作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

「朝まで生テレビ」を見る

2008年08月30日 | ニュース・現実評論

 

金曜日の深夜に放送される「朝まで生テレビ」を本当に久しぶりに見る。

もちろんこの番組に出演する西尾幹二氏をこの眼で見て、氏の意見に耳を傾けるためである。他のコメンテーターや評論家、大学教授らにはもともとまったく関心はなかった。西尾幹二氏のみがこの番組の私の視聴の目的だった。先般16日に亡くなられた自然農法家の福岡正信氏ほどではないにしても、すでに西尾幹二氏もかなり高齢になっておられる。西尾幹二氏の貴重な生の発言と姿を――たとえテレビを通してであれ――いつまでも見られるか、率直に言って、その機会もそれほど多くはないと思ったからである。

そして、この番組を見て感じた印象だけを記録しておきたいと思った。ただ、その印象の理由や根拠をここでは明らかに説明することはできない。

この番組のテーマである皇室にちなむ君主制の問題については、以前にも私なりに考察したことはあるが、その感想を一言でいえば、この番組の出席者の中で、君主制や天皇制の意義をもっとも深く正しく理解されているのはやはり西尾幹二氏だけだと思ったことである。精神科医もその他論者たちの出席者の中でも、思想家としての質、それは人間としての質でもあるが、ひとり西尾幹二氏だけが傑出していて、周囲の人たちは、とうてい西尾氏とは同列には置けないという印象をもった。

この番組には、西尾幹二氏と同じ世代に属すると思われるような人たちも、すなわち、少年少女時代に太平洋戦争前の戦前の日本の一端を体験しておられると思われる小沢 遼子(評論家)氏や矢崎 泰久(ジャーナリスト)氏、そして、司会の田原 総一朗氏なども同席されていた。しかし、これらの人たちと西尾幹二氏が同世代、同時代の日本に生育した人たちには、とうてい私には思えなかったことである。

もし太平洋戦争を一つの区切りとして言うなら、明らかに西尾幹二氏は人間の資質としては戦前型に属し、そして、小沢 遼子氏や矢崎 泰久氏、田原 総一朗氏などは典型的ないわゆる戦後民主主義型である。まさに人間の資質として雲泥の差があるという印象である。それは、何事にも意義と限界があるとしても、私個人の民主主義に対する評価が、とくに戦後民主主義の帰結や教育に対する評価が極限にまで低いということなのかもしれない。

三島由紀夫がかって批判した文化状況、『華美な風俗だけが跋扈している。情念は涸れ、強靭なリアリズムは地を払い、詩の深化は顧みられない。...我々の生きている時代がどういう時代であるかは、本来謎に満ちた透徹である筈にもかかわらず、謎のない透明さとでもいうべきもので透視されている。』という文化状況は現在も継続している。

そして戦後60余年を経過した現在、還暦としても、暦の上でも一巡して本卦還り(ほんけがえり)するほどの時間が経過している。だから、現代の日本のほとんどの世代の人々は戦争を知らない。当然に私も知らない。そして、現在の世代の多くの人々は、戦後民主主義の申し子、その典型であるような小沢 遼子氏や矢崎 泰久氏、田原 総一朗氏のような人たちを自分たちの父母として、あるいは祖父母として育てられてきたはずである。世代像としては極めて少数派であるように思われる西尾幹二氏のような戦前型タイプの日本人を、自分の両親として、祖父母として育てられた人は少ないにちがいない。

そして、当然のこととして、子供たちは、自分たちの両親や祖父母の人間像、思想、価値観を自明のものとして、そのあわせ鏡のようにして生育する。だから、およそ人間はよほど我が両親や祖父母の人間像や価値観を徹底的に相対化し批判することなくしては、自分自身という人間を独立して相対化して見ることもできない。それゆえに、もし、そうした自覚症状のない戦後世代と日本社会が、戦前の明治大正のそれに復帰しようとすれば、そのためには絶望的なほどに時間と努力を要するだろう。現状と将来に悲観的になるとすればそのためである。

西尾幹二氏クラスの人間が戦後民主主義の日本にはあまりにも少なすぎるのである。あらゆる分野、領域における人材の枯渇、それが危機の根本にあるように思える。西尾幹二氏は絶望的なほど孤独な戦いを闘っておられるように見えた。

 

 

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冬野菜

2008年08月27日 | 日記・紀行

冬野菜

久しぶりに山の畑に行く。冬野菜の準備もソロソロである。この夏ははじめて夏野菜に挑戦した。植えたのは、トマト、キュウリ、ナス、シシトウなど。春にはジャガイモにも挑戦していた。食べきれずまだ残っている。水菜も壬生菜も食べきれなかった。

