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作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

2025(令和7)年8月9日(土)曇り後雨。#長崎原爆忌。

2025年08月09日 | 日記・紀行

 

2025(令和7)年8月9日(土)曇り後雨。#長崎原爆忌。

 

今日は、長崎に原爆が投下されてから八十年目の午前11時2分。


あの日、巨大な爆風と熱線が街を飲み込み、多くの人々の身体と生活に、無慈悲な歯車の歯が食い込んだ。
火傷を負い、ガラスの破片が全身に突き刺さりながら助けを求めてさまよった人たち。


何の罪も責任もない子供たちが、父や母、兄弟姉妹の名を呼び、痛みと恐怖の中で彷徨った。
その夏の日から、今日で八十年。 


子供らの 阿鼻叫喚の 声聞こゆ
  長崎爆心 祈りの夜 

八十年 被爆者たちの 背と心
癒やされしかな 癒やされしかな


この日は、ただの年中行事や数字ではない。悲劇の二度と繰り返されぬことを。

 

 

 

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2025(令和7)年08月05日(火)晴れ。#急性肺炎、#臨時国会

2025年08月05日 | 日記・紀行

 

2025(令和7)年08月05日(火)晴れ。  

久しぶりの日記ブログ「作雨作晴」への記事の投稿。

ここ数十年の間、とくに健康を害したこともなく、医者ともまったく無縁の生活を過ごしてきたのに、先月に夏風邪をこじらせて急性肺炎になり、生まれてはじめて一週間近く入院した。そのために、ネットもスマホでベッドの上で見るくらいで、記事の投稿などおぼつかなかった。

健康のありがたみもわからず、歳もわきまえずに無茶な生活をしたせいかもしれない。先の急性肺炎と関係があるのか、悪いことは重なるもので、今は腰に神経性の強い痛みが走る。それでも、机の前に座して記事などを書いたりするには、差し支えはない。
久しぶりの投稿です。今は互いに離れて住み、ご無沙汰したままの知人、友人や親族などへの音信代わりにもなると思います。

8月に入り臨時国会が開催された。8月1日から開催された臨時国会は、今日で終わるそうだ。参議院の正副議長選出や予算委員会での重要政策の議論が行われたが、短期間であったため、日米関税合意やガソリン暫定税率廃止法案などについての審議は十分に行われなかった。国民のために会期を延長して、重要法案を審議し可決を促進する、というやる気も国会議員にはないようだ。

 

 

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2025(令和7)年06月03日(火)雨。聖書とヘーゲル哲学

2025年06月03日 | 日記・紀行

 

2025(令和7)年06月03日(火)雨。聖書とヘーゲル哲学

 

久しぶりに終日雨が降り続いた。

X(ツイッター)@myenzyklo でノートを取りながら、ヘーゲルの宗教哲学の最終章「第三部 絶対宗教  Ⅲ 3一般的現実性への精神的なものの実現」(木場深定訳)の個所を久しぶりに再読する。


「問題はただ、感情の内容が真理であるかどうか、それは思考において真実の内容として証示されうるかどうか、ということだけである。哲学は主観そのものが感じるところのものを思考し、そして感情と折り合うことを主観に委ねる。このように感情は哲学によって拒否されはしない。むしろそれはただ哲学によって真実の内容を得るのである。

しかし思考が具体的なものに対して対立し始める限り、思考の過程はこの対立を克服して、これを宥和に到達させることである。この宥和が哲学である。哲学はその限り神学である。それは神の自己自身との、また自然との宥和を提示する。すなわちそれは、自然・他在そのものが神的であり、そして有限精神が一部は自己自身において自己を宥和に高め、一部は世界史においてこの宥和に達することを示すのである。」

聖書の研究のためにヘーゲル哲学に入ったことは正しかったとあらためて思う。ヘーゲル哲学は聖書の真理の論証である。宗教と同じく、あるいはそれ以上に哲学もまた深い精神的な充足をもたらす。聖書が先でヘーゲル哲学は後だ。ヘーゲル哲学はなくても聖書はあるが、その逆はない。

 

 

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今日は憲法記念日

2025年05月03日 | 日記・紀行

 

2025(令和7)年05月03日(土)晴れ。憲法記念日.

