするが、そう大きくは間違っていないと思う。ただ全てがそうだとはいい難いので私も賛同しかねるが…。ただはっきりいっていじめにおいて誰が悪いって言ったらやっぱり直接いじめていたやつが一番悪くて、それを見過ごしていた先生とか学校とかクラスメイトとか親とかが悪いわけじゃない。学校の対応は不誠実かもしれないけど、正直世の中どこいってもあんなものだと思うから、マスコミは好きなだけバッシングすればいい。ただそのマスコミも学校とろくに変わらない体質なんだからばかばかしいことではある。
 ともかくとしていじめたやつが悪い。それ以上のことはキリがないから無視するとして、誰かの死に対して責任を持つというなら死を持ってでしか責任を取れないだろう。だから個人名を挙げられた4人は無限に苦しむはずだろうし、無限に苦しめばいい。ただ何度もいうが、私はいじめられた側はいじめられるべくしていじめられていると思うから、いじめたやつが全部悪いとはいわない。
 それから星野仙一さんがこんなこと言ったらしいです。

(前略)どんなに学校や先生が口を酸っぱくして説いても、メディアがどんな論調や
提案を繰り出したとしても、古今東西、これからどんなに時代が進んでいっても、
「いじめ」問題がなくなることはないんじゃあないかと思う。
子どもの世界だけではなくて大人の世界でも、どこにでも「いじめ」といういやがらせや
弱い者いじめはあるもので、それが残念ながら人間社会の現実的な一面だ。

話を元に戻すと、小学生や中学生がいじめに遭っておかしくなって不登校になったり、
自殺をしたというニュースを見るたびに思うことは、そういう「事件」になってからではもう遅い。
それこそ学校や教師の能力や対応力や「責任」をどこまでも追求してももう遅い。
ラチなんか絶対にあかないということだ。
わたしはやはり「子どものことで」「子どものために」戦うのは親しかいないと思っている。

昔、わたしの友人がこういっていたことがある。近くの公園を通ると偶然、自分の息子が
通っている幼稚園の運動会の練習をやっていて、しばらく様子を見ていると列を組んでいる
途中、息子がうしろの園児から背中を突き飛ばされてよろけるというシーンが。
わがままだけれど、気が強いともいえない自分のやせっぽちの子どもがどう出るかと
見ていると、意外やくるりと向きを変えるや自分をわけもなく突き飛ばした男の子の胸を
突き飛ばして、さらにファイティングポーズをとってみせたのだそうだ。

「いやなことをされても仕返しもできないようなら、これはかなり注意して育てなければ
いけないし、もしこういう類のことがしばしばあるのなら両親で交代で幼稚園にも観察に行って、
いじめっこにも先生にもきちんと話をつけにいくつもりだった」というが、やられっ放しで泣いて
なんかいない、やられたらやり返すような自分の子どもの態度を見てからは安心したという。
日常のごく些細なことかもしれないが、これが普通の親の目というものではないだろうか。(以下略)

疲れ…まだ続くんだ

2006-10-27 15:40:13 | ATOP
 無事降板しました。こんにちは、ATOPです。今回の新聞はとにかく疲れました。てか手間かかりすぎ。レイアウター泣かせです、はい。しかし、部史上最高のメンバー面を作りましたので別にいいんですけどね(何。

 さて新聞終わったのはいいんですが、明日の夜からバスに乗って名古屋です。日曜日は名古屋で取材し、翌日、月曜日帰ってきて営業で飲みをやって、31日は大学行って、1日は小ノリとナカツとお好み焼きです。んで2日が打ち上げで、3日から明大祭に参加して、4日はアメフトの取材、5日は伊勢に行く予定が東京待機になってテレビで伊勢観戦。日曜日は正直ラグビー明治対慶応みたいような気もする…しかし、自分が作った新聞が伊勢で配られることを考えると、伊勢を見ようと思う。そして間髪いれずラグ号がやってきます。死んでしまいます。

