作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

福井日銀総裁の辞任問題

2006年06月28日 | ニュース・現実評論

 

福井日銀総裁が問題の多かった村上ファンドに投資して、その運用益を得ていたということが問題になっている。村上世彰氏の犯罪行為は村上氏がそれによって幕引きを計ろうとしている証券取引法のインサイダー取引違反よりも、「証取法の中でもインサイダー取引よりも罰則が重い「不正の手段、計画又は技巧」を禁止する157条の包括規定(注2)に抵触する違法行為である。」と指摘する意見もあるが、
『村上ファンド事件の核心は? ほんとうにインサイダー疑惑か?』
  
今回の問題も、政治家、いわゆる官僚、公務員(国家、地方とも)たちの腐敗をどのように防いでゆくかという国民的な課題にも関わる。

問題はやはり、福井日銀総裁が、総裁就任後にも、民間の、特に村上ファンドという、いろいろ問題も指摘されたファンドと特定の利害関係を持ち続けたということにある。

 

もちろん、その関係の端緒は、福井氏が富士通総研という民間会社に在任時にあったとはいえ、日本銀行総裁に就任した時点で、福井氏は自らの資産のなかで民間とのかかわりのある一切の個人的な資産は完全に凍結しておく処置をとっておくべきであった。結果論ではあるが、このことが、公的な職務に就く人々の、特に日本銀行や財務省のその他の官僚たちの常識にはなってはいなかったことが明らかになった。政治家の資産公開はすでに実行されてそれなりの効果はあげている。

 

私人と公人とのこうした関係を、国家行政に携わる人たちにとっても、完全な常識にしてゆくためにも、きっちりとした問題の解決は、福井日銀総裁が自ら辞任を決断されることかもしれない。不良債権を抱えた銀行の救済のために、国民がほとんどゼロ金利を余儀なくされている現状で、1000万円の投資で1231万円運用益を得ていたのが問題だという感情論からする批判ももちろんある。しかし、やはり、この問題の本質は、そういう感情論の問題ではなく、公と私の関係のあり方の原則的な、倫理的かつ論理的な問題でもあると思う。

 

福井氏は銀行員としては、国際的にも高く評価されているらしい。福井氏が辞任することによる金融財政運営での損失を指摘する声もある。

しかし、問題は福井氏の日銀マンとしての有能さのゆえに、福井氏のモラルにおける感覚の鈍さ、もっと言えば、モラルにおける無能力を見過ごしてよいのかという問題がある。人間を見る眼としては、特に政治家や公務員の選定においては、その個人が知識や技術において有能かどうかという観点と、モラルにおいて高いか低いかという観点の複眼的な視点からも判断する必要があると思う。物事を単にモラルの面だけで判断するのは子供っぽいか。難しい問題ではあると思う。

 

福井氏は確かに有能な銀行マンであったかもしれない。しかし、モラルの能力においては、必ずしも高くはなかったようである。以前にも、日銀や旧大蔵省職員に対する民間銀行員による接待疑惑やしゃぶしゃぶ店のスキャンダルで、当時の松下康雄総裁らとともに、当時副総裁の地位にあった福井氏らも監督責任などを問われ辞任している。

 

江戸時代の悪代官の悪習の伝統にみるまでもなく、宗教的な背景もあって、今日においても日本人は個人としての自我とそこに立脚する倫理意識は弱く、十分に確立されてはいないと思われる。


今後も起きてくるこうした公的な問題に関連して、日本人一人一人として、あるいは日本国民としての問題の決着のつけ方、けじめのつけ方も学習してゆく必要がある。過去の日本人のように浪花節的な、湿っぽくあいまいで非論理的な「問題解決」の習慣や伝統から、決別してゆかなければならないと思う。実際、これからさらにグローバル化して行く時代にあっては、なおさらそれが言える。そうしてこそ、日本人のモラルも国際水準に近づいてゆくのではないだろうか。

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ブログ開設一周年

2006年06月23日 | Weblog

 

今年も紫陽花の季節を迎えた。今月末でこのブログを開設してから、ほぼ一周年を迎える。昨年の今ごろ、このブログを書き始めたときのことは、今もよく覚えている。雷が鳴っていたこと、操作ミスで、書きかけた原稿を一瞬のうちに失ってしまったことなど。それも、ブログ日記には記録してある。

この日記には、結局これからも、理念との戯れを記録することになると思う。私のイデーとは何か。それは、「自由にして民主的な立憲君主国家」である。その建設のために、私の生涯が捧げられるはずである。ただ、それが絶対的なイデーであることはまだ証明できていない。まだ、直観のレベルである。


それはとにかく、昨年に、この日記を書き始めたとき、ブログを書いてから、バイクのオイルの交換に洛西のバイク店に行った。その待ち時間の間に、散歩がてら小畑川沿いを散策したときに、青サギが小魚を啄ばもうとしているのを、しばらくたたずんで見ていた。あのときの青サギの姿もはっきりと記憶に残っている。私たちは不可逆の、一回性の生を生きざるを得ないが、生涯の時間の一瞬を永遠に記録したいという願望を誰しもが持っている。

そして、私たちはこの流転止まない世界を、言葉の威力によって、永遠の記憶の中に釘で打ちつけようとする。芸術や宗教や哲学は、有限の存在である人間が、永遠の神の領域に舞い上がろうとする試みである。

私たちの世代にとって、パソコンやインターネットは、生涯の後半になって出てきた道具である。何十万、何百万という人が、ブログという手段を通じて、それぞれの思いを披露している。それによって、コミュニケーションが著しく進む可能性を持ちえたことは、本当に素晴らしいことだと思う。

そして「文は人なり」ということわざがあるように、「ブログは人なり」といえると思う。ブログを書く人は、自分の書き残したブログを携えて、やがて神の裁きの前に立つことになる。ブログはある意味では、この世からあの世へと移るときに、神に差し出す通行証明のようなものである。
もちろん、神の眼には、いっさいが明らかであるから、特にブログなども必要はないのだろうけれども、ブログは、神ならぬ人が人を見るときの手がかりにはなる。

 

ブログを書き始めてから、ほぼ一年。その中で特に印象に残っっていることは、私のブログにコメントをいただいた吉田正司氏が、ガンで亡くなられたらしいことだ。吉田氏とコメントをいくつかやり取りして以来、時折、氏のブログを訪れるようになった。そして間もなくそこで、吉田氏が重病に陥っていることを知った。私は、よほど何らかの言葉を吉田氏に送ろうかと思ったが、まだ、余りにも私と吉田氏と交わした議論は少なかった。まだそれほど深く氏と議論した仲でもなかったので、私が躊躇している間に、あっという間にお亡くなりになったらしい。

 

吉田氏は私とは同世代らしく、また、私と興味や関心を共有するところもあるようで、将来何かのテーマで議論できることを期待もしていた。だから、驚くと同時に残念な思いもした。問題意識を共有するというのは議論の前提であるけれども、類が友を呼ぶというのが、なかなか難しい。

 

吉田氏の生きておられる間に、私のお見舞いでも送って読んでいただけなかった。それが、今も心残りになっている。ブログ上で、ほんの一瞬すれ違っただけで、もちろん一面識もなかったが、それでも、これも仏教で言う「他生の縁」があったからなのだろうと思う。弟さんが、ブログを続けられているようである。

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日本サッカー、対オーストラリア初戦敗退が示すもの

2006年06月17日 | ニュース・現実評論

 

今もワールドカップは順調に進行しているようだ。だが、日本は残念ながら対オーストラリア戦で惨めな敗北を味わった。特に試合終了間際に、なし崩しに得点されたのを見ても、日本サッカーがまだ多くの問題を抱えていることを示している。そして、アルゼンチンやスペインやブラジルなどの世界的な強豪チームの試合を見るにつけても、多くの点で日本チームが、まだ国際的な水準にすら立ちえていないことが明らかになってきている。

 

将来、民主主義が人類の支配的な国家形態となり、剣を鋤に打ち代えて、国家と国家の間の戦争の止む時が来ないとも限らない。そんな時には、戦争に代わって、こうしたスポーツ大会を戦場にして、国家や民族が威信をかけて戦うようになることだろう。ワールドカップ大会もその一つになることは間違いない。

 

日本のJリーグが生まれてからも、すでに十余年が経過しているが、ブラジルのロナウジージョのような世界的にも数本の指に入るような選手はまだ日本には生まれていないようである。しかし、これまでのワールドカップに参戦することすらおぼつかなかった一昔に比べれば、世界大会に常連になりつつあるのはそれなりに選手たちの実力が向上してきているからだろう。


経済の領域では、日本は最近はアジアの隣国、中国や韓国の追い上げに、アジアでも多少影が薄くなりつつあるとはいえ、国際的にはG8国の一国に収まるなど、相応の地位を築いてきたといえる。しかし、民族や国家の評価というのは、単に経済の分野での小さな成功のみで決まるのではなく、サッカーのようなスポーツ、芸術、宗教、学問、科学、道徳などの総合的な文化の水準によって、その価値が決まるというのは、個人の場合と同じではないだろうか。サッカーのワールドカップ大会などでは、サッカーのイレブンたちが代表して、文字通り世界中の人々の眼の前に、国家や民族の具体的な現象をさらすことになる。


先の対オーストラリア戦における日本チームの敗北からも、多くの問題や事実が読み取れると思う。このサーカー戦を観戦して、感じたこと考えたことを書いてみたいと思った。


特にサッカーの試合のようなものには、時の利、地の利など試合の勢いというものがあるから、その時々の試合の勝敗の結果は必ずしも実力と一致しない。しかし、もちろん、実力というのは、客観的にきっちりと評価出来るものである。試合の回数が多くなればなるほど、その実力の差は、はっきりと客観的に現れてくるだろう。


サッカーの試合も国家間の総力戦も、いずれも戦争という本質においては変わりはない。おりしも、アメリカチームが「ワールドカップで戦争に来た」と発言したとかで、イタリア人がアメリカチームに反発しているらしいが、子供じみた態度だと思う。ワールドカップをアメリカチームのように一つの戦争として捉えること自体悪いことではないし、また、そうした認識をもつことに意義もある。むしろ国家意識の薄く弱い日本国民を代表する日本チームに、どれだけ国家の威信を賭けているのだという自覚があるのか、それが問題にされてもよいと思う。


それはとにかく、サッカーも勝負を賭した一つの戦いである以上、そこには、戦争やその他の勝負事に共通する論理がある。そこには、戦術と戦略の総合的な実現の場として、試合が存在している。それは、柔道や剣道などの個人の格闘技などとも、論理的な構造は同じである。


ただ、サッカーのような集団戦の場合は、勝敗に決定的な要素としては二つある。一つは、チームを構成する選手一人一人の資質と能力、もう一つ、チーム全体としての組織力、この二つである。その二者は有機的な相互関係にある。

つまり、あらゆる有機体がそうであるように、部分と全体がどのようにかみ合い、調和しあって一つのより高い戦力を構成するかが課題である。そのためには選手一人一人の戦闘能力を高めるとともに、それが、チーム全体の組織力に生かされなければならない。

 

対オーストラリア戦の敗北では、選手の個人としての能力が十分に高められていなかったのみならず、チーム全体としても組織的な戦術や戦略も高められていなかったように思う。というよりも、チームとしての戦術や戦略といった確固たるものが日本チームには見られなかった。場当たり的な対応に終始していたように思う。その弱点が出たと思う。これでは日本チームは、武器を持たないで戦争するようなもので、到底勝てない。

 

チームとしての戦術や戦略が、一つの論理として選手一人一人に自覚され、かつ、様々な事態や戦況に対応できるように、選手一人一人の身体に記憶されるまでトレーニングされていなければならないが、そのためには、まず、一つの組織として戦争を戦うには、どのような武器が必要で、その武器をどのように駆使しなければならないかという問題意識が選手のみならず、監督やコーチに必要である。

しかし、統一した戦術や戦略を選手たちが共有するまでトレーニングされているようには思えなかった。パス送りによる正面突破戦術や、サイドロングパスによる、サイドからの攻撃など、サッカーとしての戦術の基本を十分に駆使ししえていると感じられたのは、オーストラリアチームの方だった。また、グランドの後方に布陣したために攻め込まれ、受身となって「攻撃は最大の防御なり」ということわざの真理を日本チームは実現できているようには思えなかった。先の試合を見る限り、日本18位、オーストラリア42位という、FIFAの評価は、明らかに正当な評価ではないように思われる。


企業や国家間の競争や戦争と同じく、サッカー戦においても、最終的に勝敗の帰趨を決めるのは、選手一人一人の資質と能力と、それを、指導し指揮する監督、コーチの資質と能力である。


ジーコ監督は、個人的な選手能力としては、まぎれもなく世界一級であるだろうが、それはジーコ監督自身が自らの個人的な資質と能力と努力によって形成し、獲得してきたものである。しかし、ジーコ監督は、その能力を十分に論理化して、それを改めて選手たちに、戦いのための武器として、日本選手たちに共有化させていることに成功しているとは思えない。むしろ、監督やコーチ自身に本当に必要なものは、きわめて高度な論理的な能力なのである。


さらに一般的に、日本の文化の特徴としても、物事を論理化して自覚する傾向は弱い。その必要についての自覚もなく、その問題意識も弱く、その能力も低い。サッカーというスポーツにおいても、その他の生活現場と同様に相変わらず、精神主義的根性論が強いのではないだろうか。

 

この傾向は、先般ベストセラーになった『国家の品格』の著者、藤原正彦氏らにも典型的に見られる。国家間の戦争にしてもサッカーの試合にしても、その勝敗を最終的に決するのは、個人や組織や民族や国家の持っている「物事を論理化して把握する能力」、理論的な能力だと思う。これは科学する能力である。しかし、この論理能力の決定的で深刻な重要性について、藤原正彦教授をはじめとして、ほとんど自覚がないようである。今日の学校教育の現場でもそうである。

 

理論のない本能的で盲目的なトレーニング。つまり、論理の分析のない、非科学的なトレーニングや戦術では、本当の意味では強くなれない。究極的には、「情の民族」は「理の民族」には勝てない。日本人の民族としての弱点は、そのまま、サッカーにおける日本チームの弱点ではないだろうか。

だから、本当は「論理軽視の文化」では絶対に駄目で、民族の骨の髄まで、論理偏重ぐらいにまでに、それを我が民族の体質としてゆく必要がある。それなのに、藤原氏のように、しかも数学者でありながら、日本の過剰な「美的情緒感受性」文化を、民族の弱点としてさえ自覚する問題意識がほとんどない。それが現状ではないだろうか。この弱点を本質的に克服することなくして、日本サッカーは永遠に欧米のチームには勝てないのではないかと危惧するのは杞憂だろうか。


日本サッカーチームが、真の意味で強くなるために必要なことは何か。そのためには、たとえば、世界的な半導体の研究者といわれる、元東北大学学長の西沢潤一氏ような、できれば工学系や自然科学系の優れた学者を召集して、サッカーをあらゆる側面から研究させるのである。


もちろん、単にサッカーの勝負の構造という観点からのみならず、その国民文化に与える影響、健康や教育的効果から、サッカーの試合の勝敗の論理の解明、そして、個々の選手たちのトレーニング法とそのためのツールの開発にいたるまでを、サッカー協会の中枢に、文化を含めた総合的なサッカー研究学校を設立して研究させるのである。そして、その研究の成果を、全国に散らばるクラブチームの拠点を通じて、全国に青少年から浸透させてゆくのである。優れたコーチ陣の自覚的な育成も重要である。W杯にようやく再登場したオーストラリアチームもそうして強くなったはずである。


その能力訓練の目的と核心は、選手一人一人が青少年の頃から始める「論理的な能力」、「理論的能力」の開発と向上である。そのために選手たちに、研究論文を実践的な練習と平行して書かせてゆくぐらいのことも始めるべきだ。それは、サッカーを入り口とする現代日本の教育と文化の革命にならなければならない。そうして、まず身体能力以前に「頭」を鍛えなければ、本当には強くはなれない。

日本チームの対オーストラリア戦の敗北を観戦して思ったことだった。

 

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西行の歌、二首

2006年06月07日 | 芸術・文化
 

久しぶりに西行の歌を詠む。現代人の多くにとっては、ほとんど無縁の世界なのかも知れない。こうしたネットで、たまたま偶然に出逢う以外は。

 

年頃申しなれたる人に、遠く修行する由申してまかりたりけり。名残り多くてたちけるに、紅葉のしたりけるを見せまほしくて、待ちつる甲斐なく、いかに、と申しければ、木の下に立ち寄りて詠みける。

1086 

心をば  深き紅葉の  色に染めて  別れて行くや  散るになるらん

 

駿河の国久能の山寺にて、月を見て詠みける

1087

涙のみ かきくらさるる  旅なれや  さやかに見よと  月は澄めども

 

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詩篇第八十七篇注解

2006年06月06日 | 宗教・文化

詩篇第八十七篇

賛歌。コラの子供たちの歌。


主の礎は聖なる山々の中にある。
主はシオンの城門を、ヤコブのどんな住まいにも優って愛される。
あなたの、神の都の栄光は語られる。セラ。
エジプトもバビロニアも私を知る者として思い起こす。
エチオピアと共にパレスチナとティラを見よ。
彼らもこの都で生まれた。


シオンについては言われている。
この人もあの人も主の都で生まれたと。


いと高き方ご自身がこの都を堅く定められた。
諸国の人々を記録するとき、主はその者たちをここで生まれたものとして
数えられるだろう。セラ。


歌う者も、奏する者もすべて言う。
シオンこそ私の泉であると。

 

詩篇第八十七篇注解

ここでは、イスラエルの神の特殊性と普遍性が告げられている。イスラエルの神、モーゼの神は、シオンの山々をユダヤの民の幕屋に優って愛され、この山に礎を置かれている。そして、その栄光はあらゆる人々に語られる。

このシオンの山々は、ただにユダヤ人のみならず、エジプト人もバビロニア人もすべて、主を知る人々として、そして、この都に生まれた者として主に記憶されている。

パレスチナ人もフェニキア人もエチオピア人もすべての国民が、このシオンの都で生まれた者として、主に記録され数えられている。こうして主は単にユダヤ人の神であるばかりではなく、全人類の神であることを示される。
このシオンの都から、命と恵みのすべてが湧き出てくる。

文中の「セラ」 (CELAH)の意味はよく分からないらしい。強調の音符とも言われている。

 

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老いらくの恋

2006年06月01日 | 芸術・文化

在原の業平は、西洋におけるドン・ジュアンのように、色好みの男としてわが国において伝説化された男性である。そのいわれに大きな影響を及ぼしたのは、もちろん『伊勢物語』である。単なる口伝だけでは、これだけ深く広く業平伝説は伝わらなかっただろう。伊勢物語は、歌集であるとともに、在原業平という一人の男性を描いた、日本の原風景ともいえる物語でもある。

この歌物語は、元服したばかりの少年の初恋に始まり、異性の幼馴染たちとのさまざまな思い出から、青年時代の東国へのさすらい、また、仕えた主君の没落にともに涙をながし、身分違いの恋や別れた妻との再会、狂気じみた恋、田舎娘との恋など、献身や友情、さまざまな恋愛を遍歴し、そして、やがて病んで老い死に至るまでの、人間なら誰しもがたどる生涯の時間が、業平とおぼしき男性を主人公にして語られている。

そこで語られる物語は、多かれ少なかれ人間なら誰もが体験するような事件を内容としている。天真爛漫な幼少期から、異性への目覚めと恋、青年の出世欲と壮年期の挫折と不遇の中の失意など、千年や二千年の歳月では変わらない人間性の真実を明らかにしている。それらが日本語の美しい響きと描写とあいまって『伊勢物語』に古典としての価値を保っている。


業平の恋多き生涯の中でも、彼にとってもっとも切実な女性は藤原高子だった。その氏が示すように、高子は栄華を極めつつあった藤原家の出自であり、一方の業平自身は、平城天皇を祖父としながらも、父である阿保親王が「薬子の変」に連座したために、権力の中枢への道は閉ざされていた。それで、もてあましたかのような業平の男性のエネルギーは恋愛へと一途に注がれる。

特に、高子が、二条の后として清和天皇の女御として入内し、もはや手の届かぬ女性となってからは、その失恋のゆえに、業平の恋はいっそう奔放なものになった。

業平と高子との恋の軌跡は、伊勢物語の初めの数段にもよく記されている。第二段には男の愛した女は西の京に住んでいたとされている。実際に現在の西京区大原野にある大原野神社には藤原氏の氏神である「天児屋根命」が祭られているから、高子が少女時代をこの辺りで暮らしていたと考えてもおかしくはない。かっての右京区、現在の西京区あたりに藤原高子が娘時代を過ごしていたのかもしれない。

一方、業平の母であった桓武天皇第八皇女、伊登内親王が長岡京に住んでいたことは、第八四段の「さらぬ別れ」に記されている。だから、業平が青少年期に母と一緒に長岡京に住んでいたと考えれば、かっての長岡京と西の京は隣どうしだったから、業平と高子は幼い頃に目と鼻の先で暮らしていて、第二十三段「筒井筒」に記録されているように、業平と高子は幼馴染だったかもしれない。

また初段の「初冠」に記されているように、少年業平が、奈良の京、春日の里に狩に行ったときに出逢ったとされる美しい姉妹の一人が高子であったのかもしれない。春日野には、春日神社があり、この神社は藤原氏の総本社だから、高子がこの地で生まれ、幼少の時期を姉と一緒に暮らしていた可能性はある。それに洛西の大原野には今も春日町という地名が残されているし、奈良の春日野も京都の大原野のいずれも、藤原氏とはゆかりの深い土地である。ただ、物語そのものには業平と高子のなりそめは記されてはいない。

奈良の平城京から長岡京に遷都されたのは延暦三年(794年)、そして、それからたった十年後にはさらに、平安京へと遷都されている。都の真中を貫いていた朱雀大路あたりにはまだ十分に屋敷も整っておらず、新しく遷された都はまだ建設の途上についたばかりである。そうした時代に業平も高子も生きていた。

その二条の后、高子がまだ「春宮の御息所」と呼ばれていた時、小塩山のふもとにある大原野神社にお参りになったことがあった。その折に、近衛府の役人としてお供したのが、すでに年老いた業平だった。晩年の彼は右近衛中将になっていた。昔愛した女性の乗った御車のお供をして、彼女手ずから禄を賜ったとき、業平はどんな気持ちだったろう。彼はお礼に

大原や  小塩の山も  今日こそは  神代のことも 思ひいづらめ

と詠んだ。

この時の業平の気持ちは、わざにぼかされて明らかにされていない。しかし、この歌にこめられた業平の心は、

藤原氏の子孫であるあなたがお参りする今日こそは、大原野神社に祭られた藤原氏の祖とされる天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)のお供して天から降臨された神代の昔のことを思い出していらっしゃるでしょう。そのように私も、あなたと共に過ごした昔のことを思い出すでしょう、というのである。

晩年の業平は、「近衛府にさぶらひける翁」といかにも老人のように記されているけれども、このとき業平はまだ五十歳になるかならずかだった。高子はまだ三十歳前後だったはずである。当時にあっては、今日のような寿命の尺度ではなく、五十歳も過ぎれば、能面の翁のように、すでにもう相当に老人扱いだったのだ。この歌は老年になって知った恋を詠んだものではない。昔恋した女性を眼前にしながら、晩年の業平が若かりし日の恋を追憶しているのである。

 

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