今日は憲法記念日。

今日は憲法記念日だそうです。ここ最近になって日本国憲法について触れた私の論考を再録しておきます。

現在の日本国で行われているような、「護憲・改憲論議」の現状では、今日の日本国に見られるような、国家の解体的な現象、政治家や国民の「漂流化」は防げないと思います。


こうした現象はいずれも「現行日本国憲法」の存在が日本の国家、国民に及ぼすところの論理的な帰結だと思います。

 

令和日本国憲法草案3

2025(令和7)年04月24日(木)晴れ。 #「令和日本国憲法草案」について2

  「令和日本国憲法草案」について2   ...

「令和日本国憲法草案」について

【令和日本国憲法草案2】

【令和日本国憲法草案】

拉致被害者の救済と日本の主権国家としての確立

赤尾秀一の思想研究

 

 

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2025(令和7)年04月10日(木)曇り、のち小雨。#能因法師

2025年04月10日 | 日記・紀行

20250407

2025(令和7)年04月10日(木)曇り、のち小雨。#能因法師

 

 

花曇りというか、うっすらと陽が差し込んだ午後、高野川の川端通りを北に向かって帰途につく。前方の北北東の正面にはいつものように比叡山の山容があり、今日は少し翳って眺められる。

この日はさすがに日々見慣れている高野川堤の桜並木も、見事とか素晴らしいとか月並みの言葉では言い表せない。冬枯れの季節から赤く蕾をふくらませて、そして今日のような花爛漫の姿まで日々飽きるほどに眺めている。

歌人の西行が慕った能因法師は、摂津国の難波のあたりの光景を眺めて、

 

こころあらむ 人に見せばや 津の国の 難波わたりの 春のけしきを


と詠んだらしい。もちろん、当時の摂津の国の難波のあたりの春のけしきがどんなものであったのか、想像もつかない。しかし、この日ばかりは遠く比叡山を遠景に延びる爛漫たる桜並木を眺めて、まず第一に今は離れてすむ娘たちに「見せばや」と思う。

なでし子に見せばやみやこ北の方高野堤の春のけしきを

能因法師も「春のけしき」を、誰彼にでも見せたいとは思っていない。「こころある者に見せばや」と言っている。「こころあらむ人」とは誰のことか。私にもこの春の今ここのこの一瞬の美の現前を誰か他者と共有したいという思いは生まれてくる。しかし、それは限られた者にである。それは連れ合いであり近親者であり友人であり、精神的に近しい者である。

 

20250407

20250409

どんな写真も、やはり現実の美しさにはおよばない。

※追記

伊勢姫 - 作雨作晴 https://is.gd/eW8yqn

能因法師を偲んで事跡をたずねてからもう三年も経過している。

 

 

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2025(令和7)年04月03日(木)晴れ、時々曇り。#AI画像、#桜並木

2025年04月03日 | 日記・紀行

 

2025(令和7)年04月03日(木)晴れ、時々曇り。#AI画像、#桜並木

 

ここ二、三日の寒の戻りも和らいで、午後になって日差しとともに暖かさが戻りはじめたと思うと、いつも行き来する川端通の高野川沿いに延々と続く桜並木も一気に開花を早めました。ただ、せっかくの開花も折からの強い風に花がどこまで耐えられるか心配です。

手遊びに、最近になって話題になっているAI を使って画像を試作してみました。「桜と鳥を組み合わせた希望のイメージ」で描いてもらいました。上の画像がそれです。AI の可能性は計り知れないと思います。しかし、その構造がどのようになっているのかは私にはブラック・ボックスです。とはいえ、それでも、その画像の美しさは高野川沿いの堤防につづく実際の桜並木には到底及びません。

 

 

 

 

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2025(令和7)年03月14日(金)晴れ。 #歴彩館

2025年03月14日 | 日記・紀行

2025(令和7)年03月14日(金)晴れ。 #歴彩館

 

歴彩館を久しぶりに訪れました。正式には、京都府立京都学・歴彩館と呼ぶそうですが、ここでは単に歴彩館といいます。本当に久しぶりで、コロナ武漢ウィルス騒動がおきてからは、府立図書館やこの歴彩館などの公共施設に足を運ばなくなっていました。それが今すっかり習慣化していることにも気づきました。

