作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

平穏無事

2005年09月29日 | 日記・紀行

「海」のブログのテンプレートを夏向きから平常タイプに変更。

「海」に「宗教的狂信について」を書く。哲学との関連で一応「夕暮れのフクロウ」にも載せておく。できるだけ多く読まれれば幸いである。

宗教的テロや政治的テロは今日の世界にも絶えることがない。その芽もいつでもどこにもある。

宗教的狂信がもたらす結果についてはヘーゲルは的確に考察している。しかし、なぜ人間はこうした宗教的な──あるいは、その他にも政治的な、愛国主義的な狂信などがある──狂信に陥るのか、その原因についての考察はまだ不充分であると思う。

 

期待通り、今日は秋晴れ。

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今朝は雨

2005年09月28日 | 日記・紀行

早朝、雨が降った。すぐに上がったが、終日すっきりしない一日だった。

晴れ間が見えれば散歩にでも出かけようと思っていたが、あきらめた。明日は秋晴れになりますように。

詩篇第二十四篇の注解を書く。といっても、数年前に書いた文章を一部手直ししただけ。新しい発見はない。

クリス・レアを何曲か聴く。日本には大人の聴けるポップスが少ないのではないかと思う。メールを一件送付。

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肌寒し

2005年09月27日 | 日記・紀行

 

今朝は少し寒かった。暑い夏の間、部屋では半ズボンで通して来たが、夜が更けてくると耐えがたくなる。掛け布団も離せなくなった。こうして少しずつ秋も深まって行く

晴れ間が見えれば、散歩に出ようと思うけれど、いまひとつ、すっきりしない。昨日はきれいな秋空だったのに。

ドイツでは政局が混迷していると言う。政権政党が決まらない。アメリカもハリケーンとイラクの治安防衛で余裕が無い。北朝鮮をどうするか。拉致と核、全体主義。

昨日の小泉首相の所信表明演説についてもさまざまに論評が行われている。

 

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野口みずきさんの優勝

2005年09月26日 | 日記・紀行

野口みずきさんがベルリン・マラソンで優勝した。歴代三位の高記録でアジア女子最高記録であるそうだ。彼女はアテネでも大和撫子の健在を世界に知らせた。

昨夜テレビで見た。録画だったと思うが、ベルリンはずいぶん暑かったそうだ。小柄で華奢な体つきだが、追随を許さない圧倒的な勝利だった。足が棒になって動かないと言っていた。日本の宝のような女性だ。

ネットでニュースを読んでいて、昨日飯沼二郎氏の死去が報じられていた。農業経済学者で京大名誉教授だったが、ほとんど知られていないのではないだろうか。八七歳だったという。若い頃、氏の数冊の著書を読んだことがある。とくに深く傾倒するということもなかったが、気骨のある貴重な人だった。

今日はまた元日本銀行理事で、森鴎外の研究家の吉野俊彦さんが亡くなっていたのを知った。飯島氏も吉野氏もその著書を通じて、袖すり合う程度の関わりしかなかったが、年齢を重ねる毎に、若い日に知った、そして、多かれ少なかれ精神的に係った人たちが鬼籍に入って行くのも避けられない。

吉野俊彦さんなども、生前の名誉や地位を気にせずに、二足のわらじをはかずに、文学者に徹していれば中途半端な人生に終わらずに済んだのではないだろうか。しかし、森鴎外を師に選んだ吉野氏は、師と同じように、二足のわらじを履いて生涯を終えたのだ。享年九十歳。

 

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民主党論

2005年09月21日 | 政治・経済

政治評論関係の文章を『ロドス島の薔薇』に移す。

①『民主党に対する失望』(05/08/13)

先の郵政解散総選挙に対する岡田民主党に対応のし方について、私の失望を述べたもの。

郵政総選挙の真の争点』(05/09/10)

一見「郵政民営化」が争点のように見えた今回の解散総選挙が、実は本当の争点が「政党の国民政党化」にあったことを論証したもの、この争点を見ぬけなかった岡田民主党は大敗北を喫し、事実上、この争点に沿って、自民党の国民政党化で選挙を進めた小泉自民党が勝利を収めた。

③『民主党の大敗』(05/09/12)

