作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十二節 [理性の確信]

2024年06月14日 | 哲学一般

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十二節 [理性の確信]

§42

Das Wissen der Vernunft ist daher nicht die bloße subjektive  Gewissheit,(※1)sondern auch Wahrheit, (※2) weil Wahrheit in der Übereinstimmung oder vielmehr Einheit der Gewissheit und des Seins oder der Gegenständlichkeit besteht.(※3)

第四十二節[理性の確信]
  
理性の知識は、したがって、たんなる主観的な 確実性 ではなくて、むしろ 真理 でもある。なぜなら、真理とは、認識されたことと存在とが、あるいは客観性とが一致していること、あるいは、むしろその統一のうちにあるからである。

 

※1
 Gewissheit 
確信、確実性。知識をもっていること。ここではまだその知識が主観性にとどまっている。

※2
Wahrheit
真実、正しいこと、真理。
主観的な確信が、存在や対象の客観性と一致すること、もしくは、存在がその概念に一致していること。

※3
先の第二段において、自己意識が「不幸な意識」に至るのは、人間の意識が本来的に自己内分裂をその特性としているからである。
分裂した自己意識は、自己自身との不一致や他者との関係における矛盾、信仰における不和などに、必然的に「不一致と矛盾」に陥るから「不幸な意識」とならざるをえない。
しかし、この「不幸な意識」も、主人と従僕との関係や労働を通して、その「疎外」も克服して、ここで自己意識は理性として、主観と客観との統一を、その確実性と真理を確信するようになる。

しかし、この段階では、理性もまだ「表象」の確信にすぎないから、『精神の現象学』においては、そこからさらにすすんで、自然や有機体(生命)の観察や実験へと、さらには、道徳や人倫の領域へと入り込んで、自らの意志や行動を通して世界を変革しようとしたり(「徳の騎士」と「世路」との対立)しながら理性から精神へと移行してゆく。
カントの啓蒙哲学やフランス革命も検証され、「絶対精神」の領域である芸術、宗教、哲学(絶対知)へと向かう考察がくわしく展開されている。しかし、この『哲学入門』ではそれらは一切省略されている。

 


この『哲学入門』の「精神現象論」においては省略されている、『精神の現象学』の「Ⅴ 理性の確信と真理」および「Ⅵ 精神」の内容については、梗概か要約としてまとめておきたいと考えています。

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十一節 [理性が洞察するもの]

2024年06月10日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十一節 [理性が洞察するもの]

§41

Oder was wir durch die Vernunft einsehen, ist: 1) ein Inhalt, der nicht in unsern bloßen Vorstellungen oder Gedanken be­steht, die wir für uns machten, sondern der das an und für sich seiende Wesen der Gegenstände enthält und objektive Realität hat und 2) der für das Ich kein Fremdes, kein Gegebenes, son­dern von ihm durchdrungen, angeeignet und damit eben so sehr von ihm erzeugt ist.(※1)(※2)

第四十一節[理性が洞察するもの]

あるいは、私たちが理性を通して理解するところのものは、1) 私たちが自分たちのために作った単なる表象や思考のうちにはない内容ではなく、むしろ対象に本来的に存在する本質を含んだ、そして客観的な実在性をもった内容であり、また、2) 「私」にとってその内容は疎遠なものではなく、また誰かから与えられたものでもなく、「私」によって洞察されて取り入れられ、そして、まさにその結果「私」によって作り出されたものである。

 

※1
was wir durch die Vernunft einsehen
理性によって私たちが認識するものは、「私」によって探求されて手に入れ、生み出された主観的な内容であるとともに、客観的であり現実性をもった内容である。それは私にとってよそよそしいものではない。この理性の段階において主観と客観の対立は統一され宥和する。

※2  
理性のこの段階に至った自己意識は、個別と普遍との統一とその実在性は確信する。しかし、「現象学」の理性の項においては、そこから自然や有機体の観察や実験へと、さらには道徳や人倫の領域へと展開していく。そこでよく知られている「徳の騎士」(革命家、若者)が「世路」(現実の法則、大人)に敗北する論理などは、ここではすべて省略されている。

 

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ヘーゲル『哲学入門』  中級  第三段  理性  第四十節 [理性について]

2024年06月07日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』  中級  第三段  理性  第四十節 [理性について]

 Dritte Stufe. Die Vernunft.