キュウリの苗を植え始めたとき、ウリバエという虫に植えたばかりの苗の柔らかい葉っぱをほとんど食い尽くされてしまった。みんなは苗の周囲を精霊流しの行灯のようにして囲っていたのに、私はお得意の「ずぼら農法」を決め込んで、放ったままにしておくと案の定だった。

もう、とうていまともに育たないと思っていた。それでも、急きょ周囲を古新聞で囲ってやると、やせ細りながらも何とか成長し始めた。それがやがて、7月8月になると食べきれないほどにキュウリの実をつけたから驚きだ。一週間も放っておくと、キュウリか瓜かわからないくらいに太く大きくなってしまう。トマトもよくなった。トマトに特有の香りも存分に嗅いだ。逆に新鮮さを失ってしまったかもしれない。よく熟れたトマトを冷やして食べたのも、今年の夏の思い出となる。親戚に宅配でお裾分けするほどに多くもなく、中途半端な量なので自家消費した。

少しずつ自然に親しみはじめて驚いたことは、自然のもつ「生命力」だろうか。昨年の晩秋から畑仕事にかかわり始めたのだけれど、はじめは枯れ草が目立ったので、それらをスコップなどで掘り起こして整地することなど心がけていた。

やがて春が来て桃の木が花を咲かせたりして、それなりにきれいだったけれど、春を過ぎ夏を迎えると、雑草が生い繁った。山の中に分け入るのがむずかしいほどになった。周囲の景色が一変するほどで、自然の「生命力」の一端に触れた気がする。

植物についての知識はほとんどないので、全てが雑草でひとくくりである。それでも、いつか余裕ができれば、それぞれの植物をデジカメで撮って、その種類なども分類してゆければと思っている。

はじめは闇雲に植えていったけれども、多少なりとも収穫できはじめると、採れた野菜をどう処理するかも問題だということがわかった。つまり、当然のことながらおいしい食べ方も知っておかなければならないのだ。キュウリなどははじめは生かじりがほとんどだったけれども、それでも食べきれない。かといって「ずぼら」だから、ぬか漬けなど作る気にもならない。

たまたま「キュウリのQチャン漬け」のレシピを、ある人のブログで読んで、これなら簡単そうだ、と思い立って作った。キュウリの他にナスや、山から採ってきた青ジソを加えた。確かに美味しかったけれど、三、四日経つと、何と上澄みにカビがはびこり始めた。びっくりして思わず捨ててしまおうとしたけれど、鼻を近づけて嗅いでみると何となく甘酸っぱい香りがする。おそるおそる食べてみると、なかなか美味しい。

食べれる物か食べれないかは、口に含んでみるとすぐにわかる。食べられないものは、はじめから舌が受け付けないはずである。タッパーウェアの中にキュウリがよく漬かってなかなか美味しくなっている。「Qチャン漬け」とはずいぶん違う味になってしまったけれど、美味しければいいと思って、そこへさらにキュウリを足した。Qチャンの白カビ漬けにしてまだ食べている。ご飯にはあう。このカビはたぶん何か糠味噌などと同じ、酵素カビなのだろうけれども、ヒマがないので調べる気にもならない。

イチジクは自分の背丈よりも大きくなった。柿の木はやはり、冬の霜柱の立つころに移植したのが悪かったのか、とうとう根付かなかった。植え替えるつもりでいる。

ところで、新しい「百科辞事典」を少しずつでも作ってゆこうかと思っている。もちろん、ヘーゲルの「エンチュクロペディー」を踏まえているのだけれど、ただ、構成については、私の立場から変えてある。カントの平面的なカテゴリー表をヘーゲルは立体的に再構成してみずからの哲学大系を作ったが、私は出発点を変えた。事物の生成のはじめに、ビッグバンという現代科学の知見を取り入れるつもり。どこまでやれるかはわからない。

 

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福岡正信氏の自然農法

2008年08月21日 | 農事

                      オクラの花 

福岡正信氏の自然農法

福岡正信氏は「自然農法」と呼ばれる独自の農法の実践者、主唱者として知られている。自然農法とは、「耕さず、田植えをせず、直接モミや種を蒔いて、米と麦の二毛作をし、化学肥料も施さず、除草作業もせず、農薬も使わない」という極めて簡単な農法である。肥料の代わりにワラを敷き、耕作する代わりにクローバーの種を蒔く。

もちろん福岡正信氏もはじめから自然農法の実践家であったわけではない。氏は岐阜の高等農業学校を卒業し、植物病理の研究から出発して、税関で植物防疫に従事している。だから福岡氏の自然農法にはその前提に植物学という近代科学の素養があるといえる。しかし、若いころ自身の病気をきっかけに現代の科学について根本的な不審を抱くようになった。

