goo blog サービス終了のお知らせ 

作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十二節[有限性]

2025年09月02日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十二節[有限性]

§12

b) Etwas, das da ist, hat eine Beziehung auf Anderes. Das Andere ist ein Daseiendes als Nichtsein von Etwas. Es hat somit zunächst eine Grenze oder Schranke (※1)und ist endlich.(※2) Wie etwas an sich sein soll, ist seine Bestimmung.(※3)


第十二節

 b)そこ(da)に存在する「或る物」(Etwas)は、「他なる物」と関係をもつ。「他なる物」とは、「或る物」にとっては非存在(Nichtsein)として現に存在しているもの(Daseiendes)である。それゆえに「或る物」は、まず境界あるいは限界をもち、有限である。或る物のそれ自体としてあるべきあり方が、その「規定」(Bestimmung)である。


※1
eine Grenze oder Schranke 境界と限界
ここでは境界と限界と訳した。Grenze と Schranke は同義的に使われているが、Grenze は外的なもの、Schrankeは内的なものである。
たとえば、人間がそれぞれ男女の両性に分たれているのは外的な境界Grenzeであり、男性が出産できないのは、内的な限界 Schrankeである。


※2
存在 Sein  は 定在 Dasein へと具体的に進展していくが、定在 Dasein  はさらに、或る物(Etwas)として存在する。そして或る物(Etwas)は、「他なる物」と関係をもち、それによって限界(Grenze, Schranke)づけられることによって、有限(endlich)なものとして存在する。


 ※3
この或る物(Etwas)はその外部にある「他なる物」によって、自らの存在範囲や本質的な性質が明らかになる。たとえば個人もまた他者と関係することによって、その性や性格(Bestimmung)や、能力などがわかる。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十二節[有限性] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/jbRdNd

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十一節[現実性]

2025年07月25日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十一節[現実性]

 

§11

a) Das Dasein ist somit ein in sich geteiltes. Einmal ist es  an sich,  das anderemal ist es  Beziehung  auf Anderes. Das Dasein, mit diesen beiden Bestimmungen gedacht, ist  Realität. (※1)

第十一節[現実性]

a)したがって、定在はそれ自体のうちで分裂したものである。一方では「それ自体としてあるもの」(an sich)であり、他方では「他なるものへの関係」(Beziehung auf Anderes)としてある。この二つの規定において捉えられた定在が、「現実性」(Realität)である。

 

※1

Das Dasein(そこにあるもの、定在)は前節の§10においては単にある特定の質、規定性を帯びた存在にすぎなかったが、概念はより現実的な存在へと、さらに「現実性」(Realität)のある存在へと進展して行く。

たとえば、国家は、主権国家として自己完結的に存在する他国から独立した存在(an sich)であるが、 他方において、国家は国際社会において他国との外交関係や貿易関係を通じて規定され、経済的・政治的に相互依存(Beziehung auf Anderes)の関係にある。

 国家の現実性(Realität)とは、この主権的な自立性と国際社会との相互依存性という二つの矛盾した側面を同時に抱え込み、両者を統合した形でのみ成立する。自己内での対立(自立と依存)を調停し、統一することで、国家として「現実性」(Realität)をもつようになる。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十一節[現実性] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/dAz9Cn

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十節[定在]

2025年07月19日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十節[定在]


B. Dasein

B 定在

§ 10

Das Dasein ist gewordenes, bestimmtes Sein, ein Sein, das zu­gleich Beziehung auf Anderes,  also auf sein Nichtsein hat .(※1)

第十節

定在(そこにあるもの)とは、生成を経て、規定性を帯びた存在である。それは同時に、他者との関係性をもつとともに、すなわち自らの非存在(自らが存在しなくなること)との関係性をももった存在である。

※1

①【生成を経て規定された存在】

例えば、一人の「人間」は、ただ単に「存在(Sein)」しているだけではない。誕生というプロセスを経て存在し、成長や経験を通じて具体的な規定性を帯びていく。生まれた瞬間には無規定な可能性に満ちているが、成長するにつれて個性や性格、社会的役割などの「規定性」を獲得していく。例えば、「教師」「医師」「父親」「娘」「日本人」など具体的な規定性が現れる。

②【他者との関係性における存在】

人間の存在は常に他者との関係性の中で規定される。ある人が「教師」であることは、生徒との関係によって規定されるし、また、誰かが「友人」であることは、自分とその人との相互関係によって成り立つ。
このように、人間は単独で規定されるのではなく、家族、職場、社会、文化などの「他者」との関係の網の中でのみ意味を持つ。

 ③【自らの非存在との関係性(自己否定・限界性の認識)】

また、人間の存在は同時に、その存在の限界、つまり死や消滅(非存在という否定性)を自らの内に抱えている。自分が生きていることを自覚するということは、同時にいつか必ず死ぬことを意識することでもある。
 例えば、重い病気にかかったとき、人間は自分の存在(定在)と同時にその非在(死、消滅)の可能性を強烈に感じる。このとき、「定在が自己の非存在との関係性を持つ」という哲学的概念が現実的に理解される。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十節[定在] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/FaM3nr