§40

Die Vernunft ist die höchste Vereinigung des Bewusstseins und des Selbstbewusstseins oder des Wissens von einem Gegen­stande und des Wissens von sich. Sie ist die Gewissheit, dass ihre Bestimmungen eben so sehr gegenständlich, Bestimmungen des Wesens der Dinge, als unsre eigenen Gedanken sind. Sie ist eben so sehr die Gewissheit einer selbst, Subjektivität, als das Sein oder die Objektivität, in Einem und demselben Denken.(※1)

第三段  理性

第四十節[理性について]

理性とは、意識と自己意識の最高の統一である。つまり、対象についての知識と自己についての知識との最高の統一である。理性とは次のことを確信することである。すなわち、理性の規定が、私たち自身の思考として、まったく客観的であって、事物の本質についての規定でもあるという確信である。理性とは、一つの同じ思考にあって、存在や客観性とまったく同じように、自己自身や主観性を確信することである。

 

※1
「精神の現象学」の中で展開されているように、自己意識は長い格闘ののちに、ここにおいて理性の確信にたどり着く。
理性の規定は、客観的であり事物の本質であるとともに、それはまた自己自身や主観性との統一でもある。すなわち、真理であるという確信である。
「理性」は通俗的にも多用される概念であるが、ここでヘーゲルが規定しているように、哲学的には絶対知を把握する認識能力をいう。
自己意識が理性に至るまでにたどる道程は、『精神の現象学』においてはくわしく展開されているが、この『哲学入門』ではすべて省略されている。

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十九節  [自己意識の普遍性2]

2024年06月05日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十九節  [自己意識の普遍性2]


§39

Das Selbstbewusstsein ist sich nach dieser seiner wesentlichen Allgemeinheit nur real, insofern es seinen Widerschein in An­dern weiß (ich weiß, dass Andere mich als sich selbst wissen) und als reine geistige Allgemeinheit, der Familie, dem Vater­land u. s. f. angehörig, sich als  wesentliches Selbst  weiß. (※1)(Dies Selbstbewußtsein ist die Grundlage aller Tugenden, der Liebe, Ehre, Freundschaft, Tapferkeit, aller Aufopferung, alles Ruhms u. s. w.)(※2)


第三十九節[自己意識の普遍性2] 

自己意識が他者のうちに自身の反映を認め(他者が私を私自身として認めていることを、私が知っていること)そうして、家族や祖国などに属する純粋に精神的な普遍性として、自らを本質的な自己として知るかぎりにおいて、この自らの本質的な普遍性によって、自己意識はただ現実的になる。(この自己意識は、すべての徳、愛、名誉、友情、勇気、すべての自己犠牲、すべての名声といったものの基礎である。)

 

※1
意識はまず欲望の対象としての物や他者を介して、自己意識を確立するが、この自己意識は主人と従僕との関係において、服従と労働を通して普遍的な性格を形成していく。
自己意識はここで単なる個別的な存在から、普遍的な自己意識として他者や家族や市民社会、国家との関係において自己を認識するようになる。

※2
この『哲学入門』の「精神現象論」では、『精神の現象学』の中には詳細に展開されている「理性」の段階に至るまでの、自由を求めて苦悩し格闘する自己意識のたどる道程が、ストア主義や懐疑主義へと歩む不幸な意識の行き詰まりと絶望が一切省略されている。

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十八節  [自己意識の普遍性1]

2024年05月30日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十八節  [自己意識の普遍性1]

C. Allgemeinheit des Selbstbewusstseins

§38

Das allgemeine Selbstbewusstsein ist die Anschauung seiner als eines nicht besondern, von andern unterschiedenen, sondern des an sich seienden, allgemeinen Selbsts.(※1) So anerkennt es sich selbst und die andern Selbstbewusstsein in sich und wird von ihnen anerkannt.(※2)

C.自己意識の普遍性

§38[自己意識の普遍性1]
  
 普遍的な自己意識とは、他と区別された特殊な自己としてではなくて、本来的に存在している普遍的な自己 として、自己自身を直観することである。そのようにして普遍的な自己意識は自己自身を認めるし、また自己のうちに他の自己意識をも認め、自らもそのようにして他の自己意識から認められる。

