もともと日本人と会う機会なんてめったにないですし、職場の日本人とも食事も飲みもほとんどしません。
うちの職場の風土なのか、そういう人種が集まっているからかなのか、原因は定かではありませんが、基本的に仕事以外の意見交換なんてないです。
それ自体に不満はありません。
意見交換をしたい人間は勝手によろしくやってくれればいいですので。
社交性がない私にとってはどっちだっていいと思っています。
海外にきてまで日本人同士でつるむにも抵抗はあるし、海外にわざわざやってきている人間はやはりどこか特殊だし、もし意見交換をまじめにやれば仕事に差し支えるというか、
「てめぇはなにいってんだ」
「は?なにさまだよ」
「自慢話、乙」
みたいな展開になりそうで、私は嫌です。
海外にいる日本語教師ってのはさすらいの教師なので、一生同じ場所にいるということはあまりないのだと思います。
みな、いつか遅かれ早かれ日本へ帰って、仕事を続けたり転職をしたりすることを考えています。
あくまでも経験として海外で暮らしているだけで、日本語を教えることを本気で考えているかといえばそうでもないです。
学歴やキャリア、語学力を無視してなれる仕事が日本語教師だから、日本語教師をやっている人間も少なくないはずです。
なんせ、私がその一人ですからね(苦笑)。
ただ、私の場合は本気で日本語教師を続ける気持ちは定かではないものの、日本へ帰りたいと思うことが全くないです。
将来、転職をする可能性があっても、日本へ帰るという選択肢は今のところありません。
日本人は嫌いじゃないですけど、日本社会はきついです。
なんていうか、よくいう閉塞感もそうですが、我々の世代での期待できる未来はどうしても想像できません。
他者に対する冷徹さだけに磨きがかかっていくような社会で、自分の幸せを求めるために他者を攻撃したり、守ることを考えなければならない社会はきついです。
もちろん、ベトナムだって原始的な方法で身を守らなければなりません。
治安は悪いし、社会ルールに正当性とかないし、ベトナムの若者だって大学出ても仕事はないし、
いい社会かといえば、それほど住みやすい社会ではないです。
でもまぁ、他者に対して寛容だと思います。
まぁ、そんなわけで、こちらへきてから一切といっていいほど日本人と深く話す機会がなかったんですが、先日、たまたま同僚の先生と出かける機会があり、話す機会がありました。
今回ほかの先生がどう考えているか聞くと新鮮でした。
さすが、海外へ行こうと思う人間だけあって、日本社会に対して少し思うところがあるのと、なんだろう…日本人的な生き方への疑問というのがあるんだなぁと思いました。
ものには不自由しなく、それなりの教育を受けて、社会に出て、結婚をして家庭を築く。
生まれてきた意味なんか、もともと誰にとってもないのだけど、それでもこういう流れに乗って生きていくだけの人生って何なんだろうって。
数ある可能性の中から吟味して、選択した生き方なのだろうか。
このまま流れに乗っていて、本当にそれで満足いく生き方ができるのだろうかって。
私もそう思ったことがあります。
というか思い続けてきたかもしれません。
なんとなく親の言うこと聞いて大学に入って、そのあと何もしたいことがなくて、ありもしない答えばっかり探してね。
その時その時で、もっともらしい理由をつけて、人生の選択を重ねてきたけども、それは結局、自己満足だったと思います。
今だって、自己満足できる理由や根拠のもとに、こうしてベトナムで生活をしています。
今もなお、どうしたら自分らしく生きられるか…
ん、いや、そんな意識高い系の話じゃなくて、もっと充実感のある人生になるのだろうかと答えを探しているものです。
もちろん、海外へ来たからといってその答えは用意されておりません。
どこかの海外転職の広告みたいな、人生の大分岐点になるかはひとによって違いますね。
前から言っている通り、海外で生活したところ人生観や価値観は変わりません。
むしろ、凝り固まって、影響もうけることもなく、思考が化石化していくようなところがありますから。
それでもまぁ、日本にいた時とは違う自分にはなれるので、態度はでかくなるかもしれません(笑)。
こうして海外へ来てもアイデンティティーや充足感を見つけられないです。
もともとそこに疑問を抱えて海外へ出てしまった人間には、どこへ行っても同じです。
私もそうです。
どこで生きようとも、自分は変えられない。
どこにも自分の疑問を満たしてくれるような答えは用意されていない。
海外で生活したことがその後の人生を後押ししてくれることはあっても、それ自体が答えにはなりえない。
いつもただ浪費して生きている虚無感というか、残念な感じは一生ぬぐうことはできないのだと思います。
でも、私の場合はもう若くない。もう30歳です。
これが分岐点だと思います。
あと3歳若かったら、またどこかへ行って、思い切り浪費してやろうかとも思います。
もちろん今でもそんな気持ちもありますが、少しだけそれもめんどくさいなって思い始めている自分もいます。
それが老いってやつなのかはわかりませんが、形のない物や自分や人生の探求をするのは面倒になってきている気持ちがあります。
単純に「もういいか」ってあきらめるというか、納得できてしまう域に確実に足を突っ込んでいる状況に気づきます。
このまま生きれば、ヒマラヤを見ることも、パタゴニアでトレッキングや、オーロラを見ることも、シルクロードを通ってヨーロッパまで行くこともできません。
世界にはまだまだ私の知らない、直接目で見て確かめたいと思うことがごまんとあるものの、それが今そんなに意味があることかわからなくなっています。
そもそもですよ。
大学を卒業して以来、自分が行動することで自分に投資をしてきましたが、何も築けていないんです。
世界を見渡せば、まだまだ自分に投資できる大自然や仕事や文化があるんですが、きりがないです。
それに、自分がこれ以上どうなろうっていうんだって話です。
やみくもに外へ外へ行こうとしても、もう自分にはあまり意味がないのだろうって、思えてくるんです。
そんなことよりも、誰かの夢に投資することの方が楽しいことにだんだん気づいてきました。
誰かの人生にのっかてみたいと、そして、それで喜びを共感できたほうが幸せであろうと思えました。
自分の中へ中へ考えを巡らせても、外の世界へ突き進んでいっても、自分にもともと何もないのだから、無駄だったんです。
無駄っていうのも違うんですけど、それよりも大切にしたいことがあることに思いが至ったわけです。
まぁ、もちろんのこと。
それだっていつまでそう思えているかわかりませんけどね。
ただ、今回、久しぶりに人生について話す機会があって良かったと思います。
皆等しく、悩み悩まされしっかり生きているじゃないかとわかることができました。
これも共感の一つなんでしょう。
久しぶりに話すっていいなって思いました。