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作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

2025(令和7)年06月03日(火)雨。聖書とヘーゲル哲学

2025年06月03日 | 日記・紀行

 

2025(令和7)年06月03日(火)雨。聖書とヘーゲル哲学

 

久しぶりに終日雨が降り続いた。

X(ツイッター)@myenzyklo でノートを取りながら、ヘーゲルの宗教哲学の最終章「第三部 絶対宗教  Ⅲ 3一般的現実性への精神的なものの実現」(木場深定訳)の個所を久しぶりに再読する。


「問題はただ、感情の内容が真理であるかどうか、それは思考において真実の内容として証示されうるかどうか、ということだけである。哲学は主観そのものが感じるところのものを思考し、そして感情と折り合うことを主観に委ねる。このように感情は哲学によって拒否されはしない。むしろそれはただ哲学によって真実の内容を得るのである。

しかし思考が具体的なものに対して対立し始める限り、思考の過程はこの対立を克服して、これを宥和に到達させることである。この宥和が哲学である。哲学はその限り神学である。それは神の自己自身との、また自然との宥和を提示する。すなわちそれは、自然・他在そのものが神的であり、そして有限精神が一部は自己自身において自己を宥和に高め、一部は世界史においてこの宥和に達することを示すのである。」

聖書の研究のためにヘーゲル哲学に入ったことは正しかったとあらためて思う。ヘーゲル哲学は聖書の真理の論証である。宗教と同じく、あるいはそれ以上に哲学もまた深い精神的な充足をもたらす。聖書が先でヘーゲル哲学は後だ。ヘーゲル哲学はなくても聖書はあるが、その逆はない。

 

 

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今日は憲法記念日

2025年05月03日 | 日記・紀行

 

2025(令和7)年05月03日(土)晴れ。憲法記念日.

今日は憲法記念日。

今日は憲法記念日だそうです。ここ最近になって日本国憲法について触れた私の論考を再録しておきます。

現在の日本国で行われているような、「護憲・改憲論議」の現状では、今日の日本国に見られるような、国家の解体的な現象、政治家や国民の「漂流化」は防げないと思います。


こうした現象はいずれも「現行日本国憲法」の存在が日本の国家、国民に及ぼすところの論理的な帰結だと思います。

 

令和日本国憲法草案3

2025(令和7)年04月24日(木)晴れ。 #「令和日本国憲法草案」について2

  「令和日本国憲法草案」について2   ...

「令和日本国憲法草案」について

【令和日本国憲法草案2】

【令和日本国憲法草案】

拉致被害者の救済と日本の主権国家としての確立

赤尾秀一の思想研究

 

 

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2025(令和7)年04月10日(木)曇り、のち小雨。#能因法師

2025年04月10日 | 日記・紀行

20250407

2025(令和7)年04月10日(木)曇り、のち小雨。#能因法師

 

 

花曇りというか、うっすらと陽が差し込んだ午後、高野川の川端通りを北に向かって帰途につく。前方の北北東の正面にはいつものように比叡山の山容があり、今日は少し翳って眺められる。

この日はさすがに日々見慣れている高野川堤の桜並木も、見事とか素晴らしいとか月並みの言葉では言い表せない。冬枯れの季節から赤く蕾をふくらませて、そして今日のような花爛漫の姿まで日々飽きるほどに眺めている。

歌人の西行が慕った能因法師は、摂津国の難波のあたりの光景を眺めて、

 

こころあらむ 人に見せばや 津の国の 難波わたりの 春のけしきを


と詠んだらしい。もちろん、当時の摂津の国の難波のあたりの春のけしきがどんなものであったのか、想像もつかない。しかし、この日ばかりは遠く比叡山を遠景に延びる爛漫たる桜並木を眺めて、まず第一に今は離れてすむ娘たちに「見せばや」と思う。

なでし子に見せばやみやこ北の方高野堤の春のけしきを

能因法師も「春のけしき」を、誰彼にでも見せたいとは思っていない。「こころある者に見せばや」と言っている。「こころあらむ人」とは誰のことか。私にもこの春の今ここのこの一瞬の美の現前を誰か他者と共有したいという思いは生まれてくる。しかし、それは限られた者にである。それは連れ合いであり近親者であり友人であり、精神的に近しい者である。

 