 

※1
自己も他人もそれぞれが「自己意識」である点では何ら変わりがない。それゆえに「自己意識」は、「普遍的」である。この普遍性は自己意識にとってan sich(本来的)なものであり、類的なものである。
すべての概念は、個別性、特殊性と普遍性の三つの契機をもつが、この「自己意識」についても例外ではない。ただ、この第三十八節においては「自己意識」の「普遍性」が強調される。
「自己意識」と「他の自己意識」とに普遍性を認めることから、家族や故郷、同胞、祖国などの認識が生まれてくる。

※2
この「哲学入門」の対象は「人間の意志」である。この意志は自己意識から生まれてくるが、その「普遍性」についても、これまでにも繰り返し論及されている。たとえば、ある黄檗宗のお坊さんが「己と他の己」と言ったことにも触れた。

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第三節 [個人の自由意志と法の普遍性] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/27gyy6ts

 

 ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十八節  [自己意識の普遍性] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/2bbeykeh

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十七節  [自由に移行するための自己放棄]

2024年05月23日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十七節  [自由に移行するための自己放棄]

§37

Diese Entäußerung der Einzelheit als Selbst ist das Moment(※1), wodurch das Selbstbewusstsein den Übergang dazu macht, all­gemeiner Wille (※2)zu sein, den Übergang zur positiven(※3) Freiheit.(※4)

第三十七節[自由に移行するための自己放棄]

自己としての個性を放棄することは、自己意識が普遍的な意志へと移行を成しとげるための、つまり積極的な自由へと移行するための契機である。


※1 
要因、契機(das Moment)
主人と従僕との関係において、従僕が主人に対する恐れから、自ら服従し自己の個性を放棄することで、従僕は服従と労働の中で自らの技能を磨いて自立性を高めていく。
「自己の個性の放棄」は従僕が自立していくための契機(要因)「das Moment」である。

※2
普遍的な意志(all­gemeiner Wille )
従僕は、服従と労働の中で自己中心の恣意や、個人的な欲望や意志をおさえて、普遍的な意志に移行する。普遍的な意志とは市民社会や国家などにおける共同体における意志である。

※3
積極的な自由(positiven Freiheit.)
ヘーゲルは自由を消極的(Negativ)と積極的(Positiv )の二側面で捉える。libertyとfreedom とのちがいと同じ。前者は、単なる束縛からの自由に過ぎないが、後者は、自己の意志をもって積極的に社会や国家にかかわっていくことの自由ともいえる。

※4
ヘーゲルの処女作『精神の現象学』の中で展開されている、ストア主義(Stoicism)から懐疑主義(Skepticism)、不幸な意識(Das unglückliche Bewußtsein)へ進みゆく道程の記述が、この『哲学入門』の第三十七節の「精神現象論」の説明ではその道程が完全に抜け落ちている。この過程で自己意識は行き詰まりと絶望をくり返しながら、理性的な意識へと克服の道を歩んでいく。

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十七節  [自由に移行するための自己放棄] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/282864uu

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段  自己意識  第三十六節 [恣意の否定と真の服従]

2024年05月17日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段  自己意識  第三十六節 [恣意の否定と真の服従]

§36

Der eigene und einzelne Willen des Dienenden, näher betrach­tet, löst sich aber überhaupt in der Furcht des Herrn,  dem inne­ren Gefühle seiner Negativität, auf. 

第三十六節[恣意の否定と真の服従]

しかし、一般的に従僕自らの固有の意志は、よりくわしく見てみると、主人に対する恐怖の うちに、つまり従僕のうちにある否定的な感情の中に消えてしまっている。

Seine  Arbeit (※1) für den Dienst eines Anderen ist eine  Entäußerung (※2)seines Willens_ teils an sich, teils ist sie zugleich mit der Negation der eigenen Be­gierde die positive  Formierung der Außendinge(※3) durch die Arbeit, 

他者に奉仕するための従僕の「労働」は、それ自体が彼の意志の「外化」であると同時に、彼自身の欲望を否定することであって、その労働を通して積極的に「外部に事物を形成」することでもある。

indem durch sie das Selbst seine Bestimmungen(※4) zur Form der Dinge macht und in seinem Werk sich als ein gegenständliches anschaut. 

