作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

北朝鮮とアメリカの猿芝居

2007年06月28日 | ニュース・現実評論

北朝鮮の弾道ミサイル…政府、米朝双方の動きを注視(読売新聞) - goo ニュース

北朝鮮とアメリカの猿芝居

アメリカが「悪の枢軸」とまで明確に規定した北朝鮮の悪行について、その国家的な貨幣偽造、麻薬売買、大量破壊兵器の密輸などのあれほど悪行について、明らかに最近のアメリカの政策に変更が見られる。

アメリカの政権の内部からは、ラムズフェルドは国防長官を辞し、北朝鮮の金正日独裁専制政府に対してもっとも強硬な姿勢を示していたジョン・ボルトンは国連米大使を辞任し,ウォルフォウィッツは転任先の世界銀行を不祥事のために辞任し、現在のチェイニー副大統領はほとんど影を潜めてしまった。そして、現在はクリントン前大統領以来の国務省の官僚であるヒル国務次官補が北朝鮮との交渉に当たっている。

中東の民主化を強力に推し進めようとした、いわゆるアメリカの「ネオコン」派に対して、イラク戦争に反対するわが国の自称「平和主義者」たちには、彼らに嫌悪と憎悪を抱くものが多いが、日本の国益に寄与したのは、むしろ、これらの「ネオコン派」の勢力だった。正義感も強く日本の拉致問題にももっとも協力的で、核問題と拉致問題の解決は、北朝鮮の金正日体制崩壊以外にないと信じていたのは「強硬派」のボルトン氏だった。

アメリカ議会で民主党が多数派を占めるようになりつつある現在において、今のアメリカの対北朝鮮政策は、日本にとっては最悪とものとなりつつある。

いや、むしろ最悪は最善でもあるともいえる。というのも日本の「平和主義者」たちの、アメリカに守られながらアメリカを批判するといった甘えと哀れな偽善が許されなくなりつつあることを認めざるを得なくなるだろうからである。

民主党が多数派を占めつつあるアメリカ議会は、日本のいわゆる「慰安婦問題」で中国、韓国の言い分を聞き入れても、日本の反論には聞く耳を持たなかった。

日本の「平和主義者」たちの好きなヒラリーの属するアメリカ民主党には親中国派が多く、アメリカの下院外交委員会で「従軍」慰安婦に関する対日謝罪要求決議案が可決されたばかりである。アメリカがそうして日本を冷たく突き放すことは、子供の日本が親離れをし、親のアメリカが子離れして、互いにより対等な独立国家として同盟関係に入っていく上で、そして、太平洋戦争の未曾有の敗北による精神的な退廃から、日本国民がようやく復活する契機を見出せる点で、それなりに意義があるかもしれない。

これからは、より自由で自立した独立の国家として、対北朝鮮や対中国、対ロシアなどの北東アジア政策の再構築を日本も余儀なくせられてゆくだろう。これは必ずしも悪いことばかりではない。国家の危機は、国民の倫理的な背骨を正すことにもなりうるからである。

北朝鮮の金日正政権が核兵器を放棄することをまともに信じているとすれば、それは日本の一部の極楽トンボだけだろう。アメリカもそんなことを信じて北朝鮮と交渉しているものは誰もいない。今回のアメリカの譲歩で、核カードの威力に味をしめた北朝鮮はなおさら核を放棄するはずもない。北朝鮮は、イラクのフセインが、核兵器をカードに持たなかったがゆえに崩壊させられたことを知っている。

これからの日本の困難は、北東アジアの六カ国協議で、日本の国益が他の五カ国と矛盾するようになったとき、どれだけ東アジアにおいて孤立に日本が耐えて、自由と独立を維持しながら、自らの平和と国益を守り抜けるかである。

「国際関係における諸国家の相互の関係においては、そこでは諸国家はそれぞれが特殊なものとして存在するから、激情や利益が、もろもろの目的や才能と能力が、暴力、そして不法と背徳などの内的な特殊性が、最高度に突き動かされて飛び跳ね回るだろう。それは、広大な現象の世界において、外的な偶然性が遊び戯れるのと同じだ。そうした中では、人倫的な全体そのものは、国家の独立性は、思いがけない偶然性にさらされることになる。」   (ヘーゲル『法哲学§340』)

日本もまたこの偶然性に翻弄されないように、十分に対応してゆく必要があるだろう。しかし、現在のわが国の指導者たちと国民に、それに耐えうる器量があるだろうか。

    日本はいつまでアメリカに甘えていられるか

 

