ベイエリア独身日本式サラリーマン生活

駐在で米国ベイエリアへやってきた独身日本式サラリーマンによる独身日本式サラリーマンのための日々の記録

リバモア近辺の宗教施設を訪ねる~Five Pillars Islamic Cemetery編~

2022-04-25 13:11:53 | 生活
 リバモア近辺の宗教施設を訪ねるとは、筆者が2022年春にリバモア近辺をドライブした記録のことである。ヒンドゥーのシヴァ・ヴィシュヌ寺を訪ねたが、アウェーな宗教空間でまったり過ごすことはなかなか難しく、つぶせた時間は1時間もない。それに30代独身日本式サラリーマンの心を満たす土曜日を完成させるにはまだピースがいくつか足りない気がしていた。そのピースが何なのかは本当は知っている。それが次の目的地にはきっとないことだってわかっているのだが、それでも30代独身日本式サラリーマンは歩き続けなくてはいけない。歩き続けたいのだ、だって暇だから。



このドライブの記録は以下のとおりだ。参考にしてもらいたい。




①Five Pillars Islamic Cemeteryへ到着する。
Five Pillars Islamic Cemeteryとはイスラム教徒の人々の墓地である。シヴァ・ヴィシュヌ寺のある低層住宅地域をさらに東へ走るとすぐに町が終わり、荒地が眼前に広がる。黄土色の低草しか生えていない荒地が、遠くに霞んで見える低い丘陵地まで続いていて、その丘陵の上には発電用の風車が並んでいる。Five Pillars Islamic Cemeteryは住宅地と荒野の境界を走る一般道路から、荒地側へ直角に伸びる砂利道の先にあって、看板もないので危うく通り過ぎそうになる。



②Five Pillars Islamic Cemetery外観・入口
Five Pillars Islamic Cemeteryは筆者が米国でよく訪ねる公共墓地のように立派な塀や建屋などの整備は全くなく、金網で囲まれているだけだ。周りは荒野で、リスなのかプレーリードッグなのかわからない小動物が乾いた草地の地中の巣穴から出たり入ったりしている。筆者は入場前に鉄格子のゲートに貼られている看板をよく確認する。宗教的な入場制限や服装の規則などの表示がないか確かめるためだ。だが『コロナ期間中のためマスク着用』という随分むかしに貼られた貼り紙があるばかりなので、どうやらここも特に入場制限はないようだ。中には数組の家族が墓参りをしていたが、皆さん軽装のようなので、服装も自由なのだと思い、勇気を出して立ち入ることにした。




③Five Pillars Islamic Cemeteryの中
墓地はなかなか広く、レンガや木枠でちょうど棺桶くらいの大きさで区画割りされた墓がずらりと並び、北カリフォリニアに少なくない数のムスリムの人々が暮らしていることが見て取れる。区画の中は白い砂利が敷き詰められていて、中央に質素な墓石があり、それに個人名と生年月日が刻まれている。イスラムらしく偶像めいたものが全くないシンプルな作りだ。墓の向きが全て同じなのは、メッカの方向を向いているのだろうか。数組の家族が墓参りをしていて、他の宗教の墓参りと同様に花を手向け、祈りを捧げていた。シヴァ・ヴィシュヌ寺と同じようにすれ違う人々には怪しまれないように挨拶を試みたが、アジア人ということで不審な顔をされたり、『おまえ本当にイスラム教なのか』などと聞かれることもなく、普通に挨拶を返されるだけであった。それでもやはり他宗教の人々にとっての神聖な場所を不用意にウロウロすることは褒められたものではないので、門を出る前に振り返り、眠る人々に丁寧にあいさつとお礼の気持ちを伝えておいた。



 
 調べたところイスラム教では火葬は禁じられているそうだ。Five Pillars Islamic Cemeteryが火葬なのか土葬なのか定かではないが、墓地の形状を鑑みるに土葬でもおかしくはない。公共墓地から離れた僻地にあるのは他宗教からの区別という意味ではなく、行政の許可を取るための手段なのかも知れない。土葬が難しい日本でも在日イスラムの人々の埋葬方法が少し問題になりつつあるようだ。Five Pillars Islamicでは15分ほどしか時間を潰せなかった。しかし思いがけず会社の同僚から焼肉ディナーの誘いのテキストが入ったので、筆者はさっさとドライブを切り上げて長屋へ戻った。焼肉ディナーは楽しく、二次会(韓国唐揚げバー)まで行って楽しんだ。そう、ピースが埋まったのだ。

