牧野紀之氏について(3、 ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」 )
以前に、ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/X9SKQB
と言う論考の中で、かって東京都立大においてマルクス主義哲学者であった寺沢恒信の指導のもとでヘーゲル哲学研究の研鑽を積んだ許萬元と牧野紀之の二人の弟子が、あくでもマルクス主義の立場からですが、論理学や弁証法の研究において傑出した業績を残していることについて述べました。
寺沢恒信をはじめとするマルクス主義者たちは「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの提唱をヘーゲル哲学研究の出発点としましたから、ヘーゲル論理学の研究分野において、あくまで「唯物論」という立場からそれなりの業績を残しています。
寺沢恒信氏の指導のもとでヘーゲル哲学研究に従事した許萬元と牧野紀之の2人を中心とするこの学派について「寺沢学派」と私は呼びましたが、「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」という問題意識からとはいえ、ヘーゲル研究において優れた業績をあげているからです。
牧野紀之氏自身は、六十年安保闘争世代の思潮の影響を受けて、当時は、ソビエト・ロシアや毛沢東の中国が「東風が西風を圧する」という、興隆しつつあった共産主義諸国に夢と共感を抱いたらしく、牧野紀之氏も20歳前後に、共産主義運動に参画するという目的をもって彼の哲学研究の動機としました。
この間の事情については、牧野紀之訳『精神現象学』の「訳者まえがき」の中で牧野氏自身が次のように述べています。
「では三浦氏自身の問題は何だったのでしょうか。氏はこう言っています。「少し分かり易く説明しますとね、僕たちの世代、あるいは次の世代もそうですが、一方では連合軍による占領と、他方で中国革命があって、また米ソの対立図式のなかで社会主義に対する憧れを持っている。しかしスターリニズムの実態がハンガリー事件やチェコ事件などを通じて明らかになると、次第に憧れが失望に変わっていって、既成の社会主義をそのまま受入れることができなくなる。」(四三ページ)
氏の心情を推察してかみ砕きますと、二十世紀の最大の社会問題であった資本主義か社会主義かの問題に最大の関心があり、その対立において社会主義に好感を持っていたということです。それは中国革命の道徳的な高さによって強められたということです。しかしソ連の社会主義(及び革命後の中国の社会主義) の実態を知るに及んでどう考えたらいいか迷うようになったということです。
思うに、この総論は日本の多くのヘーゲル研究家の共有する問題意識だと思います。私もここまでは三浦氏と同じです。しかしこの総論をどれだけ具体化して考え進めたか、これがその人の哲学を決定したのだと思います。前衛党の問題、その規律としての民主集中制をどう考えるか、理論と実践の統一をどう考えるか、政治と学問・芸術の関係をどう考えるか、こういった問題にまで具体化して考えたか。それを考える時にヘーゲルを参考にして考えたか、これが決定的だったと思います。」
(※ちなみにここで言う「三浦氏」とは、1995年に、出版社「未知谷」から、牧野紀之氏と同じように、ヘーゲルの『精神現象学』を翻訳、出版した三浦和男氏のことです。)
ここで牧野紀之氏 が「この総論は日本の多くのヘーゲル研究家の共有する問題意識だと思います」と書いてるように、日本のヘーゲル哲学研究者の99%はマルクス主義者であって、彼らは自らの拠り所であった共産主義に対する夢が敗れた後に、マルクスが自らの思想の拠り所にしたヘーゲル哲学そのものにさかのぼって、「マルクス主義」の検証に取り組もうとしたのだ思います。
悪くいえば、マルクス主義の歴史的な政治的な破産に直面したマルクス主義者たち、この三浦和男氏をはじめ牧野紀之氏自身もそうだと思いますが、そうした破産に直面して、「マルクス主義」を再検証するという口実で、「ヘーゲル哲学研究」の中に逃げ込んだのだと思います。
市民社会の、いわゆる「資本主義社会」の中では、マルクス主義者たちは実際に使い者になりませんでしたから、彼らは「大学」や「アカデミズム」の世界に逃げ込んで、そこで「食い扶持」を見出すことになったともいえます。今日の「大学」「アカデミズム」の世界がほとんど「赤一色」「左翼一色」である理由もここにあるのではないでしょうか。
しかし、牧野紀之氏自身は、自身の初心に忠実に、自らの哲学研究において共産主義そのものを実践しようとしました。だから牧野氏自身はサラリーマンとしての「大学教授」という職に満足できませんでした。自から「鶏鳴学園」という私塾を作って、寺沢恒信から受け継ぎ、その上に自らの創意工夫を加えて発展させたヘーゲルのテキストの「読解技術」を── 具体的には「文脈を読む」とか「形式を読む」といった読解の技術を、自らの私塾「鶏鳴学園」に学びにきた生徒たちに伝授しました。また、自らも共産主義の実践として、「共同体」の創出などにも取り組みました。
鶏鳴学園で行われた牧野氏のヘーゲル哲学の原典購読は、たとえば一般のいわゆる「大学」「アカデミズム」におけるヘーゲルの原典購読の水準をはるかに超えるものでした。それが評判をよび定評を得ましたから、難解な「ヘーゲル哲学」を何とかものにしたいという若者、社会人などが集い、牧野氏からヘーゲル・テキストの「読解の技術」を学びました。
牧野氏自身は、「自分の哲学を作って生きる」という課題に忠実でしたが、牧野氏の生徒たちの中には「大学教授」として生活するという目的のために、牧野氏からヘーゲル哲学の読解の技術だけを、悪くいえば盗んで「大学教授」になるための「飯の種」として、ヘーゲル哲学の訓詁注釈のみに従事しました。ヘーゲル哲学研究を「自らの哲学を作る」という課題の手段とすることなく、ヘーゲル哲学を「談論風発」することだけが目的の、そうした風潮について牧野紀之氏は「サラリーマン弁証法」と揶揄しました。
少し論点が逸れてしまいましたが、この「寺沢学派」のもう一つ著しい偏向があるとすれば、この「寺沢学派」には、ヘーゲルの「法の哲学」に関連する研究業績が皆無であるということです。マルクス自身はヘーゲルの「法の哲学批判」を彼の「共産主義思想」の基礎にしましたが、この「寺沢学派」は「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」という動機にみずから限定しましたから、そのヘーゲル哲学研究が、ヘーゲルの「大小論理学」に集中したのは当然の帰結だとも言えます。その結果として、ヘーゲル「法の哲学」の国家理念に基づいた、新日本国憲法を構想できる者が、この「寺沢学派」には、誰一人としていなかった、ということにも現れています。
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