作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

政治文化について

2005年07月31日 | 政治・経済

 

イラクの自爆テロが相次いで起きている。現地の治安が回復しているのか、それとも一向に改善が見られないのか、正確な情報がないのでよくわからない。

ただ言えることは、民主的な制度や国家体制を、そのような伝統がもともとないところに移植することの難しさである。アメリカがイラク戦争の「終結宣言」に際して、太平洋戦争後の日本の民主化をモデルにすると言っていたが、現在のわが国の民主主義の現状も、きわめて、お粗末ではあるにしても、まだわが国には、明治の自由民権運動や大正デモクラシーなどの「伝統と実績」が多少なりとも存在した。だからこそ曲がりなりにも最低の体裁だけは保持できたのである。

 

イランやイラクなどのイスラム教を宗教とするアラブ諸国では、そのような伝統や実績が存在するのだろうか。同じイスラム国でも、トルコのケマル・アタテュルクのような開明的な指導者が現れて、国家と宗教の分離を促進させた例もある。近現代国家の特質は、国家を宗教から解放するところにあるのに、今のイラクではイスラム教の取り扱いをめぐって憲法草案の起草で難航しているそうである。イスラム教の頑迷な保守派は、もちろん、その意識の中に「宗教改革」を経験しておらず、したがって、彼らには国家と宗教の分離と言う意識は存在しない。

 

本来、真の民主国家の前提には、「宗教改革」を国民や民族が体験することによって、国家と宗教の分離が国民に自覚されている必要がある。しかし、宗教改革を主体的に体験することのなかった、アラブ諸国や日本のような民族には、事実として、常に宗教と国家の関係が吹き出物のようにその膿が出てくる。宗教改革を体験しなかった民族や国民の間では、政治の世界においても、宗教と国家の分離と言う意識に達せず、そこに、自由と民主主義を定着させる困難がある。

 

自由は貴重なものである。イラク国民の多数は、まだ、その自由の意識に到達していないのかも知れない。そうした国民や民族にとっては「自由」や「民主主義」といっても、それは「猫に小判」「豚に真珠」なのだろう。彼らが、それを求めるようになるには、2,3百年早いのかも知れない。イラク国民の大多数が心底自由と民主主義を欲求するようになるまで英米軍や日本軍が撤退するのが現実的な選択なのかも知れない。

 

国民や民族が宗教改革を経験せずに、自由な民主国家を建設することが難しいのは、イランやイラクに留まらず、戦後60年を経た日本も同じである。現在問題になっている小泉首相の靖国神社問題もその一つである。小泉首相は、彼の意識の中では、国家と宗教の関係については、きわめて、無自覚で本能的な水準に留まっている。現代国家の指導者として、思想的に未熟だといわざるを得ない。

 

その結果、中国に対して、内閣総理大臣としてではなく個人の信仰の問題として小泉首相は反論できない。中国の批判が、信教の自由を侵害するものであることを反論できない。国家と宗教(共産主義)が完全に癒着している中国のような独裁国家が、小泉首相の靖国神社参拝を非難すると言うのは、それこそ、目くそ鼻くそを笑うの類で、まったくの笑い話、喜劇である。中国がそれを批判する資格を持つには、まず自国の国家と宗教(共産主義)の分離を実現してからのことである。

 

小泉首相は、善意の靖国信者と言うべきであって、国家に対して自己を犠牲にした兵士たちを畏敬しなければならないというそれ自体としては正しい意識が彼にはある。ただ、彼の意識のなかでは国家と宗教の関係が理論的に整理されていない。そして、これは何も小泉首相に留まらず、この点では日本国民の大部分と意識を共通にしている。この国民あってこの指導者ありと言うべきか。

 

そして、小泉首相よりももっとひどい前近代的意識の持ち主が、河野洋平氏や中曽根康弘氏、宮沢喜一氏らである。彼らは、中国の批判の尻馬に乗って、小泉首相に靖国神社の参拝を自粛するように進言さえしている。このことによって、これらの政治家が信教の自由という、現代国家の根本的な要請さえ理解していない非近代的意識の持ち主であることを証明している。こうした政治家が国会で多数を占めているのが、わが国の「民主主義」政治文化の現状である。

 

中国からの靖国神社参拝批判があったからには、むしろ、断固として、小泉首相は靖国神社に参拝しなければならない。それによって、中国の独裁的な指導者に、日本が完全な自由主義国家でもあることを証明しなければならない。

 

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テロに耐えるイギリス

2005年07月22日 | 日記・紀行

 

今朝、起きて机に向かうと、窓の外から蝉の鳴き声が聞こえてきた。これまでも鳴いていたのかも知れないが、気づいたのは初めてである。梅雨が明け、本格的に夏が来たということだろう。

