作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

西行歳暮和歌七首

2014年12月31日 | 日記・紀行

西行歳暮和歌七首

題しらず

567
山ざくら  思ひよそへて ながむれば  木ごとの花は  ゆきまさりけり

 

仁和寺の御室にて、山家閑居 見雪といふことをよませ給ひけるに

568
降りつもる  雪を友にて  春までは  日を送るべき  み山辺の里


山家冬深

569
訪ふ人は  初雪をこそ 分け来しか 路とぢてけり   み山辺の里

570
年のうちは  訪ふ人さらに  あらじかし  雪も山路も  深き住処を


世を遁れて、鞍馬の奥に侍りけるに、筧氷りて、水もうで来ざりけり。春になるまでかく侍るなりと申しけるを聞きて、よめる


571
わりなしや 氷る筧の水ゆゑに  思い捨ててし  春の待たるる


みちのくににて、年の暮れによめる

572
つねよりも  心細くぞ 思ほゆる  旅の空にて  年の暮れぬる

山家歳暮
573
あたらしき 柴の編戸を  たてかえて  年のあくるを 待ちわたるかな

今年もこの拙いブログに訪れてくださった皆さん、どうか良き新年をお迎えくださいますよう。

 



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12月25日(木)のTW:属国漬けの平和ボケ戦後民主主義者

2014年12月26日 | ツイツター

今の自民党には、井上毅クラスの人材はいない。下手に憲法を「改正」するくらいなら、むしろ手をつけない方がいい。池田信夫「自民党の改正案は参議院にまったく手をつけない。これでは改正する意味がない。」【憲法改正は「大改革」ではない】
ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51923…


平和ボケした戦後民主主義者の池田信夫氏には自立した国家を追求するという観点がない。安部首相にあって池田信夫氏に欠けているのはそうした倫理的な根幹だ。池田信夫「安倍氏も平和ボケの左翼も批判しているが、それは何と平和で豊かな属国だろうか。」ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51923…


アメリカに盲目的に追随する戦後民主主義の習性を考え直そう。太平洋戦争もアメリカが日本を侮辱することから始まった。大日本帝国政府にも理はある。 「北朝鮮元首に対する侮辱映画・・・アメリカはなんでも正しいのか? 」: 武田邦彦  takedanet.com/archives/10163…


まるで西洋人の侍だな。Ogawa Ryu - (english) Special Class - 守護人 Shugonin 居合術 と 抜刀術 - with Shid...: youtu.be/qf4bOG57wxA?li… @YouTubeさんから


 
 
 
 
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12月24日(水)のTW:クリスマス、ノエルNoël

2014年12月25日 | ツイツター

Facebookのアルバム「ノエル」に写真を6枚アップロードしました fb.me/3Wk76tNbE


クリスマス・イブ、おめでとう。Enya - Oíche Chiúin (Silent Night with Lyrics): youtu.be/MeDG9eyFj_4 @YouTubeさんから.


「クリスマス・イブ」昨夜、ラジオの深夜便を聴いていたら、アンカーの村上里和さんがクリスマスイブだということで、エンヤの「清しこの夜」を紹介していました。ケルト語で歌われているとのことです。潔らか... goo.gl/adWdrW


「クリスマス・イブ」昨夜、ラジオの深夜便を聴いていたら、アンカーの村上里和さんがクリスマスイブだということで、エンヤの「清しこの夜」を紹介していました。ケルト語で歌われているとのことです。潔らかな声です。 fb.me/76InMvZ8Z


 
 
 
 
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クリスマス・イブ

2014年12月24日 | 日記・紀行

 

Enya - Oíche Chiúin (Silent Night with Lyrics)

クリスマスイブ


昨夜、ラジオの深夜便を聴いていたら、アンカーの村上里和さんがクリスマスイブだということで、エンヤの「清しこの夜」を紹介していました。ケルト語で歌われているとのことです。潔らかな声です。