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第九節[存在、無、生成]

2025年06月17日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第九節[存在、無、生成]

A. Sein, Nichts, Werden
A.存在、無、生成

§9
Das Sein(※1) ist die einfache inhaltslose Unmittelbarkeit, die ihren Gegensatz an dem reinen Nichts(※2) hat, und deren Vereinung das Werden(※3) ist: als Übergehen von Nichts in Sein das Entstehen, umgekehrt das Vergehen.
(Der gesunde Menschenverstand(※4), die einseitige Abstraktion sich oft selbst nennt, leugnet die Vereinung von Sein und Nichts. Entweder ist das Sein oder es ist nicht. Es  gibt  kein Drittes. Was ist, fängt nicht an. Was nicht ist, auch nicht. Er behauptet daher die Unmöglichkeit des Anfangs .)

第九節
存在 とは、単純で内容をもたない直接性であり、それは純粋な無を対立物としてもち、そして存在と無との合一が生成 である。無から存在への移行が発生(Entstehen)であり、その逆が消滅(Vergehen)である。
(いわゆる「健全な常識」は、それ自体が一面的な抽象化をしばしば行うように、存在と無の合一を否定する。「存在している」か「存在していない」かのいずれかであって、「第三のもの」はない 。「存在するもの」には始まりはなく、「存在しないもの」も始まりはない。したがって、常識は「始まり」は不可能であると主張する。)

 

※1
「存在(Sein)」はもっとも抽象的な思考のはじまりである。

※2
はじめの「存在」はあまりに空疎であるため、「無」と区別がつかない。

※3
抽象的な「存在」と「無」という静止的な概念は初めから「動き」をはらんでおり、その移行、運動による合一から「生成」という概念が成立する。「生成」は存在と無という対立する二者をそのうち含む。思考の弁証法的な運動がここからはじまる。無から存在への過程は発生であり、存在から無への過程は消滅である。これら「存在」「無」「生成」の三つの契機は、思考の弁証法的な運動の基本形でもある。ここから論理学が始まる。

※4
「いわゆる健全なる人間の理解」(常識)は、「存在」と「無」を絶対的に分けて、「あるかないか」「白か黒か」的にしか考えられない。これはのちに「悟性的思考」として、その限界が指摘される。
弁証法的な思考は動的に捉える。これは「アナログ」と「デジタル」との関係と同じで、たとえば磁石の陽極と陰極のように、常識、悟性は、両者を分断してとらえるが、実際には陽極と陰極との間には明確な境界はない。ヘーゲルはいわゆる「常識」をここで皮肉っている。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第九節[存在、無、生成] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/1e7964

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在  第一部 質  第八節[質]

2025年06月16日 | 哲学一般

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在  第一部 質  第八節[質]

Erster Teil. Das Sein.  
第一篇  存在

Erster Abschnitt Qualität  
第一部  質

§8  
Die Qualität (※1)ist die unmittelbare Bestimmtheit(※2), deren Verän­derung (※3)das Übergehen(※4) in ein Entgegengesetztes ist.

第八節  
質は直接的な規定性であり、その変化は対立物への移行である。  
  

  
※1  
質(Qualität)とは、「あるものが何であるか」ということ。  

※2 
質は「直接的な規定性(unmittelbare Bestimmtheit)」と定義される。つまり、媒介されておらず、存在に直に結び付いており、その質が失われればその存在そのものが消滅する。

※3  
質の変化(Verän­derung)とは、あるものが、対立する他のものへと変化することである。たとえば、生から死ヘ、歓びから悲しみへ。また、水は、0℃以下で氷に変化する。 

※4 
Übergehen(転化・移行)は、存在するものが、自己を否定することによって他者へと変化する動きのこと。「存在」するものは、有限であるゆえに否定性を含み、その限界を超えると自己を否定して「他なるもの」「対立物へ(in ein Entgegengesetztes)」と転化する。

 

 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇 論理学 第七節 [論理学と真理]  

2025年06月11日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇 論理学 第七節 [論理学と真理]  

§7

Die Wissenschaft setzt voraus, dass die Trennung seiner selbst und der Wahrheit bereits aufgehoben ist oder der Geist nicht mehr, wie er in der Lehre vom Bewusstsein betrachtet wird, der Erscheinung angehört. (※1)

第七節 [論理学と真理]

科学としての論理学は、自己自身と真理との分離がすでに止揚されていること、すなわち精神がもはや『意識の学(精神現象学)』において考察されるような仕方で〈現象〉に属していないことを前提としている。

Die Gewissheit seiner selbst umfasst Alles, was dem Bewusstsein Gegenstand ist, es sei äußerliches Ding oder auch aus dem Geist hervorgebrachter Gedanke, inso­fern es nicht alle Momente des An- und Fürsichseins in sich enthält: (※2)