 別に愚痴るわけじゃないですけど、やる気あるなしにかかわらず、ここぞというところで頑張れない人って正直だめだと思う。底辺にいるべくして底辺にいるというか、もう水準がどん底だな。その人にとっては結果がよくても悪くても関係ないんだろうね、きっと。そんな生き方してるとこの世に未練なくして死ねるんだと思う。幸せなことだ。弱い自分に嫌気がさすこともないだろうし、誰かにおんぶに抱っこしてればそれですむんだから、そりゃ楽だよ。でもそういうことばっかしているときっと痛い目にあうよ。というか私が痛い目にあわせてあげますので、覚悟しておいてください。

あーつかれた

2006-10-26 01:35:39 | 社会問題
 あ、どうもお久しぶりです。こんばんは、ATOPです。取り敢えず現在新聞を作っているのですが、私のメンは無事降板しました。明日からゆっくり寝られます…しかし、2週間後にはまた新聞作っているというアウチな状況…。

 パナウェーブのチノ代表が亡くなったそうです。死んだ原因は不明だそうです。パナウェーブで騒いでいたのは確か私が中3だったときだと思います。その年の学園祭であの電磁波よけのマークを印刷して色んな所に貼っていたような気がします(何。
 正直、そんなことはどうでもいいんです。あと長野の小6が行方不明になっていた事件。簡単に言えば、頭の悪い小学生が頭の弱いフリーターとネットで知り合って、一緒にリアルであっていたのを、頭のおかしい親が心配して捜索願を出したと。今日のニッカンで発見されたまでの経緯を読んでいたのですが、いまいち分からなかった。今日家に帰ってきてネットで確認したら、どうやら上記の経緯があったようだ。これにより頭の弱いフリーターが誘拐の罪で逮捕らしい…。そんなバカな(汗。この小6のメル友募集掲示板のページを見たんですけど、この小6ちょっとおかしい…最近のガキの感隠したらおかしくもないと思うんですが、まずそういうサイトに登録しているというのが凄い。しかも自分自身の性格について「ちょー明るい」と書くほどの脳天気ぶりを発揮している…。さらに痛いのがそんな頭の悪い子どもを心配して捜索願を出してしまった親。世間的に痛すぎる…。というかそれで男だけ逮捕されるってどういうことよ。

 書きたいことあったんですけど、ねむいというか以上につかれているのでまた明日。

阿呆

2006-10-23 02:40:34 | ATOP
 人の本質は優しさの中にあるのでなくて、厳しさの中にあるように感じる。誰かに気に入られることより誰かに怒られたときに、初めてその人を知ることができるような気がする。

PS ニッカン大好きです

放射能と大気汚染

2006-10-20 04:31:10 | 社会問題
 今日のニッカンを読んでいる人は知っていると思うが、核シェルターの記事があった。そこに放射能を除去する換気装置が紹介されていたので、ふと疑問に思う。放射能によって大気って汚染されんの?

 思い立ったが吉日。さっそくハンド部の理系に訊いてみた。

・東大生 官坂の場合

 大気汚染はわかんね 電離作用が頑張るのかな?

・東大生 車の場合

 放射能は基本的に放射性原子の崩壊時の波動から来るものだから、基本的に媒体はどんなものでも伝わる。つまり空気を媒体にもできて伝わるよ。原爆の被爆者も空気被爆したり、水飲んだり被爆した魚喰って被爆したりしている。

・筑波大生 渋丼の場合

 大気汚染は深刻な問題の1つだよ。茨城の東海村、チェルノブイリ事故でも話題になったし。

・東北大生 酉内の場合

 (放射能除去は)必要ない機能だな

といった感じでした。やはり東大生の答えが一番説得力ありました。テキトーなこと言ってる酉内君は死んでください…。それはともかくとして放射能による大気汚染はあるらしい。私の物理のイメージだと、放射能・放射線ってものとかを無視して進むビームというか波動みたいなものだと思っていたから、空気とか関係なくね?って感じだったんですけど、それは間違いみたい。