早いもので今年ももう終わりです。残念ながら大した成果なく今年も終わりそうです。今年お世話になった方、失礼とご無沙汰に終った方々にお礼とお詫びをかねて、クリスマス・イブのご挨拶を送ります。クリスマスおめでとうございます。



「そこで、イエスは群衆の中から、彼一人を引き出し、その男の耳に指を差し入れ、つばを吐いた手でその男の舌に触れられた。そうして、イエスは天を仰ぎ、深くうめきながらその男に向かって、エファッタ、と言われた。開け、という意味である。たちまち男は聴こえるようになり、どもっていた舌はなめらかに話せるようになった。」

 (マルコ書 7:33ー34)

 

 

 

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12月23日(火)のTW:人間の宿命としてのバイアス

2014年12月24日 | ツイツター

すべての人間はバイアス(偏見)を もって物事を見る。それは、人間は誰もが特定の言語をもってしか思考できないことにも現れている。池田信夫氏は自分自身のバイアスには無自覚である。【池田信夫 blog : 朝日新聞の「角度をつける」報道】 ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51923…


指導者の Jordan Augusto さんは、どこで誰から受け継いだのかしら? fb.me/79JxZC80B


物事を先入観なくして、白紙で見つめることの難しさ。どちらの見方、説明が正しいのか、今のところ分からない。京都大学の霊長学者は、この「善意の解釈」とはまったく逆の解釈をしています。「人間性悪説」に通じる見方です。NHKのニュース9でも報じていました。意識を失った猿を助けようとしているのではなく、「水に落ちた犬」を叩くように、弱った猿に対して攻撃しているということです。 fb.me/2HU8fj4BZ



 
 
 

※追記20141224

もし上の記事で京都大学の霊長学者の指摘の方が正しいとすれば、NHKはとんでもない誤報を垂れ流していることになります。報道内容の真実は、どのようにして保証され検証されるべきか、という問題にもなります。そのバイアスはどのようにして作られ、どのように人々に共有されてゆくかの事例。

認識論としては、現象の総体の中から真実が浮かび上がってくるということでしょうか。情報公開、言論の自由の決定的な重要性はこうした例からも明らかでしょう。インターネットなども可能な限りの自由化が求められるのもそのためです。

南北朝鮮や中国共産党などの情報統制が、どれほど歪な結果をもたらすかを考えれば、自由な政治体制の選択がどれだけ大切かも分かります。
 
 
※追記20141225
 
リンクした記事が切れるかもしれないので、一応記録しておきます。
 
ニュース詳細

インド 感電した猿を仲間が懸命救助

12月21日 17時47分
インド 感電した猿を仲間が懸命救助

インドで電線に触れて感電し意識を失った猿を助けようと、仲間の猿が懸命な救助を行い一命を取り留めたことが英雄的な行為だとして話題になっています。

インド北部の都市、カンプールにある鉄道の駅で20日、電線に触れた猿が感電して意識を失い、線路に倒れ込みました。
すぐに仲間の猿が駆けつけ、倒れた猿の意識を取り戻そうと、頭や首にかみついたり、体を激しく揺り動かしたりしましたが、倒れた猿はぐったりとしたままです。
さらに、仲間の猿は、意識を失ったままの猿の体を抱え上げ、線路脇の水の中に投げ込んで目を覚まさせようと必死で体を揺さぶります。
一見、乱暴に見える行為ですが、懸命の救助の結果、20分ほどたって猿が意識を取り戻すと、救助に当たった仲間の猿は優しく背中をさすっていました。
駅のホームに集まった人たちは猿の行動に大きな拍手を送り、現地のメディアは「英雄的だ」とか「思いやりがあるのは人間だけではない」などと取り上げ、インドで大きな話題になっています。

 

 

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12月22日(月)のTW:風の流 小川派 など

2014年12月23日 | ツイツター

「12月21日(日)のTW:内田樹氏に対する池内恵氏の批判」上の私の FACEBOOK 経由のツィッターだけでは、私の判断が全くに逆さまに受け取られ... blog.goo.ne.jp/askys/e/887953…


