作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

トランプ氏、テロリストに撃たれる

2024年07月15日 | 国家論

 

トランプ氏、テロリストに撃たれる

 

今日のいつ頃だったか、ネットを見ていて、アメリカの元大統領で、この秋に再び現職のバイデン大統領を相手に再選を目指して選挙キャンペーンを行なっていたトランプ氏が、テロリストに銃撃されたというニュースが目に入った。

気になって検索してみると、耳から顔にかけて血を流しながら、シークレットサービスに取り巻かれているトランプ氏の写真が、誰かのツイッター(X)の中に上げられていた。さらに調べてみるとすぐに、同じ場面の映像のある動画で、トランプ氏が拳を上げながら、シークレットサービスに覆い隠されるように囲まれながら、そのままSUV車に押し込まれるように画面から見えなくなった。

この動画を見た限りでは、トランプ氏の命に別状はなさそうだった。先週にはテロリストに暗殺された我が国の安倍晋三元首相の三回忌が営まれたばかりだった。今は亡き安倍晋三氏もトランプ氏も、多くの敵対者を抱えていたことは知っていた。安倍晋三氏については、個人的にはどちらかと言えば「消極的な支持」という立場だったが、安倍晋三氏は「愛国者」であるとは思っていた。

この度危うく頭蓋を撃ち抜かれそうになったところを奇跡的に助かった元大統領のトランプ氏も、アメリカファーストと愛国者(パトリオットpatriot)を唱え、赤い帽子をかぶって、この日も「Make America Great Again」を唱えていたはずである。

トランプ氏の思想信条を知るには、氏が現職の大統領である時に国連で演説した時のスピーチがもっとも適当であるとかねて思っていた。ここで久しぶりにトランプ氏の政治的な信条を再確認するためにも、YOUTUBE に残っていた動画をこのブログにも記録して、できれば日本国民の一人でも多くの人に知ってほしいと思った。

トランプ氏はアメリカの次期大統領候補として有力であり、秋のアメリカ大統領選挙にもしトランプ氏が選出されれば、氏の外交方針は国際情勢に大きな変化をもたらし、我が国にも、もちろん改めてその適切な対応が求められるはずだからである。トランプ氏は「アメリカ第一主義アメリカファースト」を唱え、これまでもその同盟国に対しても自力防衛のための軍事費の負担増を求めてきた。

トランプ氏の国連演説の内容については、動画の字幕同時翻訳か文字起こし機能を使えば、そのおおよそのところは把握できると思う。

President Trump addresses U.N. General Assembly - FULL SPEECH (C-SPAN)

 

トランプ氏の政治思想の核心は、「国民国家の尊重」もしくは、その擁護にある。この政治的な立場は、反国家主義の立場にある人々からは、反感を買う。とくに社会主義、共産主義は「労働者は祖国をもたない」と主張する国際主義でもあるから、そうした政治的な信条をもつ人々からは憎しみを買う場合が多いようである。射殺されたテロリスト犯も、おそらく、そうした政治的な信条をもってトランプ氏を憎んだのだろう。

また、その一方で、GAFAと称される、Google社 やApple社、Microsoft、Facebookを運営するMeta社など、巨大な国際的な大企業は、その企業運営はグローバリズムとして、また社会主義や共産主義とは異なった立場から、国民国家の立場とは矛盾する場合が多い。

要は、「国民国家」を支持するのか、その伝統、文化、民族的な生活様式などを大切に保守していこうとするのか、それとも、反国家の国際主義か、グローバリズムの立場に立つのか、それによってそれぞれの政治的な立場は異なってくる。しかし、いずれの政治的、思想的な立場に立つにせよ、トランプ氏の暗殺を狙ったこの二〇歳の青年のように、暴力をもって異なる政治的思想的信条をもつ者の口を封じようとするのは、自由と民主主義に反する。

我が国においては、戦前から今日にたるまで、学界、大学アカデミズム、マスメディアは、とくにマルクス主義の、すなわち共産主義の影響を深刻に受けており、そうした環境で教育を受けた若者、青年たちは、国家主義者らに対してはいうまでもなく、たんなる「国民国家」への愛国者に対しても、嫌悪や憎悪といった感情、偏見をもつ場合が多いようだ。二年前に安倍晋三元首相を暗殺したテロリスト青年も、おそらくそうした一人だったのだろう。

 

 

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保守自由党と民主国民党による日本政治

2024年02月05日 | 国家論

 