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雨の桂川

2007年06月25日 | 日記・紀行

雨の桂川

用事があって、洛北北大路VIBUREまでバイクで桂川左岸を北へ走る。梅雨の曇り空で、いつ雨が降ってもおかしくはなかったが、あまい予想で思い切って出る。桂小橋で桂離宮の傍を走り抜けた直後から、空の雲の様子が一変し、大きな黒い雲が立ち込めて、北山方面の視界がほとんど遮られた。かと思うと小さな雹のような雨が降り注いでくる。しばらく我慢して走っていたが、阪急京都線の踏み切りのあたりで我慢できず、大きな木の木陰を探して、車を止めて雨具を着る。

着替えながら眼前の桂川を見ると、水嵩も増し、土色の激しい濁流となって流れてくる。いつもなら遠くまで眺望できる景色が、深い霧でほとんど視野も遮られている。自然のこうしたちょっとした変化も、ふだん見られない様相を現して、それなりに美しいと思う。デジカメはもって出なかったので記録できず残念に思った。日記で記録しておく。

しかし、この雨もほとんど長くは続かなかった。衣笠から金閣寺横を走る頃には、小降りになっていた雨もすっかり上がった。この日記を書いていて、芭蕉の句を思い出す。

     五月雨を あつめて早し 最上川  

できれば、この桂川の濁流を眺めて、私自身が俳句や短歌でその光景を記録しておくはずなのだろう。その技量のないのを残念に思った。

  五月雨の  降り来る隙も 
            なき空に  初めて知りぬ  汝がかんばせ  

 

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五月晴れの夕空

2007年06月23日 | 日記・紀行

五月晴れの夕空

ようやく梅雨らしい雨が降ったと思うと、今日はきれいな青空が広がった。この天気も長続きはしないし、雨が降ると散輪もままならないので、いつものように自転車を取り出して、久しぶりに、二時間ぐらいの予定で出た。確か昨日か一昨日が夏至とかで、日も長く、誰そ彼時もすっかり遅くなった。

いつものコースを辿る。竹林は冬も夏も同じく青い。今日はとくに当てもなかった。ただ、去年、農家の人が大きな菖蒲を育てていたのを思い出して、まだ、今でも咲き残っていれば写真に撮ろうと思っていた。まえに散歩に来たとき、黄菖蒲を見てデジカメに撮ろうとしたのに、電源が切れていたのと、今年はまだ、この花らしい花を見過ごして、なんとなく物足りない気がしていた。すっかり時期をはずしてしまっていたのに。

午前中、ヤコブ書を少し読んだ。全巻五章で、通読するだけなら一時間もかからないだろう。確か、ルターが「藁の書」とかなんとかいったらしい本である。しかし、新約聖書の成立からすれば、もっとも早い時期に成立したテキストだとも言う。印象に残ったのは次の個所、「私たちは欲望に引かれて誘惑され、そして、私たち自身の悪い欲望によって罠に陥る。そうして、私たちの悪しき欲望は、罪をはらみ、産む。そうして、罪が十分に熟するとき、死が生まれてくる」。欲望、誘惑、罪、そして死。これらから逃れられる人間はいない。(ヤコブ書1:14~15)

田んぼはすでに青々としていた。昨年は、風に吹かれるビロードのような早苗の苗床をまだあちらこちらに見たけれど、今年は見過ごしてしまった。一昨日からの雨で空気がすっかり洗われて、夕日を受けた市街地もくっきりと眺められた。自転車をこぎ出すと少し暑くなって来たので、コンビニでアイスクリームを買って、途中に柿畑に通じる小道に止めて食べた。去年の冬にはすっかり葉を落としていた柿畑も、今はすっかり青青とした葉を繁らせ、小さな実すらつけていた。

ゆりの花が咲いている。それから、夕顔ももう咲いていた。源氏物語にも出てくる夕顔の花は私にとっても、とくに印象深く忘れることはできない。ATMで換金するためにコンビニを探していたら、長岡京市に出てしまった。ちょう度その頃、畑の中にデジカメで写真をとっている男性がいたので、その被写体の方角を私も振り返ってみると、とても美しい夕空が広がっていた。それまで背にして走ってきたので少しも気がつかなかった。雲の棚引いている様子がとても美しい。それで、私もカメラを取り出して写すことにした。

デジカメが普及してからは町の中でも誰もが被写体を見つけて気軽にカメラに収める姿が眼に入るようになった。私自身もその一人だけれど、そうした一人に通行人からも眺められてもかまわない。気にすることはないと思う。この五月晴れの、きれいないわし雲の夕空が、今日一日の収穫だったように思う。菖蒲には出会えなかった。やはり時期が遅すぎたのだ。