自己自身の確信(自己のうちにある確実性)は、意識にとってのすべての対象を、すなわち外的な事物であれ、精神から生み出された思考であれ――を含んでいる。ただし、それが〈それ自体であること〉(Ansichsein)と〈それ自身にとってあること〉(Fürsichsein)のすべての契機を内に含んでいる限りにおいて、である。

an sich  zu sein oder einfache Gleichheit mit sich selbst;  Dasein   oder Bestimmtheit zu haben. Sein für Anderes; und   für sich sein,  in dem Anderssein einfach in sich zurückgekehrt und bei sich zu sein. (※3)
Die Wissenschaft  sucht   nicht die Wahrheit, son­dern  ist   in der Wahrheit und die Wahrheit selbst.(※4)

すなわち、「それ自体である」とは、自己と単純に一致していること、「現存在」や「規定性」をもっていること、「他なるものに対して存在していること」、そして「それ自身にとって存在すること」――これは、他なるもののなかにあっても、それが単純に自己へと立ち返り、自己のもとにあることである。
論理学は真理を 探し求める のではない。論理学は真理のなかにあり、それ自体が真理なのである。




※1
「論理学(Wissenschaft)」とは、ヘーゲル哲学においては体系的な自己展開を行う思考のことである。「Trennung(分離)」は、以前の段階(『精神現象学』)で「意識=主体」と「真理=対象」との対立構造にあったものが、それが「aufgehoben(止揚された)」ことによって、両者が弁証法的に克服されて、精神が自己自身のうちに真理をもつ段階に入ったことを意味する。
「現象(Erscheinung)」に属さない、ということは、現象界の背後にある理念的・概念的な真理の場に到達しているということ。

※2
〈それ自体であること〉(Ansichsein)とは、あるものが、それ自身であり、内在的に規定されている状態で、他者との関係性を持たない「存在そのもの」、客観的存在。
〈それ自身にとってあること〉(Fürsichsein)とは、主体が、自分を他者から区別して、自己を自己として意識している状態であり、自己意識や主体性、自律性を意味している。
Gewissheit seiner selbst(自己確信)とは、『精神現象学』でいう「自己意識(Selbstbewusstsein)」のことで、自己を「知っている」という主観的な確信・信念であり、そこにはあらゆる対象が含まれているが、それだけでは不十分であり、ここで主観と客観が統合されて「真に自己である存在(an und für sich)」であるときにはじめて「真理」となる。

※3
単なる「存在」ではなく、「他なるものとの関係性」を経て、「自分自身に戻ること(=自己同一の再獲得)」という理念の構造が予告的に述べられている。「客観(an sich)」→「主観(für sich)」→「統合・絶対(an und für sich)」というヘーゲル弁証法の三段階の構造が端的に説明されている。これは「理念(Idee)」のダイナミズムでもある。

※4
ヘーゲルはここで「思考(主観)と存在(客観)の一致」をあきらかにし、論理学とは真理の展開に他ならないという。カント以前の哲学では、真理は「対象を発見する」ものであったが、ヘーゲルにおいては、真理とは概念(Begriff)そのものの自己運動である。この前提の上に、その論理は、存在論ー→本質論ー→概念論ー→理念論 へと展開していく。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇 論理学 第七節 [論理学と真理] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/YFG1z0

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義2]

2025年05月15日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義2]

Erläuterung.

説明:

Die Logik enthält das System des reinen Denkens. (※5)
Das  Sein  ist  1) das unmittelbare; 2) das innerliche; die Denk­bestimmungen gehen wieder in sich zurück. (※6)Die Gegenstände der gewöhnlichen Metaphysik sind das Ding, die Welt, der Geist und Gott, wodurch die verschiedenen metaphysischen Wis­senschaften, Ontologie, Kosmologie, Pneumatologie und Theo­logie entstehen.(※7)

論理学は純粋な思考の体系をふくんでいる。「存在」とは(1)直接的なものであり、(2)内的なものである。;ここで思考の規定はふたたび自己の内へと戻ってくる。伝統的な形而上学の対象は物であり、世界であり、精神、および神であって、そこから存在論、宇宙論、精神論、神学といった形而上学のさまざま分野が生じてくる。

3. Was der  Begriff  darstellt, ist ein  Seiendes,  aber auch ein  We­sentliches.  Das Sein verhält sich als das unmittelbare zum We­sen als dem mittelbaren. Die Dinge sind überhaupt, allein ihr Sein besteht darin, ihr Wesen zu zeigen. Das Sein macht sich zum Wesen, was man auch so ausdrücken kann: das Sein setzt das Wesen voraus. (※8)

概念 が示すものは、存在するもの( Seiendes )であり、同時に本質的なもの( Wesentliches )でもある。存在は、間接的なものである本質に対して、それ自体は直接的なものである。物は一般に存在するものであるが、ただ、その存在によって自らの本質を示すものである。存在は自らを本質へと高めるが、また同じく、存在は本質を前提としているということもできる。

Aber wenn auch das Wesen in Verhältnis zum Sein als das vermittelte erscheint, so ist doch das Wesen das ursprüngliche.  Das Sein geht in ihm in seinen Grund zu­rück; das Sein hebt sich in dem Wesen auf.(※9)

しかし、たとえ本質が存在との関係において媒介されたものとして現れるとしても、本質こそがやはり根源的なもの である。存在はその本質においてその根拠に回帰する。存在は本質において自己を止揚するのである。

