俺もお前も人生の敗北者

とりあえず否定から入るネガティブ思考で常にB級嗜好なATOPのブログ

上流?下流?自己流?

2016-10-09 17:04:02 | 社会問題
ベトナムにいると、日本の情報は入ってくるけども、世相は入ってきません。

起きた出来事は入ってくるけど、それを受けて日本がどういう空気感になっているかはよくわかりません。

そのおかげかどうか、空気を読まずに、自分の頭で考えられるのはありがたいことかもしれません。

=======さて。

だいたい20代というのは働くことに対してまじめすぎるところがあります。

まじめは良いです。

筋の通った働き方をして、一生懸命汗をかくことは良いことです。

でも、死ぬほど働くことなんてしなくていいです。

わかります。

不幸自慢的発想で「死にそうです」という枕詞に、身を立てる文化ですが、本当に死んでしまってはいけません。

ボクシングやってて「死にそうです」という状況になるまで鍛えるのは良いけど、それで死んでしまうのは目的を間違えています。

そういうことです。

=======30代に突入してみると。

かくいう自分も、「死にそうです」という肩書にあこがれていた部類であります。

でも、年を取ってみるとその肩書でお酒は飲めても、実生活には何も役に立ちません。

そんな肩書欲しさに時間とエネルギーを費やすよりも、もっと他のことにエネルギーを使った方が良かったように思います。

自分のしたいことに時間を費やすのはもちろんのことですが、なんていうかな、もっと仕事以外の自分を見つけることに時間を費やした方がいいように思います。

自分を必要としてくれる人や、コミュニティをまじめに模索したほうが有意義なんだろうなぁって。

自分を殺してまで、そこに居続ける必要なんてないんですね。

自分を生かしてくれるところを探せばいいんです。

べつにどんなに大企業に勤めようと、場末のアルバイトでも、頭を垂れてまで「自分の場所」にする必要はないね。

自分が生きる場所を、自分で選ぶ。

そこに上流も下流もなくて、ただ流れていく方向だけ自分だけ選んで、自己流の生き方をする。

われ思うゆえに我あり。

そんなことを思った今日この頃。

「死ぬ覚悟」と「死ぬ準備」

2016-07-09 15:56:00 | 社会問題
先日発生したバングラディッシュでのテロ。

亡くなられた方々に本当にご冥福をお祈りいたします。

==============

私もベトナムへ来て2年がちょうど立ちました。

今月から驚きの3年目です。

国内外問わず、不運な事故や事件に巻き込まれることはあります。

ただ、日本においてはその確率が低いだけで、海外では当然のように毎日不条理なことで命を落としている人は多いです。

ここベトナムでも、宗教的対立はほぼないですが、社会主義国家体制に対して自由主義開放的な運動はあるそうですし、政情不安がないわけではないです。

そして、昨今貧富の格差は広がっているという実感は誰にでもあるでしょうから、そういう不満が蓄積されていっているんではないかと個人的には思います。

それに加えて、ベトナムでは些細なことでのいざこざ、逆恨みによる殺傷事件が後を絶ちません。

時々読むベトナム国内の殺人事件のニュースを読むと、そこにまっとうな理由はありません。

もともと殺人にまっとうな理由なんぞないのですが、情状酌量の余地がまったくなさすぎて、理由なくひとが殺されている印象を覚えます。

それを民度が低いから仕方がないと外から見て言うのは簡単ですが、ここで生活して、ここが今いる世界である場合はそれに適合するしかありません。

今回、バングラデシュへいっていた日本人も死ぬ覚悟は頭の片隅にはあったと思います。

でも、現実感はなかったんじゃないかと思います。

私もいつか、こっちのチンピラに目をつけられて強盗にあうかもしれないという想像はしていますが、現実感はありません。

最悪、死んでしまうかもしれないという考えはありますが、現実感はありません。

ただ今回の事件のニュースを読んでいて、少し現実感がわきました。

「死ぬ覚悟」はある程度できていいても、「死ぬ準備」は全くしていなかったと気づきました。

ベトナムへ来るときに「まぁ死んでもいいかな」とある程度考えて来ましたし、今でも別にこっちで死ぬのは構わないと思っています。

でも気持ちの問題であって、現実、自分が異国で命を落とした時、そのあとどうなるか全く考えていませんでした。

そういう点で私にとっては平和ボケした頭にガツンと一発もらった事件でした。

政治が変わらないのは政治家のせいではなくて

2015-09-19 16:07:45 | 社会問題


ここ数年めずらしく日本の政治は熱い。

日本人の関心が案外、憲法9条というか、平和主義に向いているのが意外ではあります。

まぁそれが国民の関心なのか、学者やマスコミの関心なのかはわかりませんが…。

私なんかはもう日本にほぼ住んでいないものだから、国政に意見はほとんどないですし、意見を持つべき立場でもないのかなとも思います。

はっきりいってしまえば無責任です。

ただ思うのはですよ、日本の国会にしても、左翼にしても右翼にしても、やり方がダサい気がします。

特に左翼側。(この場合、形式的に右翼左翼と書きますが、もっと実情はこまごまとしているのは承知しています)