おそらくこの頃に、福岡氏は、荘子の「無為自然」、「無用の用」の境地を直観的に体得されたのだろうと思う。自然は無為にして完全であるから、荘子が指摘したように、ひとたび人間が道具を作り、井戸水を汲み上げるのに滑車を使うように、分別智を働かせて道具を使うようになるともはや元には戻れない。もともと完全なものを一度分断、分析し始めると、すべての肯定の裏に否定が現れて、パラドックスに陥る。福岡氏はこのことを直観的に悟られたのだろう。

福岡氏は、若いときに体験した自身のその直観の正しさを証明すべく、人為を加えない農法を、自然農法を生涯に追求しようとしたのだ。無為自然こそが絶対的な真理であることを直観した若き福岡氏は、「何もしない農法」はいったいどのようにして可能か、という問題を生涯をかけて追求したのである。それが氏の自然農法だった。そして、やがて到達したのが、冒頭に述べたような、米麦不耕起連続直播、無肥料、無農薬、無除草の農法である。しかし、この自然農法も永遠に研鑽途上にあって、完成されたわけではない。

現代の石油エネルギーを使って行われる現代農業が多くの問題を抱えていることは語られはじめてすでに久しい。それらは温暖化や砂漠化を招いている。現代農業は商業的な大量生産を目的とするから、そのために農薬や化学肥料を使わざるをえない。そこには多くの矛盾が生じている。また、これまで日本の農政は、国際分業論に立って減反政策を進めてきたが、そのため食料自給率の低下を招く結果になった。そして今、世界的な食糧危機の到来を予感してあわてふためくことになっている。肯定の裏にかならず否定が生まれてくる。これは何も現代の農業だけに限られない。現代物理化学の粋を集めて応用される原子力発電においても、また、遺伝子工学の応用によって遺伝子の改造から治療をはかろうとする現代最先端医学の領域においても同じである。すでに人類はやがてそれらの行き着く先に漠然とした不安を感じている。悟性科学には矛盾を克服できないことを予感しているからである。

要するに、そこにあるのは分別知にもとづく、現代科学のもたらす矛盾である。「無の哲学」の見地からこうした近現代科学の将来を福岡氏ほど明確に予見していた人はいないかもしれない。それは、人為は自然に必ず劣るという福岡氏の確信であり世界観によるものである。福岡氏においては、自然は神と同等と見なされている。氏にとって、自然は完全であり、したがって一切無用である。有限の存在である人間の見て行う世界は、完全なものを分解し分析した部分でしかないものであり、必ず不完全なものである。そこで、氏はすべての人為を捨て、完全な自然に同化して、自然に生かされる生き方の道を歩むことになる。

一切無用として出来うる限り人為を廃し、自然の豊かさにしたがって自己を生かそうとする福岡氏の自然農法は、やがて、とくにその搾取によって土壌が疲弊しきった欧米の農業家の着目するところとなったようである。日本はそれでも自然がまだ豊かであるから、行き着くところまで行き着いておらず、福岡氏の自然農法に対して切実な欲求をもつに至ってはいないのかもしれない。その点でも、福岡氏の農法は日本よりも欧米で受け継がれてゆくのだろう。

福岡氏の自然農法は「無の哲学」に基づいたものである。それは人間の知識や科学を本質的に否定するものである。氏の思想と哲学は、物や人智の価値を否定する。だから現代人や現代社会の立脚点とは根本的に相容れないものである。それはちょうど、「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず。野の百合はいかに育つかを見よ。労せず、紡がず。さらば、汝ら何を喰い、何を飲み、何を着んとて思い煩うな」と命じたイエスの生き方と同じく、現代人は厳しく重荷に感じて、もはや誰一人として実行できないでいるのと同じである。おそらく、福岡氏の自然農法の真の継承者はいないのだろうと思う。

しかし、現代科学が、そして現代農業が行くところまで行き着いて行き詰まったとき、無の哲学から現代文明を批判した福岡氏の自然農法は、未来の農法として復活するかもしれない。そのとき福岡氏の自然農法は未来のあるべき農法として、人々にとって灯台の役割を果たすだろう。しかし、それは現代人の価値観が根本的に転換するときである。