表題通り、民主党の大敗の原因をさらに考察したもの。

これらの論文と先に併載した「民主党の再建と政界の再編成について

を併せて読んでいただければと思います。とくに、民主党関係者に読んでほしい。

 

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ブログの整理

2005年09月20日 | 日記・紀行

このブログは、はじめは個人的な日記、メモワールのようなものにするつもりで、今年の六月二十六日からはじめたのですが、、何回か書いているうちに、とうてい日記とかつぶやきとは呼べない文章が出てきて、本来の目的にそぐわないものになってしまいました。

内容も政治・経済に関するものから、芸術・文化の関するもの、現実評論、社会批評的なもの、宗教関係、それから本来の日記的なものまで、いかにもまとまりがなく、焦点の絞りにくいものになっているようです。

そこで、何とか整理するつもりで、無料であることを幸いに、もういくつかのブログを作って、内容別に併載して行くことにしたのですが、もちろん、現在の私には特定のジャンルで毎日更新、投稿も能力的にできません。どうしてもそれらのブログでは、カレンダー上も歯が毀れたような情けない状況にならざるを得ません。

日記ブログとしてはじめた、この『作雨作晴』すら、毎日投稿できていないのだから当然といえば当然なのですが。

せっかくのブログを作りながら、一ヶ月に一編の投稿すらしていないブログもあります。

 ;^ 。^;

といっても、この『作雨作晴』も少しずつ文章がたまってきて、文章を読みなおすときも、いかにも散漫に感じるので、できるだけテーマに統一性のあるブログとして別個に、それぞれのジャンル毎に併載して行くことにしています。

プライベートなことなどほとんど書かれていない、しかも、テーマの決まらない散漫なこの私の「日記」ブログ『作雨作晴』など見るのも面倒な方で、もし、芸術や政治など、特定の分野にだけ興味や関心の持てそうな方が万一いらっしゃるなら、下記に記したそれぞれのブログを覗いていただけたらと思います。

 

ただ、ブログ併載の整理もまだ行き届いておらず、同じ内容の文章があちこちに散見されると思います。幻滅されずに読んでいただければと思います。

そして、できれば読んで感じられたこと、考えられたことがあれば、是非コメントなどに批評や感想を書いていただけたら幸いです。インターネットの情報交換やコミュニケーションで、ブログほど活用できるものはないと思います。教養を少しでも高めて行ければと思います。(*´o`*)

今のところ、次のようなジャンルでブログを分けています。将来もっと適当な整理法があれば改善して行くつもりです。

○ 現実評論、政治・経済

        ロドス島の薔薇    http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/ 

○ 芸術・文化

         天高群星近 http://blog.goo.ne.jp/sreda/

○ 宗教・文化

         海       http://blog.goo.ne.jp/aseas/

○ 哲学

       夕暮れのフクロウ    http://blog.goo.ne.jp/aowls   

○ 書評

         晴耕雨読       http://blog.goo.ne.jp/sowla/

○ 倉庫 (とにかく過去に書いた文章を放り込んだもの)

         真珠        http://blog.goo.ne.jp/apearl/

いずれにせよ、もう少し整理のし方がありそうです。

 

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今日は中秋の名月

2005年09月18日 | 芸術・文化

 

今日は中秋の名月。しかし、今宵秋の夜空には月の面影はない。


中秋の名月で思い出すのは、かぐや姫のこと。かぐや姫の淋しさ。かぐや姫は、月を見ては泣いていた。翁が姫に月を眺めるなとどんなにいくら言い聞かせても、言うことを聴かない。そして、とうとう今日の八月の十五日になると、もう人目もはばからず激しく泣く。そして、姫がこの世の住人ではなく、月の都に父も母もいると言う。それでも、かぐや姫はすっかり月の世界の父母を忘れて、長年慣れ親しんだ翁、嫗との別れを悲しむばかり。

かぐや姫は竹取の翁によって、竹筒の中から発見された。それからというもの、竹取の翁は竹の節々に黄金を見つけて、見る見るうちに富んでいった。そして、この愛らしい女の子は、たった三月の間に、竹のようにすくすくと成長して立派な女性になった。翁も姫を手塩にかけて育てた。

その容貌があまりに美しかったので、世間の男は身分の高いものも低いものも、こぞってかぐや姫に求愛した。しかし、かぐや姫は並みたいていの愛情では男たちの求愛に応じようとはしない。かぐや姫に求愛する五人の貴公子たちの言動は、色と欲に溺れる男たちの真実をユーモラスに伝えている。