 それからまた福岡のいじめ問題について、また少し。マスコミは相も変わらず学校や教育委員会、担任教師バッシングで盛り上がってますが、ウェブ上ではそうではないです。マスコミという組織が公権力を批判するのはある意味では使命的な部分があるのでそれは仕方ないことですが、ネット上における個人の見解(私的にはネット上の個人個人の意見の総意が本当の一般論と感じる)は学校側や教育委員会、担任教師を批判した上でもっと現実的なことを見ているように感じます。

「直接の原因は二年になってもイジメを継続して行ってた同級生だろ。教師が直接の原因なら1年のときにとうに自殺してる」
「マスゴミの操作に過剰反応しすぎだ。アフォしかおらんのか?」
「この教師はクズだが教師に全て責任押し付けてる親もクズ」
「この教師は勿論逃がさんが、加担したクズどもも晒せや。このまま教師一人が糾弾され続ければ、このクズ連中は安心だよな。こいつらだって殺したくせに」
「うちの子に何かあったら学校に登校させないって書いてる人は、ごもっともですが、そういう親が多いことも深刻な問題なんですよ」
「社会に出たらもっともっと辛いんだぞ。結果出せなかったら人間としても扱ってもらえないんだぞ。何よりまず食って行かなくてはならないという現実があるんだぞ」
「しかし子供が弱くなったな、親も同様に 教師のあの程度の言動なんて誰もが言うよ んな事でいちいち死んでたら人類滅亡するよ」

以上は某ニュース記事から引用した。正直、私の親の世代からすればこの感覚はいまいち理解しがたいのかもしれないが、私は共感を覚える。というかマスコミのバッシングより上記の某巨大掲示板の書き込みのほうがまともな感覚に思える。非常に現実的な思考じゃないだろうか。
 あくまでも例ですが、どっかの弱小国がどっかの強大国の嫌がらせで崩壊したときに『国連に責任がある』っていうようなこと言っているのがマスコミじゃないだろうか。そんなわけないですよね。悪いのは明らかにその強大国に決まってるんですよ。それを助長した奴じゃなくて、当事者が一番悪いに決まっている。それがまともな思考な気がする。
 それと私は個人的に疑問なんですけど、親が知らないことを周囲の誰かが知っているんですかね。親だって子どもがいじめられているなんて知らないのに、教師が、さらに言えば学校が把握でもしてると思うか。少々残酷な話にはなるが、いじめを止められなかった責任は学校とか先生にあると思うが、自殺を止められなかったのは親の責任な気がしてしまう。それが不謹慎とか被害者なのに責めるなよって思って誰も言わないけど、割と多くの人が感じているようなことなんじゃないだろうか。
 別にこの自殺した子どもの親がそうだったとは言わないですけど、最近の子どもを学校に通わせている親の中には勘違いした奴が多い。学校に家庭的な教育を求めて、学校に色々なことを任せっきりなって、何か問題があれば学校は糞だみたいなことを言う。正直、頭どっかおかしんじゃないだろうか。学校ってそんな良い所じゃない。ハッキリ言って、大学卒業して就職ができなかったような人達が先生になっているようなものだからそんなことができるはずがない。もちろん、中にはもの凄く話の分かる先生もいる(多くの場合、そういう先生は世の中のことを知っている。1度は社会経験をしているか、人間という生き物の汚さ・醜さをある程度理解している)。でも社会に出たこともないような人が先生になっているのだから、社会の厳しさを学校で教えることは無理なんだろうなと私は思う。だから学校はろくな所じゃない。多くの学校が誰のために存在しているか、よく分からないところがあるしね。

