牧野紀之氏について(2、唯物論か観念論か)
牧野紀之氏は、世界観としては、唯物論の立場に立つ。それは牧野氏の経歴を見てもわかるように、彼の哲学研究が、共産主義運動への参画を根本的な動機としていたことから来るものである。この共産主義とはマルクス主義であり、毛沢東主義である。
マルクス主義や毛沢東主義は世界観の立場としては唯物論である。マルクス主義を初心とした牧野氏は終生にわたって唯物論の立場から離れることはなかった。これが彼の哲学の限界である。だから、牧野氏にとっては「世界には初めも終わりもない」。
かくして、牧野氏の指導教官であった東京都立大学の教授であったマルクス主義者の寺沢恒信のもとでヘーゲル哲学の研鑽に励んだ牧野氏は、その師と同じく「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの提唱を、牧野氏自身の哲学研究の出発点しており、この立場を終生にわたって引き継いだ牧野氏は、したがって、「ヘーゲル哲学自体」の研鑽をどれほど深めようとも、絶対的観念論者ヘーゲルそのものの立場に立つことはなかった。
牧野紀之氏はいわゆる60年安保闘争世代に大学時代を過ごしており、その時代思潮に深く影響されている。それに対して、私は牧野紀之よりもちょうど一世代下の70年安保闘争の時代に学生時代を過ごした。しかし、もともと私のヘーゲル哲学研究の動機は「キリスト教の研究」にあったから、世界観の立場としては、マルクスの唯物論の立場を選択する動機も必然性もなかった。
ヘーゲル哲学そのものの世界観は、「絶対的観念論」とは言われるが、そもそも基本的にはこの「絶対的観念論」は唯物論をも止揚したものである。つまり、絶対的観念論とは、唯物論でもなければ、いわゆる観念論でもない。物質と観念がどちらが根源的かという問いには、究極的には確定できないとするのがヘーゲルの立場である。これを日本の伝統的哲学の立場から言うなら、「色心不二」の立場であって、色=物質、心=観念の二者は二つであって二つではないという立場とおなじである。色=物質、心=観念のいずれが根源的かという問題には結論がない。
もともと、「キリスト教の研究」を動機とした私の「ヘーゲル哲学研究」には、したがって、そもそもマルクスの唯物論の立場に立たなければならないという動機もその必然性もなかった。だから私はこのヘーゲルの立場、つまり「絶対的観念論」の立場をそのまま継承することになった。ヘーゲル哲学、その論理学そのものを何ら改造することなく、そのまま引き継ぐだけである。牧野氏のように唯物論の立場から改作する必要もない。ヘーゲル哲学を「唯物論の立場から改作する」というのは、むしろ改悪であり「非真理」への転落以外のなにものでもない。この観点から、マルクスの浅薄な「ヘーゲル概念論」理解を逆批判することになった。
とはいえ、牧野紀之氏の「小論理学」「精神現象学」の翻訳と註解は、「唯物論」の立場からの改悪という根本的な欠陥を自覚して読解する限りは、我が国におけるこれまでのヘーゲル哲学のテキストのもっとも正統的な優れた読解の教本である。ヘーゲル哲学の読解のためのもっとも有効、有益な教本として、私たちは牧野紀之氏の「小論理学」「精神現象学」の翻訳と註解を参考にできるし活用すべきものである。
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ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/X9SKQB