多くの古典作品がそうであるように、この竹取物語は子供が読んでも、老年者が読んでも、それぞれ味わいがある。

子供の時に読む竹取物語は、まるでお伽噺のように空想を膨らませることのできる楽しい童話であり、青春期にあるものには五人の男たちの愉快な恋愛譚である。また、ある程度人生の経験を積んだものには、免れがたい宿命を悲しむ人間の、有限性を自覚させられる悲しい物語にもなる。竹取物語もまた、ダイヤモンドのように多様な屈折を内部に照り返す美しい結晶体である。

中秋の空に浮かぶ月は、一年のうちでもっとも大きく白く輝く。その季節の夏から秋への移り行きの中で、また、植生が萩やフジバカマやススキなどに変化する中に、秋空に浮かぶ大きく清らかな白い月を眺めて、仏教思想などの影響を受けた古代の貴族たちが、月の世界を浄土とし、地上を穢土と認めたとしても不思議ではない。

竹取物語もそうした発想のもとに組み立てられている。後半に至ってかぐや姫を迎えにきた月の都の王と思しき人は、実はかぐや姫が犯した罪のために、この「穢なき所」に流されて来ていたことを知らせる。

多くの色好みの男たちの求愛にも難題にかこつけて拒否し、その上、この地上の最高権力である帝の面会の申し出にさえも応じようとはしない。無理やりつれて行こうとすると光になって消えてしまう。かぐや姫は結局この世の人ではないから、どんなに優れた求愛者でも、この世の最高権力者、帝でさえ自由にならない存在である。そんなかぐや姫に翁は、さかしい人情から結婚を勧め、自らの富と出世の欲とも絡んで、かぐや姫に宮仕えさえ勧めようとする。

 

しかし、やがて贖罪も終え今は月に帰るべきときになり、やがて月から姫を迎えに来ると言う。かぐや姫は自分がいなくなることを翁が悲しむことがなによりつらいのである。翁もそんなかぐや姫を失うことは死ぬよりつらいと思っている。
かぐや姫は自分がいなくなることによって、翁や嫗が嘆き悲しむことに何よりも耐えられない。かぐや姫がもっともつらいのは、姫自身が取り去られる辛さよりも、自分がいなくなって、翁や嫗が嘆き悲しむことである。

 

それを伝え聞いた帝は、少将高野を勅使に遣わし、六衛府の侍たちにかぐや姫の身辺を厳重に守らせる。何千人にも上る兵士たちがが塀や甍の上でそして、部屋の前にも中にも蟻の這い入る隙もなく防備し、女房たちもかぐや姫をしっかりと抱きかかえている。このあたりの物語の描写は簡潔で見事である。それでも、かぐや姫は知っている。どんなに厳重な防備も効き目のないことを。どんなに翁が強がって見せても、無駄であることを。

そうしているうちに、とうとう天空から人が雲に乗って地上五尺ばかりのところに立ち連なって来る。それを見た兵士たちはすっかり腰を抜かして、呆然とし、痴れ者のようになってなすすべもない。

こうした簡潔で見事な描写は仏教経典の菩薩の来臨の描写の影響も当然にあるのだろう。ヨハネ黙示録の天上の礼拝の描写も思い出させる。むしろ、竹取物語は、仏教の経典や仏教説話などの発展と見るべきなのだろう。だから、その中の王と思われる人の言葉によってはじめて、かぐや姫が何らか罪を作ったがゆえに翁のところに降されたことが告げられる。しかし、罪も償われて、かぐや姫はいよいよ月の都に戻されようとしている。


その土壇場に及んでも、翁は月の都の王に対して、探しに来たかぐや姫は別の姫だとか、病気であるとか言い張る。いよいよ幼き知性の翁は無視されて、「かく迎ふるを、翁は泣き嘆く。能はぬ事なり。早出だし奉れ」と絶対的な命令でかぐや姫は召し出される。

月の都の人には心配事も何一つなく、清らかで老い衰えることもない。月の世界は、人類が追い求めた不老不死の仙境を実現した、言わば、ユートピアの世界である。そんな世界に行くことはかぐや姫には少しも嬉しくはない。むしろ、汚き穢なき所で、老い衰える翁、嫗とそばにいたいという。
ここでは、ユートピアが否定され、色と欲と穢れに満ちた俗世間が肯定されている。人間は結局穢れなきユートピアには住めないのかもしれない。