福岡氏は理想の生活を次のように描いている。

「無智、無学で平凡な生活に終始する、それでよかった。哲学をするために哲学をするヒマなどは百姓にはなかった。しかし農村に哲学がなかったわけではない。むしろ、たいへんな哲学があったというべきだろう。それは哲学は無用であるという哲学であった。哲学無用の哲人社会、それが農村の真の姿であり、百姓の土性骨を永くささえてきたのは、いっさい無用であるという無の思想であり、哲学であったと思うのである。」   (『自然に還る』P204)
「小さな地域で独立独歩の生活をする。家庭農園ですべての事柄が片づいてしまう。
自然農園づくりが、外人にとっては、もう理想郷(ユートピア)づくりになっている。・・オランダの牧師さんが、家庭の芝生を掘り返し、家庭菜園を作り、そこにエデンの園を見出す。」     (P297)
「一人10アール・一反ずつの面積はあるわけだから、みんなが分けて作って、機械を使わずに、そのなかに家も建て、野菜から、果物、五穀を作って、周囲の防風林代わりに、モリシマアカシアの種子を毎年一粒ずつ播くか、苗を一本植えておけば、十年後は石油が一滴もなくても、年間の家庭用燃料は十分間に合う。
ですから、自然農法は、どちらかというと、過去の農法ではなくて、未来の農法だとも言えるんです。田毎の月を見て、悠々自適ができるような楽しめる百姓になる。家庭菜園即自然農法即真人生活になるのが、私の理想です。」    (P291)

このような福岡氏の理想は確かに共感できる点は多い。しかし、福岡氏に接した多くの人が語るように、とくに西洋人が多く語るように、氏の自然農法には共感できるけれども、氏の「無の哲学」に共感できないと言われる。私も同じである。なぜなら、福岡氏の「無の哲学」にかならずしも同意しないからである。あえて言うなら、私の立場は「無の哲学」でもなければ「有の哲学」でもなく、「成(WERDEN)の哲学」であるから。これはヘラクレイトスの万物は流転するという世界観でもある。

本当の自然とは何か。私は福岡氏の自然農法自体をかならずしも自然とは見ない。逆説的に言えば、福岡氏の「自然農法」自体が不自然農法である。むしろ、深耕、農薬、化学肥料などの人為、不自然こそが自然であるとみる立場もある。

当然のことながら多くの欠陥を抱えた現代農業は、いずれ克服されてゆくべきもので、それは現在の科学が発展途上にある未完成品であるというにすぎない。それは悟性的科学であって、理性的科学ではない。ただ理性的科学は、ゲーテのいう「緑の自然科学」に近く、この観点からは、福岡氏の自然農法は高く評価すべき点をもっている。理想は近くあるとしても、しかし、福岡氏の「無の哲学」は、否定を媒介にしない。この点に根本的な差異がある。福岡氏の「無の哲学」は直観的で、何より否定という媒介がない。

また、福岡氏の思想と哲学の限界としては、氏の自然農法には国家や地域社会、市民社会との関係を論じ考察することがあまりにも少なかったと思われることである。要するに媒介がなかった。個人的には私は福岡氏が理想としたような皆農制を基本的には支持する立場である。しかし福岡氏は、民主国家日本において、皆兵制については論じることはなかった。しかしいずれにせよ皆兵制や皆農制などの問題は、すでに国家論や憲法論に属する議論である。それらの問題はまたの機会に論じることがあると思う。

ここ十年ほど、福岡正信氏の動向はほとんどわからないままだった。と言うのも私は氏の「自然農法」や「無の哲学」のそれほど熱狂的な支持者でも何でもなかったからで、長い間忘れ去ってしまっていたのである。ただ、昨年の秋の暮れくらいから、たまたま縁があって山で家庭菜園のような真似事を始めることになった。それはたとえままごと遊びにすぎないとしても、農に、土や野菜や果物と直接にかかわり始めているといえる。それこそ各個人の価値観の問題で、何に価値や歓びを見出すかは人それぞれであるとしても、自分で作った野菜や果物を食べるのは、それなりに楽しい点もある。また、「自然」により深くかかわる歓びもある。自然や農業についてよく知るためにも、今にして思えば、一度くらい機会を作って、福岡正信氏を訪問しておくべきだったのかも知れない。

クローバー草生の無耕起直播の農法、プロの農家からは実現不可能に見える「不耕起、無化学肥料、無消毒」の自然農法は見向きもされず、農業には無縁の都市生活者の素人にしか関心を引き起こさない。しかしだからと言って、そこにまったく可能性がないわけではない。福岡氏の「自然農法」はむしろ「プロ」の農業者を無くす試みとも言えるからである。現代日本のプロの農業生活者の基盤である農村の多くが崩壊の危機にあると言われる。おそらくそれは、現代人や現代社会が福岡氏の「無の哲学」へと価値観を根本的に変換できないためである。しかし、もしこの前提が崩れれば、福岡氏の自然農法の実行は可能となるかもしれない。問題は、この「不可能」な前提が崩れる要件はあるか、あるとすればそれは何か、である。

去る十六日、私にとっては長い間動静が途絶えていた福岡正信氏の訃報が伝えられていた。享年九十五歳。また日本人らしい日本人が失われてゆく。福岡氏の自然農法は、「無の哲学」そのものから生まれたものである。それゆえにこそ、氏の農法は、おそらくこの日本でよりも、欧米においてこそ真に受け継がれ開花して行く宿命にあるのかもしれない。