家に帰って、ブログに新しく随想というジャンルを作って一篇書こうと思ったが、時間が十分に取れそうにない。題名は「待ち合わせ」ということにしていた。またの機会もあるだろうと思った。去年の秋ころ、一二度コメントを交わしたチャンタさんがコメントをくれていた。それにちなんで二三、お返しのコメントを書く。

 

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梅雨

2007年06月22日 | 日記・紀行


梅雨入り宣言があってからも、晴れ間が続いて、空梅雨かと思っていたら、ようやく雨が降った。雨も終日降り続くと、否応でも内省的な気分にさせられる。軒先のアジサイが今年も花開いた。梅雨も必ずしも嫌いではない。やがて、このブログも今月ですでに三周年を迎えることになる。その成果の乏しさに泣きたくもなる。

もともとこのブログは、日記を目的として作成したはずだけれども、それを逸脱して、非日常的な考察や論考もそのままに掲載してしまうことになった。改めて、本来の日記としての記録に戻すべきかも知れない。そして、それぞれのやや専門的な考察や論考については、それにふさわしいブログに記録してゆくべきであると思う。

久しぶりに梅雨らしい雨も降って、自分自身に集中することもでき、あらためて自分の集中すべき仕事についても反省させられた。それは、私にとっての出発点でもあるヘーゲル研究に今一度復帰しなければならないという思いである。どこまで辿れるかはわからない。人は誰しも自分の専門とでも言うべき領域を持たなければならない。ヘーゲル自身もたしかゲーテの言葉を引用して言っていたように、「人は一廉の者に成るためには、一事に自己を限定しなければならない」のである。さらに多くの時間と労力を、私の哲学研究ブログの充実に振り向けなければならないと思う。

先日には渋谷で温泉施設の爆発があり、国会では会期の12日間の延長が議決され、その結果、参議院選挙の投票日が、7月29日に延期になった。また、年金問題あり、国家公務員改革の問題あり、朝鮮総連との闇取引に応じた緒方重威元公安調査庁長官というカバと元日本弁護士連合会会長の土屋公献弁護士という鹿馬があり、北海道では、牛肉ミンチに豚肉などを混ぜて出荷していた食肉製造加工会社「ミートホープ」(北海道苫小牧市)に立ち入り検査があった。偽造食品会社はあの社長だけだろうか。長年そんな会社のコロッケを食べさせられた日本国民も気の毒である。他人事ではない。また、クリストファー・ヒル国務次官補が北朝鮮に電撃訪問して、日本がコケにされそうになったりで、相変わらず日本の国内外も多事多難であるように思う。

現代社会のキィワードは「interest」である。それに囚われて、自己を失っている。自分の城を守らなければならないと思う。つねに自戒しなければならないことである。生死事大、無常迅速。

 

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地球外生命体

2007年06月19日 | 日記・紀行


夜、久しぶりに古いDVDを取り出して、「コンタクト」を見る。すでに亡くなったカール・セーガンのSF小説を原作としている。

地球外生命体の探索に駆り立てられる女性、エリーが主人公で、先端的科学SFに、宗教的狂信者のテロリストが登場し、その最初のプロジェクトが爆破されて妨害されるのも、いかにもアメリカ映画らしい。ちょうど10年前の作品である。この映画が上映されてから3年後に、9・11アメリカ同時時多発テロ事件が発生している。


時間に余裕があったので、キャストやスタッフのバイオグラフィーやプロダクション・ノートなども比較的詳しく見た。DVDでは、映画の製作現場やその意図なども知ることができるので、もう一つの面白さもある。たった数分のコンピュータなどを使った特殊映像のイントロ場面に、どれほどの人員と時間や労力が投入されているかがわかる。

それにしても、映画の中で、最初のプロジェクトが宗教的狂信者の妨害で爆破され、挫折したのち、新たなプロジェクトがひそかに日本の北海道で実現されていたという設定にはまた笑ってしまった。映画も現実を反映して、社会の現実からまったく無縁であることができない。

闇の出資者、ハデンという人物に、日本の下請け会社が買収されてしまうというのも面白い。

地球外生命体の存在については、SETIや天文学者たちは、電波発信などを行なって探求しているらしいけれども、地球外生命体は存在するかという問題については、私も存在すると思う。ただ、生物学者や天文学の立場と違って、哲学の立場では実証することはできない。その存在の必然性を論理的に論証的に確信するだけである。

その論理的な根拠は、すでに地球上には人間をも含む生命体が存在していることである。人間もまた宇宙人であり、人間が宇宙内にすでに出現しているように、そして宇宙の本質が無限である限り、宇宙には同じ必然性をもって、人類と同じような生命体が出現してくる。