月の都の人は「天の羽衣」と「壷に入った薬」を持ってきていた。その羽衣を着、薬を飲むと、もう人の心は失われ別人のようになると言う。かぐや姫はその事を知っているので、その前に一言帝に書き残しておこうとする。

 

ここに明かに示されているように、かぐや姫が月の世界に取り戻されるというのは、生の世界から死の世界へと移されることである。物語という形式を通じて、人間は死という絶対的な事実の前には完全に無に等しいことが知らしめられる。この死という絶対の有限を前にしては、どんな人間の嘆きも、執着も、富も色欲も、帝王の権力も、いっさいが無に等しいという絶対的な空しさが、物語という涙の教訓を通じて人間に悟らしめられるのである。

 

美しいかぐや姫を主人公とする一見メルヘンを通じて、人間は仏教的な悟りへと、断ち切れぬ富や地位への執着の断念へと導かれる。どんな人間にも絶対的に訪れる親しき人々との別れ、兄弟や両親、妻や夫との別れ、そして、なによりも自分との別れを、そして時にはかぐや姫のようなかわいい娘との別れの辛さへの心構えを、その準備を気づかないうちにさせるのである。これらの別れを前にして、人はかぐや姫のように泣かざるを得ない。

 

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夏の終わり

2005年09月14日 | 日記・紀行

 

今日はもう九月十四日、夏も終わりである。しかし、夏の名残はある。蒸し暑い。とくに京都の夏の暑さは、昔から特有なのかも知れない。昔の文学作品の中にも、大宮人がどんな夏を過ごしていたか記録されている。


     行く蛍      (伊勢物語 第四十五段)


昔、男が居た。ある人のもとにとても大切に育てている娘がいたが、その男に何とかして自分の想いを打ち明けたいと思っていた。しかし、言い出すことができなかったからでしょうか、とうとう娘は病気になって死にそうになった時に、「こんなにまであの人のことを想っていました」と告げるのを親が聴きつけた。

泣く泣くそのことを男に伝えると、男は驚き戸惑いながら駆けつけたが、娘は死んでしまった。男は切なくなって、しみじみと部屋にこもって喪に服していた。

ちょうど時は水無月の末の、とても暑い頃で、宵のうちは琴を奏したり笛を吹いたりして慰んでいましたが、夜が更けはじめてから、少し涼しい風が吹き始めた。蛍が空高く舞い上がります。

男は縁に寝そべりながら蛍を見上げて、

行く蛍、雲の上まで、去ぬべくは、秋風吹くと、雁に告げ来せ

空高く行く蛍よ、雲の上まで去って行くのなら、都ではようやく暑い夏も去って、北から雁たちが乗ってやって来る涼しい秋風が吹き始めています。どうか娘の魂を持ち帰るように雁たちに告げ知らせてほしい、と詠んだ。

暮れがたき、夏の日暮らし、眺むれば、そのこととなく、ものぞ悲しき

なかなか暮れようとしない夏の日を、ひねもす物思いに耽っていると、これと言うことなく切なくもの悲しい。

娘は死ぬほど男を愛していた。しかし、深窓に大切にかしづかれて育てられた娘には、どうしてもみずから打ち明けることもできない。とうとう思い焦がれて死んでしまう。娘の魂は蛍にのって空に舞い上る。遠い暑い夏の出来事である。今年の夏ももう終わりだ。

 

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民主党の再建と政界の再編成について

2005年09月13日 | 政治・経済

(一)

今回の総選挙では民主党は大敗した。小選挙区制では、得票率以上に獲得議席数に差が出る。自民党に敗北を喫したとはいえ、自民党と民主党との間に得票数でそれほど悲観するほど差があったわけではない。


再建のために、民主党のこれからはどのようにあるべきなのか。先に敗因の分析で明かにしたように、方向性としては民主党が根本的に国民政党へと脱皮することである。


国民政党に脱皮するとはどういうことか。少なくとも自民党は今回の総選挙で、小泉首相の意思によって従来の支持基盤であった特殊利益団体の関係を切り捨てて、国民全体の利益本位の立場に立つ政党になろうとした。自民党は特定郵便局という従来の支持母体の利益に反しても、郵政民営化という国民全体の利益の方向へと軸足を移したのである。