対案を提示しろという右からの意見に真っ向勝負しすぎだと思う。

そもそも現在問題となっている法案に対して論理的に「違う」と思ったのではなく「なんとなく」思ったのだから、

彼らが対案なんぞ用意できるわけもなく、それを考えるのは政治家や学者に任せておけばいいと私は思う。

要は、政治とはイメージ戦略であり、人間の汚い感情と実情の需要と供給なのだから、それっぽければいいんじゃないかと思うわけ。

それをみんながみんな揃って、プラカードだ、横断幕だ、拡声器だと旧時代の遺物のようなものを持ち出してきて、

本来目指そうとしている理想を実現するために、その理想に反した行動に出ていて私の中では非常に印象が悪い。

なんだろうな…この際、何も言わずに花が一輪植わった植木鉢もって、無言で講義するとかのがいいと思う。

お互いわめきあって警察のお世話になるって、どう見たって構図が悪い。

こういう時こそ非暴力、平和への切実な願いを示そうとできない左翼というか、日本の若者にはがっかりです。

彼らが無党派と無支持・無関心の国民の心をとらえるというか同情を誘えるとはどうしても思えない。

力任せに声をあげ、街を練り歩く姿に、仕事で忙殺されている末端の日本国民は勇気づけられない。

もちろん、声を上げることが重要なのはわかっているんですけど、なんかな…

いつの時代も先祖帰りしてしまうものなんですね、政治って。

移民

2014-03-24 01:02:09 | 社会問題
昨今、ぽっとわいた移民政策問題。

安倍政権での「検討はない」みたいな話を国会でしていましたが、実際どうなのでしょう。

こんな排他的な国民性の日本人が本当に移民なんていう政策に踏み切ることができるのだろうか。

お金のことは僕個人ではわかりかねるところではありますが、20年後に移民政策を開始するのと20年後を狙った少子化対策ってどっちが現実的なんだろうか。

移民政策って入管法改正だけでは済まないわけですよね。

外国人が入国してくるということは違う文化が入ってくることですから、それの人口比率が増えれば増えるだけ既存の日本人の権利は薄まるわけで。

それでかつ、そういった外国人を受け入れられるだけの受け皿を用意できるのだろうか…という疑問は尽きない。

ただでさえ、日本の公的サービスは日本語のみで、かつ、ふつうの日本人(日本人の中でもマジョリティに属する人たち)でないと通用しないようになっている。

これをお金の問題だけではなくて、意識の問題もふまえて変えていけるのだろうかという疑問。

でも日本人はそこまで心が広くないだろうなぁ…。

とくに矢面に立つであろう公務員たち(とくに地方公務員)の気持ちと能力はたぶん…。

それだったらどんどん借金して(まずは人口維持ありきと考えて)抜本的に少子化対策をしたほうが日本人の気持ちとしては楽なんじゃないのかって僕は思ってしまうなぁ。

話したがる社会

2014-03-21 05:54:07 | 社会問題
話したがる社会。

なんでかしらないが、最近他人が他人について話したがる傾向が強いような…。

ブログやっているお前が言うなって思うんですけど…まぁ聞いてくださいよ。

なんだか事件が起きると、事件の当事者と本当に関係のない人間が堂々と感想を述べて、それを取り上げて報道することがすごい多い気がします。

馬鹿みたいに顔出して事件についてたまたま同じマンションに住んでいる程度の関係で、事件の当事者を語る姿。

あれは異様。そう思うのは僕だけなんでしょうか。

ひとのことをよく思おうが悪く思おうが勝手ですが、『あいつはやると思ってた』みたいなことを全国区で語る心境とはどういったものか。

またそれを語らして事件の真相を外堀から埋めていこうとする手法が、本当に真相にたどり着くことにつながっているのか。

どうなんでしょう…。

思っていることを吐き出して並べてみても、ひとやものごとが見えてくるとは限らないのは知っているのにね。

そういう疑惑で共感や、恐怖で共感することで安心を得るのか、はたまたそれを発表することで評価されたいのか、さらさら疑問です。