「12月21日(日)のTW:内田樹氏に対する池内恵氏の批判」上の私の FACEBOOK 経由のツィッターだけでは、私の判断が全くに逆さまに受け取られかねないので、念のために追記しておきます。私は、戦後民主主義者の内田樹氏の論考に... fb.me/6T0g5wiaV


欧州武芸連盟の投稿動画を見るたびに感心する。彼らはもっとも正統に日本の古武術を継承しているようにもみえる。 fb.me/7eaaNiwg7


侍の伝統は小川流にも脈々と受け継がれている。 fb.me/6ZxYmnv6h


Facebookのアルバム「雪の日」に写真を3枚アップロードしました fb.me/1wq1LufRG


新しい写真をFacebookに投稿しました fb.me/3YtDJCtFK


 
 
 
 
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12月21日(日)のTW:内田樹氏に対する池内恵氏の批判

2014年12月22日 | ツイツター

僭越ながら、私も同感であります。 fb.me/1SYYCihIo


 
※追記20141222
 
上の私の FACEBOOK 経由のツィッターだけでは、私の判断が全くに逆さまに受け取られかねないので、念のために追記しておきます。私は、戦後民主主義者の内田樹氏の論考に共感したのではなくて、内田樹氏に対する、池内恵氏の「批判」に同感したのです。念のために、内田樹氏の論考と、それに対する池内恵氏の批判を記録しておきます。さすが東京新聞というべきか。(^-^)
 

<衆院選を終えて>「カネ優先」見直す時 思想家・内田 樹氏

写真

 有権者の二人に一人が棄権した衆院選。結果は自民党が二百九十議席を獲得し、「一強」の時代が続くことになった。私たちはこの時代をどのように受け止めて生きていくべきなのか、識者に意見を聞いた。

 今回の選挙で有権者が示した判断は、判断しないということでした。ある人は経済が悪くなったと言い、自民党は良くなっていると言う。どちらが本当か分からない。だから、判断を保留した。いずれ判断するけれど、今は中腰(ちゅうごし)の姿勢で見ているという感じです。

 結局、有権者数を分母にした全国の比例代表の得票数でみれば自民党は千七百七十万票で、17%にすぎない。それを圧勝というのはおかしい。戦後最 低の投票率も「安倍政権の結果が出るまでもうちょっと待とう」と大きな変化を望まなかったせい。世の中を変えたいと思えば、若い人たちも投票するわけです から。

 自民党は「争点はアベノミクス」と言った。要は経済成長すればいいんでしょう、と。有権者の多くも最優先事はカネだと同意した。ならば結論は簡単で、国を株式会社みたいに管理運営すればカネがもうかるようになりますよ-となる。

 国を株式会社化するのに民主主義は邪魔です。独断で早く決めて、早く結果が出るのが好ましい。株式会社のサラリーマンのそんなマインドが国民に共有されてきている。それがトップダウン好きの安倍さんとマッチして急速に強権的な政治が定着してきています。

 いわばワンマン社長のような安倍さんですが、その政権は戦後最も危険だと思います。自民党の改憲草案では、首相が緊急事態を宣言すれば、憲法を停 止する形で事実上の独裁が可能になる。集団的自衛権も米国が要請すればですが、中東で米軍の戦闘行為の下請けのようなことをやる。人を殺したり殺されたり して、結果的に国内外でテロの標的になって民間人が殺傷されるということは起こりえます。

 日本の戦後七十年の民主主義の政体を根本から変える問題です。安倍さんはそれを語らず争点隠しをした。逆から言えば、何をしようとしているか分 かった段階で国民の支持が失われるのを彼らは知っている。最後までウソをつき、だましながら、ひそかに実現できるのか。安倍政権が抱える最大のジレンマで す。

 私たちにできるのは、カネ以外のことを考えてみることです。カネもうけを考えると、原発を動かすとか、武器輸出しようとか、戦争やろうとか、カジ ノ呼ぼうという話になる。かつて皇軍無敵と言い続けたように経済成長を追い求めるプランもあるけれど、経済成長なしでも生きていけるプランBも用意しない と。