ロンドンでは、昨夜もテロ騒ぎがあったらしい。しかし、イギリス国民はいたずらに動揺することはない。この国は、かって共産主義の流行にもかぶれることなく立憲君主制を堅持し、ナチスドイツの攻撃にも、チャーチルを筆頭に撥ね返した。ピューリタンの伝統を今もしっかりと保持している。

それにしても、イスラム原理主義者の狂信はどうしようもない。彼ら自らの残虐さとその非道義によって自滅する道が残されているのみである。

イスラム教が原理的に狂信的な性格を持っていることは、すでにヘーゲルが哲学的に論証していた。

昨日は、『民主主義の倫理観と人間観──より良き民主国家の建設のために』と題する小論をブログに載せる。以前、せいろん談話室に投稿したものを、再度まとめたものに過ぎない。新しいイデアは少ない。

今日も暑くなりそうである。昼頃に、一度湯を浴びるつもり。

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梅雨明ける

2005年07月19日 | 日記・紀行

梅雨も明けて、いよいよ夏本番が来る。とくに変わったこともなし。

政治の話しとしては、郵政法案が参議院で通過できるかどうか、日本が国連の常任理事国になれるかどうか、そして、北朝鮮、東アジア関連では、六カ国協議の再開が決定されたことなどがある。

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祇園祭り宵山

2005年07月17日 | 日記・紀行


きのう久しぶりに祇園祭り宵山を見た。何年ぶりだろう。去年も行こうと思えばいつでも見れたのだが、私にはもう珍しいものでもないので昨年は来なかった。

今年は、たまたま近くにまで来ていたので、散歩がてらに四条通界隈まで歩いて行くことにした。

七条新町をまっすぐに北へ東本願寺の土塀を眺めながら歩いて行くことにした。たしか、昔私が働いていた事務所が新町通りにあるはずだった。しかし、それが松原より上だったか下だったかはすっかり忘れていた。注意しながら歩いて行ったのだが、見落としたのか確認することができなかった。

五条通を北に、しばらく歩いて行くと、いくつかの山車に出くわした。記憶に残っているは、岩戸山、船鉾、傘、太子山、それに木賊山である。鉾が見え出すと、すっかり人ごみの中に入ってしまい、思い通りに前に進めない。見知らぬ男の二の腕の汗と接触して気持ちが悪い。どこからこんなに人が沸いてくるのだろうかと思う。

時間は七時を少し回っていたが、すっかり、出店は開いていて、焼き鳥、金魚救い、扇子売り、やきそば、たこ焼き、鮎の塩焼き、焼きとうもろこし、ビールなどの夜店は盛況だった。電灯はすっかり灯されているが暮れてしまっているわけではない。夏の七時頃はまだ明るい。薄暮の空に、半月が浮いている。

途中、太子山で、十人ほどの子供たちが山車の上に正座して、聖徳太子の賛歌を朗誦しているところに出会った。子供たちの詠唱の声が可愛い。その意味は良く聞き取れなかったが、聖徳太子の遺徳がこうしていく世代にもわたって語り継がれて来たのだろうと思った。

浴衣を着た女の子たちも多く見たが、その化粧の様子や茶髪や、表情などを見ながら、浴衣姿は可愛いがもう本当の大和撫子はほとんどいないのだとも思った。戦前にはしっかりと存在した奥床しさを秘めた日本婦人の印象を残した女性に出会うこともほとんどない。私はもう異郷の世界を歩いているような気持ちにすらなった。

団扇、風鈴、山車、扇子、浴衣、ちょうちん、金魚掬いなど一見日本的な情緒には事欠かないのだけれども、本当の日本女性の面影を持った人に出会うこともなかったゆえか、本来の伝統が持つ神秘感は失われて、ただ商品化され植民地化した表面的な美しさだけを感じる。なるほど精神的には私は異邦人なのか浦島太郎か。(? 。?)前にも、どこかで書いたが、日本にはもう大和撫子は存在しない。もしいるとすれば、それは、キリスト教婦人から生まれると。また、大和撫子はそんなに浅薄であるはずがないと。(それにしても、私のキリスト教への思い入れは相当深いようだ。狂信的?└(^0^)┘)

なぜ、こんなことを言うのかというと、本当のキリスト教は女性を精神的に深めるし、内面的な美しさもそこに現われるから。宗教の種類が、結局人間の精神構造を、意識のあり方を根本において規定すると私は考えているから。だから美人は滅多には出会わない。私のような意識は希少である。それは良くわかっている。