そうすることによって、従僕自身は自らの内的な思いを物の形にまで作り上げ、そうして自分の作品の中に自分自身を一つの客観物として直観するのである。

Die Entäußerung der  unwesentlichen Willkür  macht das Moment des wahren Gehorsams aus. (Peisistratos (※5) lehrte die Athenienser gehorchen. Dadurch führte er die Solonischen Gesetze in die Wirklichkeit ein und nachdem die Athenienser dies gelernt hatten, war ihnen Herrschaft überflüssig.)

本質的でもないところの恣意を 捨て去ることは、真の服従のために不可欠の要素である。(ペイシストラトスはアテナイ人に服従を教えた。そうしてから彼はソロンの法律を実際に採用した。そうしてアテナイ人が服従を学んだ後は、もはや彼らに支配権力は余計なものになった。)

 

※1
die  Arbeit
 前三十三節でそれぞれの自己意識の間に存在する不平等から主人と従僕の関係が必然的に生じ、そこに奉仕や服従が生まれるが、従僕は奉仕のために 労働 に従事することになる。

※2
die  Entäußerung
「Entäußerung」もともとドイツ語で「外に投げ捨てる」という意味。
動詞「entäußern」「外部に表す」「(権利や所有権を)放棄する」

従僕は奉仕のための労働を通して、自己の意志や所有権を放棄する。これがこの文脈でヘーゲルが用いた「Entäußerung」の意味である。この労働、すなわち自己の「Entäußerung(外化・疎外)」を通して、個人がどのような事物にどのようにして自己を捧げるか、あるいはそのことで自己を喪失するか、また、それによってどのように他者に対して、社会や国家に対して関わっていくかなど、重要な問題が含まれている。

ちなみに、マルクスはヘーゲルからこの「Entäußerung」の概念を受け継ぎ、労働者が自らの労働力を資本家に売却することをもって、労働者が自己を「Entäußerung(疎外)」するとした。そしてこのことを、いわゆる「資本主義」の根本原理の一つとして捉え、この労働者の「疎外」の克服を社会主義運動の目的とした。

確かにマルクス主義には、そうした部分的な真理と意義は含まれているとしても、しかし総体としては、その目的を実現する手段として「プロレタリア独裁」を主張した点において、この思想と哲学はすでに歴史的にも理論的にも破綻している。
「樹の善し悪しは、その樹の結ぶ実によってわかる。」(ルカ書6:43)という実証主義からもそのことは明らかである。
「Entäußerung(疎外)」の概念については、また別個にさらにくわしく考察する機会があると思う。

※3
 die positive Formierung der Außendinge
その労働を通して積極的に「外部に事物を形成」する。
画家や彫刻家はその芸術作品の創造によって、自己の内部の思い「Bestimmung」を、その美や理念を、作品として外部に形成する。
トヨタ自動車は、その企業の従業員の労働を結集して、「レクサス」という自動車(Bestimmung)を商品として完成させる。
哲学者は自己の使命「Bestimmung」を国家において実現する。
内なる「Bestimmung」は「Entäußerung(外化)」される。

※4
 seine Bestimmungen
「Bestimmung」「目的」「使命」「役割」「定め」
「bestimmen」動詞「定める」「決定する」
「Bestimmung」は、個人が達成すべき目的や使命、役割を意味する。
人生の意味や目的について考察する際に必要な概念で、哲学や宗教において重要な意義をもつ。「Bestimmung」の概念については、これまでの註解においても、繰り返し取り上げてきた。

※5
Peisistratos ペイシストラトス
ペイシストラトス(Peisistratos、紀元前600年頃 - 紀元前527年頃)は、古代ギリシャのアテナイで重要な役割を果たした政治家。
「本質的でもないところの恣意を捨て去ること(die Entäußerung)は、真の服従のために不可欠の要素である。」
「自我」を捨て去る(die Entäußerung)ことは、他者との関係の中で、労働を通して自己意識が自己を見つけるために経験する過程である。個人は他者との関係の中で自己を見つけ、自己を実現する。
現代日本の教育の根本的な欠陥は、真の自己実現のために、「自我」を捨て去る(die Entäußerung)こと、「本質的でもないところの恣意を捨て去ること、真の服従」を教えないことである。その結果として「クズ的人格」が日本人に生まれてくる。