6/6 自然農法60年の歩み「粘土団子世界の旅」 福岡正信

自然農法を提唱 福岡正信さんが死去

 

 

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『法の哲学』ノート§273(国家体制、憲法2)

2008年08月12日 | 哲学一般

『法の哲学』ノート§273(国家体制、憲法2) 

国家がみずからの概念にしたがって発展させるとき、そこに三つの区別が現れる。まず、    (1)国家の普遍的な原理を確定する権力としての立法権、
継いで 、(2)特殊な領域としての市民社会や、個別的な領域である個人(家族)を普遍的な原理のうちに統制するものとしての統治権、
そして最後に、
             (3)究極の意思決定の主体としての君主権。

この君主権において、先に区別された諸権力が、一個の個体として統一して束ねられている。君主権は全体の、すなわち立憲君主制の頂点であり、始元である。

先のノートにも述べたように、三権の分立といえば、モンテスキュウの「立法権」「行政権」「司法権」が取りあげられて、このヘーゲルの三権分立論が取りあげられることはほとんどないが、彼は論理学における概念の本性についての洞察から、上記のように区分する。くりかえすなら、普遍的な原理にかかわる立法権と、市民社会や家族(個人)に対して普遍的な原理を適応する統治権――モンテスキュウの行政権と司法権はここに含まれる――と、そして、最後に継いで究極の意思決定の主体としての君主権を、憲法(国家体制)の区分として導き出す。そして、この君主権をもって、国家の頂点すなわち区分された諸権力を総括する立憲君主制の頂点と見なす。

そしてさらに、国家を立憲君主制に作り上げることは、主体としての理念が「無限の形式」を獲得した現代の世界の事業であるという。そうして、倫理的な生活を真実に具体化して行くことは、普遍的な世界史の事実であるという。もちろんここで論理と歴史の究極的な一致が洞察されていることは言うまでもない。

さらに君主制、貴族制、民主制に分類する古代からの憲法(国家体制)についての従来の見方については、それらはまだ自己を展開して分割しきっておらず、主体的な統一を保っており、それらはいずれも支配者の数量にもとづく外面的な区別にすぎないという。それらは古代の世界においては正当な区別であるとしても、いまだ具体的に展開された組織として深さと合理性に到達しておらず、事柄の概念がしめされた分類ではないと言う。

続いて、ヘーゲルはフィヒテの憲法観を取りあげる。フィヒテは、憲法(国家体制)においては、統治し命令すべき国家という抽象物が形式的に定められていれば十分で、国家の頂点に立つ者の数はどうでもよいという。しかし、こうした見方では、普遍、特殊、個別という諸要素を論理的に展開した理念に一致せず、したがって正当性も現実性も獲得できないという。

さらに、モンテスキュウの主張する民主政治や貴族政治、君主政治という政治の形式的な原理についても、その洞察の限界について触れる。文化が進み、市民社会が進展して、特殊な領域が発展しさらに自由化されたときには、国家の首長の徳という心的態度だけではそれらはいずれも必要十分な権利を与えることができず、合理的な法律の形式が不可欠になるからである。そして、モンテスキュウが君主政治の原理を名誉(特権を与えられた人格)に認めている点で、それは客観的な法に基づく義務による近代的な立憲君主制でもなく、封建的な君主政治であることを指摘する。

最後に、「誰が憲法(国家体制)を作るべきか」という問いを取りあげる。しかし、この問いは、憲法(国家体制)の存在しないことと、単なる個々人からなる群衆の存在を前提していることから、無意味だという。憲法(国家体制)はすでに存在しているし、群衆は国家の概念には関わりを持たないからである。ただこの問いは、憲法(国家体制)の存在を前提にするときは、それをどのように変革するかという意味になり、そのときには変革そのものも憲法にしたがって行われることを意味している。

しかし、ヘーゲルがここで強調していることは、時代のなかに憲法が現れるとしても、それを作られたものとは見なされないことが絶対的に本質的なことであるとしていることである。なぜなら憲法は絶対的に必然的な存在で、神聖で恒久的なものと見なされるからで、作られるものという領域を超えたところに存在するものと見なされるべきだからだという。

これらの憲法観は、戦後の日本の憲法論争に一つの視点を与えるもので、今後の日本国憲法の改正論議にも裨益する点は少なくないと思われる。とくに、戦後の日本国憲法はGHQの手によって「作られた」という議論の多い中で、あるべき憲法の姿を考える上で一つの参考になると思われる。

ただ、ここでいう憲法(国家体制)という概念が、同じ日本語としては憲法と翻訳されるKonstitution(Constitution)と明確に区別される必要があると思われることである。ここでヘーゲルが憲法(国家体制)としているVerfassungは、実定法ではなく自然法しての憲法の意義をもつように思われることである。現行の日本国憲法はむしろKonstitutionであって、ヘーゲルがここで念頭に置いているVerfassungではないように思われる。