20250407

20250409

どんな写真も、やはり現実の美しさにはおよばない。

※追記

伊勢姫 - 作雨作晴 https://is.gd/eW8yqn

能因法師を偲んで事跡をたずねてからもう三年も経過している。

 

 

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2025(令和7)年04月03日(木)晴れ、時々曇り。#AI画像、#桜並木

2025年04月03日 | 日記・紀行

 

2025(令和7)年04月03日(木)晴れ、時々曇り。#AI画像、#桜並木

 

ここ二、三日の寒の戻りも和らいで、午後になって日差しとともに暖かさが戻りはじめたと思うと、いつも行き来する川端通の高野川沿いに延々と続く桜並木も一気に開花を早めました。ただ、せっかくの開花も折からの強い風に花がどこまで耐えられるか心配です。

手遊びに、最近になって話題になっているAI を使って画像を試作してみました。「桜と鳥を組み合わせた希望のイメージ」で描いてもらいました。上の画像がそれです。AI の可能性は計り知れないと思います。しかし、その構造がどのようになっているのかは私にはブラック・ボックスです。とはいえ、それでも、その画像の美しさは高野川沿いの堤防につづく実際の桜並木には到底及びません。

 

 

 

 

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2025(令和7)年03月14日(金)晴れ。 #歴彩館

2025年03月14日 | 日記・紀行

2025(令和7)年03月14日(金)晴れ。 #歴彩館

 

歴彩館を久しぶりに訪れました。正式には、京都府立京都学・歴彩館と呼ぶそうですが、ここでは単に歴彩館といいます。本当に久しぶりで、コロナ武漢ウィルス騒動がおきてからは、府立図書館やこの歴彩館などの公共施設に足を運ばなくなっていました。それが今すっかり習慣化していることにも気づきました。

以前に歴彩館をおとづれた時の記録を残しています。ブログ日記のそれを検索してみると、2017年の秋のことでした。

府立総合資料館の閉館と新しい京都学・歴彩館 - 作雨作晴 https://is.gd/WDgjrm

そのときから、すでに五年も経過してます。時間の早さにあらためて驚くばかりです。歴彩館がオープンしたのは、平成29年4月28日だそうですから、以前に私がおとづれた時は、まだ歴彩館もオープンして半年も経ってはいませんでした。そのとき私が館内で読書をしているときにも、施設の関係者が空調の設備を見回っているようでした。その前年に閉館した京都府立総合資料館の古い建物もそのまま残っていました。ところが今日おとづれたときには、その面影はまったく消え去って、その跡地には新しい建物が立っていました。

まだ若かった三十を超えてまだまもないころに、妻に弁当を作ってもらって、資料館に通った頃に見つめた、あたり一帶の面影がすっかり消えているのに驚きました。

また、歴彩館のなかも、私が前におとづれたときとは大きく様変わりしていました。一つは府立大学の図書館と連携されていて、図書も著しく増加して蔵書の規模も内容も各段によくなっていたことです。

開架書庫に並べられた膨大な数と量の本の背表紙をゆっくりと読み取りながら歩いていると、まず、桝田啓三郎文庫目録 という私には懐かしい名前の分厚く大きな目録本が目につきました。

というのは、私が高校生の頃に読み始めたキルケゴールの本は、ほとんどすべてこの桝田啓三郎の翻訳だったからです。「反復」も「不安の概念」も「死に至る病」も「誘惑者の日記」もすべて桝田啓三郎の翻訳で読みました。桝田啓三郎はキルケゴールの全集本の完成を目指していたはずですが、それは確か未完に終わったようです。それとは別に多くの翻訳者の手になる、白水社から出版されていたキルケゴールの著作集も買い揃えました。

キルケゴールは激烈なヘーゲル批判者として哲学史に登場しています。しかし、その後の私の思想的な遍歴の中で、私の興味と関心は、聖書のキリスト教と彼が批判の対象としたヘーゲル哲学そのものの方へと移行してしまい、いくどかの転居のあいだに、今は私の手元にはキルケゴールの著作は、売り払ったのか処分したのか、一部の文庫本を除いて、ほとんど残っていません。

それはとにかく、まだできてまもないこの歴彩館に以前におとづれたときとくらべて、図書の量と質が比較にならないくらいによくなっていました。マルクス・ヘーゲル系の哲学者である牧野紀之氏の本「辞書で読むドイツ語」もありました。牧野氏には、青年時代に短い間でしたが、直接習ったことがあります。牧野紀之氏についてはいずれ何らかの形で論評したいと考えています。

