俺もお前も人生の敗北者

とりあえず否定から入るネガティブ思考で常にB級嗜好なATOPのブログ

床屋にて思うのです

2017-06-03 16:27:26 | 今日この頃
先月で、31歳を迎えた私。

あくまでもメンタル的にはいまだに学生気分です。

飲み会行ったら「フライドポテトください!」とか言ってしまいそうなぐらい学生気分です(何。

最近話題になった、上司と飲みに行ったとき「フライドフライ」はありかなしか論争でも思うのですが、

みな、知らず知らずのうちに年を取っていき、いつの間にか味覚も好みも変化していくんです。

そりゃ、若い人とおっさんが飲みに行けば飲み物だって、食い物だってギャップがあるんですよ。

たしかに、おっさんに合わせたメニューだけ注文するのは、ビールすら飲まない現代の若者にはつらい献立かもしれない。

いまの若い人からしてみれば、自分の親父がどんなもの食っているか知らないひともいるだろう。

幼いころから家族との食事から離れて、塾通いしていた人からしたら、おっさんの好みなんぞ理解する機会は少ないわけで。

というか、おっさん世代との生活習慣やリズム、文化が異なりすぎて、接点とか妥協点を見つけるのが、つい10年前を想定してもより難しくなっているかもしれない。

そして、おっさん世代はわからないかもしれませんが、現代の若い人間には「大人になる」機会とか、意識なんてないのです、たぶん。

いつまでもマンガを読み、アニメを好み、子ども時代の思い出に浸り、独身貴族ならぬ、独身モラトリアムに居続けたいひともいれば、

職場と個人を地続きに考えずに、それぞれで自分の立場を使い分けられる人種もいるのだから、

たまたま付き合いでいった飲み会で「フライドポテト」と注文して怒られたら、2度とおっさん世代とは飲みに行かんだろうに。

閑話休題。

まぁそんなことを思っていたんですが、それは別にどうでもいいことで、今日はその件とは別のことを。

今日、床屋で年下の理容師さんに髪を切ってもらいながら思ったんですけど、きっとその理容師さんからすると、私は充分におっさんなんだろうな、と。

そりゃ、見た目だけではなく、髪質や髪の色、本数からしてもおっさんの域に入っていることを感じているに違いない。

ただ、そこで思うのは、自分としては彼が思っている(かもしれない)ほど、年を取った実感がないこと。

たしかに年々体は固くなり、どこかに不調があったり、病気の回復が遅くなったりと老化を実感はするものの、

周りが感じているほど自分は「おっさんじゃないはず」と思っている(必死。

きっとこれは、みな誰しも感じているに違いない。

「生涯現役」「永遠のホープ」みたいな幻想から、さっき言った「若者気分」「学生気分」なんてものを多かれ少なかれ持っているに違いない。

そう。誰も年齢相応の心構えというか、準備みたいなものができないまま、年を取っていっているのではないか。

それが自分の中で形成されぬうちに、気づくと「おっさん・おばさん」のカテゴリーに突入していっているのである…。

この30代に突入した人間としては、どう心構えを持つべきかを髪を切られながら考えていました。

「おっさんを自分の中で許容すべきか」「おっさんという評価にあらがうべきか」。

結論としては…

おっさん年齢に入ったことは抗えないので、素敵なおっさん像を目指す準備をすべきだと思いました(何。

要するに、もう40代は目前で、40歳になんかなりたくないわ!と駄々をこねるのではなく、素敵なおっさんになろうと思うに至ったわけです。

でも、きっとこの世に素敵なおっさんは空想上の生き物なので、私はなれないのでしょう(笑。

5月が終わる

2017-05-27 18:35:53 | 今日この頃
気づくともう5月も末。

今月は高校からの友人の結婚式で帰国したり、いろいろと忙しい月だったように思います。

でも考えてみると、日本語教育については徐々に情熱というか、そこに割ける時間が減ってきているような…。

日本語教育に携われる時間がおのずと減ってきており、その影響なんですが、なんとも言えない心境です。

最近「ベトナムで暮らしていこう」と前向きに考えているので、

ほんとうに今の仕事をずっと続けていけるんだろうか?という不安みたいなものが少しあって、

日本語の需要というものを社会情勢や、国際情勢を見てやきもきもします。

ただ、私一人で考えていても解決策などないのでやきもきしても仕方がないのですが、