Verfassungの語源から言っても、この意義における憲法とは、すでに存在するもの、神聖で恒久的なものをつかみ、把握し理解して、それを言語化し言明したものを指すように思われる。だから、ここでヘーゲルの論じるVerfassung(憲法・国家体制)は、明治期に明らかにされた皇室典範などの意義に近いのではないだろうか。戦後に制定された日本国憲法は概念としてはKonstitutionに近く、明治期に制定公布された大日本帝国憲法はVerfassungに近いといえる。

 

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『法の哲学』ノート§272(国家体制、憲法)

2008年08月11日 | 哲学一般

『法の哲学』ノート§272(国家体制、憲法)

ドイツ語の「Verfassung」には、もともと「書く」「記す」「著作」「起草」「体制」、「統治組織」、「心身の状態」、「身体の調子」などの意味もあるらしい。(三修社現代独和辞典)。憲法は英語では、Constitutionである。

高峯一愚氏の訳業になる『法の哲学』(論創社)において、第272節の標題は「一  国内国家体制自体」と訳し出されている。けれども、それでは原語の「Innere Verfassung fuer  sich 」のニュアンスは当然のことながら十分には現し切れてはいない。言うまでもなく、Verfassung は、普通に日本語に訳すのなら、「憲法」と訳し出すはずである。しかし、高峯氏は、ここでは「国家体制」と訳しているから、この日本語訳には「Verfassung」に含まれる「憲法」の意義は現れてこない。したがってこの日本語訳だけを読めば、ここでヘーゲルが「国家体制」だけを論じて、「憲法」についても論じている個所であるということになかなか思い至らない。また、「fuer  sich 」を「自体」と訳すだけでは、国家体制(=憲法)という概念の進展の意味合いが消えてしまう。翻訳の困難なところである。

ドイツ人の観念から言えば、国家体制と憲法は、同じ用語で、同じ概念の「Verfassung」で表現される。そして、ヘーゲルに言わせれば、国家体制(=憲法)が理性的であるのは、国家がその概念の本性にしたがって、自己のうちに区別を規定し、また、そうして区別されたそれぞれの要素を相互に作用しあうものとして自己の中に含んでいるからである。国家体制(憲法)が「概念の観念性」にとどまって一個の個別的な全体を構成するとともに、それぞれの要素もみずから個体的なものでありながら一つの全体を構成しているからである。

言うまでもなく、ここでヘーゲルが念頭に置いているのは、国家のおける三権分立であって、国家権力が必然的に立法権、司法権、行政権へと分割されることに、国家体制の概念の本性の理性的な性格を洞察している。しかし、ヘーゲルの三権分立論は、かならずしもモンテスキュウやカントのそれとは同じではない。それがどのように異なるかは、後に君主権を論じる時に詳しく展開しているが、要するに、ヘーゲルの場合は、彼の「概念」が、普遍性――特殊性――個別性という区別された諸要素に定立されるとともに、それらがまた不可分な活きた統一であるところに特色があるからである。「概念」のそうした理性的なものの見方に対して、抽象的で否定をもっぱらとする悟性は、この活きた統一をバラバラにして、活きた概念である生命や国家を殺してしまうのである。抽象的で否定的な悟性的精神で行われたフランス革命が、結局、立法権と行政権が互いに分裂して争い、やがて崩壊していったことを、ヘーゲルはその歴史的な例として挙げる。

ヘーゲルにとっては、国家とは精神が絶対的な必然をもってみずからを形成した理性的な世界である。そして、ヘーゲルにとって精神は自然よりも高く評価されるから、精神の産物である国家は人類至高の芸術作品とも捉えられ、また「国家は地上の神のように敬わねばならない」とも言う。

ヘーゲルの当時も国家体制については多くの人々によって、無限の饒舌が蝶々されてはいた。ヘーゲルは、それらはいずれも、空虚な饒舌の氾濫にすぎないとして嘆いている。というのは、それらの饒舌はいずれも「生半可の空論」や「宗教的な心情や霊感」から生み出されたものであって、「概念」の展開として哲学の認識の対象になるようなものではなかったからである。それは、当時のカント主義者やロマンティカーに対する辛辣な批判の繰り返しであって、若き日の処女作である『精神の現象学』の中でヘーゲル自身がみずからの哲学を打ち立てる中で展開した批判と同じである。