また、京都大学の前身である尊攘堂の創設に関わった品川弥二郎の著作全集もありました。和歌や日本古典の蔵書も充実していました。しかし、このときに開架の棚を見た限りでは、牧野紀之さんが未知谷という出版社から出しているヘーゲル『小論理学』や『精神現象学』の翻訳と註解の大著も『関口ドイツ文法』もありませんでした。また、「冠詞論」などで知られているドイツ語学者の関口存男の著作集も見当たらないようでした。哲学関係の文献については大したものはなさそうでした。

とはいえ、これほどの質と量の内容のある図書を蔵した歴彩館を京都府市民に開放してくださっている関係者の方々には本当に頭が下がります。府立大学の蔵書も連携して閲覧できるようになったせいもあると思います。大学関係者の方々にも感謝の念しかうかびません。このすばらしい歴彩館を京都府市民は、それに相応しく利用活用して、その恩恵に応えていくことができればいいのにと思いました。

 

ちなみに、キルケゴールに触れた私の過去の論考。

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第三十五節 [道徳と個人] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/WYvgPl
ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十三〔決断について〕 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/Ri5u3Z
業平卿紀行録8 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/91AEkl
ルイス・フロイス - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/6xoDnU
私の哲学史(3)──キルケゴール(主体性について) : 夕暮れのフクロウ https://is.gd/NXb1Wh

 

 

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2025(令和7)年03月12日(水)曇り。#軒端の梅

2025年03月12日 | 日記・紀行

 

2025(令和7)年03月12日(水)曇り。#軒端の梅

 

昨日のいつもの帰り道に、民家の軒端に花の咲いているのに気づいた。昨日はそのままに行き過ぎてしまったけれど、今日は昨年と同じようにカメラに記録した。

そして、ここしばらく体調も良くなく内にこもりがちの連れ合いにテレグラムで「軒端の梅です?」というメッセージに添えてこの画像を送った。すると、「紅梅ですかよくわかりません」とすぐに送り返してきた。その実、梅なのか桃なのか、私にもその区別はつかない。引き返して花を詳しく観察する気にもならない。

 

冬さりて こぞの如くに ほころびし 

              命なりけり 軒端の梅かな

 

 

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2025(令和7)年02月08日(土)雪。#ショーロホフ、#「静かなドン」#「薔薇の名前」

2025年02月08日 | 日記・紀行

 

2025(令和7)年02月08日(土)雪。

 

今週に入ってから全国的に、とくに東北や北陸などの日本海側のみばかりではなく、鹿児島県や愛媛県の方からも降雪の便りが届いていました。しかし、昨日の金曜日までは、京都では降雪のことなどどこの国の話かというほど良い天気がつづいていました。けれども、さすがに今日の土曜日になって朝起きてみると、昨夜来から降り続いた雪が一面に降り積もっていました。

この雪の調子では今日も一日部屋にこもることになりそうです。それにしても、ここ半年くらいあまり遠出もしていません。その理由のひとつには、連れ合いが体調を悪くして遠出する機会もすっかり少なくなってしまったということもあります。しかし、私には読書の趣味があるので、在宅はそれほど苦にはなりません。むしろ、少しでもまとまった時間がとれてうれしいほどです。

中学生や高校生の頃には、今日昨日のように自分の将来の時間が限られていることなど夢にも思わず、夜な夜な眠りにつく前の寝床で、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』や曹雪芹の『紅楼夢』、パールバックの『大地』、また、また作者は誰であった忘れましたが、盆踊りの境内の夜店の古本屋で買った『鉄仮面』の物語などを読み耽った記憶が印象に残っています。その頃は小説の世界に純粋に入り込めたような気がします。

これまでの何回かの引越しの際に、小説本の多くは売り払ったのに、昔に読んだ記憶のある小説を、いま一度あらためて読みたくなって、先日もネットで思わずロシアの作家、ショーロホフの『静かな(る)ドン』を手に入れてしまいました。以前にDVDや映画で鑑賞した『薔薇の名前』も、原作のイタリア語ではもちろん読めませんので、あらためて英訳本をダウンロードしておきました。英訳本はすでに持っていますが、電子書籍をタブレットで読んだ方が読み進めやすい気がしたからです。