追記

 死ぬこと自体に意味はない。得とか損とか、そういった全てのものを無視した、無意味化した次元に存在する死という行為には、本当に意味はない。生きている私から自殺した生徒に声を掛けるとするなら、同情的な哀れみとむなしさ。その他諸々の気持ちが合わさった「おやすみ」という言葉だと思う。

最近ですよ

2006-10-19 02:52:11 | ATOP
 こんばんは、ATOPです。ゼミのガイダンスがあるとかないとか。あー、面倒な話です。まぁまちがいなく政治学系のゼミにはいることは間違いないです。とりあえずオー明治にもアップされていないガイダンスが明日あるので、時間も分からず行く予定です。おそらく政経の半数はこのガイダンスの存在すら知らないのではないかと思うのは私だけだろうか…。

 今日(18日水曜日)の天声人語を読んで「?」だったのはあまり気にしないことにします。最近はレイアウト作業で後輩と色々なんかやっています。競走担当ともなんとか順調にやっています。すでに全要提3日前にして、写真のデータ入稿が可能の所まで仕上げ、いたって順調です。ただのどが痛いので、風邪引いた予感がします…。これからが忙しいので気をつけたいと思います。
 箱根駅伝の予選会は今週の土曜日。今日はアメフト部の取材のため八幡山に行ってきたのですが、岡本さんとかを見かけた。いつも通りだった(汗。まぁ今のまま行けば箱根駅伝に出られるとは思います、おそらく。私は予選会には行けないのでニッカンでその結果待ち。勝ち抜いてくれることを期待して入稿します…頼むぞ、競走部。むしろ競走担当。
 最近無意識下で感じること…というかずーっと感じているのは、「思いやり」とか「気遣い」とかという言葉の響きのむなしさ。そういった本来形でないものを言葉というものを使用して表現するとなんと薄っぺらいことか。そもそもそんな精神自体分厚いものかは疑問だが、ただそういったものは言葉にして求めるのではなく行動として求められるのだろう。ただそんなもの普段から存在している。それに気付くか気付かないかはそれほど重要ではなく、肝心なのは必要以上の「思いやり」なんて必要ないということじゃないだろうか。お節介というものとは全く別の問題で、「思いやり」というものほど都合の良い言い訳はない。自然になる。素直になる。そうすれば自然と思いやっている気がする。