高峯一愚氏は、また自身の訳注の中で、マルクスのヘーゲル法哲学批判を引用して(どの個所からの引用であるかは不明であるが)、次のように言っている。

マルクスはここで、ヘーゲルの「概念の本性にしたがって」を批判し、「それゆえ、憲法の理性は抽象的な論理であって、国家の概念ではない。憲法の概念の代わりに、われわれは概念の憲法をもつ。このような思想はみずからを国家の性質へではなく、むしろ国をできあがった思想へと導く」という。
(P346訳注)

しかし、概念の本性としての普遍性、特殊性、個別性の諸要素についての思想と論理は、当然にまた国家体制(憲法)の思想であり論理でもあるのであって、その概念の本性にしたがった活動の結果として、三権分立の国家体制(憲法)を合理的なもの、理性的なものと見るヘーゲルの国家観は必然的であり、論理的であり、まちがってはいない。この高峯氏の無批判な引用にも、ヘーゲルの概念観についての、根本的な誤解があると思う。

 

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ソルジェニーツィン氏とサイクリング

2008年08月04日 | 日記・紀行

ソルジェニーツィン氏とサイクリング

ソルジェニーツィン氏が亡くなられたそうである。若い人の中にも、この小説家の名前もすでに知らない人が多いだろう。スターリン時代にスターリンを批判したという理由で収容所に送られ、そこで流刑生活を過ごした。そのときの体験を小説にして、後にノーベル文学賞を受賞することになる。

スターリンを批判したフルシチョフがその後を継いでも、毛沢東中国との軋轢はさらにいっそう激しさを増したし、その結果、アメリカ、中国、ソ連と世界が三国志まがいの様相を呈し始めていた頃である。そうした東西冷戦のはざまにあった私たちの青年の時代に、やがてソビエト連邦の国内外から、体制批判の声が、海外に、この日本までも漏れ伝えられた。ソルジェニーツィン氏らの作品が、地下で人々に回し読みせられていることも報じられていた。

有名無名の多くの体制批判家が輩出する中で、物理学者のサハロフ氏やこの文学者のソルジェニーツィン氏らが代表格ではなかっただろうか。共産主義政治体制という、ソルジェニーツィン氏に言わせれば、「収容所群島」とまで化した政治体制をうち破るには想像を絶する苦難があり、流血もあった。彼らの血と汗なくして今日のロシアもないにちがいない。そして、北朝鮮や中国、アフリカのスーダンなど、私たちに知らされているか否かを問わず、世界の至る所で抑圧政治が現在もなお存続しているといわれている。

東西冷戦のさなかで、ソルジェニーツィン氏のノーベル賞など、政治的な思惑が働いていなかったわけではない。そうした影響の中で『収容所群島』など文庫本で氏の作品も読もうとした記憶はあるが、結局まともに読んだのは、『私のソルジェニーツィン』とか題された、元恋人か元夫人かの女性の手になる作品だった。ソルジェニーツィンとともに過ごした青春の日々や、友人たちとの交流を回想し綴った半ば伝記のような作品だった。彼女が深くソルジェニーツィンを愛していることだけは伝わってきた。

その本の細部はほとんど記憶から失われている。けれども、ただ印象に残っているのは、彼らロシア人たちが祖国の広大な草原で、短い夏の日々の余暇を悠々と楽しんで過ごしているらしいことだった。その女性やソルジェーニツェンら友人たちが、時には哲学的な議論も交わしながらサイクリング旅行を楽しんだ若い日々のことも懐かしく描写していたことを記憶している。

ロシアの夏については、いずれも文学作品からも深い記憶を刻まれている。アンナ・カレーニナなどはアイススケート場の冬の場面もさることながら、草いきれの激しい広大な農地を、農奴たちとともに草刈りに汗を流す光景の描写などを通じて、まだ見ぬロシアの大自然にも親しんだ記憶がある。

そうしたロシア文学の影響を受けた芥川龍之介などには、ロシアの小説家ツルゲーネフやトルストイたちの夏のある日の交友をモデルに描いた『山鴫』という印象深い作品を残している。これも教科書で読んだことがあり、ロシアの夏のイメージに影響している。(『山鴫』)

やがて生活の中にサイクリングをはっきりと位置づけて、自分の頭の片隅に意識的に少しでもそれを刻むきっかっけになったのも、たぶんその頃に彼女とソルジェニーツィンの伝記を読んでから以降のことだったように思う。もちろん、自転車そのものは二十歳代の頃から使い慣れていたし、吉田川端のアパートから出雲路橋のたもとまで通って行くときも、青年時代以降も自転車から離れたことはない。車を持ってからも自転車は手放したことはない。その中でもやはり懐かしく思い出すのはのは当時に私が乗っていた自転車で、後輪の脇に籠が取り付けられてあった。最近はこういうタイプの自転車は見なくなったけれども、若い頃の記憶とともによみがえってくる。いつ処分したのかすらももはや思い出せないけれど。