保守自由党と民主国民党による日本政治


きのうの私のブログを見ると、このブログを立ち上げてまだまもない二〇〇五年の九月ごろに書いた『自由と民主政治の概念』という論考が「このブログの人気記事?」の筆頭に上がっていました。 ── その記事を書いてから早いもので、すでに二〇年近くも経過していることになります。

 ──その当時から現在の日本の政党政治の現実を見ても、現況はさらに悪化しており、その停滞と混沌ぶりは目に余るものとなっています。年明けてまもなく、清和政策研究会(旧安倍派)や二階派、さらに現在の岸田首相の総裁派閥である岸田派などの自民党のパーティー券収入にかかわる政治資金規正法違反があり、旧安倍派などにあっては、西村氏や 世耕氏などの幹部クラスが検察の槍玉に挙げられて政治生命すら失いつつあるような状況にあります。

その一方、日本を取り巻く今の国際環境は、ロシアのウクライナ侵略やイスラエル・ハマス戦争、さらに軍事的に脅威を増しつつある台湾有事の懸念など、日本のおかれた国際的な環境は、軍事的にも片時も揺るがせにできない緊迫した中にあります。また、日本の国内状況を見ても、令和六年の正月すぐに能登地方を襲った大地震など、その支援体制と復興に一刻を争う中で、緊急を要する国内行政でも効率的で迅速的な有効な諸政策が講じられていません。国内政治も外交も混迷を深めるばかりに見えます。これでは国民に安定した福祉と幸福な日常生活は望むべくもありません。現在の日本の政党政治の改革をなんとしてでもやり遂げて行かなければなりません。

 20年ほど前に書いた「自由と民主政治の概念」という私の論考においては、日本の政党政治が、基本的には自由党と民主党の二大政党によって担われていくことを主張したものですが、それが二〇年近くも経過した今もなお実現されていないのは、我が国の現在の政党政治の現実に見る通りです。この堕落した無能力の政党政治を改革しなければ、国民の生活もさらに劣化していくばかりで、また軍事国防においても外国からの侵略から国家主権と国民生活を守り切ることさえもできないと思われます。

まず、根本的に重要なことは、政治家たちも国民一人ひとりも、日本国の国家理念を、「自由にして民主的な独立した立憲君主国家、日本」を国家理念として、国家目的として自覚して、必要とあればそれに命をかけても追求していくことだろうと思います。

この国家理念の追求は具体的には、自由の実現は「保守自由党」の手で、また、民主的な国家社会の形成は「民主国民党」にそれぞれ中心的に担わせ、この国家目的を、この二つの国民政党によって追求し実現していくのが理想的です。その一方で、日本国民の一人ひとりが、我が国の政党政治の中から「全体主義的な政党」や「カルト政党」といった性格をもつ政党を排除していくこと、そうした見識をもって行動していくことです。そうして国民の一人ひとりの生活の安定と幸福に直結する日本の政党政治の改革につなげて行くことです。

 

自由と民主政治の概念 - 作雨作晴 https://tinyurl.com/28435ams

日本国の「国家理念」の定式化とその意義について - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/25bdu6pm

民主主義の概念(2)  兵役の義務 - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/29bmuz5h

§280 Zusatz.[君主と完成された国家組織体] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/22qjuqx9

 

 

 
 

 

 

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「自衛隊」という名の「軍隊」

2022年02月15日 | 国家論


「自衛隊」という名の「軍隊」

 

旧日本国軍の総括 - 作雨作晴 https://is.gd/d1UrqO

沖縄問題と新日本国軍 - 作雨作晴 https://is.gd/qmD8p9

という二つの記事が、今日の「このブログの人気記事」の項目の中に、一番目と三番目に挙げられていたので、久しぶりに再読した。時間の経過も早いもので、前者は2007年10月09日に、後者は2007年10月15日に書いたものである。すでにそれから15年の歳月が過ぎている。

この「旧日本国軍の総括」という小論を取り上げたのも、沖縄県で10万人を集めて?「旧日本軍の強制による集団自決についての教科書の記述変更に反対する集会」があったそうで、多数の大衆動員による政治的圧力で「歴史の真実」を決定するかのような沖縄県の現状を見て、「旧日本軍の強制による集団自決」の強制の「真実」がどのようなものであったのか、は純然たる歴史的、客観的事実の問題として「真実は多数決では決まらない」ことを主張しようとしたものである。