Sein Wesen ist auf diese Weise ein gewordenes oder hervorgebrachtes, aber viel­mehr, was als Gewordenes erscheint, ist auch das Ursprüng­liche. Das Vergängliche hat das Wesen zu seiner Grundlage und wird aus demselben.(※10)

このようにして、その本質は生成されるものであり、また生み出されるものでもあるが、しかしそれ以上に、生成されたものとして現れる本質もまた根源的なものである。移り行くものは、本質をその基礎にもち、それから生じる。

Wir machen Begriffe. Diese sind etwas von uns  Gesetztes,  aber der Begriff enthält auch die Sache an und für sich selbst. In Verhältnis zu ihm ist das Wesen wieder das gesetzte, aber das Gesetzte verhält sich doch als wahr. (※11)

私たちは概念を作る。この概念は私たちによって「定立されたもの」であるが、しかし、また概念はもともと事物それ自体をも含んでいる。その概念に対して、本質はあらためて定立されたものであるが、しかし、定立されたものは、それでもなお真理である。

Der  Begriff  ist teils der  subjektive,  teils der  objektive.  Die  Idee  ist die Vereinigung von Subjektivem und Objektivem. Wenn wir sagen, es ist ein bloßer Begriff, so vermissen wir darin die Realität. Die bloße Objekti­vität hingegen ist ein Begriffloses. Die Idee aber gibt an, wie die Realität durch den Begriff bestimmt ist. Alles Wirkliche ist eine Idee.(※12)

概念 は一面においては 主観的 であり、一面においては 客観的 である。 理念 とは主観的なものと客観的なものの統一である。 もし私たちが、それは単なる概念にすぎない、と言うときには、そこには現実性が欠けていることを示している。それに対して、単なる客観性は概念を欠いている。しかし理念は、現実が概念によってどのように規定されるかを示すものである。すべての現実的なものは理念である。

 

※5
Die Logik enthält das System des reinen Denkens.
論理学は純粋な思考の体系をふくんでいる。

ヘーゲルにおける「論理学(Logik)」は、通常の形式論理学とは異なって、存在そのものの根底にある「純粋思考(das reine Denken)」を、すなわち、「思考の概念的運動」そのものを問題にしている。「純粋」というのは、思考そのものの内在的な自己展開には、経験的な、感性的な要素は関わらないからである。
ヘーゲルの全哲学体系はこの「論理学」に始まり、それは「概念の自己運動としての実在」が、つまり「理念(Idee)」への発展過程として示されている。
たとえば「存在」→「本質」→「概念」と進む弁証法的展開は、現実世界のすべてを根底で支える論理的な構造であって、それが「純粋思考の体系」として捉えられている。

※6
Das Sein ist 1) das unmittelbare; 2) das innerliche; die Denkbestimmungen gehen wieder in sich zurück.
存在とは(1)直接的なものであり、(2)内的なものである。思考の規定は再び自己の内に戻ってくる。

ここでは「存在(Sein)」のもつ二重の性格が述べられる。
まず、unmittelbar(直接的な)というのは、何の媒介もなく、ただそこに「ある」ものとしての存在であり、それはもっとも抽象的な起点であり、感覚的な「ある」である。
innerlich(内的な)というのは、この存在が、たんに外部に感覚的に現れるだけでなく、思考によって反省(反射)的に捉えられたときには、内面性をもつものとして、存在はその内に折り返して、自己反省して、本質(Wesen)を洞察する。

思考の運動としては、「思考の規定(Denkbestimmungen)」がただ他者を規定するだけではなく、自らに戻ってくる(内面化する)という動きである。思考は、存在のたんなる外面を超えて、存在するものの中へと進んでいく。これは「自己への反射(Reflexion in sich selbst)」でもあり、ここから本質論へ入る。

※7
Die Gegenstände der gewöhnlichen Metaphysik sind das Ding, die Welt, der Geist und Gott ...
伝統的な形而上学の対象は物、世界、精神、神である。

ヘーゲルはここで伝統的な「形而上学(Metaphysik)」の四つの主要な対象領域をあげる。
Ding(物):存在の最小単位、物理的対象。ー→ Ontologie(存在論)
Welt(世界):物の全体構造としての宇宙。ー→ Kosmologie(宇宙論)
Geist(精神):人間の自己意識的活動、自由をもつ存在。ー→ Pneumatologie(精神論)
Gott(神):絶対的存在としての究極者。ー→ Theologie(神学)
しかしヘーゲルにとって、これらはすべて論理的に一つの体系の中で発展するもの、理念の自己展開として説明される。

※8
Was der Begriff darstellt, ist ein Seiendes, aber auch ein Wesentliches ...
概念が示すものは、存在するものであり、同時に本質的なものである。
「概念(Begriff)」は単なる言葉や定義ではなく、存在を自己運動によって本質化する動的な論理的な構造のことである。

Seiendes(存在するもの)とは、現実にそこに「ある」もの。
Wesentliches(本質的なもの)とは、そこに「あること」に内在している根拠や意味のこと。