そして、人ごみの中を歩きながら、私の精神的な根拠が、やはり、聖書にあるということを自覚させられるように何となく感じたことだった。青年時代から、聖書を、良かれ悪しかれ、とくに詩篇などを愛読してきた私は、恐らく、現代日本人の多くとは、精神構造が異なってしまっているのだ。そして、私はそれでよいと思っている一方、「我が偏見」を反省することも考えている。

百年後二百年後あるいは、五百年後には、日本もキリスト教化されて、私と同じような精神構造を持った日本人が、普遍的になっているかも知れない。もちろん、そうでないかも知れない。それはわからない。それにしても、戦後の日本人の精神構造は、すっかり変わってしまったのだ。

それに、私は個人的には哲学には従事したくは思っても、キリスト教の伝道など私の仕事ではないと思っている。私のキリスト教観は、特異なのかも知れない。まだそれは今のところ良く分からない。

祇園祭の囃子の音を背に聴きながら、こんなことを思いつつ祭りを後にした。私の立場と現代日本観はこんなところだというべきか。

 

 

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図書館の利用

2005年07月15日 | 日記・紀行

 

昨日久しぶりに近所の図書館へ行った。主な目的は、ハンチントンの『文明の衝突』とフランシス・フクヤマの『歴史の終焉』を借りるためである。この二つの本はもうとっくの昔に出た本であって、いまさらと言う感じがしないでもない。しかし、たとい遅まきながらでも、世評に上った本でもあるし、歴史問題や、今日の世界情勢を見る上で興味も持てそうなので、借りに行った。

ハンチントンの『文明の衝突』はすぐに見つかったが、フクヤマの『歴史の終焉』はなかった。誰かが借り出しているためにないのではない。在庫としてないのである。これほど、世評に上った本を、我がX市の公共図書館では誰一人読もうとしなかったということなのだろうか。

 

今日は第三章まで読む。書評も書いておくつもりである。ヘーゲルの『歴史講義』を読み慣れた眼からすると、地理的な国際関係論としての諸文明関係論としては、そこに内在する歴史的理念を認識しようという問題意識がないように思えることである。この点については、フクヤマの方が、深そうである。

 

いずれにせよ、西洋人は文明論や歴史論が好きである。そうして、実際、名著愚著を織り交ぜて、毎年こうした文明論、歴史論の刊行される欧米の学界に教養の伝統を感じもする。わが国も、多くの文明論歴史論の刊行されることを望む。 その100冊の中から、一冊の名著が得られれば幸いである。

 

結局、『歴史の終焉』は取り寄せを依頼して、そのほかに、田中直毅氏の『市場と政府』、それにポール・クルーグマンの『嘘つき大統領のデタラメ経済』の二書を借り入れて帰る。後者は原題は『THE GREAT UNRAVELING  Losing  Our  Way  in the New Century 』である。何と言う表題をつけるのだろうかと思った。それを認める訳者も訳者である。内容は、ニューヨーク・タイムズに掲載されたコラムの編集である。

 

 

 

 

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文明論

2005年07月13日 | 日記・紀行
チャンネル桜で『国民の文明史』発刊記念シンポジュームのビデオを見る。発言者が西尾幹二氏や中西輝政氏らが登場する、いずれも一家言を持った学者たちの発言する、充実した内容のシンポジュームであった。このビデオを見るまえに、『反日アジアと憲法問題』という番組を見たが、やはり、発言者の思想的な力量が、討論や議論の水準を規定するものであることを実感した。
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平穏無事

2005年07月12日 | 日記・紀行

早朝はかなり激しい雨だった。十時過ぎにはあがり、晴れ間も見えた。 


昨日は、この日記を書くことが出来なかった。今日補足しておく。「概念について①」を書く。「概念」について、考察し始める。哲学論文を書いて、発表して行くこことは、このサイトの目的の一つでもある。

本日は、以前に書いた小論文「民主主義の人間観と倫理観」という文章を、関係のブログに転載する。今日は、新しい文章は書けそうにない。のち

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議論の仕方

2005年07月09日 | 日記・紀行

 

先日、私のブログで「文明の質」というテーマで、小論を書いて投稿したところ、匿名の方から

 

というコメントをいただいた。私の文章の内容が、数億人のイスラム教徒の名誉を毀損しているというご批判である。

私としては、諸宗教の事実を客観的に考察して、事実と思ったことを書いただけなので意外だった。確かに、一般的にパレスチナ人の生活水準は、イスラエル人より低いというのは事実であるとしても、それを聞かされる方は、何らかの屈辱を感じるかも知れない。その点で配慮が足りなかったかも知れない。