また同時に、そこに沖縄県民に代表される「戦後民主主義の軍隊観」に問題を感じたので、それに対して批判的に考察したものである。

現代国家においては、軍事組織は必然的であって、世界に軍事力を保持しない諸国家はない。しかし、唯一の例外は現行日本国憲法を看板にする日本であって、  そこには

第二章 戦争の放棄

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動
たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦
権は、これを認めない。

と規定されている。したがって、我が国においては、憲法上は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」ことになっている。

この第二章の規定は明らかに、日本の大東亜戦争の「敗戦」の結果としてのGHQの占領統治という歴史的な背景の上に制定されたものであり、歴史的にも国際政治的にも非現実的な規定であることは論を俟たない。

この第二章の規定によってもたらさる矛盾の結果として、我が国では「陸海空軍」ではなく、警察組織の延長のようなヌエのような軍隊もどきの「自衛隊」という組織しか持ち得ないことになっている。しかもなおそれを保持したまま一世紀を迎えようとしている。

「自衛隊」は、憲法上も保持することのできない「陸海空軍」ではないはずであるから、日本橋でも銀座の大通りでも二重橋でも国民を前に堂々の分列行進すらできない。このような憲法下では、日本国は到底まともな「国家」であることができない。

だから国軍の名称についても、相変わらず「自衛隊」などという哀れな恥しらずの名称に留まっているし、その自衛隊の階級称についても「一等陸佐、二等陸佐、二等海尉、三等海尉」などという笑えるような呼称のままになっている。

 

 

 

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日本国の「国家理念」の定式化とその意義について

2019年04月23日 | 国家論

 

日本国の「国家理念」の定式化とその意義について
 
日本国の国家理念、⎯⎯「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」

現代日本の政治家の資質の劣化については、多くの国民にも気づかれ始めているのではないだろうか。右派に人気のある、ある作家の言によれば、現在の日本の政治家の八割方が「屑」の政治家なのだそうである。

しかし、現在の日本の政治家たちに、「野党の政治家たちは全部屑だ」などと愚痴ったところで、もちろん日本国民はいささかも幸福にもならず、日本政治の堕落と腐敗の事態がいささかでも改善するものではない。

考えなければならないのは、なぜ現在の日本の政治家たちの多くが国民多数の目には「屑」に映るのか、また、どうすれば国民の負託と需要に十二分に応えるこのとのできる資質と能力を持った政治家たちを得ることができるのか、ということだろう。

日本の政治家たちが「屑」に映るというのは、彼らが国民の貴重な税金を費消していながら、日本国民の多数の負託に十分に応えきるだけの資質と能力を欠いているためである。それは、最近の政党支持率を見ても明らかである。



【図解・政治】政党支持率の推移:時事ドットコム https://is.gd/VefYyA
 
 
支持する特定の政党のない国民の割合は、実に、六割にも達する。もし彼ら政治家たちが、民間の営利企業の経営者であるならば、これほど国民の需要に応えきれない企業として、もうとっくの昔に倒産していることだろう。

彼ら政治家たちもまた親方日の丸で、彼らの職業活動である「政治」によって国民の需要に応えることがなくとも、政党交付金など税金で養われているために失業もしないから、堕落しきっているのである。
 
上記の政党支持率の推移の表を見てもわかるように、政党は一強多弱の状態にある。第一に、弱小野党が七党もあるというのは、いかにもこれらの諸政党が雑魚野党であることを示しており、これでは国民のための強力で効率的な政治は実行できない。
 
どうして、現在の日本政治がこんな雑魚野党の集合体になってしまったのだろうか。おそらくそれは、現代の日本の政治家たちの国家哲学や国家の理念についての認識がとりわけ貧困であること、それに起因する資質や能力の劣化に原因があると思われる。
 
イギリスの政治思想家スマイルズによれば、「国民は自らの民度にふさわしい政治しかもてない」ということらしい。このことが真理であるならば、やはり自らの民度を自己批判して何とか向上させてゆくしか手はないのかもしれない。(政治のありようは、その国民の鏡) 

日本国の国家理念については、以前に「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」として定式化したことがある。これは、日本の国家としての理念であるとともに、日本国のもっとも普遍的な概念でもある。

それは国家の概念としては絶対的なものであり、日本国としての理念はそれ以外にはあり得ないものである。政党政治として、いやしくも日本国の政党である限り、与党も野党もこの国家理念を政治理念とすべきであり、すべての政治家は、この政治理念の実現を目指して政治に従事すべきものである。