たとえば、「レモン」という存在の本質は、リンゴやバナナといった他の果物と比較され関係付けられて、反省(Reflexion)され、柑橘類としてその酸っぱさや、黄色という色彩や、絵画や文学の素材などとしてレモンの本質が認識される。また、たとえば「国家」という存在は、ただ制度として存在するのではなく、その存在を通じて「自由」や「理念の実現」といった国家の「本質」を現すような論理的な構造をもっていることが洞察される。

 

※9
Das Sein hebt sich in dem Wesen auf.
存在は本質において自己を止揚する。

存在(Sein)はそのままでは感覚的に抽象的で空虚なものであり、それを思考の媒介を経て内面化、深化させたものが本質(Wesen)である。したがって、存在が本質へと移行する過程は、単なる否定ではなく、より深い真理としての「本質」のうちに、「存在」が保存され、止揚される運動ととして捉えられる。これは論理学において「存在論」から「本質論」への必然的な発展の論理として、「止揚(Aufhebung)」の具体的な事例として説明されている。

※10
Das Vergängliche hat das Wesen zu seiner Grundlage 
移り行くものは、本質をその基礎にもち、それから生じる。

「万物は流転する」というヘラクレイトスの立場を引き継いだヘーゲルは、「生成(Werden)」という動的過程を強調する。移ろいやすいもの(Vergängliche)は偶然的なものに見えるが、移り行くものの生成には、その事物の本質が現象してくる。一見「生成された(Gewordenes)」もの、つまり変化したもの、結果のように見える存在も、実は「根源的(ursprünglich)」な本質が自己展開したものにほかならない。
  たとえば、一つの国家制度が変化・崩壊したとしても、その現象の背後には「自由」や「理念国家」といった根本理念が本質が変容しながら働いている。
移ろいやすいもの(Vergängliche)は偶然的なものに見えるが、その生成を通して、理念の必然的な運動がそこに貫かれていると見る。

※11
aber das Gesetzte verhält sich doch als wahr.
定立されたものは、それでもなお真理である。

 本質も概念も思考主体によって主観的に「定立された(gesetzt)」ものであるが、しかし、
それは単なる主観の任意な思いつきではなく、対象そのものの真理を含んでいる。
つまり、本質(Wesen)も概念(Begriff)も私たちが「作る」ものであると同時に、そこには「客観的真理」が保存されている。そこでは主観と客観が止揚され統合されている。

※12
Alles Wirkliche ist eine Idee.
すべての現実的なものは理念である。

ヘーゲル哲学においては、Begriff(概念)は単なる主観的な思考の産物、観念ではなくて、主観的・客観的側面を統合したものである。その統合とされたものとしての、Idee(理念)は、現実(Wirklichkeit)を構成する原理である。
ここで言う「理念(Idee)」は、単なる理想や観念ではなく、概念によって貫かれた現実そのものであり、たとえば、「国家」という現実も、「法」や「自由」「倫理」といった概念によって規定され、そうである限りにおいて、国家は「理念的な実在」である。
逆に言えば、理念を欠いた現実(たとえば、倫理なき法、理念なき制度)は「真の現実」とは言えない。つまり真の「現実性(Wirklichkeit)」を持たない。

だから、理念を欠いた日本国憲法の上に立つ日本国家は「真の現実」ではなく、ヘーゲル哲学的な観点からみれば「現実性(Wirklichkeit)」を持たないということになる。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義2] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/LSnHso

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牧野紀之氏について(3、 ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」 )

2025年05月10日 | 哲学一般

 


牧野紀之氏について(3、 ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」 )

 

以前に、ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/X9SKQB

と言う論考の中で、かって東京都立大においてマルクス主義哲学者であった寺沢恒信の指導のもとでヘーゲル哲学研究の研鑽を積んだ許萬元と牧野紀之の二人の弟子が、あくでもマルクス主義の立場からですが、論理学や弁証法の研究において傑出した業績を残していることについて述べました。

寺沢恒信をはじめとするマルクス主義者たちは「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの提唱をヘーゲル哲学研究の出発点としましたから、ヘーゲル論理学の研究分野において、あくまで「唯物論」という立場からそれなりの業績を残しています。


寺沢恒信氏の指導のもとでヘーゲル哲学研究に従事した許萬元と牧野紀之の2人を中心とするこの学派について「寺沢学派」と私は呼びましたが、「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」という問題意識からとはいえ、ヘーゲル研究において優れた業績をあげているからです。

牧野紀之氏自身は、六十年安保闘争世代の思潮の影響を受けて、当時は、ソビエト・ロシアや毛沢東の中国が「東風が西風を圧する」という、興隆しつつあった共産主義諸国に夢と共感を抱いたらしく、牧野紀之氏も20歳前後に、共産主義運動に参画するという目的をもって彼の哲学研究の動機としました。