いじめ

2006-10-18 02:42:14 | 社会問題
 今日は少しまじめに福岡の中2の自殺について考えてみる。

 というのも今日は先輩に「お前の親父とかはどう考えているの?」と訊かれたのがそもそも。正直、私としてはこの事件にそれほど興味を持っていなかったので、一応教育者である親父とこのことについて話したこともなかった。
 まぁまず考える上で、教育委員会や学校、校長・教頭、中1時の担任教師の不誠実な態度は考えないこととする。というかアレを不誠実という一般的見解が私にはいまいち共感ができない。正直あんなものじゃないかと思うのは私だけだろうか。別に養護するわけではないが、私がそういう立場にあったらそうするような気がするし、ごまかしたい気持ちは必ずあるはずだから。でも二転三転するのはよろしくないと思いますけど。最終的には誰かが責任取らないと収まらない現在の日本社会を考えれば、いつ次の自殺者が出てもおかしくはない。そんな気がします。
 んで、いじめについて考える。正直、普通に考えれば良いことではないのだろうが、どの社会においてもいじめがあるような気がする。私が生きてきた20年間にもいじめと私が認識できた覚えがあるものは確かにある。そう考えれば確かに私はいじめを助長したということでもあり、加害者でもあるんだと思う。つまりはこの事件における担任教師やクラスメイトとさほど変わらない。さすがに申し訳ないことをしていたとは思うが、一概に私が悪いということとも思えない。
 いじめを肯定するわけではないが、無意識・意識にかかわらず、人は人を傷つけている。それと普段から自分の環境は自分で作るものと考えている私からすれば、いじめられている側が6割方悪い気がする。いじめられるべくしていじめられているんじゃないかとさえ思える。結局、自分自身を守れるのは自分しかいない。親が守ってくれるわけでもないし、教師が守ってくれるわけでもないし、友達が守ってくれるわけでもない。そう考えれば、自殺という選択肢を選んだのは生きているときに自分自身で環境作る力がなかったのだろうし、ある意味では自殺することではじめて自分自身の環境を作り出すことができたのかもしれない。寂しい話ではあるが…。
 少し本題からはずれてしまうかもしれないが、いじめという現象は人間が本来持っている精神作用というよりも、日本人が抱えた精神作用なのではないだろうか。昔から日本人は自己防衛的攻撃心を抱いているとよく言われていて、今現在もそれがより強くなった気がする。周りから攻撃されるだろうから、攻撃するというちっちゃい考えだが、これが第2次世界大戦を起こした原因の1つであるからバカにできない。その精神がいじめという現象・行為にあるはず。自分自身を守るために、他人を虐げる。だから無意識・意識を問わずして人は人を傷つける。
 正直なところ、傷つけ合うところはギブ&テイクなんだと思う。それをそう思わないで人を傷つけないで生きていこうと考えるのはイエス様レベルの人間か、現実を理解できない人、自殺を選ぶ人だ。誰かが生きるといきるということはその裏では誰かが死んでいるということ。そういった現実を理解しようとしないで、NOいじめを言っている人は偽善者なんじゃないか。人は他人をいじめているのは間違いない。それが個人か集団かの話。ただ集団の問題にしたがるのはごまかしたいだけで、冷静に自体を見つめてみれば特定および個人の問題に根ざしている。最終的に個人と周囲、個人と他人という感覚が失われない限り、いじめはなくらないのだろう。
 学校側の不誠実な対応とかを批判するのは構わないが、担任教師の普段の対応が間違っていたと私は思わない。自殺した人が英雄になるわけでもないし、自殺したことが弱者だったことを示すわけでもないし、教師が自殺に追い込んだ最大の原因でもないし、クラスメイトが傍観者で悪者なわけでもない。ともかくとして教師に一生を通して償うとか言わせた世論は責任を取るべきなんじゃないだろうか。

生きるは祝杯

2006-10-17 12:54:24 | ATOP
花実のような記憶たちは 焼かれ爛(ただ)れ抜け殻だけ
あの日の魂は どこへ行ったのだろう

冷たい膚(はだ) 寄せて触れて 胸の傷と傷を合わせ
再び辿るべき地図 ここに刻む

世界は見えぬ翼 その黒影(かげ)に隠された 純白の一羽(ひとはね) 射止めよ

生きるは祝杯 口移しの快楽(けらく) 乾く嗤(わら)いも息も絶え絶えに
まぐわいあう慰みの掌に 虚しさだけが膨らんで

ああ玉砕と美しく散りゆくならば 恍惚の先にまだ君が居る

はいはい

2006-10-13 17:11:24 | レビュー
 くぉ~じょぅゆぁい♪『男たちの大和』見ました。ポイズン反町が生き生きとしてました。でもとくに何かすばらしいわけではないです。そういう映画だったように思います。それから『ワールドトレードセンター』見ました。別にニコラス・ケイジじゃなくていいだろ!っていう映画でした。

 はい、最近何もしてないし、何もありません。相当の体たらくです。

部活

2006-10-08 04:23:06 | ATOP
 読む前に警告しておきます。これは私個人の考えではあるものの、説教的な話であり、不平不満の裏返しです。でも何にしろ私の考えです。