きっとなんとかなるんだろうなぁってベトナムの人たちを見ていて思います(笑。

私がこのままベトナムに暮らしていくことへの不安ももちろんあるけど、

きっとこれは日本で暮らしていても感じる不安なんだろうなって思います。

どこへ行こうとも、どこで暮らそうとも、生きることはそれなりにめんどくさいのですから。

どんな仕事をしようと、どこで働こうとも、人間関係はしちめんどくさいのですからね。

友人の結婚式を見ていて「あー、まともだなぁ」と思ったんですが、

それは幸せのあり方の一つでしかないのだとも思いました。

なんてな。

問おう!汝の学ぶ理由を

2016-12-03 15:43:14 | 今日この頃


どんなことでも、技術を教えることはある程度できます。

でも、その技術を覚える動機を教えるのは、なかなか難しいです。

たとえば、「英語」について考えてみてください。

英語を勉強して、身に着けます。

でもそれを何のために覚えるのかは、日本ではなかなか難しいです。

一般的な必要性は提示できます。

世界で使われている言語で英語は多くの割合を占めていることや、コンピューターのプログラムのソースは英語であることや、英語が軸となり構築されているコミュニティや制度など多いことは、「一般的な必要性」として伝えることはできます。

ただ、それは英語を学んでいる本人の必要性にマッチするとは限りません。

技術の先にある「当人にとっての必要性」=「目的」になるかといえば、そうではないときもあります。

日本人の多くの「英語」を勉強する目的は、「大学受験」しかありません。

その後の大学生活や、就職先の環境で「英語」を使うか使わないかが分かれます。

私もたまたま、就職後に「英語」を使う機会があり、「転職」を考えた際にTOEIC受験が必要だと考えたため、学生時代にはまったく持ちえなかった「当人にとっての必要性」が生まれました。



その時に「なんで学校の先生はこんな簡単なことを教えてくれなかったんだろう?」って思いました。

技術を生かした先に何があるのか、全然教えてくれなかったような気がして腹が立つ気分でしたが、きっと先生たちは教えてくれていたはずで、私が何も感じてなかっただけだろうと反省しています。

実際、いま私が「日本語」を教える立場になり、学生に対して「日本語」を教える先にある「目的」を伝えられているか自信はありません。

どうにかして教えられたらいいなぁって思うんですが、なかなか学生たちは目の前のことで必死で。



最初は「英語」を勉強し始める「目的」が「大学受験」でもいいと思います。

「日本語」を勉強し始める「目的」が「仕事のため」でもいいと思います。

でも、それだけじゃなくてもいいと思うんです。

もっとくだらない理由でいいと思うんですよ。

「金髪のおねーちゃんたちと話したいから」とかそんな邪な考え方もありなんですよ。

「韓流スターにファンレターを書きたいから」とかそんなんでもいいんですよ。

その人なりの「目的」があればいいと思うのです。

そう、その人なりの「目的」があってもいいとは、学校の先生は言ってくれなかった(何。




そう思って、日々講義で「君は何のために日本語を勉強するのか」を問うのである。

そして「日本で働くためです」と返され毎度がっかりするのです。

お願いだから私の仕事を邪魔しないでほしい

2016-11-12 19:12:48 | 今日この頃
やられたらやり返す、倍返しだ!

というドラマが流行ったのはしばらく前のことですが、わりと私も大人げないもので、これを職場で執行することがあります。

というか、先週しました。

どうやら私のやっていることが越権行為だとクレームを入れてくる輩がいるので、「よろしい、ならば戦争だ。越権行為というなら、もう何も助言も要請もしない」と臨戦態勢に入りました。

そして、このほど、先方とどうしても仕事をしないといけないことになり、私はあえて事前の根回しや、要請をせずに、仕事を進めました。

期限の直前になり、先方から「まだ準備が整っていないから、できません」という話が来ました。

私は「私は構いません。私は準備が整っているし、もし期限に間に合わなくても私自身は困らないし、困るのはあなた方と、顧客だ。私はクライアントに、あなた方が準備を怠ったから納期が遅れると報告するだけ。私はあなた方から越権行為をするなと警告を受けているから、要望をすることはしない」と答えました。