ソチオリンピック

2014-02-20 17:01:25 | 社会問題
今日は女子フィギュアスケート見てまして、言葉が出ませんでした。

どんなに練習しても、実力が備わっていても本番で、真価を発揮すべきときにだせないことがあるという場面を目の当たりにしました。

それ自体は当然起こるし、誰にだって起こりうる当たり前のこと…なんだと思います。

ただそれに加えてうまくいかないときはここまでうまくいかないものなのかと、見てるこちらが完全に打ちのめされた気がしました。

僕はべつにファンでもなんでもないけど、さすがにテレビをみていてかける言葉すら見つけられませんでした。

ましてや「集大成」とまでいって挑んだ本人は落ち込む余裕も持てなかったかもしれない…。

フィギュアスケートに限らず、ソチオリンピックにおいて本人が思うような結果を得られず競技を終えた選手たち。

本来、メダルをとれる人間よりもとれない人間のほうが多いのだから、勝ちたい気持ちとはべつにそもそも負けることのが多いし、結果として悔しい結果を持ち帰る選手のほうが多くなる。

メダルをとることで示される選手、人間としての偉大さというのは凡人の我々からすると光輝いて見えて拍手喝采ですが、負けた・悔しい思いをしたときにみせる人間としての偉大さ、大きさ、輝きを知り、それもまた称賛したいと思う。

一生懸命やってきた、人生かけてやってきた。でも届かなかった。力を発揮できなかった。

それでもなお、彼らは間違いなく輝いています。オリンピックという舞台で躍動してなお輝きを増した。私はそう思います。

オリンピックに出られただけでも立派。それもそうですが、オリンピックに出るべくして出てくれて彼らはひとの美しさや強さ、弱さ、いろいろなことを教えてくれた。オリンピックに出た、実に立派。躍動した、充分。

私はもう27歳であまり夢も希望もありませんが、すごい勇気をもらえた気がしました。うまくいかなくても、ひとは輝くことを教えてくれました。

そのためには一生懸命生きないといけないなぁと…自信なさげに思って今日もこれから学校へいくのでした…。

なんだか切ないなぁ

2014-02-07 18:42:19 | 社会問題
オリンピック始まりましたね。モーグルの伊藤選手大丈夫なんでしょうか。

先日、私もスキーをしてきましたが、膝をぶっ壊している人間からするとウィンタースポーツの膝にかかる負担は尋常じゃありません。

ここ数年はスノーボードをちょろちょろやっていましたが、やはり異常に恐い。

脱臼するべくして板がついていて、転び方間違えると一発でもっていかれるなぁと思ってやっていました。

そのせいもあってそんな積極的にゲレンデに行きたいとなんか思っていなかったんですが、スキーはどうなのかと思ってやってみたらスノボーよりも安心。

変な転び方をしてしまっても最悪板が外れる安心感はとてもありがたい。この仕組みを作った人は天才である。



が、しかし。靭帯やってモーグルなんてできるのかなぁ?と思う。

幸いにも私は靭帯までふっとばしたことなく脱臼ですんでいますが、怪我をして直りかけで競技に参加するってすごい勇気があると思うなぁ。

今後足がなくなってもいいからオリンピックに出たい気持ちとスキーができなくなる恐さ。

ギリギリでオリンピックに挑んだけども、再び故障して予選に参加できずにオリンピックをさることに…また頑張ってほしいものです。

なんか地元の声援とかテレビで見ていたけど、ああいうのを見るとやりきれなくなりますよね。

ひとは理解できることしか学べない

2013-12-19 20:20:01 | 社会問題
英語教育、小3から…文科相、改革プラン発表


将来的に小学校5年生から英語の授業を取り入れることが決まりましたな。

それを聞いてまず思ったのが、部活の後輩が小学校の先生になるための学校通っているけど彼は大丈夫なのかという心配。(もとより人間としてまず先生になれるのかという疑問はさておき)