この間の事情については、牧野紀之訳『精神現象学』の「訳者まえがき」の中で牧野氏自身が次のように述べています。

「では三浦氏自身の問題は何だったのでしょうか。氏はこう言っています。「少し分かり易く説明しますとね、僕たちの世代、あるいは次の世代もそうですが、一方では連合軍による占領と、他方で中国革命があって、また米ソの対立図式のなかで社会主義に対する憧れを持っている。しかしスターリニズムの実態がハンガリー事件やチェコ事件などを通じて明らかになると、次第に憧れが失望に変わっていって、既成の社会主義をそのまま受入れることができなくなる。」(四三ページ)


氏の心情を推察してかみ砕きますと、二十世紀の最大の社会問題であった資本主義か社会主義かの問題に最大の関心があり、その対立において社会主義に好感を持っていたということです。それは中国革命の道徳的な高さによって強められたということです。しかしソ連の社会主義(及び革命後の中国の社会主義) の実態を知るに及んでどう考えたらいいか迷うようになったということです。

思うに、この総論は日本の多くのヘーゲル研究家の共有する問題意識だと思います。私もここまでは三浦氏と同じです。しかしこの総論をどれだけ具体化して考え進めたか、これがその人の哲学を決定したのだと思います。前衛党の問題、その規律としての民主集中制をどう考えるか、理論と実践の統一をどう考えるか、政治と学問・芸術の関係をどう考えるか、こういった問題にまで具体化して考えたか。それを考える時にヘーゲルを参考にして考えたか、これが決定的だったと思います。」

(※ちなみにここで言う「三浦氏」とは、1995年に、出版社「未知谷」から、牧野紀之氏と同じように、ヘーゲルの『精神現象学』を翻訳、出版した三浦和男氏のことです。)

 

ここで牧野紀之氏 が「この総論は日本の多くのヘーゲル研究家の共有する問題意識だと思います」と書いているように、日本のヘーゲル哲学研究者の99%はマルクス主義者であって、彼らは自らの拠り所であった共産主義に対する夢が敗れた後に、マルクスが自らの思想の拠り所にしたヘーゲル哲学そのものにさかのぼって、「マルクス主義」の検証に取り組もうとしたのだ思います。

悪くいえば、マルクス主義の歴史的な政治的な破産に直面したマルクス主義者たち、この三浦和男氏をはじめ牧野紀之氏自身もそうだと思いますが、そうした破産に直面して、「マルクス主義」を再検証するという口実で、「ヘーゲル哲学研究」の中に逃げ込んだのだと思います。

市民社会の、いわゆる「資本主義社会」の中では、マルクス主義者たちは実際に使い者になりませんでしたから、彼らは「大学」や「アカデミズム」の世界に逃げ込んで、そこで「食い扶持」を見出すことになったともいえます。今日の「大学」「アカデミズム」の世界がほとんど「赤一色」「左翼一色」である理由もここにあるのではないでしょうか。

しかし、牧野紀之氏自身は、自身の初心に忠実に、自らの哲学研究において共産主義そのものを実践しようとしました。だから牧野氏自身はサラリーマンとしての「大学教授」という職に満足できませんでした。自から「鶏鳴学園」という私塾を作って、寺沢恒信から受け継ぎ、その上に自らの創意工夫を加えて発展させたヘーゲルのテキストの「読解技術」を── 具体的には「文脈を読む」とか「形式を読む」といった読解の技術を、自らの私塾「鶏鳴学園」に学びにきた生徒たちに伝授しました。また、自らも共産主義の実践として、「共同体」の創出などにも取り組みました。

鶏鳴学園で行われた牧野氏のヘーゲル哲学の原典購読は、たとえば一般のいわゆる「大学」「アカデミズム」におけるヘーゲルの原典購読の水準をはるかに超えるものでした。それが評判をよび定評を得ましたから、難解な「ヘーゲル哲学」を何とかものにしたいという若者、社会人などが集い、牧野氏からヘーゲル・テキストの「読解の技術」を学びました。

牧野氏自身は、「自分の哲学を作って生きる」という課題に忠実でしたが、牧野氏の生徒たちの中には「大学教授」として生活するという目的のために、牧野氏からヘーゲル哲学の読解の技術だけを、悪くいえば盗んで「大学教授」になるための「飯の種」として、ヘーゲル哲学の訓詁注釈のみに従事しました。ヘーゲル哲学研究を「自らの哲学を作る」という課題の手段とすることなく、ヘーゲル哲学を「談論風発」することだけが目的の、そうした風潮について牧野紀之氏は「サラリーマン弁証法」と揶揄しました。

少し論点が逸れてしまいましたが、この「寺沢学派」のもう一つ著しい偏向があるとすれば、この「寺沢学派」には、ヘーゲルの「法の哲学」に関連する研究業績が皆無であるということです。マルクス自身はヘーゲルの「法の哲学批判」を彼の「共産主義思想」の基礎にしましたが、この「寺沢学派」は「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」という動機にみずから限定しましたから、そのヘーゲル哲学研究が、ヘーゲルの「大小論理学」に集中したのは当然の帰結だとも言えます。その結果として、ヘーゲル「法の哲学」の国家理念に基づいた、新日本国憲法を構想できる者が、この「寺沢学派」には、誰一人としていなかった、ということにも現れています。

 