以前に歴彩館をおとづれた時の記録を残しています。ブログ日記のそれを検索してみると、2017年の秋のことでした。

府立総合資料館の閉館と新しい京都学・歴彩館 - 作雨作晴 https://is.gd/WDgjrm

そのときから、すでに五年も経過してます。時間の早さにあらためて驚くばかりです。歴彩館がオープンしたのは、平成29年4月28日だそうですから、以前に私がおとづれた時は、まだ歴彩館もオープンして半年も経ってはいませんでした。そのとき私が館内で読書をしているときにも、施設の関係者が空調の設備を見回っているようでした。その前年に閉館した京都府立総合資料館の古い建物もそのまま残っていました。ところが今日おとづれたときには、その面影はまったく消え去って、その跡地には新しい建物が立っていました。

まだ若かった三十を超えてまだまもないころに、妻に弁当を作ってもらって、資料館に通った頃に見つめた、あたり一帶の面影がすっかり消えているのに驚きました。

また、歴彩館のなかも、私が前におとづれたときとは大きく様変わりしていました。一つは府立大学の図書館と連携されていて、図書も著しく増加して蔵書の規模も内容も各段によくなっていたことです。

開架書庫に並べられた膨大な数と量の本の背表紙をゆっくりと読み取りながら歩いていると、まず、桝田啓三郎文庫目録 という私には懐かしい名前の分厚く大きな目録本が目につきました。

というのは、私が高校生の頃に読み始めたキルケゴールの本は、ほとんどすべてこの桝田啓三郎の翻訳だったからです。「反復」も「不安の概念」も「死に至る病」も「誘惑者の日記」もすべて桝田啓三郎の翻訳で読みました。桝田啓三郎はキルケゴールの全集本の完成を目指していたはずですが、それは確か未完に終わったようです。それとは別に多くの翻訳者の手になる、白水社から出版されていたキルケゴールの著作集も買い揃えました。

キルケゴールは激烈なヘーゲル批判者として哲学史に登場しています。しかし、その後の私の思想的な遍歴の中で、私の興味と関心は、聖書のキリスト教と彼が批判の対象としたヘーゲル哲学そのものの方へと移行してしまい、いくどかの転居のあいだに、今は私の手元にはキルケゴールの著作は、売り払ったのか処分したのか、一部の文庫本を除いて、ほとんど残っていません。

それはとにかく、まだできてまもないこの歴彩館に以前におとづれたときとくらべて、図書の量と質が比較にならないくらいによくなっていました。マルクス・ヘーゲル系の哲学者である牧野紀之氏の本「辞書で読むドイツ語」もありました。牧野氏には、青年時代に短い間でしたが、直接習ったことがあります。牧野紀之氏についてはいずれ何らかの形で論評したいと考えています。

また、京都大学の前身である尊攘堂の創設に関わった品川弥二郎の著作全集もありました。和歌や日本古典の蔵書も充実していました。しかし、このときに開架の棚を見た限りでは、牧野紀之さんが未知谷という出版社から出しているヘーゲル『小論理学』や『精神現象学』の翻訳と註解の大著も『関口ドイツ文法』もありませんでした。また、「冠詞論」などで知られているドイツ語学者の関口存男の著作集も見当たらないようでした。哲学関係の文献については大したものはなさそうでした。

とはいえ、これほどの質と量の内容のある図書を蔵した歴彩館を京都府市民に開放してくださっている関係者の方々には本当に頭が下がります。府立大学の蔵書も連携して閲覧できるようになったせいもあると思います。大学関係者の方々にも感謝の念しかうかびません。このすばらしい歴彩館を京都府市民は、それに相応しく利用活用して、その恩恵に応えていくことができればいいのにと思いました。

 

ちなみに、キルケゴールに触れた私の過去の論考。

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第三十五節 [道徳と個人] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/WYvgPl
ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十三〔決断について〕 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/Ri5u3Z
業平卿紀行録8 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/91AEkl
ルイス・フロイス - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/6xoDnU
私の哲学史(3)──キルケゴール(主体性について) : 夕暮れのフクロウ https://is.gd/NXb1Wh

 

 

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2025(令和7)年03月12日(水)曇り。#軒端の梅

2025年03月12日 | 日記・紀行

 