中学の英語の授業も英語で全部やろうというのも合わせてのことですが…どうなんですかね。

少し前に学校の授業で「あなたの記憶に残る語学の先生を教えてください」みたいな話があって、僕は何も思いつかなかったんですよ(何。
悪い意味・ふざけた意味ではいくらでも思いつくんですが良い意味で「あの先生の授業があったから今の僕がある」なんて思い出は英語に限らずあまりない。
国語の古典ぐらいですかね…僕は千葉先生の授業あれで好きだったんですよ。それと染谷先生の授業。
それに比べて英語は中学高校6年間のうち5年間が英語担任がクラス担任であったのに全くといって良い思い出はありませんなぁ…。

それで仕方なく中学2年生のころ長文を丸暗記という課題を思い出したんですよ。田崎先生ですね。
Progressというテキストにある長文(B51ページ)を丸暗記して、小テストで白紙の紙だけ配られてそれに全部書いていく。採点は間違った一単語につきマイナス一点というすでに中間・期末試験で同じ長文が出されても問題を読まずして解けてしまうという力技。

それが良い語学学習なのかはさっぱりわかりません。今では何となくわかりますけど、当時は英語の宗教的儀式の一環なのか刑罰なのかという心地でしたが。

ここで重要なのはなんでそれをやっているかが今の僕にはわかって、当時の僕にはわからなかったのかという点なんです。

13、14歳のころ、僕はどっぷり中二病を患っており、その結果be動詞と一般動詞も区別できない末期症状に陥っていました。
その原因は「英語が分からない」からというよりも、「英語の必要性に気付けなかった」からと勝手に思っていました。でもやっぱり今考えると「英語が分からない」からなんですよ。

小学校のころから僕はとにかく本を読まない人間で、おかげさまで中学受験でも足を引っ張るのは国語(それ以外も引っ張られるほどよくもないけど)。そもそもとして言語に関する興味や、言葉を紡いで構成された概念とかを読み取ることができない人間だったと思います。日本語で書かれている文章でも構造的な理解がまったくできていなかったわけです。ただ日常的に口語的な会話ができているだけで。

言語学の研究で「発達相互依存仮説」という仮説があって、第二言語習得は第一言語ですでに習得したのに依存するという仮説があって、英語を勉強しはじめたときに理解できることは日本語でわかっていることだというんです。ということはそもそも日本語を構造的に理解できていない人間に英語を構造的に教えられたってわかんないんですよ。言葉が構造的にできているという概念や考え方が理解できないんですから。

我々が普段日本語を話していることと、黒板で書かれていたり・教科書に載っている英語を比べてみるとそもそも考え方というかとらえ方に差があると思うんです。我々は自然と(時に意図的に時に無意識に)身に着けた言葉を話す際にその構造を意識せず場面を想定して話すと思いますが、中学で習う英語ときたら名詞、動詞、形容詞がこういう風に並んで、前置詞を用いて…みたいな教え方されても、その教わり方をしたことがなくて、それを理解するって難しいと僕は思います(ただし、多くの日本人はそれで英語ができるようになっているので僕の言ってることは単純な自己肯定・言い訳です)

だったらですよ。長文をびっちり暗記してしまった方が効果があるんじゃないかということに今になって気づくわけです。文法的な構造・ルールなんて後回しにしてこれがもう言葉なんだから、文章なんだからそれを暗記してしまって、構造については後で考えましょう…という発想は実にしっくりくるなぁと思うわけです。いざやってみるとB51ページくらいの英文暗記できますからご心配なく。

いまになって英語やその他の外国語を理解したり、もともとの日本語を理解したりできるのは構造的にものごとをとらえられているからであって、スポンジが水を吸収するように体得したわけではなく一個一個パーツを確認して積み上げたからでしかない。変な話。学生時代よりもいまのほうが英語が分かる気がするし、必要性も相まって、おもしろいと思えるようになったものです。

まぁそのあたりのはなしはまたの機会に。

閑話休題。

ともかく英語の授業は大変だろうなぁ。僕が通っている学校の先生方はものすごく否定的な意見でした。
僕はもっとやるべきだと思うんですよ、都心部は。田舎で英語教育して国際性身に着けて何の意味があるかはわからない…。
英語教育とプログラミングの教育を両立したらいいんじゃないかなぁ。幸いにしてプログラミングは英語だし!