もし、この政治理念に異を唱える政治家、政党が存在するならば、この政治理念に対する批判を明らかにして、自らの政治理念の優越とその正当性の根拠を論証すべきだろう。

「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」というこの普遍的な理念を日本国において具体的に現実的なものとしてゆくのは政治家の使命である。さらに、この国家の理念からいえば、日本国に存在すべき政党は、論理的には、自由を実現する「自由党」と民主的な国家社会の形成を目的とする「民主党」以外ではあり得ない。

この二つの政党によって日本国の政治が担われるべきものであり、かつ、それで必要にして十分である。そして「自由党」も「民主党」もいずれも、さらに根本的により完成された「独立した立憲君主国家」の実現を使命とする。日本国の政党と政治家は、この国家の理念を立法において、司法や行政、また軍事国防などの組織において、さらに具体的に現実的なものとしてゆかなければならない。
 
イギリスであれアメリカであれ、多少なりとも「まともな国家」であるならば、「自由党」と「民主党」に相当する現実的な国民政党が、それぞれ交代して国家の政権を担っている。たとえば、イギリスにおいては保守党と労働党が、アメリカにおいては共和党と民主党がそれに相当する。

しかし、とくに我が国には、イギリスにおける保守党、アメリカにおける共和党に相当するような、自由と伝統を堅持する、いわゆる「保守政党」が存在しない。これは日本の宿痾といえるほどの政治の貧困であり悲劇である。日本の政治家たちの資質能力の劣悪さはここにまで至っている。とくに野党の現状はひどすぎる。

日本の政治家たちの国家理念についての認識がもし明確なものであるならば、日本の政界も「立憲民主党」「小沢自由党」「希望の党」「国民民主党」などといった上記の表に見るようなわけもわからぬ雑魚政党の、烏合の寄り合いに成り果てることもなかっただろう。
 
 
 
 
 
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元号と政治家

2019年04月03日 | 国家論
 
元号と政治家

政治家たちは皇室に関連することについて、あまり口を挟まないほうがいい。皇室にかかわる問題、事柄は、いわゆる識者、学者、文化人といわれる人たちに任せておけばいい。与党であれ野党であれ、政治家がしゃしゃり出て、皇室について余計な口を挟むべきではない。

とはいえ「天皇ロボット」論などを唱えておられる憲法学の泰斗である樋口陽一氏などは、今回の政治家、安倍晋三首相の元号の制定の過程における政治利用に反対できないはずだ。なぜなら、樋口陽一氏にとっては、恐れ多くも天皇陛下は、国民主権のもと選挙で選ばれた政治家、内閣総理大臣、安倍晋三氏のロボットと等しき存在でなければならないそうだから。憲法学の大先生、樋口陽一氏には立憲君主国家の意義が理解できない。

新しい元号の解釈などは、学者先生たちに、歴史家、文学者、古典研究者たちに任せておけばいいことであって、何も素人の政治家である内閣総理大臣の安倍晋三氏が、出しゃばって新元号の講釈などを垂れなくてもいい。

いうまでもなく、元号は皇室のものであり、国民主権の「国民」といった正体の定かでもない、またその実体もよくわからない雲をつかむような得体も知れない存在が決めるものでもない。

元号をお決めになるのは、あくまでも天皇陛下であって、内閣総理大臣の安倍晋三氏でもなければ、ましてや官房長官の菅義偉氏でもない。もし現行の日本国憲法が、日本の古来からの確立した慣習法から逸脱しているのなら、改正されなければならない。

内閣総理大臣はただその職責において「有識者」を組織して、元号について候補となる諸案を研究させる。その過程の中から内閣は閣議などを経て、いくつかの諸案を絞り込んでゆき、それらを新しき天皇陛下に奏上して、その諸案の中から最終的にご決定いただくべきものである。

たとい内閣総理大臣であっても、政治家である安倍晋三氏やまして官房長官である菅義偉氏などには「元号」についての最終決定権はない。このたびの「平成」後の新しい元号の制定過程を見ていて、あたかも現在の政権与党を担っている自民党政府の内閣に元号制定権があるかのように振舞っていた。

安倍晋三氏などは、あたかも自分が音頭をとって新元号を制定したかのように、高潮した浮かれた趣で、新元号である「令和」の意義の講釈を行なっているように見えた。そこには、元号はあくまでも皇室のものであって、内閣などの政治家たちによって政治的に決められるものではないという、元号制定についての政治家としての自己相対化の自覚と謙虚さがないように思えた。皇室のものである元号を取り扱っているという畏れや謙遜も見えなかったように思う。(思い違いなら幸いである)