ただ、人類が地球外生命体に「コンタクト」しうる可能性は、無限にゼロに近いのではないかと思う。その根拠は、宇宙が無限に広大であるからだ。だから主人公エリーのように、わずか100年ばかりの生涯を、無限にゼロに近いその可能性に賭けるかどうかは本人のよほどの選択によるだろう。エリーの場合は、その願望が早く死に別れた父との再会の願いと重なっていた。

宗教の本質や、宗教とカルトの関係も、哲学的にも興味があるが、まだ解明はできていない。私たちが感覚器官で認識できる世界は、広大な宇宙のごく一部に過ぎない。海辺の砂浜の一握りの砂を握ってもてあそんでいるようなものだ。

I do not know what I may appear to the world: but to myself I seem to      have  been only like a boy playing on the seashore, and  diverting       myself in now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than  ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me.
                        
                      ―――Newton

私がどうしてこの世界に現れたのかも、その理由を私は知りません。しかし、私自身にとって私はただ、海辺で遊んでいる、そして、ありきたりのよりも滑らかな小石やきれいな貝殻を見つけては、いつも自分を楽しませている少年のようであったように見えます。そうしている間にも、真理の広大な海原は、ほとんど発見されないままに私の前に横たわっています。

                      ―――ニュートン

主人公エリーは、ジョディ・フォスターが演じている。いかにも自由で知的な白人女性の標本のようにも見える。英語字幕で、50回も繰り返し見ていれば、英語を聴き取る力ももう少しついていたかもしれない。今からでも遅くはない。

           ※写真(C)2006 Universal Studios. ALL RIGHTS RESERVED.
 

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歴史のIF

2007年06月14日 | 歴史

歴史のIF

個人の歴史と同じように、人類の歴史もまた繰り返すことの出来ない一回性のものである。
そして同時に、個人と同じように、人類もまたその歴史の途上でさまざまな岐路に立たされる。右へ行くべきか、左に行くべきか。

他の動物と異なって人間の特性がその自由な意志の選択にあることも事実である。「あれかこれか」の選択も、善悪の選択も人間の自由な意識の選択による。そこに正常な成人には責任問題も生じる。動物や子供にはこの自由がないから責任問題は問われない。しかし、人間の個々のその選択は自由であり偶然であるとしても、その結果の集積は人類の歴史的な必然として認識される。


だが、人間のみがその想像力によって、時間と空間の制約を乗り越えて、過去の選択を反省することもできる。私が今興味と関心を駆り立てられる問題の一つに、中国の現代史の問題がある。とりわけ、中国大陸に毛沢東の共産党政府が樹立される前に、中国共産党と蒋介石の国民党政府との内戦で、もし毛沢東の共産党中国ではなく、孫文の三民主義を引き継いだ蒋介石の国民党政府が中国大陸に支配権を確立していれば、現在の東アジアはどのようなものになっていただろうかという問題である。

あるいはルーズベルト大統領が、スターリンのソビエト連邦と立憲君主国家日本国の大東亜共栄圏との間に「敵性国家」の策定を過つことがなかったならばどうか。

21世紀の初頭に生きる私たちには、あれほど多くの「人民」がその革命と実現のために苦闘してきた共産主義国家の多くが、世界の国々から、その歴史から姿を消しつつあることも知っている。そして、現代では多くの旧社会主義国家において、自由と民主主義の名の下に市場主義、資本主義が取り入れられつつある。そして周知のように、中国もまた改革開放路線を選択し、社会主義市場化によって経済的にはきわめて奇形ながらも、いわゆる「資本主義国家」と実質的には変わらないようになっている。

むしろ、共産党政府の独裁によって政治的に自由に解放されていないがゆえに、「資本主義」が本質的にもっている弊害がいっそう深刻化しているようにも見える。共産主義が本来目指したはずの「人民」の経済的な平等も形骸化し、むしろ、他の民主主義国以上に、経済的な格差も深刻化しているという。共産党幹部らの深刻な腐敗なども漏れ伝えられてくる。


現代中国の重要な国策の一つに「一人っ子」政策がある。その膨大な国民人口を生産能力で養ってゆくことができないがゆえに取られた政策である。現代中国においても多くの共産主義国の事例にみられたように、共産主義は貧困の普遍化を招いただけで、国民の経済的な生産能力の増大に失敗したことは事実である。もし中国が、蒋介石の国民党政府が国内戦に勝利をえて、「資本主義的な生産様式」でもって、もっと早期に国富の増大に成功していたなら、現在のような厳しい「一人っ子政策」を余儀なくされていただろうか。

