ベイエリア独身日本式サラリーマン生活

駐在で米国ベイエリアへやってきた独身日本式サラリーマンによる独身日本式サラリーマンのための日々の記録

寮長の勘違いのせいで、荻田君が折田君の父親と電話で話したこと

2024-07-28 08:13:23 | 生活

“寮長の勘違いのせいで、荻田君が折田君の父親と電話で話したこと”とは、筆者がまだ10代日本式童貞浪人生であった頃の出来事である。そう、今回は久々の思い出シリーズだ。ふと思い出し、おかしくて嬉しくなったのでここに書いておくことにする。それにこの出来事は、情報端末の個人所有化が極限まで進み、ビデオ会話すら可能になった昨今ではもう起こりえないもので、文化的な記録としても貴重である。それにしても思い出し笑いとは本当に幸福なものだ。性欲や食欲や睡眠欲のように、満たされても幸福感が減退しない。

 

 

この出来事の詳細は以下のとおりだ。参考にしてください。

 

 

①メイプル寮

筆者が浪人時代を地方都市の予備校の寮で過ごしたことは、本ブログでも何度か述べた。その名もメイプル寮である。6階建てのメイプル寮には食堂及び寮長寮母の住まいになっている1階を除けば浪人生でぎっしりで、何だか受験戦争の塹壕のような雰囲気があった。数えた訳ではないが、寮生の3~4割程度は医科歯科志望だったように思う。田舎の町の医者のドラ息子のような人も散見された。“そういえばあいつどうなったのかな”などと思ってそのドラ息子の名を検索すると、立派に医者や歯医者になっているので笑える。

 

 

②荻田君

荻田君とは、オギタ君である。彼は医学部志望の二浪生だった。とはいえ彼は医者のドラ息子ではなく、父親は普通の公務員だと言っていた。色白で、肉付きの良い顔つきとぱちくりした目つきが可愛らしい男だった。いつも母校の薄紫色のジャージを穿いていて、野球部で鍛え上げたがっしりとした尻を持っていた。オギタ君は筆者らと共に夜の食堂で勉強するメジャーな群れに属していて、二浪生らしい兄貴肌を持ちながらも人にとてもやさしい。当時は親しかったのだが、今では連絡を取り合うことはなく、少し寂しい気がしている。寮の5階に住んでいた。

 

 

 

③折田君

折田君とは、オリタ君である。彼もまた医学部志望だった。そしてたぶん二浪生だった。たぶん医者の息子だったように思う。というのもオリタ君は筆者らグループと群れることをせずにいたので、実はあまり知らないのだ。オリタ君は、ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト第4回グランプリを受賞した袴田吉彦さんから、清潔感を少し減らしたような、つまり元横浜フリューゲルスの前園真聖選手のようなイケメンで、髪型も当時の“ゾノ”よろしく茶髪真ん中分けのワイルドな風貌をしていた。だが話すと大変な好青年で、笑顔が明るく、育ちが良さそうな感じがあった。彼もまた、寮の5階に住んでいたのだ。

 

 

 

④そして事件は起きた。

そして事件は起きた。だが以下の話はオギタ君からの伝聞であり、筆者が実際に見たものではない。ある日、『511!オギタ!電話!、511!オギタ!電話!』と舌癌手術後の寮長のフガフガ声で寮内放送が鳴った。そう、携帯電話の普及が今ほどでなかった当時は、寮生の両親が寮生に連絡を取る場合は寮に電話をかけ、寮長が各階の洗濯室の電話に転送し、フガフガ声で放送するのだ。5階の洗濯室へ向かい受話器を取ったオギタ君は、相手が父親だったので驚いた。普段電話をかけてくるのはもっぱら母親であり、彼の父親は寡黙で、息子に直接電話をしてくるような男ではなかったからだ。

 

 

 

⑤父と息子

“家族に何かあったのだろうか”オギタ君は一瞬不安を憶えた。だが受話器の向こうの父親は照れくさそうな声で、“・・どうだ。元気にしているのか。”と言う。オギちゃんも照れくさく“・・あぁ 一応元気にしてる。”と答える。その後も父と息子のぎこちない会話が続き、父親が“なぁ・・今年は何とかなりそうなんか・・”と聞いてきたとき、オギタ君は『嗚呼、普段は何も言わない父も、本当は心配しているのだ・・』と申し訳ない気持ちになったのだと言う。そしてついに父親は勇気を出した声で、“どうだ、今週末釣りにでも行かないか”とまで言い出したので、驚愕したのだ。父親と釣りなど今まで一度も行ったことがない。

 

 

 