ひとは社会に育てられ、社会はひとによってつくられる

2013-09-14 06:07:00 | 社会問題


民主党政権時代に「子どもは社会が育てる」ことが好ましいみたいな考え方に基づいて、子ども手当をはじめとする政策が打ち出された…と僕は記憶しています。

個人的には「子どもは社会が育てる」という考え方は確かにそうだなぁと思っていて、ただそれは子どもに限らずひと自体が絶対的にその側面を持っていると思うんです。

でもまぁもちろん、責任問題ではありませんが、子どもがなにかしら問題を抱えているのは本人のせいではなくて社会に原因があるということではなくて、本人が原因でもあれば社会にも原因があるんだということを思うのです。

どんなに頭の悪い人間がいたって自分の理解の範疇を通り越している人間がいたって、本人が100%そうなりたくてなったかといえばそうではないし、社会が100%そんなやつを産み出したくて産んだわけでもないのだと…受け入れる優しさを持てたらいいと思うし。

逆にすげーいいやつがいれば、本人の努力を称賛してあげればいいし、社会の宝と思って喜んでいいと思うわけです。

あ、いっておきますが僕は民主党を評価したいわけじゃないです。単純に個人と社会の相互関係がいいたいんです。

是非もなく、幸せは誰かから搾取することで生まれている

2013-09-04 06:34:29 | 社会問題
みなさんは経験しているかわかりませんが、(程度にもよりますが)障がい者児童を普通学級で学ばせることについてどう思うでしょうか。

僕は小学校のときにそれを直接ではありませんが経験しています。となりのクラスでそのケースが起きていました。

あれって言うのは親のエゴなんでしょうか。それとも社会全体を思いぱかった選択なんでしょうか。

それは親からしたら普通学級で同い年のこどもたちと一緒に同じ教育を自分のこどもに受けさせたい気持ちは強いと思います。

障がいにもよると思いますし、医学的にどうかも詳しくないのであれですが、健常者と同じ空間で過ごすことによって障がいを克服できる場合もあるのかもしれません。

親のエゴや医学的な根拠や教育的道義などそこには色々な理由があって、なにが真意かはきっとどのケースにおいてもわからないことなんでしょうけども、いずれにしても学校側とその障がいを持つ子の親とが責任的な諸問題をクリアして、実際に普通学級に編入することはいまやきっと珍しくないのだとは思います。

そう、最初にもいった通り、障がいがあろうがなかろうが、普通に学校に通えるならそれにこしたことはありません。学校にとっても、親にとっても、その子にとっても、社会にとっても。

でも、まわりの子はどうなんだろう。ここが非常に気にかかったところです。

そりゃ、道徳的にいえば差別のない社会を目指すのは正しいし、弱者に手をさしのべるべきだとは思いますが、あくまでもそれはできるならばであって絶対ではないと僕は思います。社会がそれを強制するのは違うんじゃないかと思います…もちろんあらためていいますが、できるならそうあるべきだとは思います。

でも小学校ってどうなのだろう。児童には逃げ場がないですよね。

大人は選ぶことができます。そういう空間から逃げ出すこともできれば、拒否することもできます。

こどもは違います。先生がみな口を揃えて言う「みんなで仲良くしましょう」からは逃げられないし、向き合わざるを得ません。

それが教育だっていうのは横暴だと思います。子どもがそんなに器が大きいと思えません。それと向かい合うことで慈悲の心に気づく子どももいれば、ものすごく傷つく子どももいると思うんです。

僕はそんなことを昔のことを思い出しながら考えてました。

きっと親にしても教師にしても苦渋なんでしょうけど、みんなが幸せになるというのは本当に難しい…。

ついに北小(北中も)なくなるんですわ

2013-08-31 17:20:47 | 社会問題
卒業した小学校が廃校になって約10年。
ようやく再開発事業者が決定し、取り壊しの段取りも決まり、その説明会がありました。
僕も約15年ぶりぐらいに学校へ行きました。



考えても見れば小学校という建物がこの10年間なににも使われず、一部体育館や校庭などは開放していたとはいえ、よくもまぁ放置されていたものである。
久々に敷地内に足を踏み入れてみるとまさに廃墟。中庭にあった池の水は抜かれ残骸だけが残り、窓ガラスに貼られたシールもくすみ、コンクリートも雨が垂れた跡が黒くしみついています。