 日本国は倒産しましたのであとは勝手に生きてください、とはいきません。「grow(グロウ) or(オア) die(ダイ)(成長か死か)」 じゃ駄目なんです。経済成長なき世界での「how(ハウ) to    (トゥ) live(リブ)(どう生きるか)」を問うべきときではないでしょう か。

  (聞き手・辻渕智之)

<うちだ・たつる> 神戸女学院大名誉教授。思想家、武道家。専門はフランス現代思想。近著に「街場の戦争論」。東京都大田区出身。64歳。

※東京新聞2014年12月18日 朝刊電子版 http://goo.gl/rwElpS

 >><<

上記の内田樹氏に対する池内恵氏の批判は次のようなものです。

 >><<

や れやれ。こういうものを「思想」と呼んでいるうちは、日本のメディアは3流以下。「思想」というものを勉強している人間として、本当に許せない思いだ。大 学で勉強している人は、こういう独りよがりのオッさんが実際に世の中を動かしている面はあるから、そういう人たちをどうにか出し抜いて生きて行くhow to liveを身につけるために頑張りましょう(ニコッ)。しかし国民は金儲けを選んだんだから、それなら国を株式会社すればいい、、、て論理が無茶苦茶で しょ。誰もそんなこと言っても考えてもいませんよこの人以外。でも、そういう浅ーく無茶なことを言うのが「思想」だということになっているのが日本スタン ダードであることも確かだ。恥ずかしい。これではまともに考える能力がある人は「思想」家にはならんよ。だって一緒にされたら恥ずかしいもん。これでは 「文系学部は廃止」とか「新聞は読まない」と言う人が多数になるのも時間の問題、というかもうそうなっているんだろう。本人も記者も惰性でやっているんだ ろうけれどもね。若い雑誌記者が話を聞きに来て、「一体どうやったらそういう話になってしまうんですか」というところをこっちから取材していたら、こうい うタイプのオッさんが編集部の上にいてそういう誌面になってしまう、、、ということを記者が愚痴り、しまいには「言い方は悪いが、『情弱』のために紙の媒 体は作られている面がある・・・」とつぶやいたのを思い出した。送られてきた誌面は確かにそういうものになっていた。「若者」の閉塞感はこういう自称反体 制のオッさん言論権力者が作っているということを、こういう御仁と取り巻きは自覚することはないんだろうなあ。それで食っていけるから。まさに「カネ優 先」はこの人たちだ。日本の若者は優しいから、社会のあらゆるところにいるこういう独善の権力者を叩き斬らないからな。

 
※出典 池内恵 「やれやれ、こういうものを思想と呼んでいるうちは……」
     http://goo.gl/gykCph
 
 
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12月19日(金)のTW:汝の道を行け、人には言うにまかせよ!

2014年12月20日 | ツイツター

民主主義の人間観と倫理観──皇室と民主主義 fb.me/3WUaX0YLh


「民主主義の人間観と倫理観──皇室と民主主義」 fb.me/1xmNuecG8


欧米のメディアに対しても、国際社会の認識のギャップに対しては、何が真実かを「論争」を通じて日本は根気よく謙虚に主張してゆくだけである。外務省もこれまでのような無能、不作為は許されない。【日本側の主張が米メディアに届いていない】 j-cast.com/2014/12/182236…


オバマ大統領の安部晋三首相に対する「右翼」のレッテル張りの偏見と誤解は、これまでの何度かの直接の首脳会談を通じて、かなり溶け始めたようだ。しかし、当初のオバマの安部「右翼」の偏見はひどいものだった。だが、未だ欧米メディアの安部首相「右翼」の誤解と偏見は解決されていない。なぜか。


朝日、毎日、東京、NHKなど国内の多くの主要新聞メディアが「右翼」安部のレッテル張りを社是とし、それを国内外に発信し続けていること、さらに外務省の職員自体が、孫崎享や田中均や天木直人たちのように、安部「右翼」のレッテル貼り海外に発信して、外国勢力の提灯持ちの役割を果たしているからだ。