あらためて手に入れたショーロホフの『静かなドン』(私の古い記憶では「静かなるドン」だったような気がします。)は、横田瑞穂訳でしたが、私が昔読んだ本は違う人の翻訳だったようです。今日はドン・コサックの村タタールスキーに住むメレホフ家の様子を描いた冒頭の個所と、主人公グリゴーリが隣人の妻アクシーニャと深い仲になる場面をひろい読みしました。

なかなかまとまった時間が取れないので、一気呵成に何十ページもよみすすむということはかないません。以前に手に入れた電子書籍で、ゲーテの『親和力』も途中で中断したままであることも思い出しました。いつの日か、まとまった時間が取れて、これらの本に読み耽ることのできる日の来ることを楽しみにしています。
取り止めもない日記になってしまいました。

 

   

 

 

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明けましておめでとうございます

2025年01月05日 | 日記・紀行

「初夢図」

「初夢図」は、白隠禅師が「一富士、二鷹、三茄子」をモチーフにして描いた禅画です。今年の年賀状は、この絵を素材に使わせていただきました。

この「初夢図」には、次のような意味が含まれているそうです。「富士山」は禅の不動心や悟りの境地を、「鷹」は禅の精神的な高揚や集中力を、「茄子」にはその具体的な成果や実りが、それぞれ象徴されているそうです。三つ目の茄子がなぜ白いのか私にはわかりません。禅的には「無心の境地で得られる実り」と解釈されているそうです。

白隠 慧鶴(はくいん えかく)1686年1月19日(貞享2年12月25日) - 1769年1月18日(明和5年12月11日))は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧。諡は神機独妙禅師、正宗国師。


※出典

白隠慧鶴(はくいん えかく) - 
Wikipedia https://is.gd/qv7VK3

 

 

 

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年の終わりに

2024年12月31日 | 日記・紀行

20240407

年の終わりに

 

時の過ぎるのは早いもので、今日で2024年令和6年も終わります。今年最後の私の日記ブログ「作雨作晴」を見てみると、「このブログの人気記事」のトップに、「戦争はなぜ起きるか」 - 作雨作晴 https://is.gd/vnqanA
が上がっていました。見ると投稿日が2008年07月25日となっていましたから、それからすでに16年以上も経過していることになります。

2008年頃といえば、当時は福田康夫内閣で、自民党内閣も麻生太郎内閣へとコロコロと入れ替わり、よく言われる「失われた20年」とかが始まって間もなくの頃でした。その間に日本国が「失った時間」は、G7といわれる欧米先進国と比べても、今となっては取り返しのつかないものです。日本の政治家たちや日本銀行など、政治と経済政策に的を得ていなかったからだと思います。

しかし、いずれにせよ、戦争についても、その頃アメリカとの長期化した戦争で泥沼化していたイラクでは、アメリカはこの年に就任したオバマ大統領によって撤退の姿勢を示し始めていました。

パレスチナでは、イスラエルとガザ地区を実効支配するハマスとの対立がすでに激化していました。すでにほぼ20年前の2006年にも、イスラエルはヒズボラーに反撃するために、レバノンのカナに攻撃を仕掛けていました。その時の感想も記事にして投稿してあります。「カナの婚礼(ヨハネ書第二章)」 - 作雨作晴 https://is.gd/l17Odi

戦争については、人類の歴史と切って切り離せるものではありません。年末の今この時もなお悲惨な戦争は止むことはありません。そして、戦争の当事者たちは、相手方、敵方の非道、悪行をいずれも声高に批判します。

しかし、戦争については、その論考の中でも論じたように、それぞれの敵、味方双方にいずれにも言い分があり、そのどちらの言い分にも、それなりの「根拠」はあるものです。それは、先の第二次世界大戦における日中戦争、日米戦争における日本や中国、アメリカの立場も同じことだと思います。

この年末にもシリアのアサド政権が崩壊するなど、争いの絶えない一年でしたが、その時間ももう残り少なくなりました。幸いにGOOブログには、記事一覧で索引できる機能があるので、一年の終わりに調べてみました。振り返ってみて、一年間の仕事量としては、あまりにも貧弱で涙が出そうなほどですが、これが今の私のできる能力ということかもしれません。