 こういう編集期間と編集期間の間、つかの間の休息。気付けばいつも部活のことを考えている。それは学年の問題とか編集期間におけるシステムの問題と言うことではなく、相も変わらず部活動という行為なり、部活という組織について。
 先日も記したとおり、「次頑張れば良い」という残酷な行為についてもそうですが、冷静に考えればそれは明らかに都合の良い言い訳である。正直な話、次なんてものは存在しない。うちの部活でもそうではあるが、簡単な話、1回新聞作ってしまえばまた同じことが繰り返して起きることなんてない。だから9月号で言えば、今の3年生が幹部で2度と作る機会のないもので、またやってくることはない。おれっきり。失敗したら取り返しがつかない。なぜなら作り出したものは既に否定もできないし、失敗自体も否定はできない。失敗は失敗でしかない。ある意味それは意味を持っていない(失敗というものに意味なんてないということ)。大きな損をした。ただそれだけのことでしかない。
 もっと現実的に考えて欲しい。たとえば何部でも構わないが、野球部で考えて欲しい。試合で失敗して負けたとする。負けた時点で次は存在しない。その年のインターハイなりインカレはもう2度とやってこない。それはプロもアマも関係ない。起きた事実の否定は不可能だから、負けてしまえばそれまで。大きな損をしたという事実だけ残る。そこで真摯に受け止められるか、次から頑張ればいいとテキトーに濁すかが肝心なだけ。
 とりあえず「次頑張ればいい」はこの間、大分書いたので置いておくことにします。最近考えていたのは、うちの部活の最大の謎。「用がなければ部室に来ない」というふざけた実態。それって部活じゃないと最近ようやく気付いた。今まで私も「用がないのならわざわざ来る必要なんかない」と思っていたが、冷静に考えたところ「用がないということは、俺って部活からすれば用無しってことじゃん」という事実が残った。用がなくて部室に来ないというのは、ハッキリ言って必要のない人間って言うことを宣言しているんじゃないだろうか。
 普通の場合を考えて欲しい。だいたいの運動部…というか全ての運動部と多くのサークルにも練習日なり活動日というものがあるはず。そういったものが決まっていて「自分は用がないので部活に出ません」というのは異常。用があろうがなかろうが活動日なのだから活動するべき…というより、それがしたくて来てるんだから活動日に参加しない奴は部活をやる資格なんてないのではなかろうか。
 それをうちの部活に適応するなら、編集期間は用があろうがなかろうが来て当たり前。全体集合だから来るとかっていう感覚がそもそもおかしくて、編集期間で一番活動するときなのだから、その活動日にグラウンドである部室に来ないって…つまり参加しない奴って幽霊部員というか不必要な存在じゃないか。
 正直な話、部活って片手間でできない。どう考えてもできるはずがない。正直、バイトと両立とか普通ならできない。というかどこの誰がバイトしながら部活やってるんだよ?普通、やるにしても活動に差し支えないようにやるもんだろ。
 だからそう考えるとうちの部活は部活じゃない。最も適した表現はサークル活動。人が集まってテキトーにやってるに近い。ルール知らない奴はまず論外。取材行かない奴が記事を書けるはずもない。新聞読まない奴がうまく記事を書けるはずもない。活動日に活動しなければ部員なわけがない。
 だいたいそんなサークル活動みたいなことやってる奴が、部活動している人達のことを本気で新聞というメディア媒体上で記事書けるとでも思ってるんですかね?はっきりいって記者じゃなくて、それミーハーじゃん。ハッキリ言って失礼に当たるんじゃないだろうか。ましてやそれが来年から体育会を外れ、有団連として活動する組織なり、組織の一員なんだろうか。正直今の部活にその資格はないと私は思う。
 部活よりバイトなり趣味なりプライベートを選ぶ人間って部活って言う組織形態に向いてないんじゃないかと思う。部活にいて本気になれないなら、いないに等しい。それが本来の部活という組織であり、活動であるように思う。
 だから私は決めた。私用で取材来なかったり、会議に参加しない奴がいたら何もさせない。それが然るべき対応である気がする。