そう高々と宣言した結果、私の部署と先方の部署の連絡をやり取りしている役の人が大変焦りだし、先方に連絡。

午前中は「できません」と言っていた話が、午後には「できます」に変わりました。

結果的に倍返しは失敗しました。

全然自慢することでもないし、非常にばかばかしい話です。

私は仕事をしたいだけだし、相手がどう考えているか、どうでもいいのだけど、お願いだから私の仕事を邪魔しないでほしい。

ベトナム語教室に行こうと

2016-10-29 14:48:32 | 今日この頃
突然ですが、今度、ベトナム語を勉強しに行こうと思います。

こちらへ来てだいたい2年3カ月経つのですが、ようやく重い腰をあげました。

語学教師やっておきながらあれですが、私は語学教師が嫌いです。

語学教師って、だいたい語学が得意だから教師やっている人が多いわけで、私は基本語学が下手だから、得意な人な話を聞くのは気が重いです。

変なんですよね、スポーツは上手な人に習った方がいいって思うんですけど、語学に限ってははそう思えないのです…。

それでも、少し思うことがあって、ついに通うことを決めたのです。

こと「語学というのは日常生活で使えば自然と上達するもの」と自分でも思っているから、ベトナムで働いているんだから、まずは職場で実践しろよ!と思うんですけどね。

やっぱり、金を払った方が責任感が生まれると信じて、語学教室へ通うことを決めたわけです。

なんていうか、それ以上にやっぱり将来に対して不安を感じたんだと思います。

今後もベトナムで生活するにしても、中途半端な英語と日本語教師の資格では生活しづらいと。

将来のことは分からないんですけど、どうも今の仕事を一生続けてるとは思えなかったんです。

少しセコイ話ですが、今後、日本で生活するにも、ベトナムで生活するにも、日本語教師の資格で食っていくより、ベトナム語を話せる日本人の方が食っていけると思ったのが強いかもしれません。