たまたま昨日、自転車を新しく手に入れて、嵯峨野の広沢の池から嵐山をめぐって走ってきたばかりである。最近は変速機もずいぶん進歩しているらしく、スピードもよく出る。自転車は今もなお、お気に入りの乗り物である。ただ、道楽家でもないから、自転車に凝るつもりはなく、少しはスポーツタイプにはなったけれど、これまで私の乗ってきた普通のありきたりの自転車でしかない。それで十分である。

それにしてもロシア人やヨーロッパ人の夏の休暇の過ごし方などを伝え聞くと、人間にとって本当に豊かな暮らしとはどういうものだろうという思いもする。その一方で、日本車の販売台数がアメリカでGMなどのビッグ3の総計を超えたなどというニュースを聞くと、複雑な思いになる。

久しくマスコミのニュースから消えていたソルジェニーツィン氏の動向について、記事を眼にしたのはほんのつい一週間ほども前だった。氏が過去の自分の作品の推敲や集大成に専念しているというニュースで、ソルジェニーツィン氏の健脚ぶりを想像していたばかりである。だからニュースをとくに記録しておくという気にもならなかった。それなのに、今日ふたたびソルジェニーツィン氏の名前をネット上に読んだとき、それはもう帰らぬ人の名前としてであった。そして、その名はいつもサイクリングとつながっている。きのう嵯峨野を走っているころ、氏はこの世を後にしていたのかも知れない。享年八九歳だという。

 

 

 

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群衆と国民

2008年08月02日 | 教育・文化

戦後の日本国憲法の制定の過程で、民主主義とか国民主権という観念も普及していった。その過程でこれらの言葉は、流行語のように、また時には「反動勢力」を黙らせるために、「黄門さまの印籠」のように遣われたこともあるようだ。

テレビなどでジャーナリストや政治家が「国民」とか「国家主権」とかを口にするとき、その多くの場合、彼ら話し手の考えている頭の中の、その言葉の実体といえば、それぞれが勝手にイメージした曖昧で漠然とした観念である場合が多い。それは「国民」と呼ばれてはいるけれども、多くの場合曖昧で抽象的な単なる表象にすぎず、その「国民」なるものは「群衆」と区別がつかない。

しかし、それでは「国民」とは実体のない陽炎のようなものか。
そうではないと思う。それは私たちが海外に出るとよくわかる。パスポートなくして海外に出ることができないように、諸外国との関係においてはじめて個人は「日本国籍」を持った「日本国民」の一人として、そのアイデンティティー(身分証明)が明らかにされるのである。外国との関係においてはじめて各個人は、日本国を日本国として自覚し、一個の有機的な組織体としての国家の一員として、「国民」として自己を自覚するようになる。

要するに「国民」という観念は、国家と切り離しては考えることのできない概念なのである。またパスポートに菊花紋章の刻印があるように、少なくとも日本国憲法の場合、天皇や皇室との関係が自覚されている。たとい、その位置づけは「象徴」として哲学的には極めていい加減な規定しか行われていないとしても。そして、この関係を自覚するとき、そのときはじめて各個人は、群衆の一人としてではなく、「日本国民」の一人として自己を自覚するようになる。国家意識の希薄な戦後の日本人が、倫理なき群衆の一人としてしか自己を自覚できないでいるのもやむをえないといえる。
 

 
 
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おとこえし

2008年08月01日 | 日記・紀行

おとこえし


八月に入る。今日から八月。この頃は七時をすぎても、まだ薄墨のように明るい。光明寺の前を散策する。寺の門はすでに閉じられている。女性が、正面に立って遠く本堂に向い祈りを捧げていた。

寺の脇を通り抜けようとすると、男郎花が咲いていた。確かそうだと思う。しかし植物の知識に詳しくないから確信はもてない。

そういえば昨年の秋は、野原のどこかで女郎花との出会いを期待していたはずなのに、叶えられなかった。撫子にも出逢えなかった。それなのに、今年の夏は、人里の中、思いもかけないところでオトコエシに出会う。ただ、やはりオミナエシだけは秋深く人里遠くひっそりと眺めたいと思う。

このあたりまで来るとやはり二三度は気温も下がるのだろうか。青田の向こうから流れてくる風もさわやかに感じる。ヒグラシの鳴き声もすでに耳につき始める。

                          


今日、突然と云ってよいと思うけれど、福田内閣の改造人事があった。改正か改悪か私にはよくわからない。しかし、与謝野馨氏や野田聖子氏を閣内に入れたことからもわかるように、かっての小泉「改革」路線からの決別は明確にし始めたようである。しかし、いずれにしても小さなことである。類は友を呼ぶ。小粒がトップでは改造は到底おぼつかない。長期的かつ個人的には、日本の政党政治が、自由党と民主党に再編されて行くことを期待している。

 

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