このように特殊利益団体の関係を切り捨ててでも、自民党は国民全体の利益本位の立場に立つ政党になろうとし、また国民もそれを認めて、自民党に勝利を得させた。


もちろん、いまだ自民党には農協や一部の大企業や銀行、金融会社という多くの特殊利益団体の支持を得ているが、少なくとも、今回の総選挙を見ても分かるように、これらの特殊利益団体と国民全体の利益が矛盾し、反する場合には、自民党は特定の利益団体の既得権益よりも、国民全体の利益を優先する国民政党の性格を明確にしはじめた。


これに対し、民主党はどうか。旧社会党勢力の生き残りを党内に色濃く残しており、その支持基盤である官公庁や大企業の労働組合などの特殊利益団体の意向を無視し得ないでいる。民主党はまず国民全体の普遍的な利益を、国益を最優先する政党に生まれ変わり、自民党と同じように、もし国民全体の利益と労働組合などの一部の特殊利益団体の利害が矛盾する場合は、躊躇なく国民全体の利益を優先する政党にならなければならないのである。国民政党とはそのようなものである。


今日労働組合の組織率が低下し、引き続き都市化が進み、無党派層が有権者のなかで比重を増しているとき、このような国民政党に変化しなければ、政権を担うことは難しい。そのためには何よりも民主党の指導者は、旧社会党の勢力を統制し、必要とあれば排除する意思と実力を持たなければならない。


それは、外交・教育・軍事などの国家の根本政策においては現在の自民党とほぼ同じ政策を選択することになる。


これはなにも政権を獲得するために政略的にそうした政策、思想を採用するのではない。現在の菅直人氏や岡田克也氏は左よりの思想に過ぎると思う。これでは国民は絶対に民主党に政権を託すことはできない。前原誠司氏などの、より右よりの(岡田氏らと比較してである)政治家が民主党を指導できるようにしなければならない。現在の自民党とほぼ同じような政策、思想を主体的に確立するのでなければ、国民政党になれず、したがって政権党にもなれないということである。もし、それができないのであれば、政権を担うという大それたことは考えない方がよい。

(二)

岡田民主党では国民政党に成りきれないのは、まず党内の支持基盤である労働組合に対して、小泉首相が特定郵便局という支持基盤を蛮勇をもって切り捨てたようには切り捨てられなかったことである。もう一つは、外交政策において、とくに岡田克也氏はアメリカとの関係について、60年、70年の安保闘争世代の影響を受けてか、意識的無意識的に反米的色彩が見え隠れする。まあ、それは言い過ぎであるとしても、国民政党の指導者は民主主義者であると同時に正真正銘の自由主義者でなければならない。


岡田克也氏は民主主義者であることは認めるるとしても、自由主義についての理解が不足している。そのためにアメリカという国の本質を捉えきれないのである。イラクの撤退を口にするなどというのは、自由主義者のする思考ではない。


世界に自由を拡大しようというアメリカの歴史的使命をもっとよく理解し、さらには、「自由」の人間にとっての哲学的な意義を理解しなければならない。さもなければ、アメリカ人がなぜ基本的にブッシュ政権のイラク侵攻を支持し、北朝鮮への人権法案を制定したか理解できないだろう。日本の民主党の指導者たちは、特にアメリカの建国の精神である「自由の理念」をよく理解しなければならない。自由主義国家であるイギリスと、アメリカの民主党が共和党の対イラク政策にほぼ同調している意味をよく考えるべきである。にもかかわらず、愚かにも岡田民主党は、12月の自衛隊のイラク撤退を口にしている。


対イラク問題や対米政策については小泉首相の選択は基本的に正しいのである。民主党は自民党と対イラク政策で基本的に同調することに躊躇する必要はない。たとい政策を同じくしたとしても、それが民主党の主体的な思想の選択であれば、全然問題はない。むしろ、民主党は、アメリカでは民主党も共和党も国家の外交や教育など国家の基本政策にほとんど差がないことを知るべきである。イギリスの二大政党の場合も同じである。民主党は自民党と国家の基本政策で一致することをためらう必要はない。