国内外からの安部晋三首相への「右翼」批判に対しては、かってカール・マルクスが自らの著書『資本論』の序文のなかで語った言葉を安部首相に送りたい。「およそ科学的な批判による判断ならば、すべて私は歓迎する。しかし、私がかって譲歩したことのない世論と称するものの先入観に対しては、


あの偉大なフィレンチェ人の標語が、常に変わることのなく私のそれである。汝の道を行け、そしてその人の言うにまかせよ!(ダンテ 神曲 浄火編、第5曲)」


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資料館

2014年12月19日 | 日記・紀行

 

2014年平成26年12月19日(金)晴

資料館、夕方。

           

 

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民主主義の人間観と倫理観──皇室と民主主義

2014年12月19日 | 国家論


民主主義の人間観と倫理観──皇室と民主主義


元東大教授で法学部で長年にわたって憲法学を教えられてきた、奥平康弘氏は、“「天皇制」と民主主義は両立しない”と自らの著書で述べられています。(註1)

しかし、本当に皇室(奥平氏のいわゆる「天皇制」)と民主主義とは両立しない”ものなのでしょうか。そのように断定される奥平康弘氏は、日本共産党のように「天皇制」を廃止して、「民主主義」にとって代えようと主張されているのですが、はたして、氏のいうところの民主主義」というのは何ら欠点のない完全無欠のものなのでしょうか。

奥平氏はそう断定されるとしても、かといって一方では、「天皇制」を廃して「民主主義」を国家の原理とすることの「合理的な根拠」を論証できているわけでもありません。これでは科学にも学問にもならないのではないでしょうか。いずれにしても、長年にわたって東大の法学部で憲法学を教えるという公職におられた方の見解でもあり、善かれ悪しかれ影響力はあるのだろうと思います。奥平康弘氏の憲法観はもっと問題視されて良いと思います。

とくに奥平氏の 「民主主義」観、憲法観には時間軸が抜け落ちています。国家における歴史や伝統の継承という観点がありません。単なる一世代による、それも真理の正否の定 かでもない多数決の判断にしたがって、歴史や伝統の断絶を もたらすのは「民主主義」の僭越であり傲慢だと思います。そして何よりも奥平康弘氏の憲法観の根本的で致命的な欠陥は、哲学者ヘーゲルの明らかにした国家と自然法 の論理をいささかも検討された形跡のないことです。

 

憲法学における学識については、もともと奥平康弘氏の足許にも及ばないとしても、私の理解する「民主主義」観では皇室とは二律背反の関係にあるものではありません。民主主義は皇室と両立し得ると考えます。奥平氏が「民主主義」という言葉でどの様な内容のことを考えておられるのか、不勉強のためによく分かりませんが、これまでも、いくつか私なりに「民主主義」について考えるかぎりは、皇室と「民主主義」は両立するものだし、両立させるべきものです。以下に、そう考える根拠のひとつとして私の民主主義観を示した十年ほど前の論考を再録しておきます。

十年ほどの間に私の考えも変化しており、下記の論考からは若干変化もしていますが、基本概念には変更はないので当時の論考のまま残しておきます。

(註1 奥平康弘著『「萬世一系」の研究』401頁)


>><<

民主主義の人間観と倫理観』──より良き民主国家建設のために①

民主主義の倫理観や人間観について述べようとすると、「民主主義に倫理観や人間 観があるのですか」と問われたりする。もちろん、他の多くの重要な社会思想と同じように、民主主義にも、人間観や倫理観は含まれている。結論からいって、 歴史的にも社会的にもこれほど重要な役割を果してきた民主主義のような思想に人間観や倫理観が含まれないと考えるほうがおかしいのではないでしょうか。こ んな質問を受けること自体、日本の民主主義の伝統の浅さや、学校での民主主義教育の貧しさを推測させるものと思います。

民主主義とは、語源からすれば、民衆の権力、人民の支配と言う意味ですが、起源 としては、古代ギリシャが考えられています。しかし、現代の民主主義は、古代ギリシャではなくフランス革命とイギリス・プロテスタンティズムに直接の根拠 を持つと考えられます。そして、ことばは同じ民主主義であっても、フランス革命の人民主権の色彩の強い政治的民主主義と、個人の尊重や社会構成員の権利の 平等を強調するプロテスタントの社会的民主主義は区別されるべきでしょう。

民主主義とは、基本的人権の尊重や法の下の平等、納税や兵役の義務などといった 個人と共同体の関係のあり方を規定する倫理観や人間観の体系といってよいと思います。この民主主義は、経済的弱者や被抑圧者を母胎とする思想であるいえま す。今日の社会に当てはめれば、勤労者や一般消費者の論理を代弁する価値観といえます。

それに対して、 自由主義とは、簡単に定義すれば、人間の欲望を無制限に追及す ることを肯定する人生観、倫理観といえます。この思想は、歴史的には産業ブルジョアジーの考え方として登場したものであり、したがって、この主義は、今日 の社会では、いわゆる資本家=生産者の論理を代弁することになります。

こうした自由主義観や民主主義観は、これらの思想の母体となった特に欧米では自 明の前提だったのではないでしょうか。そして、逆にこうした本質的な理解を欠いたままに、浅薄な議論が行われてきたことが、日本で「民主主義」の信用を貶 めることになったのではないでしょうか。不幸なことだとも思います。

ところで、民主主義の倫理観についてですが、これは日本国憲法においても「納税 の義務」、「教育の義務」、「労働の義務」「生存権や財産権の保障」などに現われています。これらは共同体の個人に対する義務や個人の共同体に対する義務 を規定したものです。納税の義務や労働の義務や教育の義務は比較的にわかりやすいと思います。国民の国家や共同体に対する倫理的義務を示しています。封建 時代の年貢制度などと比較されると民主主義の倫理観がどのようなものであるかわかると思います。

儒教道徳を根底にした封建社会の倫理とは違って、民主主義には「個人としての尊 重」や「基本的人権の尊重」や「法の下に平等」「他者の自由の尊重」といった人間観、倫理観が根底にあります。これらの権利義務は強制によるものではな く、民衆の多数決原理によって自ら制定した法律に基づく自発的意思によるものです。 

中でも、民主主義国家の国民の国家に対する倫理的な義務を規定した納税の義務な どについては、日本では、ほとんどが「源泉徴収」によって行われているので、国家や公共団体に対する国民の倫理的な義務は自覚されにくくなっていると思い ます。全国民が一律に「収入の10パーセント」を納付することなど、税制を根本的に簡素化し、また源泉徴収制度も廃止し、国民の自主的な納付制度に改革す れば、国民の民主的な自覚も少しは高まるかもしれません。 

そして、国民の国家に対する倫理的な義務の最たるものである「兵役の義務」があ ります。しかし、日本国憲法には、その成立の特異性ゆえに、「兵役の義務」については規定されていません。民主主義にとってあまりにも自明な「兵役の義 務」が規定されていないのです。本来、民主主義国家では、国民は何よりも、国家国民のために、自ら国防の任務を負うのです。

     
封建社会や絶対主義国家では、武士や軍隊が主君である大名や天皇のために国防の使命を負いましたが、民主主義国家では国民全体が国民自身のために、その責任 を担います。国防のために兵役の義務を果すことは、民主主義国家の国民にとってはあまりにも自明のことです。兵役に従事し、身命をとして国家国民のために 奉仕すること、これ以上の倫理的義務があるでしょうか。封建社会や絶対主義国家には、国民全体にこうした意識はありません。そして、現在の日本人の「民主 主義」には、この倫理観が完全に欠落しているのです。