そして、年々ベトナムの物価が上がっていますから、日本という国も、日本人という資格も、円という通貨も、相対的に価値や魅力が下がるわけで。

年々物価が上がるならもっと小さい話、ベトナム語教室の値段だって来年どうなっているかわからない訳です(何)。

そんな感じで、明日からベトナム語教室へ行くことになりました。

まぁ、それからベトナム語をどう教えるのかも少し興味があります。

一時帰国していました

2016-09-25 15:28:25 | 今日この頃
一週間ほど日本へ戻っていました。

帰国する前は、いつもと変わらぬ気持ちで帰国にいたったわけですが、ベトナムへ戻ってみるとなんかいつもと違う感じがします。

帰国する前は必死で仕事をしていた気持ちがあったのですが、こちらへ帰ってきてみると「仕事?なにそれ?」ってな感じです。

いまだに休みボケしているだけなのかもしれませんが、それとは別にちょっと心の変化があるように思います。

これまでは仕事はいま生きていくうえで必要なこととしてしっかりと意味があったと思うのですが、

いま思うのは仕事よりもしたいことがあるというか、特別ここで必死になって働くことが一番じゃないかもという気がしています。

まぁ転職したいとか、日本へ帰りたいとかではないのですが、もっと時間の使い方を考えないとなぁと思うのです。

いま仕事に向いているエネルギーや時間をほかのことに費やした方が、今後の人生が豊かになるかもしれないという予感があります。

たまたま今抱えている仕事が少ないから、そんなことを思っているのかもしれませんが…

なんで先週まであんな片意地張って仕事に取り組んでいたんだろうという疑問があります。

久しぶりに日本に帰れば、当然町並みは変わっているわけです。

久しぶりに友人に会えば、人間関係は変わっているわけで。

久しぶりに両親に会えば、当然老けているわけで。

私は私でベトナムで、それらと隔絶した状況下で、ひとり仕事に向き合っていて、それらと向き合ってこなかったなぁと。

もちろん後悔はないし、今後に対しての迷いなんかはないのですが、もう少し今の仕事以外に目を向けてもいいかなという気がしました。

それから、ベトナム戻ってきて思いました。

日本はやっぱり便利だわ(笑。

でも、不便は不便だけど、ベトナムもいいところだなって思うのです。

教師失格

2016-09-10 17:39:44 | 今日この頃
これは…なんていうか、開き直りというか、言い訳なんですが。

私は教師としては破たんしているなぁと自分で思う4ヶ月でした。

この4ヶ月指導したクラスは、この2年間で一番苦労しました。

教師から見ればどんな学校でも入学してくる学生は選べません。

学生というか、学生の質ですかね。

どんなに質が低かろうと、どんなにやる気がなかろうと、その学生を向上させないといけません。

ある意味では「技術」を教えるのではなくて、「やる気にさせる」のが教師の役割なんだと思います。

もちろん、学校の種類にもよります。

自動車学校に、やる気にさせるかどうかを気にしている学生や保護者はいません。

もちろんやる気にさせる方が、効率的に学べるのでしょうが、まぁ学校の形態によりますね。

こと、語学学校においてはこの「やる気にさせる」ということが大切になります。

ましてや、初級、語学を始めたばかりの人間にとっては重要です。

みなさんにも覚えがあるとは思いますが、やり始めが面白くないと全く持って続きません。

なんでもそうですが、はじめを乗り越えれば自分の中に目的意識ややる気がふつふつとわいてきて、おのずと向上する意識が持てます。

教師として「やる気」を学習者に求めるのではなく、引き出す技術というのは語学学校の教師には求められていると思います。

それってすごく難しくて、とくに年配の男性教師はそれを苦手としていて、初級をしたがらないひとも多いように思います。

やっぱり自分で勉強して、自らやる気になって話してくれる学生を相手していた方が楽だし、楽しいですからね。

はっきり言って、幼稚園児か小学校低学年を相手する器の大きさをもって接しないと、学生のやる気はすぐ失われてしまいます。

まぁ、それはともかく、今回担当していたクラスは苦労しました。

やる気云々のまえに、勉強のやり方や、勉強する動機、目標がはっきりしていなさすぎました。

そして、それが30人以上もいました。

期間は4ヶ月。

そして、本人たちのやる気や質とは関係なく、クライアントからの条件は高い。

(私が教えている学校は特殊で、多企業から学生を預かっています)

私はすっかり困ってしまいました。

とりあえずは一カ月半指導して、様子を見たのち、決断しました。

学生に対して、本人たちのやる気や性格を考慮せず、クライアントからの条件に従って、学生に優先順位をつけました。

なんと表記したらいいのかわかりませんが、一律的な指導を放棄しました。

たとえるなら、アクション映画で特殊部隊の人間が救出対象者に優先順位をつけて、救出するように。

全員を救出しようとすると全員助からないという自分の推測のもとに。

現状、自分のスキルや持てる時間や、他の協力を仰いだとしてもできることに限りがあると感じたので、優先順位をつけました。

自分自身の中でもそれをやっては教師失格ではないかという葛藤もあったのですが、それ以上にクライアントの希望に応えられなければ次はない営業マン的な考えが捨てきれませんでした。