 話は変わりますが、簡単にいってしまうと待つのやめます。20年間生きてきた人間がたかだか数ヶ月で変わるわけないです。てか、もう何も変わらないと思う。そんなの待つだけムダ。時間は有限である以上は待ち続けることはできません。それは同時に自由を失う茨の道ではありますが、指くわえて状況が悪くなっていくのを静観しているよりかはましです。自分のできることをしないで、他人の成長なり変化なりを期待しているなんて愚民のすること。環境は自分が作り出すもので、他人が作るものではない。力なき者は努力するしかない。それがないのなら立ち去ればいい。正直そこまでなんだろう。これからやれることを最大限やります。立場なんて知りません。プライドとかメンツなんて考えて阿呆見るなら、それらをぶっ壊してでも良いから正しいと思ったことをやりたいと思います。妥協はしない。やる気ある者だけが生き残るから。

取材後記

2006-10-07 23:57:14 | 今日この頃
 あー、神宮に応援しに行ったら腕痛いわ~。こんばんは、ATOPです。昨日の大雨から一転、晴れ渡り抜群の青空。神宮は新たな伝統、明治対東大戦。圧倒的な力の差を見せつけ、9ー0でした。取り敢えず勝って良かったです。

 今日は取材後記を少し。現在、ウェブの方でやっているアメフト部の企画の取材後記です。この間、合宿所へ行き第3回で扱う平山主将を取材してきました。6時から話し出して、取材が終わったのが19時半。1時間半に及ぶロングインタビューで、A4の白紙が裏表びっしり埋まりました。平山さん自身、私が今まで取材してきた体育会の選手の中でも結構話す方で、とても取材しやすかったし、感想としてものすごく楽しかった。
 記事を読んでくれれば分かると思いますが、顔だけでなく発言の内容も格好いいです。ただ記事がわりと荒削りなのでかっこよさが半減しています(汗。それはともかくとして、私個人として感じたことを少し書こうと思います。
 私が一番強く感じたのは「勝利へのこだわり」。これはおそらく体育会一かもしれません。それぐらい「勝利へのこだわり」を持ってます。勝たなければやっている意味がない。勝つためにやっている。当たり前ではありますが、そういった言葉を口にする選手って結構少ない気がします。にも関わらず、アメフト部の前主将・山さんもそうでしたし、平山さんもそれらを口にします。
 記事中にもありますが、平山さんと山さんでは大分タイプが違います。山さんは高校から活躍していた学生アメフト界のエース。もちろん、明治には推薦で入ってきてます。それに対して平山さんは小学生の時から高校まで野球一筋。明治には一般入試で入学してきて、大学からアメフトを始めました。そういった経歴的にも全く違いますし、性格に関しても大分違います。山さんは豪快な部分と繊細な部分が入り交じった感じで、表現は悪いですが「賢いバカ」みたいな部分があって、繊細な部分があるにもかかわらずそれを隠して、豪快に大盛り上がりします。それに対して平山さんって豪快な部分はなく一言で言えば「謙虚」です。
 そんな2人が同じことを言うんです。これには驚きました。05年の体育会誌をお持ちの方はアメフト部の主将の言葉をお読みください。自分達の弱い部分から目を背けず、「やれば勝てる」ことを植え付け続けていました。そして練習は絶対裏切らないという言葉。そして私の記者の目にもあるように「実際、試合に出て闘うのは監督でもOBでもない学生だから。その学生が『勝ちたい』という意識を維持できれば絶対負けない」。この言葉が山さんを表した言葉そのものだと思います。
 それに対して平山さん。記事を読んでくれれば分かるとおり、似たようなこと・同じことを言っています。自分達は弱いことを認識するからこそ強くなれる。そして勝つ。技術云々ではなく「勝ちたい気持ち」が全てを支配する。この勝利へのどん欲さを直接聞いていると、山さんが平山さんを主将に推薦したわけが分かった気がしました。
 それから単純に感動したのは、