牧野紀之氏について(3、 ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」 ) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/1TrmSU

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牧野紀之氏について(2、唯物論か観念論か)

2025年05月06日 | 哲学一般

 

牧野紀之氏について(2、唯物論か観念論か)

 

牧野紀之氏は、世界観としては、唯物論の立場に立つ。それは牧野氏の経歴を見てもわかるように、彼の哲学研究が、共産主義運動への参画を根本的な動機としていたことから来るものである。この共産主義とはマルクス主義であり、毛沢東主義である。

マルクス主義や毛沢東主義は世界観の立場としては唯物論である。マルクス主義を初心とした牧野氏は終生にわたって唯物論の立場から離れることはなかった。これが彼の哲学の限界である。だから、牧野氏にとっては「世界には初めも終わりもない」。

かくして、牧野氏の指導教官であった東京都立大学の教授であったマルクス主義者の寺沢恒信のもとでヘーゲル哲学の研鑽に励んだ牧野氏は、その師と同じく「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの提唱を、牧野氏自身の哲学研究の出発点しており、この立場を終生にわたって引き継いだ牧野氏は、したがって、「ヘーゲル哲学自体」の研鑽をどれほど深めようとも、絶対的観念論者ヘーゲルそのものの立場に立つことはなかった。

牧野紀之氏はいわゆる60年安保闘争世代に大学時代を過ごしており、その時代思潮に深く影響されている。それに対して、私は牧野紀之よりもちょうど一世代下の70年安保闘争の時代に学生時代を過ごした。しかし、もともと私のヘーゲル哲学研究の動機は「キリスト教の研究」にあったから、世界観の立場としては、マルクスの唯物論の立場を選択する動機も必然性もなかった。

ヘーゲル哲学そのものの世界観は、「絶対的観念論」とは言われるが、そもそも基本的にはこの「絶対的観念論」は唯物論をも止揚したものである。つまり、絶対的観念論とは、唯物論でもなければ、いわゆる観念論でもない。物質と観念がどちらが根源的かという問いには、究極的には確定できないとするのがヘーゲルの立場である。これを日本の伝統的哲学の立場から言うなら、「色心不二」の立場であって、色=物質、心=観念の二者は二つであって二つではないという立場とおなじである。色=物質、心=観念のいずれが根源的かという問題には結論がない。

もともと、「キリスト教の研究」を動機とした私の「ヘーゲル哲学研究」には、したがって、そもそもマルクスの唯物論の立場に立たなければならないという動機もその必然性もなかった。だから私はこのヘーゲルの立場、つまり「絶対的観念論」の立場をそのまま継承することになった。ヘーゲル哲学、その論理学そのものを何ら改造することなく、そのまま引き継ぐだけである。牧野氏のように唯物論の立場から改作する必要もない。ヘーゲル哲学を「唯物論の立場から改作する」というのは、むしろ改悪であり「非真理」への転落以外のなにものでもない。この観点から、マルクスの浅薄な「ヘーゲル概念論」理解を逆批判することになった。

とはいえ、牧野紀之氏の「小論理学」「精神現象学」の翻訳と註解は、「唯物論」の立場からの改悪という根本的な欠陥を自覚して読解する限りは、我が国におけるこれまでのヘーゲル哲学のテキストのもっとも正統的な優れた読解の教本である。

どうしてそれが可能になったか。牧野氏は「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの提唱に生涯忠実であったが、その研究の実際はヘーゲル論理学の「現実的な意味を考え抜く」ことに徹することであった。そのために、唯物論とか観念論とかいった枠を超えて、大学教授や講壇哲学者たちが達し得なかった水準において、「ヘーゲル論理学の現実的な意義」を明らかにすることができたからである。

それゆえに現在のところ、ヘーゲル哲学の読解のためのもっとも有効、有益な教本として、私たちは牧野紀之氏の「小論理学」「精神現象学」の翻訳と註解を参考にできるし活用できる。

 

牧野紀之氏について(2、唯物論か観念論か) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/j8BUrO

ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/X9SKQB

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牧野紀之氏について(1、牧野紀之氏の経歴など)

2025年05月04日 | 哲学一般

 

牧野紀之氏について(1、牧野紀之氏の経歴など)

日記ブログ「作雨作晴」でも哲学研究ブログ「夕暮れのフクロウ」でも、多くヘーゲル哲学について論及しています。こうした私の「ヘーゲル哲学研究」は、哲学者の牧野紀之氏の「ヘーゲル哲学研究」を媒介にしていますから、私があらためて牧野紀之氏の「思想と哲学」について、批判的に考察することは、必要なことであり課題でもあるのですが、なかなか時間的に能力的にも実際に具体的に着手できませんでした。

しかし、この問題は「私の思想や哲学の立場」を明確するためにも、いつまでも先送りできることでもないので、少しずつでも着手していくつもりで、今日の記事になりました。こうした感想や考察を断片的にでも蓄積していって、それを手がかりとして、時がくればそれらを整理しまとめて、一つの必然的で体系的なまとまった考察としていきたいと考えています。