立憲君主国家についての深い哲学的な洞察もない、国家社会主義の系譜を引く、「保守」を自称する政治家としての安倍晋三氏の振る舞いだけがそこに見られた。

(※20190403追記)

「天皇ロボット論」者である憲法学者、樋口陽一氏らには、なぜ内閣総理大臣である安倍晋三氏の「元号の政治利用」について批判する資格がないのか、上記での論考だけでは分かりにくいかもしれません。下記の論考なども参考に。

『天皇機関説』と『象徴天皇ロボット論』https://is.gd/54Lvs0
 
(追記201904010)
 
 
 
 
 
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今日は天皇誕生日

2018年12月23日 | 国家論

 

今日は天皇陛下のお誕生日。天長節ともいう。平成時代も今年が最後ということもあって、NHKでも「天皇 運命の物語」と題して4回にわたって平成天皇の軌跡をドキュメンタリーとして放映するらしい。NHKのニュースセブンが終わると、続いて十九時半から第一話として「敗戦国の皇太子」が放送されていたので見た。

昭和8年にお生まれの今上天皇陛下は、大東亜戦争という激動の時代を生きられた昭和天皇の後を継がれて、戦後GHQ憲法下という歴史的にも稀有な時代において皇室を生きられた。このドキュメンタリーを見て印象に残ったのは、立太子礼を終えられたばかりの19歳の時に英国のエリザベス女王の戴冠式に昭和天皇のご名代として英国を訪問された時のことである。

戦争の傷跡もまだ生々しい時にあって、元捕虜の英国兵たちから皇太子の訪英に反対運動が広がり始めた。その時に未だ政治家として現役にあったチャーチルが皇太子を招いて晩餐会を開いた。そして、そこへ野党労働党党首など皇太子の訪英に反対する者たちも招いて彼らの気持ちを和らげたのである。敵国の皇太子に対するチャーチルの心遣いを見て、あらためてこの政治家の器量の大きさを感じた。

老練な政治家として英国の立憲君主国家体制を深く理解していたチャーチルは、同じ立憲君主国家としての日本の若き皇太子を、戦争の恩讐を超えて暖く遇したのである。

この秋にたまたま、私はヘーゲルの「法の哲学」、第三部 倫理、第三章 国家の§275から§286までa 君主権の個所を訳して註釈とともにブログに公開したことがある。「夕暮れのフクロウ」記事一覧20180808〜20181026

私がヘーゲルの「君主論」について拙訳ながら訳出しようと思ったのは、今は亡き奥平康弘氏という憲法学者が東大名誉教授という公職にありながら、「「天皇制」と民主主義は両立しない」と自らの著書で主張されているのをたまたま知ったことがきっかけだった。

国家体制について自由に選択しうるものかどうかも問題であるけれども、それはとにかく、もともと伝統的な立憲君主国家体制を支持し、またヘーゲルの「法の哲学」の立場に共感するものとして、奥平康弘氏の著書「「万世一系」の研究」の結論は納得できないものだった。ヘーゲルの「君主論」の一部でも身の程知らずにも訳そうと思ったのもそのためである。

英国はエリザベス女王という国家君主を戴いている。それにも関わらず紛れもなく英国は世界からも歴然たる民主国家として認められている。しかし、宮澤俊義氏や樋口陽一氏などの東京大学の法学部教授たちは、彼らの「天皇ロボット論」などに見られるように、東大派憲法学は昔から「民主主義と天皇制は両立しない」という立場にあるらしい。ということは要するに、彼らは憲法学者の立場として「立憲君主国家」の意義を理解していないということである。

また、東大法学部で樋口陽一氏や奥平康弘氏らの憲法学の訓導を受けた戦後民主主義の世代の若者たちは、そのまま彼らの憲法観を受け継いで大学教授や官僚になったり、あるいは朝日新聞やNHK などのマスコミなどの幹部に上りつめた記者やディレクターたちも少なくないはずである。彼らはその結果として、その反皇室の国家観の立場で、記者活動や映像活動を行なっている。

したがって平成天皇の来年のご譲位の報道についても、「皇室典範」の規定に従った正しい法令用語である「譲位」を意図的に避けて、「生前退位」とか「退位」とか「即位」とか不完全な用語を使い、また「皇太弟」という伝統的な用語を避けて、「皇嗣殿下」といった珍奇な用語で国民を意図的に誤導することになっている。

不謹慎ながら現在の皇室にもし「悲劇的」な一面があるとすれば、皇室の藩屏としての皇族の層があまりにも薄く、また、内閣にも宮内庁にも、戦後まもなくにはまだ多く存在していた、安岡正篤や小泉信三などの日本の伝統についても造詣の深い国家哲学を有した人間が現在の皇室の身近な周辺に一人もいないらしいことである。