いま一番重要なのはクライアントの要望に応えることだと判断しました。

それができなければ、次のチャンスを失ってしまう。

次の学生たちの進路も断たれてしまうので、それだけは避けようと思い、実行しました。

結果として、クライアントの要望にできるだけ近づけることには成功したものの、クラスとしての輪を失い、順位の低かった学生は自信を失ったように思います。

そして、自分自身でも思いました。

こんな働き方は教師じゃないなって。

同僚のベトナム人教師からは冷ややかな視線もいただきました。

でも周囲の教師にも学生にもはっきり言いましたが、「ここは学校であって、学校ではない」って私はやはり思うのです。

みんながみんな幸せになって、卒業していくことができないことを分かって入学してくる、そして、指導することが分かっているんです。

そうじゃなくて、みんながみんな、将来を約束されているのであればあきらめはしなかったのでしょうが、

最初から将来を約束されている人間とそうでない人間が存在している、もしくは、それをかけて競争させている教育環境なのだから、

こういう選択もせざるを得ないのではないかと私は思うのです。

私たちに求められているのは「結果」なんだと、教師としての「結果」、学生としての「結果」が問われているんだと思います。

いくら努力しました、頑張りましたとクライアントに報告しても、条件を満たしてなければ商売は成立しないのだから。

この4ヶ月で教師としての信用は大いに下がったのではないかとなんとなく思います。

でも、それは自分のスキルのなさからくる結果なので、致し方ないことです。

勉強においてその教科が好きになるかどうかは、教師と学生の信頼関係なんですけどね…

最終的には、自分のスキルのなさを商売や取引のせいにして、学生を信じなかっただけなのでしょうね。

執着

2016-09-04 10:11:20 | 今日この頃
もう私は30歳ですから、今から改めてなにか新しいことに挑戦しようという気持ちはあまりありません。

そもそも、ここにいたるまでしたいことがあって、してきたわけじゃありませんし…。

私立の中学校行って、東京にある大学に通って、家電量販店で働いて、ベトナムにいる。

そこに深い考えや、意思や、あこがれがあったわけじゃありません。

なんとなく、そのとき思ったことを、できる範囲でこなしただけで、とても日経新聞で私の履歴書では紹介できない内容です(何。

こと、昔からそういうところは一途ではなくて、飽きっぽいというよりは、おそらく執着心がありません。

みんなが「あれが欲しい」「あれをしたい」と思ったり言ったりするなかで、私はそう言うのからガンガン逃げてきました。

その言い訳として、「内容は何でもいいから全力を尽くす」という言葉を用意して、今日にいたります。



さて、私の話はともかくとして、ここからは一般的な話。

私はもう30歳になったから周囲と自分を比べるということから徐々に解放されつつあります。

20代のころは誰しも思うわけです。

「スタートは一緒だったのに、周りの人間はどんどん前へ進んでいく」

「自分は何もできていない、なにも見つけられていない」

そんなことを思って、いじけたり、落ち込んだり、逃げ出したりしてしまうことはあります。

そうやって友情をだめにしてしまった人たちもいるかもしれません。

でも、きっと年を取れば多くの場合、解決します。

比べたところで別に自分が変われるわけじゃないって気づきます。

どんなに時間が経過しようと、自分は自分でしかないことに気づくし、幸か不幸かはわからないけど、「どうしようもなく自分は自分なんだ」ってなんとなくわかるようになる気がします。