2025(令和7)年03月12日(水)曇り。#軒端の梅

 

昨日のいつもの帰り道に、民家の軒端に花の咲いているのに気づいた。昨日はそのままに行き過ぎてしまったけれど、今日は昨年と同じようにカメラに記録した。

そして、ここしばらく体調も良くなく内にこもりがちの連れ合いにテレグラムで「軒端の梅です?」というメッセージに添えてこの画像を送った。すると、「紅梅ですかよくわかりません」とすぐに送り返してきた。その実、梅なのか桃なのか、私にもその区別はつかない。引き返して花を詳しく観察する気にもならない。

 

冬さりて こぞの如くに ほころびし 

              命なりけり 軒端の梅かな

 

 

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2025(令和7)年02月08日(土)雪。#ショーロホフ、#「静かなドン」#「薔薇の名前」

2025年02月08日 | 日記・紀行

 

2025(令和7)年02月08日(土)雪。

 

今週に入ってから全国的に、とくに東北や北陸などの日本海側のみばかりではなく、鹿児島県や愛媛県の方からも降雪の便りが届いていました。しかし、昨日の金曜日までは、京都では降雪のことなどどこの国の話かというほど良い天気がつづいていました。けれども、さすがに今日の土曜日になって朝起きてみると、昨夜来から降り続いた雪が一面に降り積もっていました。

この雪の調子では今日も一日部屋にこもることになりそうです。それにしても、ここ半年くらいあまり遠出もしていません。その理由のひとつには、連れ合いが体調を悪くして遠出する機会もすっかり少なくなってしまったということもあります。しかし、私には読書の趣味があるので、在宅はそれほど苦にはなりません。むしろ、少しでもまとまった時間がとれてうれしいほどです。

中学生や高校生の頃には、今日昨日のように自分の将来の時間が限られていることなど夢にも思わず、夜な夜な眠りにつく前の寝床で、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』や曹雪芹の『紅楼夢』、パールバックの『大地』、また、また作者は誰であった忘れましたが、盆踊りの境内の夜店の古本屋で買った『鉄仮面』の物語などを読み耽った記憶が印象に残っています。その頃は小説の世界に純粋に入り込めたような気がします。

これまでの何回かの引越しの際に、小説本の多くは売り払ったのに、昔に読んだ記憶のある小説を、いま一度あらためて読みたくなって、先日もネットで思わずロシアの作家、ショーロホフの『静かな(る)ドン』を手に入れてしまいました。以前にDVDや映画で鑑賞した『薔薇の名前』も、原作のイタリア語ではもちろん読めませんので、あらためて英訳本をダウンロードしておきました。英訳本はすでに持っていますが、電子書籍をタブレットで読んだ方が読み進めやすい気がしたからです。

あらためて手に入れたショーロホフの『静かなドン』(私の古い記憶では「静かなるドン」だったような気がします。)は、横田瑞穂訳でしたが、私が昔読んだ本は違う人の翻訳だったようです。今日はドン・コサックの村タタールスキーに住むメレホフ家の様子を描いた冒頭の個所と、主人公グリゴーリが隣人の妻アクシーニャと深い仲になる場面をひろい読みしました。

なかなかまとまった時間が取れないので、一気呵成に何十ページもよみすすむということはかないません。以前に手に入れた電子書籍で、ゲーテの『親和力』も途中で中断したままであることも思い出しました。いつの日か、まとまった時間が取れて、これらの本に読み耽ることのできる日の来ることを楽しみにしています。
取り止めもない日記になってしまいました。

 

   

 

 

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水上紅さんのこと

2025年01月28日 | 日記・紀行

詩人の水上紅さんとは、私が東京の茗荷谷に暮らしていた時に、お茶の水の聖橋近くの、立ち飲みのお鮨屋か何かで、生涯にたった一度だけ出会った方だった。たまたま、ネットに彼女のことが記録されているのを知った。

ミロンガ ヌォーバ さんのインスタグラムの記事投稿は2023年1月23日だから、水上紅さんは、前年のクリスマスイブの2022年12月24日にお亡くなりになられたらしい。彼女の生涯に心より敬意を表します。

聖橋 - 作雨作晴 https://is.gd/TpOtV1

 

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