多くの人が見たと思うけれど、先日にどこかの民放テレビ番組で、中国の「一人っ子政策」の現状が報道されていた。伝統的に男尊女卑の傾向が強く、また、国民の老後の社会保障政策の貧困もあって、中国ではこの「一人っ子政策」の結果、男女の出生比率のバランスが大きく崩れてきているのだという。その結果、女の子だとわかれば、暗黙のうちに堕胎させられたり、捨て子にされたりして孤児になったりすることもあるという。

2007年5月18日の夜に、遼寧省瀋陽市で黄秀玲(ホワン・シューリン)さんが農薬を飲んで自殺したことが先の報道番組で報じられていた。わずか14歳の少女だった。学校の成績も好かったと言う。生まれてまもなく、彼女は実の両親から養子に出され、またその養父の病気のために、新しい養父母の元で暮らすことになった。しかし、その養父母も貧しく、秋冷さんはわずかのお金を持たされて、買い物に行かされたときに、空腹に耐えられず、そのスーパーでわずか15円のパンを万引きし、見つかって店の前に立たされたという。彼女の屈辱はどれほどのことだっただろうと思う。こうした事件も人類の間に起きている多くの悲劇のうちの小さな一つにすぎない。

それにしても、現代中国が歴史的に迂回することなく、もっと早い時点で豊かな社会を実現することができていれば、この黄秀玲さんのような死はなかったのではないか思うことである。しかし、それも所詮はむなしい歴史のイフに対する想像に過ぎない。


記事報道
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070523-00000003-rcdc-cn

 

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政治家と国民の茶番劇

2007年06月13日 | ニュース・現実評論

「政治とカネ」法改正案を可決 衆院政倫特委(朝日新聞) - goo ニュース

政治家と国民の茶番劇

相変わらず、おかしくも哀れな政治家たちの茶番劇がくり広げ続けられる。国民もまた自分たちの利害に直結する年金問題には眼の色変えて確認に走り回るのに、それよりもはるかに深刻で根源的な政治資金規正法改正案の問題については、いっこうに関心も盛り上がらない。

政治資金管理団体の事務所費、光熱水費などの支出透明化を図る政治資金規正法改正案が13日に、衆院政治倫理確立・公職選挙法改正特別委員会において、自民・公明両党の賛成多数で可決された。この改正案は14日の衆院本会議でも可決されるらしい。

それなのにマスコミの多くも、黄金の腐臭の漂う政治資金の使途明細の実情を明らかにしようという意欲を欠いている。そして、公明党もまた、「一万円以上」の領収書添付は「現実的」でないなどと言い訳して、どこかの宗教団体の「先生」の清濁併せ呑む太っ腹の偽善ぶりを見習っている。一万円以上の領収書の添付では、政治で飲み食いができなくなるからだ。今もなお日本の政治は、飲み食いがらみで動いている。

電気会社であれ自動車会社であれ、普通の企業であれば、一円単位の領収書もきちんと保存して、税金の算定に使うではないか。なぜ、政治団体にそれができないのか。

それは、先に緑資源管理機構の汚職疑惑で自殺した、松岡利勝農林水産大臣の例に見るように、日本人においては政治が、エロとタカリと同じ次元でとらえられているからである。このような政治文化が背景にある限りは、日本国民の政治家の腐敗を「憤る」ようなそぶりも、その偽善ぶりがただ醜いだけである。

先進的なビジネスの世界と同じように、一銭一厘の領収書をきちんと管理する乾いた風が、政治の世界にも吹き込まない限り、腐ったどぶのようなじめじめした陰気な汚臭から、政界の住人たちが解放されることはない。この点で政治屋たちは、つねに競争にさらされている経済界と比べて、まだ100年前の昔の封建社会にちょんまげのままに暮らしている。


国民もまた、葬式などで、政治家などの「名士」などからの弔電などを貰って喜んでいるかぎり、こんな事大主義的国民性の日本人の体質だから、政治家の連中にもお金がかかり、「ザル法」の政治資金改革法を国会に提出してお茶を濁しても、懲りることも恥じることもないのである。まさに、この国民にして、この政治家ありである。西洋のことわざにあるように、「国民は自分たちにふさわしい政治しかもてない」のである。その意味で、一国の政治は、その国民の映し鏡である。汚い政治家から弔電を貰うのを故人は恥じるほどでなければならないのに。