それに、たとえいまは確かに周囲の人間の方がやりたいことを見つけて、結果を残しているかもしれませんが、そのあとはわかりません。

そもそも、周囲の人間と自分は別の存在ですので、なりたい形も違います。

具体的な結果、たとえば車を買うという目標が友達と同じだったとしても、同じ車種が欲しいのか?同じ色が欲しいのか?そういう違いはあります。

自分が欲しかったものを他人が持っているように感じますが、本当にそうかはわかりません。

そして、もし欲しかったものが他者と仮に同じだったとしても、できることは一つしかありません。

それが手に入るまで努力するしかないんです。

運にも左右されるかもしれませんが、でも本当に欲しいならどんなに苦労しても手に入る時まで続けるしかないです。

もちろん、あきらめることもいいと思います。

あきらめて、新しくほしいものを手に入れる準備を始めるのもいいかもしれません。

あきらめたものより、その新しいものが輝ているのならそうすればいいのだと思います。



でも、残念なことに、なにをするにも、すぐには上手にならない、結果には結びつかないんですよね。

言うのは簡単ですが、結果が出るまで真剣に取り組むしかないんですね。

それがなかなかもどかしいところです。

ただ、大切なのは全力を尽くすことなんでしょうね。

恥や失敗を恐れずに、臨むことだけなんでしょう。

死に物狂いで執着しないといけないんあろうなぁって、職場の20代の人間を見ていて最近思いました。


バカの壁@ベトナム

2016-08-12 21:55:33 | 今日この頃
外国に暮らすと文化の壁は様々の場所で痛感させられることがあります。

そして「バカの壁」もまた外国にも存在するようです。

「バカの壁」ってもう死語かな。

かの有名な養老孟司氏が書いた「バカの壁」という本が10年以上前にベストセラーとなったのは覚えていらっしゃいますでしょうか。

このバカの壁というのは、他者を理解してあげられない絶対的な壁、そして、その壁の絶対的存在がゆえに他者のことを「バカ」と決めつけてしまう壁のことです。

ともかく、この2年間、そうの壁にぶち当たることなく仕事を続けてきたのですが、今週、不幸にもその壁が立ちふさがりました。

社会人になって以来、同僚に対してはそういう気持ちになることなんてなかったんですがね…。

それはなんでかって、社会人になれば自分の理想や、イデオロギーを優先せずに、仕事が円滑に進む方を選ぶようになるからですね。

「空気を読む力」というべきなのか、「大人な対応」というべきなのかはわかりませんが、わざわざ自分の意見を押し付けあって争うことなんてしないじゃないですか。

正直なところ、そんなことをやりあって消耗したくなんかないんですよね。

でも、今週それを行いました。

本当に不毛な時間でした。

同じ業務に取り組むメンバーのベトナム人の同僚に、現在の進捗状況が思わしくないから、意見交換しようとしたのですが、全く話が通じませんでした。

そもそも、その同僚は「進捗状況が悪いと思いません」とのたまい、私の意見から真っ向対立。

状況に対する認識に多少差はあるとは思っていたけども、そもそも状況が悪くないと言われてしまったら元も子もないわけで…。

ただ、状況証拠はそろっているので、とにかく改善しないといけないという話に。

でも当然のことながら、そもそも状況が悪いと思っていないのだから打開策・改善策なんて出てくるわけもなく…

仕方がないので、私が考えた案を提示したものの、ご納得いただけず。

じゃ、「どうするの」と聞いたら、ほかのメンバーと相談しますというので、結論は翌日に持ち越しとなりました。

そして翌日。

私に何も言わずに午後休をとって早々に帰りやがった。

もう、その同僚を一切信用しないことを決意し、ほかのメンバーに相談することにしたんですよ。

そしてでた言葉は「私は責任者ではないので責任者のいない場での発言はできない」とおっしゃる。

でたー、ベトナムルール。

立場尊重主義。そして、恨みを買うことを極端に嫌う性格。

どんなに正しい事実や論理が存在しても、他者から逆恨みされることを避ける性質。

いずれにせよ、あなたもメンバーなんだから意見をくださいと言って、ご理解いただきミーティング。

そのメンバー曰く、進捗状況は確かに悪いけども、クライアントが必ずしも最終結果だけで取引をするかしないかを決めるわけじゃないでしょ?と。

え、そんなわけないじゃない。いくら現場は一生懸命頑張っていますっていったって、結果が悪かったらクライアントから仕事は来なくなるよ!と熱弁しました。

残念ながらこれが理解いただけず…。

じゃ、理解しなくてもいいから、現状同じことを繰り返していたらこのまま悪い結果になるけど、どうしたらいいと思う?と聞きました。

その答えは「現場はもっと頑張ると言っていますから、私は応援します」。

私は「うん、それで具体的にはどうやって?」と聞き返しました。

そのひとは「え、ですから応援します。現場の当事者が頑張るといっているんだから、それで問題があるんですか」とさも当たり前に答えるのです。

「え、なにもやり方を変えないの?もしこのまま悪い結果になったとき、クライアントにどう説明するの?現場がやるといったから信じました、私は何もしませんでした、というの?」と私。