リバモア近辺の宗教施設を訪ねる~シヴァ・ヴィシュヌ寺編~

2022-04-25 04:32:32 | 生活
 リバモア近辺の宗教施設を訪ねるとは、筆者が2022年春にリバモア近辺をドライブした記録のことである。土曜日、掃除と洗濯を適当に済ませればもうすることがない。30代独身日本式サラリーマンは週末に特に孤独である。そこで半日時間を潰すのにちょうどよい距離にあるリバモア市近辺をグーグル散策していたところ、そこそこ楽しめそうな宗教施設を見つけたので、訪ねてみることにした。だが今回見つけたのはヒンドゥー教とイスラム教という部外者への門戸が割と厳しそうな宗教の施設だったので、門前払いを受ける可能性があった。だから文庫本をひとつ持っていくようにする。そうすれば目的地を訪ねることができなくても、カフェや公園のベンチなどで、“孤独でないふり”をしながら“暇つぶし”ができるからだ。ちょうど最近日本へ帰ってしまった人から大量に文庫本をもらっていたので、それを小さなリュックへ入れておいた。



このドライブの記録は以下のとおりだ。参考にしてもらいたい。



①シヴァ・ヴィシュヌ寺へ
一つ目の施設がシヴァ・ヴィシュヌ寺というヒンドゥー教の寺だ。ナビに従い車を走らせると、リバモア市中心部の大型アウトレットモールを通り過ぎた後に580線を下り、アメリカ式低層住宅が並ぶエリアに入る。何度か小さな角を曲がるとふいに広い駐車場が併設された大きな寺に到着する。駐車場はそこそこ混雑しているが、車の外にいるのはやはりインド風の風貌をした人々ばかりなので腰が引ける。でも思い切って車を下りた。駐車場に隣接するシヴァ・ヴィシュヌ寺は低い白い塀で囲まれていて、小さな入口に人が集まっている。駐車場の中を車から入口まで歩く間に、幾人かの人々とすれ違ったが、さすがカリフォルニアで高所得者層に位置するインドの人々は多様性の意識が浸透しているようで、30代独身日本式サラリーマンに対して特に奇異な目を向けることもなく、人によっては挨拶をしてくれた。



②シヴァ・ヴィシュヌ寺境内へ
入口の人々も子供以外は筆者に奇異な目を向ける人はいない。どうやら人種やカースト制による入場制限はなく、不浄な30代独身日本式サラリーマンでも入れるようだ。入口に人が集まっているのは、靴を着脱をするためだった。境内には靴を脱いで入る。そこには日本の寺社等の入り口と同じようにスノコと下足箱があって、何だか懐かしい気持ちになる。OKABASHIサンダルを脱ぎ簡素な門をくぐってもそこはまだれっきとした屋外であるが、『境内全体が神聖』という考えなのだろう。参拝者は石畳の上を素足もしくは靴下で歩いている。本殿の建物の壁は槐色のレンガ作りで、一定の間隔で白い大理石風の柱が埋め込まれている。正面には荘厳な作りの白い塔があり細かな彫刻が施されているのがなかなかの見ものだが、何せあらゆる点でアウェーなので、びくびくしてしまいじっくり観察することができなかった。この日の本殿は扉が閉ざされていて中に入ることはできないようだ。本殿付近は人が少なく、入口で見た人たちはどこか違う場所にいるようだ。



③シヴァ・ヴィシュヌ寺境内裏手へ
本堂の裏手に人の気配があったので、おそるおそる回ってみることにした。そこには仮設テントが設営され、炊き出しのようにランチが提供されていて、たくさんのインド人家族が昼食を楽しんでいて賑やかであった。そっとテーブルの上を盗み見たところ、やはりカレーっぽいスープ料理であった。裏手には本堂とは分離した建屋がいくつもあり、この日はそちらに出入りしている人が多かった。どうやらここは単なる宗教施設だけではなく、ヒンドゥーの人々のコミュニティ施設を兼ねているようだ。どうにせよ筆者は彼らに交じって炊き出しランチのご馳走に預かるほどの勇気はないので、そそくさと境内を跡にした。



 OKABASHIのサンダルを履いて車に戻るときにも、すれ違うインド人紳士に普通に『ハロー』とにこやかに挨拶をされた。たまたま手にした森本あんりという人の書物によれば、アメリカの人口におけるヒンドゥー教徒は0.5%程度だが、そのうち40%ほどが年収10万ドルを超える富裕層なのだという。またスタンフォード大学の理数系の教師陣はほぼインド人なのだというし、世界におけるインドパワーはこれからも強力になっていくに違いない。これまでのところ文庫本を手にする必要はまだ出てきていない。死ぬまでの時間つぶしに過ぎない30代独身日本式サラリーマンの週末、少なくとも“孤独でないふり”をせずに済んでいる。筆者は次の目的地へ向かった。