井上毅については言うまでもがな、安倍晋三や菅義偉たちや現在の宮内庁長官たちの人物のレベルでは「立憲君主国家」における「皇室」の存在の意義についての哲学的な洞察は無理である。

 

 

 
 
 
 
 
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§286c〔封建的君主制、専制政治の荒廃と破壊の歴史〕

2018年10月29日 | 国家論

 

§286c〔封建的君主制、専制政治の荒廃と破壊の歴史〕

Die ehemaligen bloßen Feudalmonarchien sowie die Despotien zeigen in der Geschichte darum diese Abwechslung von Empörungen, Gewalttaten der Fürsten, innerlichen Kriegen, Untergang fürstlicher Individuen und Dynastien und die daraus hervorgehende innere und äußere allgemeine Verwüstung und Zerstörung, 

かっての単なる封建的君主制は、専制政治とおなじように、叛乱や支配者の暴虐、内乱、支配者個人や王朝の没落によってもたらされるこれら支配者の交替と、そして、そこから生じた国内外の一般的な荒廃と破壊を、その歴史の中で示している。

weil in solchem Zustand die Teilung des Staatsgeschäfts, indem seine Teile Vasallen, Paschas usf. übertragen sind, nur mechanisch, nicht ein Unterschied der Bestimmung und Form, sondern nur ein Unterschied größerer oder geringerer Gewalt ist. So erhält und bringt jeder Teil, indem er sich erhält, nur sich und darin nicht zugleich die anderen hervor und hat zur unabhängigen Selbständigkeit alle Momente vollständig an ihm selbst.

その理由は、国家事業を分割するこのような状態においては、 国家事業の分担が 家臣や高官などに任せられるために、ただ機械的になり、使命や形式の違いによってではなく、そうではなくその違いは単に権力が大きいかあるいは小さいかだけである。そうして、それぞれの部門は、自己を保持しながら、ただ自己のみを、そして、そこでは同時に他者を生み出すということはなく、それぞれの部門は、他と関わりを持たない独立したものとなって、すべての要素を完全に自己自身のもとに持つことになる。 



 

 

封建的君主制や専制政治が荒廃と破壊の歴史をたどるのは、その体制の国家事業の分担が有機的な関係を失い、ただ権力の大小によって区別されるのみで、それぞれの部門が他者とは無関係な完全に自立した存在と化すためである。それぞれが独立してその生存をめぐって排他的に競合しあうことになるためである。フランス革命の末期にも権力は分裂して恐怖政治を招いて破滅することになる。認識論においては、悟性は分断(判断)をもたらし、理性は統一(宥和)をもたらす。 


 

§286c 〔封建的君主制、専制政治の荒廃と破壊の歴史〕 - 夕暮れのフクロウ 

 
 
 
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§286 b 〔理性的な国家体制としての立憲君主制と公共の自由〕

2018年10月22日 | 国家論


§286 b 〔理性的な国家体制としての立憲君主制と公共の自由〕

Die monarchische Verfassung zur erblichen, nach Primogenitur festbestimmten Thronfolge herausgearbeitet zu haben, so daß sie hiermit zum patriarchalischen Prinzip, von dem sie geschichtlich ausgegangen ist, aber in der höheren Bestimmung als die absolute Spitze eines organisch entwickelten Staats zurückgeführt worden, ist eines der späteren Resultate der Geschichte, das für die öffentliche Freiheit und vernünftige Verfassung am wichtigsten ist, obgleich es, wie vorhin bemerkt, wenn schon respektiert, doch häufig am wenigsten begriffen wird.

長子相続にしたがって堅実に確立された継承へと、君主制の国家体制をつくりあげること、それをもって家父長的な原則へと、しかし、それも歴史的な起源としての家父長的な原則から、有機的に発展した国家の絶対的な頂点としての家父長的な原則へと、さらにより高められた規定に回帰させることは、歴史における最近の成果の一つであり、公共の自由と理性的な国家体制にとってもっとも重要な成果の一つである。ただそうであるとしても、前にも述べたように、(君主制の国家体制は)かねてより尊重はされてはいても、それは往々にしてもっとも理解されることの少ないものである。



近代において有機的に発展した国家における頂点としての家父長的な原則について、すなわち、立憲君主国家体制としての君主制については、「公共の自由」と「理性的な国家体制」にとってもっとも重要な歴史的な意義をもつ成果としてヘーゲルは評価している。それと同時に「君主制の意義」がもっとも理解されることの困難なものであるとしている。

「公共の自由」に対する君主制の意義についてのこの指摘は、自由の価値を知る者にとってはとりわけ重要だと思います。

「天皇制」と民主主義は両立しない、と断言して亡くなられた東大名誉教授で憲法学者の奥平康弘氏がもし生きておられれば、「皇室」の存在と「公共の自由」との関係についてたずねてみたい。立憲君主国家体制における皇室の存在は「公共の自由」を毀損するかどうか?