残念ながらこの話もご理解いただけず…。

結果的にダブルパンチを食らって、もう今のメンバーで良い結果に導くのは無理かもしれないと思ってしまいました。

私のやり方が悪かったのかと反省してみたものの、納期まで残された時間とクライアントからの要望達成を考えたら、やれることはやらないといけないと私は思ったのですが…。

「ああ…バカの壁だ」と心の中でつぶやきながら一人残った事務所で、机をたたきまくってました。

なんていうか、理屈が通じない仕事ってつらいです…。

そんな一週間でございました。

健康診断

2016-07-16 14:47:01 | 今日この頃
先週健康診断へ行ってきました。

30歳になって初めて受ける健康診断。

誰の目にも不健康に見える肉体を持つ私です。

ただ、当人結構診断の結果を真に受けないというか、さっさと会社に帰りたくて仕方なかったのはここだけの話。

さて、今の会社に入ってから、つまりベトナムへ来てから初めての健康診断でした。

以前、労働許可証をもらうときに健康診断を受けていますが、結果を教えてもらってないので、事実上初めてです。

今回は、外国資本の病院へ行ってまいりました。

病院はまぁまぁきれいですし、静寂があり、親切丁寧な英語対応です。

事前に採血をしており、当日の検査内容は視力、身長・体重、胸部レントゲン、心電図、エコー、尿検査、耳鼻口腔のチェックでした。

エコー検査は人生で初めてでした。

そして、エコーを担当する先生が一見ずぼらそうに見える、後ろのシャツが出っぱなしの中年の小太りな男性医師。

これが面倒なことに親切なことに話かけてくるのだ(苦笑。

「名前は?」「生年月日は?」「バイク運転するの?」「どこのバイク乗ってるの?」「うんうん、気を付けてね」(すべて英語)。

医「そういえば名前の意味は?」

私「サンシャインって意味です」

医「は?」

私「サンだよ。サンシャイン。」

医「…すまん、なんだそれ」

という間の悪い会話をしていました。

それから、視力検査でも

看護婦「○×▽◆○○△◆?」

私「はい?もう一回言って」

看護婦「○×▽◆○○△◆?」

私「ごめん何言ってるか、全然わからない」

看護婦「どれが見えますか?」(私の推測)

私「え、どれが見えるって全部見えるよ」

看護婦「(溜息)…じゃ、指すから答えてください」

私「はーい」

結局、全部正解で看護婦さんは苦笑。いや、笑いたいのはこっちだ。それから、眼鏡かけたまんまだったけど、よかったんだろうか…。

一通り検査が終わって、最後に問診。

知的なのに少しテンション高めな女医さん(ベトナム人)とおしゃべりしました。

でも、全部英語だから時間として30%ぐらいしかわかりませんでした。

まぁ言いたいことはわかりました。

要は体重を落とせということでした。

ありがとう、こんな話を英語があまりわかっていない日本人に10分ぐらい話してくれて。

当たり前の結果が出たことに安心して、私はすぐ会社へ戻ったのでした。

(健康診断終えて会社に戻ったのは私一人であったのは言うまでもないです)

OM-Dが壊れた(2回目)

2016-06-11 18:53:54 | 今日この頃


OM-Dが壊れました。

これで2回目です。

前回は屋久島の雨にやられて電源すら入らなくなりました。

そして今回、センサーを固定している何かが調子が悪いご様子。

電源を入れた時、何かが突っかかっている音がして、正しく電源が入らなかったと認識して電源が勝手に落ちます。

センサーは正しく電源が入っていて、画面にも被写体が表示されています。

でもシステムメニューが表示されずに、勝手に電源が落ちます。

ただ、カメラ本体を特定の角度に傾けて電源を入れると突っかかる音がなく、正常起動します。

そのあと写真を撮ってみても正しく写真が写っていると思います。

唯一、手ぶれ補正機能の表示が頻繁に切り替わっているので、きっとこのあたりが原因なんだと思います。

つまり、なにかしらの衝撃に負けたんだと思います。

チーン。

一応、オリンパスのサポートはホーチミンにもあるのですが、やはり不安。

オリンパスが不安なのではなくて、この国全体に対する不安があり、修理は日本でしたいと思う…。

でも、本当に修理するかわかりません。

考えても見れば海外で生活するようになって、カメラをそんなに使うかといえば使わない。(※日本にいた時から使っていない)

もしかして、処分時期なんじゃないかと少し思っています。

M.ZUIKO DIGITAL ED 12-40mm F2.8 PROもっているのに処分する(売却する)とかあり得ないだろと自分で自分を突っ込んでいます。

でも、全部処分して、それを元手にコンデジ買えばよくね?とか思う自分もおります。

というか修理するより、もう一回EM-5買った方が安いんじゃないか(;^ω^)

