読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

ガメラを創った男・湯浅憲明とお色気映画

2008-06-14 10:48:43 | 映画監督
ガメラには、三つの姿があるようです。それは、「昭和のガメラ」(身長60メートル、体重80トン、水中速度毎時150ノット、飛行速度最高マッハ3、歩行速度歩幅20メートル)、「平成三部作のガメラ」(身長80メートル、体重120トン、甲羅の長径約60メートル、甲羅の短径約40メートル、水中速度180ノット、飛行速度マッハ3.5、年齢1億5千万年(推定)、「新生版のガメラ」(体高30メートル、体長50メートル、体重900トン)。

そんなガメラの正体は、「昭和のガメラ」で見ると・・・

「エスキモーの伝承に伝わりし北極の中で眠っていた古代の怪獣。一説にはアトランティス文明にも関わっていたとされる。某国の原爆搭載機の墜落により、閉じ込めていた氷が割れて覚醒。南下して最終的には日本に上陸、破壊の限りを尽くす。当初は凶暴な怪獣として描かれていたが、最初期より子供に対して友好的な面を見せていた」。

「一度はZ計画と呼ばれる作戦により巨大ロケット内に閉じ込められ地球から追放されるが、ロケットが小惑星との衝突により破壊されて開放、地球に再来する。『対バルゴン』以後は人間に対して具体的な敵意を示すことは無く、エネルギーの摂取時以外にはほとんど出現しなくなるが、侵略者や怪獣によって子供が危機に陥るような事態に遭うと、何処からともなく現れて子供達を救っていくようになる」。

「昭和最終作『宇宙怪獣ガメラ』にて宇宙海賊船ザノン号に特攻してからの消息は不明となった。口からの火炎放射以外に、特筆すべきはその生命力で、なんらかの理由で戦闘不能になっても、原因が取り除かれれば即座に復活できる」。

このガメラの産みの親が湯浅憲明監督でした。湯浅監督は、テレビドラマ「ザ・ガードマン」(1965年)、「おくさまは18歳」(1970年)、「アイちゃんが行く!」(1972年)を手がけた監督でもありました。その湯浅監督が、お色気映画を撮っていたことを今日知りましたが、それは経営難にあった大映を救うためだったのでしょうか?

湯浅憲明(ゆあさ のりあき、1933年9月28日 - 2004年6月14日)は、「映画監督。東京世田谷区赤堤に生まれる。祖母は、初期の新派劇女優で、映画にも出演した東日出子、父は、松竹蒲田、日活、大映と移り、戦後は東横映画、大映で活躍した俳優の星ひかるという演劇一家に育った」。

「京都に移り、京都府立鴨沂高等学校、法政大学法学部法律学科を卒業。1957年、大映東京撮影所監督室に入社。衣笠貞之助、島耕二、井上梅次、川島雄三などについた後、1964年、歌謡青春映画『幸せなら手をたたこう』で監督デビューする。翌1965年、『大怪獣ガメラ』を監督して以来、ガメラシリーズを続けて手がけ、子供が純粋に楽しめる怪獣映画として人気シリーズに育て上げた。その一方、渥美マリ主演の『お色気映画』や関根恵子主演の『高校生シリーズ』など大映の人気シリーズを支えた」。

「大映倒産後は、主にテレビドラマの演出に携わり、『岡崎友紀18歳シリーズ』『アイちゃんが行く!』等の青春コメディや、『アイアンキング』『コメットさん』『ウルトラマン80』等の児童向けの特撮作品を多く手がけている。恰幅がよく丸顔で、『ガメラ創世記 -映画監督・湯浅憲明-』によると、『大怪獣ガメラ』撮影時には島耕二から、ガメラはぬいぐるみではなく湯浅監督本人がそのまま演じればいいとからかわれたという。同書にはガメラに演技をつける湯浅監督の写真があり、『まるで兄弟である』とキャプションが付けられている。同書は湯浅監督が映画にかかわった切っ掛け、ガメラ撮影時の苦労と楽しみ、撮影技法等についても詳しい」(ウィキペディア)。

この湯浅監督と共に、大映を支えた女優さんが渥美マリさんです。ガメラの第一作に出演し、「ガードマン」、「ママはライバル」などの湯浅監督のドラマに出演していますが、大映の倒産とともに女優としての演技を発揮できる作品には恵まれなかったようです。今頃は何をしていらっしゃるのでしょうか?

渥美マリ(1950年11月20日 - )は、「大映に所属し、1960年代後半から1970年代にかけて活躍した日本の元・女優、歌手。東京都目黒区自由ヶ丘出身。途中で芸名を『津々見マリ』や『渥美まり恵』に改名した時期もあった。本名は渥美真理(現役当時)。父は大映第2期ニューフェイスの渥美進、母も大映女優の若宮れいこ」。

「大東学園高等学校の2年生だった1967年に、大映東京撮影所演技研究所19期生に合格(同期は八代順子など)。その後、高校を中退し、1968年に大映専属女優となった。 1969年には彼女の代名詞ともいえる、通称“軟体動物シリーズ”と呼ばれる映画シリーズの第一作目『いそぎんちゃく』が公開され、和製ブリジット・バルドーという呼び声もある中、元祖セクシー女優の一人として活躍した」。

「素晴らしい演技力と魅力的な肉体で一世を風靡していたが、1971年に大映が倒産すると、『渥美マリ』、『津々見マリ』、『渥美まり』の3つの芸名を使い分けながら、東映や東宝が制作する不良物映画や、テレビドラマなどに出演するが、それも1974年1月を最後に途絶えてしまった。1975年7月、『渥美まり恵』名義で『愛のかわき』というレコードをリリースし、久々に芸能界に復帰したが、その後は、1976年にTBSの時代劇『江戸を斬るII』にゲスト出演したのみで終わってしまった」。(同上)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