民主国家の事例としてスイスが取り上げられますが、スイスの国防の実体は、「軍 事国家」といえるほどのものです。これが、歴史的に典型的な民主主義国家の実際です。「徴兵制」(正しくは志願制兵役)や「愛国心」などというと、いわゆ る「右翼的な思想」の専売特許のように思われていますが、論理的に考えて、民主主義国家の国民の愛国心ほど強いものはありません。もしそうでないとすれ ば、その国家は名目はとにかく、実質的には「民主主義国」ではないのです。なぜなら、民主主義国家であるほど、その政府は、国民に奉仕する存在となり、また、その国家は一般国民にとって暮らしやすい幸福な国になるからです。国家や政府からの恩恵を十分に自覚している国民は、なにも政府から強制されることが なくとも、もっとも愛国的な国民になります。

また、民主主義は伝統文化を尊重するものです。その倫理観からも、私たちの祖国 と祖先の、動かすことのできない過去の伝統文化を、その宗教や習俗を尊敬し愛することのない民主主義があるのでしょうか。民主主義の原則が、単に空間的に だけではなく時間的にも歴史的にも貫かれれば、当然の論理的帰結としてそうなります。「戦後の民主主義」が、日本の伝統文化を破壊しているというのは、民主主義の思想の本来的な欠陥から来るのでしょうか。あるいは、民主主義を、浅薄にしか理解しなかった国民の、特に自称左翼の責任でしょうか。 

こうした民主主義観が真に基礎を得るには宗教が必要なのですが、残念ながら、日 本ではその基礎を欠いていたといえます。宗教抜きの民主主義は、今日の日本のような「欲望民主主義」「悪平等民主主義」になりがちです。明治の指導者は、 民主主義の人間観や倫理観を拒絶して、あるいは理解しないで、天皇制や「教育勅語」などによって、当時の道徳的危機を打開しようとしました。その結果が、 民主主義国イギリスとの同盟ではなく、ヒットラーとの同盟となったのだと思います。この歴史的教訓を、それは歴史的必然と言ってよいと思いますが、深く学 ばないと、かってのドイツと同じように、再び同じ結果を招くことになると思います。                               


特に、日本の民主主義は、太平洋戦争による敗北を契機に日本国民に導入 されたために、多くの点で、歪曲され、浅薄化していると思います。というよりも、民主主義の概念が、いわゆる左翼から右翼まで混乱しています。イギリス・ プロテスタンティズムを基盤とする「社会的民主主義」については、古代ギリシャ民主主義やフランス革命の「政治的民主主義」と区別するために、これを「共和主義」と呼んだほうがよいかもしれません。いずれにせよ「民主主義とは何か」という本質的な論議と認識をいっそう深める必要があると思います。

そして、民主主義には、多くの伝統的な宗教や倫理道徳にも共通する、もっとも普 遍的な人間観や倫理観が含まれているのですから、国民はこの民主主義の倫理観、人間観によって自分たち国民を教育すればよいのです。確かに、民主主義に は、「あなたの父母を敬え」とか「殺すなかれ」とか「盗むな」といったこと細かな倫理規定まで含むものではありませんが、しかし、基本的人権の尊重とか、 個人の尊厳、少数意見の尊重というような根本的な倫理観は含まれているのです。 

そうして国民全体の民主主義についての認識を高め、民主主義によって自己教育を 深めて行きながら、同時に、民主主義政治が衆愚政治や全体主義に反転することを防いでゆく必要があるのですが、それには、民主主義の概念を国民全体で深く 体得しつつ解決して行くしかないと思います。これはプラトン以来の人類の困難な課題なのかも知れません。ニーチェの思想やマルクス主義などの「全体主義」 も、その解決法が正しいかいなかはとにかく、端緒は衆愚政治に対する抵抗でした。

歴史的には民主主義はプロテスタント・キリスト教の論理的帰結、もし くはその完成、もしくはその世俗化であるともいえます。ですから、そこには当然、キリスト教の倫理観、人間観が内容的に保存されているのです。ですから、 民主主義は、宗教という形式を止揚した「宗教」ともいえます。(宗教をどのように定義するかによりますが)この点については、 私は実証的な歴史学者でもないので、論理的に推測するしかないのですが。とはいえ、民主主義の倫理観や人間観は、最も普遍的で、多くの伝統的宗教や倫理道 徳の最大公約数としての意義ももっています。