こまっちゃうなぁ、ほんとに。

とりあえず9月に帰った時、修理に出して見積もりを出そうと思います。

でも安くないんだろうなぁ。

新しいのを買おうかなぁ。

PEN-Fカッコいいしねぇ、でも高い。

EM-5 mk2…これも10万。

こうして沼の中で必死にもがき続けるのである。

9月帰った時に考えようか。ははは…。

はやく私も賢い生き方がしたい

2016-05-08 21:23:04 | 今日この頃
前も言いましたが、国が変わっても働き方はあまり変わりません。

働き方を決めているのは国でもなく、会社でもなく、自分自身であると海外で働いていて思います。

午後5時までの勤務、残業代はゼロの契約で務めていますが、結局のところ残業を選んでいるのは自分なんです。

自分が想定する仕事の及第点に達するためには、残業して時間を費やすことが(自分にとって)安価で一番楽だからなんですよ。

及第点を下げたくないから、本当は工夫をしてこなさなければならないけど、それをめんどくさがって残業して解決する。

でも、これは不毛です。

実に正しくないと思います。

自分が想定する仕事の及第点ってのは自分が想定しているだけで会社に求められているわけでもないので、本来しなくてもいいことですね。

そんなの自分のポリシー守るためだけであって、会社からの評価には何にも影響しないんですから、はっきり言って無駄なんだと気づいてはいます。

正直、いま私が会社から求められている業務って、学生に日本語を教えることだけなんですよね。

それ以外の業務を依頼してくる会社に対して「はい」「はい」いって業務遂行しているのって自ら自分の価値を下げているんだろうなぁ。

それに加えて、自分で「あれやろう」「これやろう」と考えて実際にやることって、実に無駄なんだろう。

それを考えたら、ただ日本語を教えている人たちって優秀かつ賢い。

あ、嫌味じゃないですよ。

それが会社で働く本来の姿勢なのかもしれませんから。

よし、残業するのをやめよう。

たぶん、無理だけど。

足りないのは努力…か?

2016-05-07 16:55:10 | 今日この頃
南ベトナムはどうやら雨期に入ったようです。

数週間続いた死人が出るような暑さも少し収まるのでしょうか。

ここ最近、というかこれからなのかもしれませんが、今の仕事は忙しくなりそうです。

日本人スタッフの減少と、顧客の増加に伴い、現在いる日本人スタッフに負担が増している現状です。

もうすぐ3年目を迎える私ですが、気づけば職場内では上から2番目の勤続年数です。

どんな仕事でも同じですが、理想と現実は違います。

現実を少しでも理想に近づけるために多かれ少なかれ努力をするのだと思うのですが、ここにいたってそれも難しい段階に入ってきているように思います。

カードゲームと同じなんです。

手札が悪いときにどんなに頑張っても、その場しのぎはできてもゲームに勝つことはできません。

そして、多くの場合、その場しのぎに使われているカードは救われることなく、川へ捨てられます。

今までと同じクオリティーの商品を提供するためには、必ずどこかで工夫をしなければなりません。

原材料を安く調達するか、作業の効率を上げるか、インチキをするか。

こういう場合、ベストの解決策はなく、たいてい運まかせです。

それを運まかせと思って静観するのではなく、少しでも成就するように対策を打つべきだなと思うわけです。

ラグビーの宿澤さんが言っていましたね、「努力は運を支配する、勝つことのみが善である」と。

私たちに足りないのは人材ではなくて、努力ではないかと真剣に考えるのです。

でもなぁ、どうにもならん!めんどくさい!

来週もまた精一杯取り組もう。

ほっといてくれる社会だったらいいのに

2016-04-24 16:53:00 | 今日この頃
ときどき身もふたもない意見を言って、会話をぶった切ってしまうことがあります。

素直な意見を求められたから思ったことを言っているんですが、それがきっと一般性に欠けるんでしょうね。

予定調和な意見をいうことはできるだろうけど、それじゃもう私の意見じゃないからね。

そうなんだな、実に予定調和の意見が聞きたくないし、言いたくない。

お願いだから空気を読んだ発言なんかしないでほしい。

一般的にはこれが正しいとか、世間的にはこれがいいとされている。

それを踏まえた発言を知り合い同士でしてどうなるのかっていう…ね。

メインストリームに取り込もうとする姿勢や、メインストリームに入り込もうとする姿勢。

私は私なんだと主張したいわけじゃないけど、私は私だからそんなこと知らん!と自由でいたっていいじゃないか。

お前も仲間だろ?といちいち確認するような会話にうんざり。