もし政治家に少しでも謹慎するつもりがあるなら、たとえば清水市と合併した静岡市のように、市議会議員の政務調査費が6万円だったものが、合併時と昨年の2回にわたる増額で4倍の25万円にもなったような、国民をなめきったような焼け太りの決議は行なわれないはずである。いまだなお多くの地方自治体においても「政治家」たちの政務調査費の使途は非公開が認められたままである。

今回の政治資金規正法案については、一万円以上の支出について領収書の添付の義務づけ、また資金管理団体だけではなく他の政治団体も規制の対象とする民主党の提出した法案の方がはるかに妥当である。実際、資金管理団体だけを規制しても意味がない。民主党元党首の岡田克也氏が今回の政治資金規正法案で、「首相の張りぼて改革の典型だ」と批判するのも当然である。

ただ、民主党も修正案に応じて妥協する姿勢を示すのではなく、どこまでも自分たち政治家自身に厳しく律する姿勢を示してほしかった。そうして民主党の政治家たちが本当に生まれ変わったことを国民に証明して行けば、近い時点で必ず民主党に支持が集まるだろう。民主党が国民の付託にこたえきれていない現状の責任は大きいのである。

現在の民主党の党首小沢一郎氏の政治に今一つ私が共感できないのは、氏の政治理論以前に、氏の政治家としての体質に不信感を持っているからである。小沢一郎氏の政治家としての体質は、田中角栄の系譜にあると見ているからである。現在の政界の住人たちに、「政党助成金」によって濡れ手に粟の弛緩した金銭感覚に手を貸すことになったのも、小沢一郎氏の「功績」によるものである。また法的に問題ないからといって、政治資金管理団体の巨額の不動産を所有して、腐敗体質の与党にすらつけ込まれているのも小沢一郎氏である。

 追加07/06/26

   政治の貧困

   民主党の再建と政界の再編成について

   自由と民主政治の概念

   民主党四考

   民主主義と孤独 

  

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セキセイインコ

2007年06月11日 | 日記・紀行
セキセイインコ
 
もう遠い昔のことになってしまったけれど、懐かしい記憶として残っているは、二羽のセキセイインコのことである。その一羽は黄色の、というよりは全身山吹色といったほうが正確な、濃い美しい羽をもっていた。私がまだ小学生の頃に、父が会社から二羽のセキセイインコを持って帰ってくれた。どういう経路で、またどのような気持ちで父が小鳥を家に持ち帰って来ることになったのか、それは今もわからない。ただ、それまでにも、祭りの縁日で買って来た数羽のヒヨコを、兄弟で鶏になるくらいに育てたり、十姉妹などを飼ったりしていたから、父がそれを思い出して、会社の誰かに貰って来たのかも知れない。

父が持って帰って来たセキセイインコの一羽は、山吹に近い濃い黄色の、本当に美しい羽を持っていた。その鮮やかな色彩が今も目に浮かぶ。もう一羽は普通のセキセイインコだった。この二羽を自分たちは鳥かごに入れて飼っていたが、ある日、私が鳥かごを縁側に出して、餌をやろうと鳥籠のとば口を開けた途端に、一瞬のうちに、この山吹色のセキセイインコの方が、庭の方に向かって飛び去ってしまった。

その時の悔しい気持ちと、そのセキセイインコの美しい羽の記憶が、数十年を経た今でもはっきりと思い出される。それらのセキセイインコはつがいで父が貰って来たせいか、その後、同じ黄色のセキセイインコを父が再び貰ってきてくれた。それは、逃げたセキセイインコほど美しくはなかった。
 
それからしばらく経って、緑の羽のセキセイインコを、今度は二階の部屋で何かの折にまた鳥籠から逃がしてしまった。ちょうど締め切った部屋の中だったので、遠くに逃げ去る心配はなかったが、自分たちの手から逃れるために、部屋の中をそのインコはあちこち飛んで逃げ回って、なかなか容易に捕まえることができなかった。そうして捕り物に四苦八苦しているうちに、とうとうそのインコは違い棚の下の引き戸に激しくその嘴をぶっつけたかと思うと、ようやく落下して止まった。

それで、ようやく捕まえて手のひらに乗せて兄と見たが、小さな丸いまぶたは閉じられていた。たしか兄が嘴をいじって直そうとしていた。その体が温かかったかどうかは記憶にはない。ただその時、その小さな小鳥が、私の手のひらの上で、全身を反り返らせるようにして硬直していった。その時の手の感触が、なんとなく気の毒な思いといっしょに、今もはっきりと思い出せる。これが、生命の死というものについての私の最初の記憶だったと思う。死骸は庭に埋めた。
 