振り返ってみても、今年に入ってからとくに、日記と紀行の投稿があまりにも少ないですが、それは私の連れ合いが体調を悪くして、外出する機会が少なくなってしまったこともあります。そうでなければ、花の季節や紅葉の季節には、名所、観光地、寺社仏閣などももっとたくさん訪れて、そこで撮り溜めた写真などと共に、この日記ブログに記事としてあげることができただろうと思います。ふだんから出不精の私は、一人では自ら進んで外出することも少ないからです。連れ合いの体調が回復すれば、紀行文などももっと書けることになるかもしれません。

そのために「日記ブログ」を自称しているにもかかわらず、日記や紀行文は少なく、ヘーゲル『哲学入門』の翻訳と註解の記事ばかりが目立ちました。それにしても、あまりにも仕事量が少ないです。この調子だと、最後までたどり着くのにどれくらい時間がかかることやら。

ただ、「ヘーゲル『哲学入門』の翻訳と註解」の仕事の目的についてですが、これまでそれを明確には述べてこなかったと思います。もちろん、それはヘーゲル哲学を日本国民に紹介することを目的としていることは言うまでもありません。

それでは、なぜヘーゲル哲学なのか。それには、個人的な理由と社会的な、あるいは公的な理由と目的があります。後者の目的としては、より直接的には、ヘーゲル哲学の「絶対的国家観」を日本国民に明らかにすることです。ヘーゲルの「絶対的国家観」とは、要するに「立憲君主国家体制」のことですが、我が国の現行の日本国憲法は、かならずしも必要にして十分な国家哲学の上に構築されたものではないと思い、この哲学の紹介が、その改善に役立つと考えているからです。

また、現在の日本国民と日本国は、事実上マルクス主義の「階級国家観」に深く影響されていると思います。そのために、社会と人間にとって根本的に重要である「自由」が往々にして深刻に損なわれているという私なりの現実認識もあります。

このヘーゲルの「絶対的国家観」を、─── それは「自由にして民主的な独立した立憲君主国家、日本」として私なりに定式化していますが、⎯⎯ この国家理念(イデー)を一般日本国民はいうまでもなく、政治家たちも自覚することもなければ、まして、それを追求することもありません。このことが日本国の「国家概念」の歪みとして、政治や経済、文化、教育など多くの側面に現象することになっているのではないでしょうか。

今年一年ももうまもなく終わります。この一年の質量ともに貧弱に終わった仕事の内容を反省するとともに、私の立場からするヘーゲル哲学の紹介が、少しでも日本国民と国家に役立ち貢献することを願いつつ、来たる年も引き続き微力を尽くしていきたいと考えています。
今年の一年のご愛読ありがとうございました。
皆様の来たる年のより良き一年と平安とをお祈り申し上げます。

 

 

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今日はクリスマスイブ

2024年12月24日 | 日記・紀行

 

2024(令和6)年12月24日(火)晴れ、のち曇り、時折小雨。

 

今日はクリスマスイブ。近所のお店でケーキを買って行き、知人の家で簡単にクリスマス・イブのお祝いをする。今日も穏やかな一日を過ごせたことを感謝します。

 

>>  <<

さらに本当に私はあなた方に言っておく。もしあなた方の二人が何事であれこの世で声を共にして願い求めるなら、天にまします私の父はそれを叶えられるだろう。

私の御名のために、二人あるいは三人が集まる中には、私もその中にいるからである。

(マタイ書第十八章、第19節〜第20節)

おそらく初期のキリスト教徒の集会においては、迫害もきびしく十分な家もなく、長崎の隠れクリスチャンのように、二人、三人の少人数で集まることも多かったのでしょう。キリスト教の母体であるユダヤ教では少なくとも十人程度の会衆の集まりが期待されたのに対して、キリスト教徒の集まりにおいては、二人三人の集まりの中にもイエスの臨在することが告げられています。

 

Vl. Vavilov - AVE MARIA CACCINI / Nina Solodovnikova - soprano / Daniele Rossi-direttore /31.05.2015


アヴェ・マリア

恵みに満ちた方、マリアよ、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女の中で祝福され、
あなたの胎内のお子、イエスも祝福されています。
神の母、聖マリア、
私たち罪人のために、
今も、死を迎える時もお祈りください。

アーメン。

 

 

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