なるほど、私はイスラム諸国に旅行したことも、身近にイスラム教徒の知人がいるわけでもない。不特定多数のマスコミなどからえられる情報から、蓋然的に推測される論理的事実を書いただけである。それらの情報から得られる情報を、私が「客観的な事実」であると判断して、そこから推論して、その因果関係を、論理を推測して考察しただけである。

改めて、宗教批判のデリケートな問題であることを実感した。とくに、昨日もロンドンでテロ行為があったばかりである。ただ、この文書の中に書いたように、個人的に「イスラム教」を決して毛嫌いしているわけでもない。チャドルやスカーフも嫌っているわけではない。優雅にさえ思っている。大多数のイスラム教徒が信仰しているようなイスラム教には好意をもっているとさえ思う。私はイスラム教に偏見を持っているとは思はない。ただ、昨日ロンドンで「イスラム教徒」の名前を騙ったテロ事件が起きた。私が反対しているのは、そうした「テロ事件を肯定するイスラム教」である。

宗教を社会的な事実として考察したとき、私の小論で述べたような事実は該当しているのではあるまいか。もちろん、この匿名の方のように、それが、事実でないと判断し、反論なさるのは、自由である。私もまた、自分の判断を絶対的な結論として圧しつける考えはまったくない。これからも、私は一つの見解として──もちろん、私はそれを正しいと信じている──表明して行くに過ぎない。

また、万が一、私の考えに同意してくれる人がいるかも知れない。しかし、他者の同意の有無、賛否が問題ではない。あくまで、書かれている内容がどこまで論理的に正確で、どのレベルで論証されているか、今後とも、ただそれだけを問題にして行きたいと思う。実際の政治の世界は、民主主義は多数決で決定されるが、科学は、論理であり、論証であり、必然性の説明だけが命だからである。

私の文章のどの点が無責任だというのか、具体的な文脈を指摘して批判していただければありがたかったと思う。それが無いために、私はまだ、自分の考えを訂正する必要を感じないでいる。

 

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七夕の宵

2005年07月07日 | 日記・紀行

 

今日は七夕の日。子供の頃、笹飾りを作って、近所の人たちと淀川にまで流しに行った時の記憶が懐かしくよみがえる。子供の心の世界は分裂を知らず、この世で天国を生きている。

 

残念ながら、夕方から雷をともなったかなり激しい雨。六時ごろには止んだが、天の川は眺められそうにもない。七夕という言葉から、伊勢物語の中で業平が、昔、交野で詠んだ歌を思い出した。今の枚方市に「天の河」という地名があるらしい。つい眼と鼻の先に暮らしていながら、全く疎い。

 

  狩り暮らし、たなばたつめに、宿からむ、天の河原に、我は来にけり

 

八十二段の渚の院の桜に因む話。

渚の院とは、水無瀬にあった惟喬の親王の離宮で、惟喬の親王はよくここに出掛けて狩をされたことが伊勢物語に記されている。皇子は業平をつねに伴われた。今も阪急京都線に水無瀬駅があり、我が家からも近い。

曇り空の今宵、部屋の中で、業平のこの「たなばたの歌」についての小論を書いて、七夕の記憶にする。

 

 

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「デイープインパクト」の衝撃──文明の質

2005年07月06日 | ニュース・現実評論

 

先日、アメリカ航空宇宙局の宇宙探査機「ディープ・インパクト」から発射された銅製の衝撃弾がテンペル第一彗星の衝突したという報道があった。イラク戦争に苦悩しているアメリカと、その一方で、宇宙の起源を追及している科学技術大国のアメリカの歴史的な使命あるいは宿命について、その戦争相手国である、イラク、イラン、そして北朝鮮、および、かって敵国であった大日本帝国の文化文明とを対比比較しながら考えた。アメリカのキリスト教文化圏とイスラム教文化圏、儒教文化圏などとの文明の質の差違を考えさせられる。国民や民族の文化文明の根本的な質を決定するのは、宗教ではないかという思いが強い。

 

残念ながら、日本はアメリカの科学技術には、枝葉末節はとにかく、根本的な点ではまだ追い抜くことができないでいる。「アメリカに死を」と叫んでいるイスラム教徒も、公平に見て「自由」と「科学技術」の水準においてアメリカには足元にも及ばない。イラク国民も早く民主主義を認めて、戦争ではなく、科学技術でアメリカを追い抜くことに集中すれば良いのにと思う。アメリカに向かってこぶしを振り上げているイラクやイランの国民の様子が、戦前の日本とダブって映る。その印象を書き残す。

 

久しぶりに、小論理学を読む。「現実」や「哲学」などの二三の項目を、辞典にアップする。明日は七夕。

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