 
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§ 283〔君主と諮問機関とその官僚〕

2018年10月06日 | 国家論

 

§ 283〔君主と諮問機関とその官僚〕

Das zweite in der Fürstengewalt Enthaltene ist das Moment der Besonderheit oder des bestimmten Inhalts und der Subsumtion desselben unter das Allgemeine. Insofern es(※1) eine besondere Existenz erhält, sind es oberste beratende Stellen und Individuen, die den Inhalt der vorkommenden Staatsangelegenheiten oder der aus vorhandenen Bedürfnissen nötig werdenden gesetzlichen Bestimmungen mit ihren objektiven Seiten, den Entscheidungsgründen, darauf sich beziehenden Gesetzen, Umständen usf. zur Entscheidung vor den Monarchen bringen. Die Erwählung der Individuen zu diesem Geschäfte wie deren Entfernung fällt, da sie es mit der unmittelbaren Person des Monarchen zu tun haben, in seine unbeschränkte Willkür.

君主権に含まれている第二の要素は特殊の要素であり、もしくは、規定された内容であり、そしてそれを普遍の下に包摂することである。規定された内容が一個の特殊な存在を含む限り、それは最高の諮問機関であり諸個人である。それらは発生する国家業務の内容や、あるいは既存の必要性から客観的側面において必要とされる法的な規定、意思決定の根拠、それに関連する法令、様々な諸状況などを君主のもとに決するために持ち来る。これらの職務のために個人を選任することは、解任する場合と同じように、彼らはそこで君主の直接の人格と関係することから、君主の無制限な恣意に任される。


ヘーゲルの弁証法的な論理は、概念の進展に従ってつねに、普遍 ⎯→ 特殊 ⎯→ 個別 へと展開されます。普遍的な存在としての君主は、その概念の展開に即してさらに統治権へと、特殊な諮問機関としての内閣や官僚などを含む行政や立法、司法などの特殊な領域へと進展してゆきます。その概念が動的に立体的に必然的に展開されてゆく点がモンテスキューたちの三権分立論などと大きく異なるところです。また、ヘーゲルの概念論を誤解し、観念論Idealismusを理解しなかったマルクスなどの唯物論者たちは、このヘーゲルの弁証法論理をもって「論理的汎神論的神秘主義」とよび、倒錯しているとか神秘化しているなどと批判しています 。

※1

指示代名詞 es を、とりあえず「規定された内容」として訳しました。das Allgemeine が正しいのかもしれない。

 

§ 283〔君主と諮問機関とその官僚〕 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/jSsRsN

 

 

 
 
 
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§281c〔 最悪の制度としての君主選挙制〕

2018年09月15日 | 国家論

 

§281c〔 最悪の制度としての君主選挙制〕

⎯   Deswegen  darf  auch nur  die Philosophie diese Majestät denkend betrachten, denn jede andere Weise der Untersuchung als die spekulative (※1) der unendlichen, in sich selbst begründeten Idee hebt an und für sich die Natur der Majestät auf. 


⎯ したがって、哲学のみにこの君主の尊厳を思考として考察することが許される。というのも、透視的な(※1)無限の自己創造的な理念(の概念的な把握)以外の他のどのような研究の方法も本来的に(必然的に)、(君主の)尊厳の本性を廃棄してしまうからである。

 

⎯ Das Wahlreich scheint (※2)leicht die natürlichste Vorstellung zu sein, d. h. sie liegt der Seichtigkeit des Gedankens am nächsten; weil es die Angelegenheit und das Interesse des Volkes sei, das der Monarch zu besorgen habe, so müsse es auch der Wahl des Volkes überlassen bleiben, wen es mit der Besorgung seines Wohls beauftragen wolle, und nur aus dieser Beauftragung entstehe das Recht zur Regierung.