ペイシストラトス - Wikipedia https://is.gd/dIEdWA

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十五節[主人と従僕の自由、および真の自由]

2024年04月29日 | 哲学一般


ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十五節[主人と従僕の自由、および真の自由]

§35

Diese rein negative Freiheit, die in der Abstraktion von dem natürlichen Dasein (※1)besteht, entspricht jedoch dem Begriff der Freiheit (※2)nicht, denn diese ist die Sichselbstgleichheit im Anders­sein, teils der Anschauung seines Selbsts in andern Selbst, teils der Freiheit nicht vom Dasein, sondern im Dasein über­haupt, eine Freiheit, die selbst Dasein hat. Der  Dienende  ist selbstlos und hat zu seinem Selbst ein anderes Selbst, so dass er im Herrn sich als einzelnes Ich entäußert und aufgehoben ist und sein wesentliches Selbst als ein anderes anschaut. Der  Herr  hingegen schaut im Dienenden das andere Ich als ein aufgeho­benes und  seinen einzelnen Willen als erhalten  an. (Geschichte Robinsons und Freitags.)(※3)

 

第三十五節[主人と従僕の自由、および真の自由]

しかし、自然的な存在を捨て去ることのうちに存在する、この純粋に否定的な自由は、自由の概念とは一致しない。というのも、自由とは他者の存在内における自己同一性であり、一面においては、他の自己のうちに自分自身を直観することであり、一面においては、そこにある存在からの自由ではなく、そこにある存在一般のうちにある自由であり、それは自身の存在をもつ自由である。従僕 は自我をもたず、そうして自己自身に代えて他人の自我をもつのであり、その結果として従僕は、固有の自我としての自分を主人のうちに手放し、自身を主人に預けている。そうして彼本来の自我を他者として見ている。主人はそれとは反対に、自分の自由になる他人の自我を従僕のうちに見るとともに、彼固有の意志が従僕のうちに収まっている のを認めるのである。

(ロビンソン・クルーソーとフライデーの物語)

 

※1

Diese rein negative Freiheit , die in der Abstraktion von dem natürlichen Dasein
「自然的な存在を捨て去ることのうちに存在する、この純粋に否定的な自由」とは、要するに、我が命さえをも自ら投げ捨てることのできる「自由」のことである。これも確かに「一つの自由」ではあるが、しかし、それは葉隠的な「死の哲学」における自由であり、それを「否定的な自由」としてとらえている点においても、ヘーゲルの哲学は「死の哲学」ではなく「生の哲学」である。

※2
der Begriff der Freiheit   「自由の概念=真の自由」
ここでヘーゲルは「真の自由」すなわち「自由の概念」をどのようなものであると考えているかがわかる。真の自由は「何かを捨て去ること」にあるのではなく「他の存在のうちに自己の存在を保つこと」のうちにある。

参照:ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第三節 [個人の自由意志と法の普遍性] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/jFA85g

※3
「ロビンソン・クルーソー物語」イギリスの作家、ダニエル・デフォーの作品。主人公のロビンソン・クルーソーは船で遭難し孤島に漂着する。その島で生き延びていくなかで出会った原住民の一人フライデーは彼の忠実な従僕となる。主人と従僕の関係の具体的な例として、ヘーゲルはこの物語を取りあげている。「精神の現象学」においても、哲学的な主題の具体的な例としてギリシャ神話や聖書、「ラモーの甥」その他さまざまな文学作品をとり挙げている。

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十五節[主人と従僕の自由、および真の自由] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/1ytwa4

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十四節[自由よりも生命をえらぶ従僕]

2024年04月18日 | 哲学一般

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十四節[自由よりも生命をえらぶ従僕]

§ 34

Indem von zwei einander gegenüberseienden Selbstbewusstsein jedes sich als ein absolutes Fürsichsein(※1)gegen und für das andere zu beweisen und zu behaupten streben muss, (※2) tritt dasjenige in das Verhältnis der Knechtschaft, welches der Freiheit das Leben vorzieht  und damit zeigt, dass es nicht fähig ist, durch sich selbst von seinem sinnlichen Dasein(※3) für seine Unabhängigkeit zu abstrahieren.(※4)