―――では、どうして平山さんはアメフトをするんでしょうか?
平:今の立場からすれば、チームのためにしてあげられるから。それでチームを勝たせたい。あとみんなの喜んだ顔が嬉しいから。野球で言えば部員が100人いたって本当に喜べるのは9人かもしれないし、20人かもしれない。でもアメフトだったら何人いようと全員でやれる。どんな人間でも必ず試合に出られる可能性はあるし関与ができるから、全員で勝ったときに“ワァー!”って全員が喜べるのは最高の栄誉です。今年も初戦勝ってみんなの笑顔がみられたのは自分にとって最高のことだった。

これ。こういうことを言える人は強いだろうなって感じた。主将になるべくしてなったんじゃないだろうかなと感じました。

お休み

2006-10-06 02:00:12 | 今日この頃
 人妻じゃんけんじゃないそうです。萌え萌えじゃんけんらしいです。こんばんは、ATOPです。実際どちらにせよ、常人には理解できない分野。やはりこの分野に精通している先輩はさすが…。

 部活の話をすると暗い話しか生まれてきません…たぶんそれは気のせいじゃないです。原因?それはもう個人の域を超えているんじゃないかなと思い、ある意味で個人でいることが唯一の救いだったり気がする。
 そんな話しても仕方ないので記事書いて寝ます。お休み。

PS 結婚相手に望むものは意地の悪さ

イエスの戯言ですか

2006-10-05 03:08:05 | ATOP
 まぁまた説教くさい話になるんですが、人を思うことって意味あるかないかではなく、なんていうんでしょう、それが優先順位第一項なのかイマイチ分からないところです。特に最近は。

 もちろんそれが大事でないとか思っているわけではないです。ただ人の気持ちを考えるとか人を思うことって、案外都合のいい言い訳な気がします。そういうことを言えばあたかも正義みたいなことを勘違いしているんじゃないかとすら思うときがある。なんかそういうことを口にする人に限って、現実逃避してごまかしているか、本当に人のことを考えていないような気がする…そう思うのは私だけなんでしょうか。
 こういうこと言ってるせいか、私は人のことを思えない人間だと思われがちです。もちろんあながち間違ってないわけですけど(何。でもまぁもちろん私も木の股から生まれたわけじゃないし、れっきとした人間であるから人のことぐらい思えます。思えると言うか、考えます。自然と考えてるものですし、思ってるもんじゃないですか。ただそれがどの程度かと言えば、人よりもレベルが低いのかもしれませんがね。
 ただ人を思うことを口にしてなんか言うのはかまいませんが、私が最終的に腑に落ちないのは人を思う前に人を知らないといけないんじゃないだろうか。相手を知らなければ思うことなんて程遠いし、やっぱり知らないで思うことを何かの口実にするのは明らかに都合のいい言い訳な気がする。
 もっと現実的な話をすれば私には無償の愛を提供できないという限界を持っています。相手を知れば知るだけ思うことはできるが、知らなければ思うことなどできない。皮肉を言えば人を思うなどと公言できる人は、イエスキリストのごとく広い心を持っているんじゃないでしょうか(笑。
 そういう皮肉は置いておいて現実問題、本当に人のことを思えば優しくすることだけが人を思うことではないはず。1つの失敗に対して、相手のことを考えれば「次ぎ頑張ればいい」と言うことが本当に正しいか私には疑問です。もちろん最終的にはそういうところにたどり着くであろうし、そういうフォローが必要だと思う。ただ最初から「次頑張ればいい」と言って済ますのは、現実から目をそらしているだけでしかないと思う。正直、次があればねって私は考えてしまいます。失敗したときにどこが問題であったか、何が問題だったかを追及できなければ、次も一緒なんだから。ましてやここぞというところで1回きりのことだったら、次なんて存在しない。だから失敗と言うのは重く受け止めなければならないはずだし、ましてや本当に人のことを考えるなら真実を伝えなければならないことだってあるはず。そう思うから駄目なものを駄目と言う勇気を持ち続けたいと思う。これも都合のいい言い訳だが、それが人を思うことになるから(笑。それはある意味では恋であるし、愛でしょ。