 
最後に、 さらに逸脱するかも知れませんが、 大学や教育者、政治家、公務員、そして国民自身の責任として、学校教育における正しい民主主義教育の必要について主張したいと思います。最近一部の人には 評判の悪い、古色蒼然とした「民主主義」ですが、そのせいか、人間観や倫理観としての観点からの民主主義教育の重要性が自覚されてもいず、実行もされてい ません。これは学校で「道徳の時間」に民主主義の訓練がほとんど行われていないことにもあらわれています。

共産主義者の「民主主義観」に対する大衆の健全な反感が、民主主義の健全な育成 の障害になったのかも知れません。共産主義者の「唯物論人民民主主義」は、個人としての人格を尊重せず、学問、宗教、思想信条の自由を尊重する精神を欠 き、自己の思想を相対化して反省することを知らない、全体主義的で狂信的なものだからです。

いじめの問題も学力低下の問題も、「クラス共同体」の問題として、子供たち自身 が民主主義の精神とルールに従って、自主的に主体的に問題解決に取り組むための民主的な訓練の機会として活用すべきなのですが、指導者や学校に、そのよう な問題意識がありません。単に学校や教師自身の問題として、あるいは、その生徒個人の問題として扱われています。その結果、子供たちの倫理観も人間観も深 まりません。「クラス共同体」の問題として、社会や共同体の倫理の問題としてクラス全体で主体的に取り組み解決しようという自覚も姿勢も欠いています。今 日のこのような学校現場や、また日本社会全体としての一般的な道徳的危機を、正しい民主主義の人間観や倫理観の普及と徹底以外にどうして正しく解決できる でしょうか。

そして学校教育の現場では「政治活動」と「政治教育」とが混同され、はっきりと 区別されてきませんでした。「政治活動の禁止」という名目で「政治教育」まで否定され行われてこなかったのです。確かに、学校教育においては、特定の価値 観にしたがった「政治活動」は完全に禁止される必要があります。しかし、「政治教育」は、つまり民主主義の制度とその精神、その倫理観と人間観はあらゆる 場面で教育され、民主主義の能力は訓練される必要があります。

いじめの問題や、生徒自身の学力の問題なども、生徒自身の参加と自治の精神を活 用して、民主主義的に解決する能力を高めるよい機会になります。そのためには、なによりも特に学校関係者が 民主主義の制度と精神を、実際に活用し運営する「能力」として普段に高めてゆく必要があると思います。

学校でのこの民主主義教育の充実が、今日の「郵政民営化問題」や北朝鮮や中国な どの「非民主的国家」との外交のあり方、「北朝鮮の拉致被害者の救済」といった、政治的な課題に対する国民の問題解決能力を高めることになります。年金問 題や少子高齢化問題といった政治的課題についての、国民の判断能力や問題解決能力を高めることになります。

そして、今日の政党政治を、利権がらみの錯綜し閉塞したものから、もっと合理的 なものに再編して行く必要があります。先にも述べたように、今日のいわゆる「市民社会」は、基本的に生産者、資本家と消費者、勤労者の利害の対立と調和の 上に構成されているのですから、生産者、資本家の利害を代表するのか、それとも、消費者、勤労者の利害を代表するのか、政治家にその旗幟を鮮明にさせ、そ れぞれの旗幟にしたがって、自由党と民主党に結集させ、民主主義の原理にたつ二大政党が国家と国民のために、政治の質を競いあわせるようにするのです。そ のためにも、現在の自由民主党は、解体されて、自由党と民主党になり、現在の岡田民主党をも巻き込んで、今一度政界が再編成される必要があります。

そして、生産者、資本家の利益を代弁する自由党と消費者、勤労者の利益を代弁する民主党のそれぞれが国民のための政治を目指して競争し合うことです。
それが、劣悪な政治という長年の不幸から国民を救うことにもなると思います。

 2003/08/20

民主主義の人間観と倫理観──より良き民主国家建設のために①   

http://goo.gl/R68HDn

 

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