それにしても、日本の政治がもっと合理的に効率的に運営されるためには、どうしても、政党を再編成する必要がある。どう考えても、西村慎吾氏と横路孝弘氏が同じ政党に所属することなど本来ありえないのである。少なくとも政党が理念や哲学に従って党員を結集している限り。


日本の政党は理念や哲学に基づいたものにはなっておらず、民主党も自民党も一種の選挙対策談合集団になっていることである。これは日本の政党政治の最大の欠陥である。早く政界は改革されなければならない。


具体的には、自民党と民主党はそれぞれ再度分裂して、自由主義に主眼を置く政治家と民主主義に主眼を置く政治家が、それぞれの理念に従って自由党と民主党の二つの政党で再結集し、二十一世紀の日本の政治を担って行くべきだ。もちろん自由党は経営者・資本家の立場を代弁し、民主党は勤労者・消費者の利益と立場を代弁することになる。そして、自由主義と民主主義のバランス、両者の交替によって日本の政治を運営して行くのが理想である。もちろん、自由党も民主党も、両者とも、まず国家全体の利益を、国益を優先する国民政党であることが前提である。

(三)

教育、外交、軍事、社会保障などの国家の根本的な政策では、自由党も民主党も八割がた一致していてよいのである。また、そうでなければ、国民は安心して民主党に政権をゆだねることができない。民主党の新しい指導者たちは、これらの点をよくよく考えるべきだと思う。


岡田克也代表の辞任を受けて、後継者選びが民主党で本格化している。しかし、その経緯を見ても、民主党が、その党名にもかかわらず、日本国民を「民主主義」をもって指導し、教育できる政党ではないことを示している。


党代表の選出にあたって、選挙ではなく、どこかの料亭で、「有力者」(鳩山由紀夫、小沢一郎氏など)が話し合い(談合)によって、決定しようというのだから。

この一件をもって見ても、鳩山氏らの民主主義の理解の浅薄さが分かる。
民主党の幹部の体質の古さは、昔の自民党以上である。


民主主義とは、言うまでもなく、決して党内の個人の意見を画一化することではない。党の構成員の意見が異なるのは当たり前で自明のことである。むしろ、指導者は党員の意見が互いに相違して、議論百出することを喜ぶぐらいでなければならないのに、鳩山氏は、「選挙になると必ずしこりが残るから」という。


党内での多数決意見が組織の統一見解として採用されたからといって、個人は自己の意見を変える必要はない。少数意見の尊重という民主主義の根本が、分かっていないのではないか。


会議のなかの議論を通じて少数意見者に認識に変化があり、自らの意見を多数意見に変更するかどうかは全く次元が異なるのである。納得が行かなければ、多数意見に変更する必要はない。


またそれと同時に、少数意見の持ち主は党内で議決された多数意見には規律として従うという民主主義の最小限のマナーも弁えない者が、民主主義を標榜する民主党の中にいる。


組織としての党の決定に、規律に従うことと、個人の信条として多数意見に反対であることが両立するのでなければ民主主義政党であるとは言えない。この民主主義の基本さえ十分に理解されていないように思われる。だから、鳩山氏や小沢氏は党代表選挙を避けようとするのである。
これでは、民主党は国民に対する民主主義教育という重大な職責さえ果たせないだろう。


民主党は何よりも、識見、モラルともに卓越した真の民主主義者の集団であるべきであるのに、未だそうなってはいない。民主党員が、とくに、その指導者たちが民主主義の思想と哲学をさらに研鑚され、民主党を真の民主主義者の集団として自己教育を実現することによって、国民にとって民主主義者の模範となり、尊敬を勝ち取れるように努めてほしい。そうなれば国民も安心して民主党に政権を託すようになるだろう。


また、自由党の党員もまた、自由主義者として自由の哲学をしっかりと身につけ、国民の幸福にとって不可欠な自由の護民官として活躍することである。日本の政治は一刻も早く、自由党と民主党の二つの政党で交互に担われるようになることを願うものである。国民もこの「政治の概念」をしっかりと理解し、それが実現するように行動すべきである。

05/09/13

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民主党の大敗

2005年09月12日 | 政治・経済

 