⎯  選挙君主制(選挙公国)がもっとも自然な考えであるようにみえる(※2)。言い換えれば、それが思想の浅薄さに最も近いところにあるということである。君主の配慮すべきことは、国民の関心事と利益であり、そうして、また国民の福祉の世話を誰に委ねたいかは国民の選択に委ねなければならないし、そして、この委託のみから統治の正当性が生まれるのだからと。

Diese Ansicht, wie die Vorstellungen vom Monarchen als oberstem Staatsbeamten, von einem Vertragsverhältnisse zwischen demselben und dem Volke usf., geht von dem Willen als Belieben, Meinung und Willkür derVielen aus - einer Bestimmung, die, wie längst betrachtet worden, in der bürgerlichen Gesellschaft als erste gilt oder vielmehr sich nur geltend machen will, aber weder das Prinzip der Familie, noch weniger des Staats ist, überhaupt der Idee der Sittlichkeit entgegensteht.

 

こうした見方は、君主についてそれを最高の公務員とみなす考え方や、君主と国民との間の関係を契約とみなす考え方などと同じように、多数者の利便、思い込み、恣意としての意志から出てくるものであり、⎯ このような考えは、ずっと前に考察されたように、市民社会において第一のものとして認められ、あるいはもっとさらには市民社会においてのみ通用するような考え方であるが、しかしそれは家族の原理でもなければ、まして国家の原理でもなくて、むしろ概して倫理の理念に背くものである。

⎯  Daß das Wahlreich vielmehr die schlechteste der Institutionen ist, ergibt sich schon für das Räsonnement aus den Folgen, die für dasselbe übrigens nur als etwas Mögliches und Wahrscheinliches erscheinen, in der Tat aber wesentlich in dieser Institution liegen. Die Verfassung wird nämlich in einem Wahlreich durch die Natur des Verhältnisses, daß in ihm der partikulare Wille zum letzten Entscheidenden gemacht ist, zu einer Wahlkapitulation, d. h. zu einer Ergebung der Staatsgewalt auf die Diskretion des partikularen Willens, woraus die Verwandlung der besonderen Staatsgewalten in Privateigentum, die Schwächung und der Verlust der Souveränität des Staats und damit seine innere Auflösung und äußere Zertrümmerung hervorgeht.

 

選挙君主制が諸制度の中で最悪のものであるということは、すでに、もろもろの経験からも悟性推理にとっても明らかになっている。ところで、その事実はただ偶然的なものか、見かけだけ本当らしいものに見えるけれども、実際にはしかし、この選挙君主制という制度そのものに本質的に存在しているものである。

選挙君主制においては、すなわち国家体制(憲法)は、特定の意志が究極の決定要因になるというその関係の本性からいって、一つの選挙協定によって、すなわち、特殊な意志の方向性に国家権力が支配されることになる。そこから、特殊な国家権力が私有財産へと転じ、国家の主権の弱体化と喪失、そして、その結果として国家の内部からの解体と、外からの破壊がもたらされることになる。

 


アメリカやロシアなどの大統領制をとる共和国は、君主を選挙で選出するという意味で、ここでヘーゲルのいう「das Wahlreich 」(選挙君主制・選挙公国)にほかならない。ロシアのプーチン大統領やアメリカのトランプ大統領の例に見るように、
悟性推理にすら、事実に強制されて大統領制(君主選挙制)が劣悪なものであることを理解している。

また「学者」でありながら、そうした観点からしか君主制を理解できず、日本の皇室を批判して止むことのない日本の多くの憲法学者たち、また彼らによって権威とされている憲法学者の樋口陽一氏などにとっては、君主としての天皇についても「最高の国家公務員」とか「国民のロボット」といった見方しかできない。

 

 (※1)die spekulative

ここでは「透視的な」と訳したけれども、多くの翻訳では「思弁的な」と訳して済まされている。しかし、それでは単に語句をドイツ語から日本語に置き換えただけで、その実質的な理解は得られないと思う。

die  Weise der Untersuchung  als  die spekulative  der unendlichen, in sich selbst begründeten Idee」「透視的で無限な自己自身に根拠をもつ理念としての研究の方法」とはヘーゲル哲学の体系そのもののことにほかならない。そこに明らかにされているヘーゲルの論理学のように、絶対的に必然的な弁証法的な展開についての洞察、透視なくしては、君主の尊厳の価値も理解し得ないのだ、というのだろう。

※2)sheinen  〜にみえる

ヘーゲルにおいては、sheinen はあまりいい意味には使われない。「外見上はそう見えるが、実際は〜〜である」としてヘーゲルらしく現象と本質との関係において事柄が見られている。

 

 

 
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