自分の手のひらの上で死んで行ったインコと、どこかに逃げ去った山吹色のインコのきれいな二羽の小鳥の悲しい記憶が今も残っている。それから中学生になって伝書鳩を飼うようになるまで、セキセイインコの後は何も飼わなかった。
 
 
※写真は大町市有線放送Blogさんよりお借りしました。差し支えあれば削除します。
 
http://ouh.blog61.fc2.com/blog-date-200610.html
 
 
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マスコミの堕落と退廃

2007年06月07日 | ニュース・現実評論

李登輝氏 7日午前、靖国神社を訪問 - 国際

李登輝氏、靖国参拝/中国、一段と反発も

靖国:李登輝前総統が参拝強行へ=朝日新聞

「あるある問題」再発なら電波停止も 総務省、関テレにきょう「警告」

台湾の李登輝前総統、靖国神社を参拝

マスコミの堕落と退廃

靖国神社を毛嫌いするマスコミは、今回の李登輝氏前台湾総統の靖国神社参拝を格好のネタに再三再四、中国共産党政府のちょうちん持ちの役割を果たし、日本国を彼の国に売り渡す仕事をしている。

李登輝氏自身は、「62年前に別れた兄に頭を下げる個人的行為だ」と説明し、神社訪問直前に、記者団にも「政治的、歴史的(行為)と考えないでほしい」と伝えている。

それにもかかわらず、靖国神社を問題にしたいマスコミは、今回の李登輝前総統の個人的な靖国神社参拝を思惑ありげに取り上げ、李登輝氏自身の自由な宗教的行為を擁護するのでもなく、靖国神社をあえて日中が対立する歴史問題の象徴として取り上げ、今回も「中国が一段と反発を強めるのは必至だ」などと書いて、懲りることもなくいかにも中国の靖国批判のちょうちん持ちの役割を果たしている。こうした記者の頭の中には、個人の信教の自由とその価値に思い及ぶ余地もなく、それが祖国を売ることになることについての想像力のかけらもないのだろう。

今日では靖国神社は一宗教法人に過ぎず、そこに参拝するかどうかは、一個人の自由な宗教行為に属する問題となっている。安部晋三首相も記者団に首相官邸で、すでに「私人として来日したと認識している。私人として当然、信仰の自由がある。日本は自由な国だから、その中でご本人が判断をされると思う」と述べ、来日が日中関係に与える影響についても「私はないと思う」と常識的な判断を語っている。

テレビや新聞などのマスコミの腐敗と堕落は今に始まったことではない。特にテレビ業界の腐敗ははなはだしい。先にも関西テレビの「あるある問題」の番組捏造問題で、総務省から電波停止の警告処分を受けたのも当然である。彼らには、民主主義の名を借りて、「言論の自由」などを主張する資格はないと思う。彼らこそ「自由」を名目にして、自由の価値を毀損する最大の張本人だからである。テレビ業界がそのスポンサーをも含めて、もっと自浄努力を働かせる能力がないのなら、規制を受けても仕方がない。

公共からその貴重な放映権を委ねられておりながら、エロとグロの堕落番組を放映して、国民の意識を汚染するとすれば、公共電波を独占的に使用する資格はない。総務省から警告を受けるのも当然である。果たして彼らに「言論の自由」の自由を主張する資格があるだろうか。

NHKをはじめとする今日のテレビ局に、その番組制作能力が著しく劣化してきていることは明らかである。おそらく、それは銀行や社会保険庁などの官公庁の腐敗に共通するように、電波の独占にあぐらをかいて、消費者や視聴者の要求に真摯に応じてこなかったという共通の地盤があると思う。自局の番組制作能力を向上させることを忘れ、韓流・華流などと称して、視聴者に高い受信料を払わせながら、製作する苦労も払うことなく、外国番組を高額の放映料を支払って放送する。日本のテレビ局はいつ外国テレビ局の代理店になったのか。

テレビ業界をはじめとするマスコミの改革は、緊急の重要な課題である。それは単なる道徳論では済まされない。組織や機構、制度の根本的な改革に俟たなければならない。特権的な独占的放映権に、あるいは、現行電波法にあぐらをかいている。銀行や官公庁や農業、土木建設業界のように、独占禁止法によってマスコミ業界にも競争原理が働くようにしないかぎり、意義のある面白い番組に対する視聴者の要求にもこたえきれない。鞭と飴で競争に駆り立てなければ、安楽にあぐらをかいて腐敗も堕落も防ぎ得ないというのは、人間の悲しい性なのだ。

 

   改革のテーマ──テレビ局の改革(1)

   小泉首相の靖国神社参拝

   