第三十四節[自由よりも生命をえらぶ従僕]

互いに対立して存在する二つの自己意識は、反対するにせよ賛同するにせよ、それぞれが一個の絶対的な自覚的な存在として、自己を他者に対して証明し主張するよう努めなければならないから、自由よりも生命を選び、その結果として自己の独立性のために自分の肉体的な存在を捨て去ることのできない自己意識は隷従の関係に置かれることになる。

 

※1
 ein absolutes Fürsichsein 一つの絶対的な「自覚的な存在」。意識の自己分裂の結果、自己を自己として自覚する。「独立的な存在」「自立的な存在」とも訳せる。

※2
自己意識は他の自己意識との対立を通して自己を確認する。

※3
「sinnlichen Dasein 感覚的なそこにある存在、肉体的な存在」
それぞれの「自己意識」の承認をめぐる闘争において、自由のために肉体的生命をすてることのできないものは、隷従の立場に陥る。

※4
これまでの叙述の展開からも分かるように、ヘーゲルの処女作『精神の現象学』で詳細に考察された意識の進展が、この哲学入門の第二課程の「精神現象論」おいて簡潔に叙述されている。意識は、「1、感性的意識」から「2、知覚」へと、さらに「3、悟性」をへて「自己意識」に至る。「自己意識」は「欲望」を経て、この第三十四節で「自己意識」は他の自己意識との関係に入る。それは対立的な関係であり「支配と隷従の関係」である。この過程をへて自己意識は第三段の「理性」に至る。

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十四節[自由よりも生命をえらぶ従僕] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/lV8gGn

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十三節[主人と従僕の関係の発生]

2024年04月11日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十三節[主人と従僕の関係の発生]

§33

Aber die Selbstständigkeit  ist die Freiheit nicht sowohl  außer  und von dem sinnlichen, unmittelbaren Dasein, als vielmehr in demselben. Das eine Moment ist so notwendig, als das andere, aber sie sind nicht von demselben Werte.(※1)

第三十三節[主人と従僕の関係の発生]

しかし、自立するということは外部にあって 肉体的な直接的にそこにあるものから自由であるということではなく、むしろ内面における自由である。一つの契機は他の契機と同じように必然的なものであるが、しかし、それらの価値については同じではない。

Indem die  Ungleich­heit  eintritt, dass dem einen von zweien Selbstbewusstsein die Freiheit gegen das sinnliche Dasein, dem andern aber dieses gegen die Freiheit als das Wesentliche gilt, so tritt mit dem gegenseitigen Anerkanntwerdensollen in der bestimmten Wirk­lichkeit das Verhältnis von Herrschaft  und Knechtschaft  zwi­schen ihnen ein; oder überhaupt des Dienstes  und Gehorsams, insofern durch das unmittelbare Verhältnis der Natur (※2) diese Verschiedenheit der Selbstständigkeit vorhanden ist.

二つの自己意識のうちの一方は、肉体的な存在よりも自由を本質的なものとみなし、もう一方はそれに対して、自由よりも肉体的な存在を本質的なものとみなすという 不平等の  生じることから、お互いが認められたいという特定の現実のなかにおいては、両者のあいだに主人と従僕の関係が生まれてくる。言いかえれば、自立することについて、生まれつきの直接的な関係を通してこの区別が存在するかぎりは、奉仕服従 の関係が一般に生まれてくる。

 

※1
Das eine Moment ist so notwendig, als das andere
「一つの契機は他の契機と同じように必然的である」
私たちの自由には、「精神面の自由」と「肉体面の自由」があるということである。いずれの自由も人間にとって必然的なものであるが、いずれに価値を見出すかは同じではない。

※2
durch das unmittelbare Verhältnis der Natur
「生まれつきの直接的な関係を通して」
自然の世界においては、諸動物の間に典型的に見られるように、また人間の場合においてもそうだが、能力、素質、環境、遺伝などの側面において、剥き出しの不平等、区別が存在する。その結果として弱肉強食の関係が、主人と従僕の関係が生まれる。

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自己意識 第三十三節[主人と従僕の関係の発生] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/AMtBeb

 

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