そんな学校がついに今年整地されて新しい公共施設に生まれ変わると。その整地・建設工事に伴う説明会でしたが、まぁ参加者はかなり少なく15人ほどで、20代で来ていたのはおそらく僕だけだったと思います。

それなりに考えられた計画にトーシローの我々愚民が質問する余地もなく、10月から工事が始まり来年には整地され早ければ2年後の7月には完成すると。土地の半分は売却し住宅地にしてしまいその収益で施設の建設などにあてできるだけ安く済ませるとのことでした。売却されたあとに建つ住宅も若者世代、とくに子育て世代が住みやすいような住宅群にするということでした。

質疑応答で少し困惑もしましたが、きっとこの案件に限らず社会的弱者にいるであろう人たちは強気に主張しなければ社会に食われてしまうのだろうということでした。高齢者の方が「若者びいきした施設じゃないでしょうか?」みたいな意見も出せば、障がい者の方が障がい者用福祉施設についてずっと質問をしている。それは悪いことではありませんし当然のことだとは思いますが、見ていて「あーここでこういう質問していいんだ」と変に感心しました。

僕はそんなことよりも「土地が半分になるのに地域割合に見る災害時の避難者収容率は変化しないのか」とか「2年間の工事中避難場所がなくなる間はどこに避難するのか」とか「のちのち建設される施設管理はどう運営されるのか」とか説明がなかったのに、案外質問しないもんなんだなぁと一人思ってました。(※僕の家はこの学校が避難先に指定されてません)

まぁ説明会そのものよりも僕は久々に入る体育館に飾られた小学校の校章や校歌に目を奪われていました。
昔すごく高く感じていた体育館の壁はいまみてみると中途半端に低く、バスケットのゴールもワイヤーで上げ下げしていたなぁとか懐かしい気持ちでいっぱいでした。
なんとなくだけども廃校になって10年経っているとはいえ校舎はそのまま残っていたので廃校という印象がなかったのですが、ここにきて校舎の取り壊しが決まって『ああ。本当になくなるんだなぁ』としみじみ…。
やっぱりどんなものにも終わりっていうのはあるんだなぁ。


今現在をなにもしらないけど僕がわかる範囲で明大スポーツに苦情を申し上げる

2013-06-11 11:47:02 | 社会問題
ここで書くことでもないと思ったんですが、新聞について少し思うことがあったので簡潔に。



1、年間購読

昨年度から続く年間購読の支払いタイミングの変更(一方的な部の都合を読者に押し付けたシステム変更)に伴う購読者の管理がずさん。当事者じゃなくても「引き継ぎがされていない」と「考えの甘さ(仕方なくやった感)」がにじみ出てると予想がつく。いまの大学生がどうかはわからないけども、お金をもらってる責任感のなさとか、そういう大人としての感覚以前に、20歳ぐらいの人間として能力と結果がお粗末過ぎるんじゃないかと思う。僕はそんな人たちに貴重な貴重な4000円なんか払ってたまるものかと昨年思って、昨年から年購を切りましたが、今回も無事届いてる。ちゃんとお金を払っている人たちに失礼。僕がOBとかそういう問題ではなく、これは全く持って納得がいかないし、理解に苦しむ。


2、ホームページ

きっと諸事情があると思うんですが、その表記自体にも少しムッとするのだけども(お詫びをする気持ちがそもそもあるかないかは別としてコンプライアンス的見地を鑑みて掲載しているのかどうか)、きっと前例も含めると最悪の事態が発生していて、いくところまでいいってしまっているのかもしれないと想像するとその余裕はきっとないのかもしれない。ただ一番思うのはまだツイッターは永遠と更新しているのだからそのボックスを用意するか案内をすることはできないのだろうかと疑問に思う。

それらも多々思うところはあるのですが、ホームページがメンテナンス中だという告知・報告がツイッターで一回しかされないのかが全くわからない。一日一回でもつぶやき続ける必要性があるというか…ホームページにもとくにいつからそういう状態に陥っているのかもわからなければ(トップページに明大スポーツって単語すらないのは意図的なのかとも思うのですが…)、一番重要なのはこの状態に陥ってから報告もなければお詫びもないし完全に放置されている。僕らの世代もそうだったけど、みんないつまでにどうするという見通しがなさすぎるし、見通しを自身で持っているのかもしれないけどたいていそれを報告もしないし、相談もしないのはどうなんだろう。学生だからとか、ゆとり世代だのさとり世代だからじゃなくて、いまこうなっていていつまでにどうするかを表明することができないのは、自分の状況を悪くしていくだけだと思うんだよね。