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日々の聖書(15)――神の裁き

2007年06月05日 | 宗教・文化

日々の聖書(15)――神の裁き

猟師が籠を小鳥で満たすように、
彼らは家を偽りで満たしている。
そうして、彼らは強大になり、
金を蓄える。
彼らはますます太り、
脂ぎっている。
こんな悪人どもの行いを、
私は見過ごすことができるか。

孤児の訴えも取り上げず、
それでも、彼は栄え、
貧しき者たちの権利を正しく裁くこともない。

どうして、この民に報いて、
主は言われる、
罰せずにおられようか。
驚くべきおぞましいことが、
この地に起きている。

(エレミア書第五章第27節~第30節)

神の裁きは、哲学においては必然性として捉えなおされる。哲学は必然性を追求するのものであり、そこに神の意思を探求しようとするからである。論理学が「神の叙述」であり、ロゴスの把握であり、その意味で、哲学が神を対象としていることは、宗教と同じである。

そして、神が世界を裁くという聖書の世界観は、歴史において理性が働いているという哲学の認識と本質的には同じである。聖書においては、神が天地を創造したとされるのであるから、そこに、自然や人類の歴史に、神の意思が貫かれていると見るのは当然である。かって老子も「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉で同じ事柄を表現している。

路傍のあやめの花にも、空の鶯の囀りにも、神の働きを感じることもできる。そこにも神の摂理が働いている。時には、何の罪のない幼児がさまざまな事故に遭遇して、命を失うこともある。それも、ある意味では「神の意思」であるというほかない。それは、われわれ人間の想像を超えている。人類の歴史的な産物である国家もまた同じである。国家もその働きから言って、概念的には神の意思を担っている。

政治の世界も同じである。そこにも、また何らかの必然性が、宗教的に言えば、神の裁きが貫かれているとしか言いようがない。国家も国民も個人も、絶対的な神の意思によって裁かれるのであり、その裁きの網の目から漏れることのできるものはいない。

エレミヤの言葉にもまた、彼が生きた当時の人々、国民に対する神の裁きが告げられている。彼と同時代人の、彼の生きた社会の様相を、エレミアは記録しているが、それも、ただ記録するだけではなく、その「裁き」についても預言している。

エレミアは言う。

民衆は愚かで、分別もなく、
悪には知恵が働くが、善きことを行うことを知らない。(同書4:22)

エルサレムの通りを巡って人々をよく見るがいい。
市場に行って探してみよ。正義を行い、真理を求める者を一人でも探し出せるか。
もしいれば、主はエルサレムを許されるだろう。(同書5:1)

十分に食べ物を与えたのに、彼らは姦通し、
遊女とともに時を過ごす。
そして、太った種馬のように、情欲に燃え、
隣人の妻を慕い、いななく。(同書5:7~8)

預言者は嘘ばかり言い、
祭司は好き勝手なことをおこない、
人々はそれを喜んでいる。
お前たちは最後にはどんな目にあうか。(同書5:30)

エレミアとともにこうした時代を生きたエルサレムのユダヤ人たちは、紀元前587年ごろ、バビロニアの王ネブカドネザルによって、バビロニア(現在のイラク)に奴隷として囚われていった。ユダの王は目をつぶされ鎖につながれ、神殿も破壊された。そのときの悲惨な様子は、続篇のエレミアの「哀歌」の中に克明に描写されている。エレミアは明らかにそこに神の裁きを見ている。

こうした歴史的な事件は、何もエルサレムだけの出来事ではない。小ながらも、現代の日本においても、独立行政法人「緑資源機構」の汚職容疑で、関係者が三人、自ら命を絶っている。

その一人は、現職の農林水産大臣の松岡利勝氏だった。自らの命と引き換えにしなければならないほど、この事件が深刻なものになっていたということである。安部晋三内閣は、現職大臣の自殺によって守られたともいえる。農林水産行政で辣腕を振るった、松岡利勝氏が、そこまで追い詰められたということである。そこに働いていた過酷な必然性を、哲学もまた洞察せざるを得ない。個人の運命も、内閣の運命も、国家国民の運命も、神の御手からまぬかれることはできない。

猟師が籠を小鳥で満たすように、
彼らは家を偽りで満たしている。
そうして、彼らは強大になり、
金を蓄える。
彼らはますます太り、
脂ぎっている。
こんな悪人どもの行いを、
私は見過ごすことができるか。

孤児の訴えも取り上げず、
それでも、彼は栄え、
貧しき者たちの権利を正しく裁くこともない。

どうして、この民に報いて、
主は言われる、
罰せずにおられようか。
驚くべきおぞましいことが、
この地に起きている。

(エレミア書第五章第27節~第30節)

 

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