今年の暑い夏をいっそう暑くした郵政総選挙が終わった。政治の季節が終わり、秋風とともに収穫を神様に感謝する祭りが始まる。

今回の民主党の大敗を受けて、当然に民主党党内に深刻な反省と総括が行われるだろう。それがどれだけ深く徹底的に行われるか、その能力が民主党にどれだけあるかそれによって、民主党の再生の程度が明らかになるだろう。「能力」「能力」「能力」、能力が全てである。政権を担うことができるのも、その能力があってのことである。

今回の民主党の敗北も、民意を洞察する能力がなかったゆえである。民主党の岡田代表がどれだけ主観的に政権交代を望んだとしても、能力なくして、実力なくして政権を担当することはできない。私も今回の郵政民営化に対する民主党の対応を見て、失望し批判した。

いわゆる保守派をもって自認する者の中には、民主党に期待を寄せない者が多い。しかし、私は二大政党論者として日本の政治のもう一方の一翼を担う政党として民主党が育つことを期待するものである。岡田代表が「政権交代によってしか本当に政治は変わらない」と言うのは間違ってはいない。自民党は今回の選挙で大きく変わるだろうが、それだけでは政治改革においても限界がある。

岡田元民主党代表は、今回の郵政解散総選挙で政権交代を実現できると信じていた節がある。前回の参議院選挙までの民主党の順調な「躍進」で、とくに比例区での得票率の逆転などから、そのように考えていたのかも知れない。

しかし、その結果はどうだったか。民主党の惨敗である。
岡田代表は有権者の意識を、国民の動向を、とくに特定の支持政党を持たない、いわゆる無党派層の意向を完全に読み切れていなかった。これは明かに岡田代表の民意の読み誤りであり、これではまだ一国の宰相たる資格はない。
小泉首相が今回の総選挙を「郵政民営化」を争点にしようとしたのに対して、岡田代表は財政再建や年金や教育、外交などいわゆる民主党自慢のマニフェストに基づく多元的な政策論争に持ちこもうとした。

しかし、民主党は政権を担おうとしながら、小泉首相の郵政民営化法案に反対を示すのみで、独自の対案を何ら示すことがなかった。選挙戦に入って、この点を自民党に突かれることによってはじめて、ようやく、預貯金額の八百万円、五百万円へ減額することによって郵便貯金の規模を削減するという姑息な案を提示した。さらには「最終的には民営化を認める」という全く受身の姿勢に終始した。


郵政民営化の問題では民主党は全く腰が定まらず、これでは国民を馬鹿にしていると思われてもおかしくはない。国民はこの民主党の姿勢に、特定郵便局の利害を代弁する自民党内の郵政民営化反対派と同じく、郵政労働組合の利害を代弁して国民全体の利益に背を向ける民主党の姿勢を明かに見て取ったのである。

確かに、年金改正などでは、民主党は他のどの党よりも内容のある政策案を提示してきた。マニフェストに示している政策案は評価してもよい。しかし、いくら優れたマニフェストで緻密な政策を誇っても、根本の民意を読み取るという核心を外せば、今回の民主党の大敗北に見るように、それこそ絵に描いた餅になる。

その根本とは何か。民主党が真に国民政党へと脱皮することである。指導者の優柔不断、無能力によって民主党はまだ脱皮し切れないでいる。これに対し、特定郵便局という利益団体を、集票マシンを切捨ててでも、国民全体の利益を──その多くはいわゆる無党派層と呼ばれる──主眼に置くことによって国民政党に脱皮しようとした小泉自民党は大勝を得た。

民主党が前回まで躍進できたのはなぜか。国民の意思は明かに利権派族議員の巣食っている自民党に代わることのできる政党を求めていた。その期待が民主党に向かって寄せられたのである。それが、この郵政民営化問題で、現在の民主党が国民全体の利益を優先する国民政党になりきれない姿を見て、国民は民主党に失望したのである。

今回の郵政解散総選挙は、民営化法案の参議院での否決をきっかけとした言わば突発的なものであった。小泉首相が記者会見で明らかにしたように、参議院での郵政民営化法案の否決を受けて、国民の民意を問うという大義のもとに行われたものである。小泉首相が20年来の確信的な郵政民営化論者であったのに対して、そして、一部の反対者からは狂人扱いもされたのに比べれば、明かに岡田民主党は腰が座っていなかった。この点を民主党は国民に見抜かれたのである。これが民主党の大敗の原因である。

 

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