それに。本来、情報を伝える組織なのにそういう意識がないってにもがっかりするわけ。アマチュアだからという甘えを百歩譲って受け入れるとしても、ウェブにせよ新聞にせよ、それは手段でしかないんですよ。べつに形なんて問わないわけです。かわら版だってそうだし、ツイッターだってそうだと思う。昔からその手段を作ること自体が目的になりがちだけども、本来は手段でしかないと僕は思うんです。今できることを、できる手段を用いて、どう表現するかっていうことに関しての意識が見えてこない。残念で仕方がない。


3、新聞

タダで届いた新聞にケチをつけたり、後輩が一生懸命作った新聞にケチをつけるのなんて、実に意地汚いOBだと僕は思うのだけど、あえて、あえて老婆心という気持ちから申し上げるけど、もっと新聞読んだ方がいいと思う(レイアウトとかじゃなくて、見出しが…表が…)。これは近年まれにみる眉をひそめてしまうようなできの新聞を読んだ気がする。従来の新聞を破壊しにいったというならまぁそれでもいいのですが、間違いなくこれは破壊しにいく勢いはないし、狙いはないと僕は思う。外務が手紙の文末で「読者がより面白く感じ、より読みたくなる新聞づくりを目指して…」の言葉がどこに活かされているかまじめに考えた方がいいと僕は真剣に思う。できないことはできないことで諦めたっていいと思う。もちろん高望みだってしていいと思う。センスは磨くのは難しいけど、技術を身に着けるのは体育会の部員たちと変わらず”意識の高い”反復練習でしかなしえない。それは怠ってはいけないし、準備なくして試合に臨めない…ただここまでいっておいて一つ不安なのは、そもそもそういった姿勢で部活動にあたっていないというなら僕が思ったことは見当違いなのだけど。


4、姿勢

さっきも書いたけども、姿勢。現役指導部の諸先輩方がどうお考えになって、どうご指導されているかは、僕にはむずかしくてわかりませんが、そこにはそこの考えがあって、それに現役部員たちが指示を仰いだり、教えを請うたり、いろいろな付き合い方や考え方が存在すると思います。ただ本質的な問題はそこじゃないくて、現役の部員がどういう姿勢で部活動するかなんですよ。引き継ぎがなかったとか十分な準備期間がなかったとか(いろいろ言い訳したいかは知らんけども)周りから見て自分たちからみて言い訳ができてしまう状況を作り出してしまっているのは自分たちのせい、自分たちの問題。引継ぎされなかったんじゃなくて、引継ぎをしてもらうようにお願いしなかったのは自分だし、実際準備期間が十分だったかはわからないけども、やつのがわかってたのだからそれに対して準備をしなかったの自分なんですよね。残念なことに。

だからこそ。だからこそ、僕はチャンスだと思うんです。引継ぎがないのもチャンスだと思う。引継ぎがないということは好きにやってかまないってことだと思うんだね(hideの『Rocket dive』みたいだけど)。伝統とか前例とかチャラにしていいと。自分色に染め上げていいのだと。そういう伝統や前例を完膚なきまでに粉砕していいというお達しだと思えばいい。ただそこで大事なのは伝統や前例をよく理解すること。矛盾しているかもしれないのだけど、それらをターゲットとして超えていけばいいだけ。簡単。いままでやってきたことを把握して、いままでやってこなかったことをやればいい。それだけなんだけどなぁ。

===================

ということを少しばかり思いました。以上でだいたい原稿用紙6枚くらい書いているわけですけど、僕は老婆心という年寄り特有の冷や水を注いでみたわけです。

スカイツリー

2012-06-02 01:05:04 | 社会問題
みなさんご存知でしたか。
ええ、昨日、スカイツリーの予約券の再販があったの。

僕はまったく行く気がなかったんですが(何、
どんなもんかなぁとサイトを覗いてみたら、
案外簡単に予約できたのでチケットとってみました。

もちろん一人で行くんだぜぇ~。
ワイルドだろぉ?

とまぁ来週行ってきます。
きっとまた一か月後ぐらいに報告します(何。