もうお分かりだろうが、この父親はオリタ君の父親で、オギタ君の父親ではない。同じ階に似た名字の寮生がおり、寮長が勘違いしてフガフガ取り次いだのだ。食堂で恥ずかしそうに事件について話すオギタ君が可笑しくて、筆者らは腹を抱えて笑ったものだ。スマホのない時代にはこういう楽しい事件があった。後日洗濯室でオリタ君を見かけたので、“オリタ君のお父さんとオギちゃん、会話したらしいね”というと、恥ずかしそうに“そうなんだよねー”と明るく笑っていた。二人とも家族ができているのかな、特にオリタ君の方は袴田吉彦風のイケメンなので、もう浪人生の息子がいても不思議なことではない。アパ不倫してないかな。


二ン・ジォムのど飴

2024-07-28 06:35:58 | 食材

二ン・ジォムのど飴とは、筆者がフィリピン系スーパーで手に入れているのど飴のことである。2024年のサンフランシスコ周辺の春は、筆者のアレルギー性鼻炎の症状を酷く悪化させていた。水のような鼻水が延々と出続けたかと思えば、今度は鼻の奥に栓でもしたかのように全く鼻呼吸ができなくなる。困ったものだ。コロナ禍のおかげでマスク着用が普及したとはいえ、仕事場でマスクを着用すると米国人らにはやはり不審がられる。それにドラッグストアの、アメリカン・ストロングスタイルのアレルギー薬を常用する気にはあまりなれない。対策が求められた。そして偶々見つけたこの二ン・ジォムのど飴を舐めていると、少し調子がよいし、美味であったためここで報告する。一方世間では、吉村作治先生が81歳にしてエジプトへ発掘調査に出向かれたというニュースが流れ、人々に勇気を与えている。

 

こののど飴の概要は以下のとおりだ。参考にしてもらいたい。

 

 

①二ン・ジォムのど飴との出会い

二ン・ジォムのど飴との初めての出会いは、オールド・パシフィック・スーパー(エルカミ沿いのパシフィック・スーパーのことを呼ぶ)のレジコーナーだ。隣のレジとを仕切る背の低い壁の上に、手のひらサイズの可愛らしい円形のブリキ風の缶が並んでいた。浅田飴と同じブリキの缶だったので、すぐにそれがのど飴的なものだと思い、手に取ったのだ。缶の図柄の可愛らしさに安心感があり、“レモングラス味”“しっかりと味の種類が書かれていたので、不安なく購入に至る。

 

 

②二ン・ジォムのど飴

二ン・ジォムのど飴のケースの蓋の図柄は浅田飴よりもずいぶん細かい。商品名の“NIN JIOM”の文字の下には小さな円形の紋様があって、その縁の中にはさらに小さな絵が描かれているのが目につく。それは清朝時代を思わせる容姿の男性が、お盆に載せたお茶のようなものを老婆に渡そうとしている絵である。老婆の首が長いように見えるのは、喉を痛めて何かを巻いているためであろう。その円形の下には赤い四角いラベルが続き、そこには“京都念慈菴草本潤喉糖”と、理想形の明朝体でしっかりと書かれている。この京都念慈菴というのが、二ン・ジォムのど飴の製造会社で、香港に本社がある製薬会社のことのようだ。“念慈菴”の英文字表記が“NIN JIOM”ということだ。さらに商品名の“NIN JIOM”の上には水色の細いラベルに白抜きで、“CAP IBU DAN ANAK”と意味不明の文字が並ぶ。これはマレー語の商品名ということなので、浅田飴に比べて随分とワールドワイドな商品のようだ。

 

 

           

③二ン・ジォムのど飴

京都念慈菴には立派なウェブサイトが存在したので訪ねてみた。会社の主力商品はこののど飴ではなく咳や喉の痛みに聞く漢方薬品のようである。会社の設立は1946年と比較的新しいが、その商品の由来は二ン・ジォムのど飴の蓋に描かれた絵のごとく清朝時代に遡るのだそうだ。これが割と薬草の香りが豊か、かつ美味であるため仕事中によく舐めたのだ。ほのかな薄荷が心地よく、鼻呼吸が楽になる。特にレモングラス味は、同僚のメキシコ人やアメリア人にもなかなかに評判で、味も世界標準だといえる。口臭が気になる30代独身日本式サラリーマンにもお勧めだ。

 

 

さて、二ン・ジォムのど飴の主成分は桔梗の根のエキスや甘草(かんぞう)の根のエキス、それに枇杷の葉のエキスなどのようで、これらは古来から咳や痰に効果がある漢方とされている(らしい)ので、薬用としてもそこそこ信頼してもよい。ちなみに浅田飴にも同様の成分が含まれる。浅田飴株式会社のホームページへ行けば、浅田飴はこの京都念慈菴などよりもずっと歴史は古く、起源は江戸時代の漢方医師の浅田宗伯という人のようだ(現在の長野県松本市の出身)。もしかしたら二ン・ジォムのブリキ缶デザインは、浅田飴のパクリかもしれない。二ン・ジォムのおかげで浅田飴にも詳しくなった。