牧野紀之氏については、牧野氏自身がご自身のブログの中で明らかにされています。

牧野紀之 - マキペディア(発行人・牧野紀之) https://is.gd/89Z4qs

牧野紀之


2008年08月01日 | マ行

1、経歴等

1939年、東京に生まれる。
 1963年、東大文学部哲学科を卒業。
 1970年、東京都立大学博士課程を卒業。
 1971年、鶏鳴出版を始める。
 1973年、哲学私塾「鶏鳴学園」を始める。
 1976年、雑誌「鶏鳴」を創刊。
1990年、引佐郡引佐町(現在の浜松市北区引佐町)に移住。
 1991年、04月から哲学の共同生活を始めるが失敗。
2006年、ブログ百科事典「マキペディア」(創刊時の名は「マキシコン」)を創刊

2、思想遍歴等

 大学院卒業までの経歴については「勉強の思い出」を参照。

 60年安保闘争の中で直面した問題と取り組み、ヘーゲル哲学を介して考える中で、生活を哲学する方法を確立した。「生活のなかの哲学」「哲学夜話」(鶏鳴出版)。

 ヘーゲル研究の成果は訳書「精神現象学」(未知谷)「小論理学」(上下巻、鶏鳴出版)など。

 又、社会主義の根源的反省の中で、唯物史観の論理的再構成を目指す。「労働と社会」「ヘーゲルの目的論」(鶏鳴出版)など。

 それの延長線上で、マルクスとエンゲルスの自称「科学的社会主義」を再検討して、その証明の不十分性を指摘する。つまり、それは実際には「空想的社会主義」の1種でしかないことを証明。「マルクスの〈空想的〉社会主義」(論創社)。

 社会運動のあり方としては「本質論主義」を提唱し、具体化している。これと関連して、従来の社会主義運動で理論的検討の加えられなかった諸問題を解明。「理論と実践の統一」(論創社)。

 ドイツ語教師としての活動の中で、関口存男(つぎお)氏のドイツ語学を学ぶ。「関口ドイツ語学の研究」(鶏鳴出版)。

 教育活動では、初めは学校を低く見て私塾を目指してきたが、失敗してからは、学校の可能性を追求するようになる。

 哲学教育の目的を「各自が自分の考えを自分にはっきりさせ、更に発展させること」と定式化したこと、その中心的な手段としての教科通信を最大限に利用するようになったことで、新境地を開拓。「哲学の授業」「哲学の演習」(未知谷)。教科通信「天タマ」。

 ドイツ語の授業については、教科通信「ユーゲント」。

 2003年09~11月、浜松市積志公民館で哲学講座。「松の木」

 2004年04月~05年03月、地元の自治会長を務める。

 2010年04月~11年03月、地元の組長(事実上は自治会長に近い。隣の自治会と合併したために「組」になっただけ)を務める。「私の自治会長」を参照。

 2010年3月末をもって静岡大学情報学部でのドイツ語非常勤講師の仕事を終える。教科通信「ユーゲント」。

 70歳ころから「学問は一代、思想も一代」と考えるようになり、かつての間違いの根本は「生徒を集めよう」と考えたこと自体にあった、と考えるようになる。

2012年10月、最後の仕事と考える「大論理学」の翻訳に向けて舵を切る。
2012年11月、ヘーゲル「自然哲学」(序論)を訳し、pdf鶏鳴双書として出版。

2013年03月、pdf鶏鳴双書として「ヘーゲルの始原論」を出す。
2013年04月、「大論理学」の翻訳の前に、「小論理学」を見直して出す事とし、見直しを始める。
2013年06月、「関口ドイツ文法」を未知谷から出版。

3、直近の活動報告

 2013年04月から『小論理学』(鶏鳴版)の見直しを始める。同(未知谷版)を出すためである。
 原文のドイツ語を文法的に読むことがしやすくなったのを感ずる。「関口ドイツ文法」を出したためである。
 「ヘーゲルを読んで哲学する」点でも以前よりは前進したと思います。
 2014年7月現在、「現実性」論に入りました。
 2014年9月1日、「本質論」を終えて、暫時小休憩に入る。

 ☆ 「私の研究生活」(2014年10月24日)

 
4、業績一覧

5,社会的活動

 社会的発言は、主として、ブログ「マキペディア」「静岡県庁の真ホームページ」(2010年10月で終える)「浜松市役所の真ホームページ」を中心としている。
→私のブログ体験
私のブログ体験、その2
私のブログ体験(その3)

 社会は官と民から成り立つが、両者は並立しているのではなく、官の運営する枠組みの中で民が活動する、という関係にある。だから、その枠組み(法律で決まっている)と運営(担当者の考えと力量で決まる)を国民は監視し検討すべきであるという考えに基づいて、役所のカウンター・ホームページを作ることを提唱し、実行している。〔その後、「マキペディア」に集中)

2011年02月15日、浜松市長選挙への仮立候補宣言を発表。→「仮立候補関係の記事」
 同、03月25日、正式立候補は出来ず→「報告と御礼」

 (2008年08月01日現在。その後適宜加筆)

 

牧野紀之氏について(一) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/QaRHwV

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする