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作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

牧野紀之氏について(2、唯物論か観念論か)

2025年05月06日 | 哲学一般

 

牧野紀之氏について(2、唯物論か観念論か)

 

牧野紀之氏は、世界観としては、唯物論の立場に立つ。それは牧野氏の経歴を見てもわかるように、彼の哲学研究が、共産主義運動への参画を根本的な動機としていたことから来るものである。この共産主義とはマルクス主義であり、毛沢東主義である。

マルクス主義や毛沢東主義は世界観の立場としては唯物論である。マルクス主義を初心とした牧野氏は終生にわたって唯物論の立場から離れることはなかった。これが彼の哲学の限界である。だから、牧野氏にとっては「世界には初めも終わりもない」。

かくして、牧野氏の指導教官であった東京都立大学の教授であったマルクス主義者の寺沢恒信のもとでヘーゲル哲学の研鑽に励んだ牧野氏は、その師と同じく「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの提唱を、牧野氏自身の哲学研究の出発点しており、この立場を終生にわたって引き継いだ牧野氏は、したがって、「ヘーゲル哲学自体」の研鑽をどれほど深めようとも、絶対的観念論者ヘーゲルそのものの立場に立つことはなかった。

牧野紀之氏はいわゆる60年安保闘争世代に大学時代を過ごしており、その時代思潮に深く影響されている。それに対して、私は牧野紀之よりもちょうど一世代下の70年安保闘争の時代に学生時代を過ごした。しかし、もともと私のヘーゲル哲学研究の動機は「キリスト教の研究」にあったから、世界観の立場としては、マルクスの唯物論の立場を選択する動機も必然性もなかった。

ヘーゲル哲学そのものの世界観は、「絶対的観念論」とは言われるが、そもそも基本的にはこの「絶対的観念論」は唯物論をも止揚したものである。つまり、絶対的観念論とは、唯物論でもなければ、いわゆる観念論でもない。物質と観念がどちらが根源的かという問いには、究極的には確定できないとするのがヘーゲルの立場である。これを日本の伝統的哲学の立場から言うなら、「色心不二」の立場であって、色=物質、心=観念の二者は二つであって二つではないという立場とおなじである。色=物質、心=観念のいずれが根源的かという問題には結論がない。

もともと、「キリスト教の研究」を動機とした私の「ヘーゲル哲学研究」には、したがって、そもそもマルクスの唯物論の立場に立たなければならないという動機もその必然性もなかった。だから私はこのヘーゲルの立場、つまり「絶対的観念論」の立場をそのまま継承することになった。ヘーゲル哲学、その論理学そのものを何ら改造することなく、そのまま引き継ぐだけである。牧野氏のように唯物論の立場から改作する必要もない。ヘーゲル哲学を「唯物論の立場から改作する」というのは、むしろ改悪であり「非真理」への転落以外のなにものでもない。この観点から、マルクスの浅薄な「ヘーゲル概念論」理解を逆批判することになった。

とはいえ、牧野紀之氏の「小論理学」「精神現象学」の翻訳と註解は、「唯物論」の立場からの改悪という根本的な欠陥を自覚して読解する限りは、我が国におけるこれまでのヘーゲル哲学のテキストのもっとも正統的な優れた読解の教本である。ヘーゲル哲学の読解のためのもっとも有効、有益な教本として、私たちは牧野紀之氏の「小論理学」「精神現象学」の翻訳と註解を参考にできるし活用すべきものである。

 

牧野紀之氏について(2、唯物論か観念論か) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/j8BUrO

ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/X9SKQB

 

 

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牧野紀之氏について(1、牧野紀之氏の経歴など)

2025年05月04日 | 哲学一般

 

牧野紀之氏について(1、牧野紀之氏の経歴など)

日記ブログ「作雨作晴」でも哲学研究ブログ「夕暮れのフクロウ」でも、多くヘーゲル哲学について論及しています。こうした私の「ヘーゲル哲学研究」は、哲学者の牧野紀之氏の「ヘーゲル哲学研究」を媒介にしていますから、私があらためて牧野紀之氏の「思想と哲学」について、批判的に考察することは、必要なことであり課題でもあるのですが、なかなか時間的に能力的にも実際に具体的に着手できませんでした。

しかし、この問題は「私の思想や哲学の立場」を明確するためにも、いつまでも先送りできることでもないので、少しずつでも着手していくつもりで、今日の記事になりました。こうした感想や考察を断片的にでも蓄積していって、それを手がかりとして、時がくればそれらを整理しまとめて、一つの必然的で体系的なまとまった考察としていきたいと考えています。

牧野紀之氏については、牧野氏自身がご自身のブログの中で明らかにされています。

牧野紀之 - マキペディア(発行人・牧野紀之) https://is.gd/89Z4qs

牧野紀之


2008年08月01日 | マ行

1、経歴等

1939年、東京に生まれる。
 1963年、東大文学部哲学科を卒業。
 1970年、東京都立大学博士課程を卒業。
 1971年、鶏鳴出版を始める。
 1973年、哲学私塾「鶏鳴学園」を始める。
 1976年、雑誌「鶏鳴」を創刊。
1990年、引佐郡引佐町(現在の浜松市北区引佐町)に移住。
 1991年、04月から哲学の共同生活を始めるが失敗。
2006年、ブログ百科事典「マキペディア」(創刊時の名は「マキシコン」)を創刊

2、思想遍歴等

 大学院卒業までの経歴については「勉強の思い出」を参照。

 60年安保闘争の中で直面した問題と取り組み、ヘーゲル哲学を介して考える中で、生活を哲学する方法を確立した。「生活のなかの哲学」「哲学夜話」(鶏鳴出版)。

 ヘーゲル研究の成果は訳書「精神現象学」(未知谷)「小論理学」(上下巻、鶏鳴出版)など。

 又、社会主義の根源的反省の中で、唯物史観の論理的再構成を目指す。「労働と社会」「ヘーゲルの目的論」(鶏鳴出版)など。

 それの延長線上で、マルクスとエンゲルスの自称「科学的社会主義」を再検討して、その証明の不十分性を指摘する。つまり、それは実際には「空想的社会主義」の1種でしかないことを証明。「マルクスの〈空想的〉社会主義」(論創社)。

 社会運動のあり方としては「本質論主義」を提唱し、具体化している。これと関連して、従来の社会主義運動で理論的検討の加えられなかった諸問題を解明。「理論と実践の統一」(論創社)。

 ドイツ語教師としての活動の中で、関口存男(つぎお)氏のドイツ語学を学ぶ。「関口ドイツ語学の研究」(鶏鳴出版)。

 教育活動では、初めは学校を低く見て私塾を目指してきたが、失敗してからは、学校の可能性を追求するようになる。

 哲学教育の目的を「各自が自分の考えを自分にはっきりさせ、更に発展させること」と定式化したこと、その中心的な手段としての教科通信を最大限に利用するようになったことで、新境地を開拓。「哲学の授業」「哲学の演習」(未知谷)。教科通信「天タマ」。

 ドイツ語の授業については、教科通信「ユーゲント」。

 2003年09~11月、浜松市積志公民館で哲学講座。「松の木」

 2004年04月~05年03月、地元の自治会長を務める。

 2010年04月~11年03月、地元の組長(事実上は自治会長に近い。隣の自治会と合併したために「組」になっただけ)を務める。「私の自治会長」を参照。

 2010年3月末をもって静岡大学情報学部でのドイツ語非常勤講師の仕事を終える。教科通信「ユーゲント」。

 70歳ころから「学問は一代、思想も一代」と考えるようになり、かつての間違いの根本は「生徒を集めよう」と考えたこと自体にあった、と考えるようになる。

2012年10月、最後の仕事と考える「大論理学」の翻訳に向けて舵を切る。
2012年11月、ヘーゲル「自然哲学」(序論)を訳し、pdf鶏鳴双書として出版。

2013年03月、pdf鶏鳴双書として「ヘーゲルの始原論」を出す。
2013年04月、「大論理学」の翻訳の前に、「小論理学」を見直して出す事とし、見直しを始める。
2013年06月、「関口ドイツ文法」を未知谷から出版。

3、直近の活動報告

 2013年04月から『小論理学』(鶏鳴版)の見直しを始める。同(未知谷版)を出すためである。
 原文のドイツ語を文法的に読むことがしやすくなったのを感ずる。「関口ドイツ文法」を出したためである。
 「ヘーゲルを読んで哲学する」点でも以前よりは前進したと思います。
 2014年7月現在、「現実性」論に入りました。
 2014年9月1日、「本質論」を終えて、暫時小休憩に入る。

 ☆ 「私の研究生活」(2014年10月24日)

 
4、業績一覧

5,社会的活動

 社会的発言は、主として、ブログ「マキペディア」「静岡県庁の真ホームページ」(2010年10月で終える)「浜松市役所の真ホームページ」を中心としている。
→私のブログ体験
私のブログ体験、その2
私のブログ体験(その3)

 社会は官と民から成り立つが、両者は並立しているのではなく、官の運営する枠組みの中で民が活動する、という関係にある。だから、その枠組み(法律で決まっている)と運営(担当者の考えと力量で決まる)を国民は監視し検討すべきであるという考えに基づいて、役所のカウンター・ホームページを作ることを提唱し、実行している。〔その後、「マキペディア」に集中)

2011年02月15日、浜松市長選挙への仮立候補宣言を発表。→「仮立候補関係の記事」
 同、03月25日、正式立候補は出来ず→「報告と御礼」

 (2008年08月01日現在。その後適宜加筆)

 

牧野紀之氏について(一) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/QaRHwV

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義]

2025年04月30日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義]

§6

Der Gedanken sind dreierlei:
 1) Die  Kategorien (※1)
 2) die  Refle­xionsbestimmungen;  (※2)
 3) die  Begriffe. (※3)
Die Lehre von den beiden erstem macht die  objektive   Logik in der Metaphysik aus; die Lehre von den Begriffen die eigentliche oder  subjektive  Logik. (※4)

第六節

思考には三つ種類がある。すなわち、
1)カテゴリー
2)反省規定
3)概念

である。
はじめの二つは、形而上学における客観的 論理学を構成し、概念の学説が本来の論理学、すなわち主観的 論理学である。

※1
カテゴリー(Kategorien)
カテゴリーとは、物事を認識する際のもっとも基本的な思考の枠組みのこと、もしくは、もっとも根本的な論理形式のことです。思考が世界を理解するための最初の段階で用いられます。
たとえば、「ある」とか「ない」「成る」などは、カテゴリーとして挙げられる典型例です。こうしたカテゴリーは、たんなる人間の観念物ではなく、客観的な事物そのものの論理構造を明らかにするものです。


※2
反省規定(Refle­xionsbestimmungen)
反省規定とは、対象を認識する際に、自らの思考が対象をどのように区別するか、あるいはどのように関係づけるかを行うことです。「反省規定」の段階では、思考は自己と他者を区別したり、あるいは関係づけたり、時計が故障したのはなぜか、彼はなぜ暴力をふるったのか、など因果関係を推理したりします。また、人間についても、男女のそれぞれの同一性やその区別、また親と子の関係についても、愛情や対立といった関係において、「カテゴリー」よりもさらに高次の思考を、この反省規定の段階で行います。

※3
 概念 (Begriffe)

概念とは、ヘーゲル哲学においてもっとも高次の思考形式です。はじめの客観的論理学を構成する1)カテゴリー や 2)反省規定 を統合する形で形成されます。したがって、概念は主観的であると同時に客観的でもあります。それゆえに概念は対象を包括的かつ動的に捉えます。

概念は単なる抽象的な思考の産物ではなく、概念は現実そのものを構成する要素であり、概念は、主観的な思考の枠組みに留まるものではなく、対象そのものの本質的な構造として捉えられます。

たとえば、リンゴや蝶などの動植物などの生命体を例にあげるならば、リンゴは「種子→芽生え→樹木→実→種子」と自らを生成変化させていきます。また「蝶」は「卵 → 幼虫(青虫) → 蛹 → 成虫(蝶) → 卵」と、自らを内在的に変化させていきます。こうした「リンゴ」や「蝶」の生成過程は、「概念」の自己運動そのものです。自然界における生命の生成・発展は、「概念」の具体的な実現形態にほかなりません。

※4
このようにヘーゲルの「概念」は、単なる思考の形式ではなく、現実そのものを構成する原理であり、自己展開する運動体でもあります。​

植物や動物の「概念」には、単に「植物とは何か」「動物とは何か」という定義だけではなく、その内部に芽生えから花開き、実を結ぶまでの自己展開や、蝶の一生が、卵 → 幼虫(青虫) → 蛹 → 成虫(蝶) → 卵という変態の過程も、「概念」の発展と対応しています。

​概念にはこうした法則性が含まれており、それを通じて植物や動物が実際に何であるかが現実的に明らかにされるものです。とくに「概念」の自己展開性や事物の現実構成原理としての「概念」の意義について正しく理解することは大切です。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/s9L9fM

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義](マルクス批判)

2025年04月29日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義](マルクス批判)

§6

Der Gedanken sind dreierlei:
 1) Die  Kategorien (※1)
 2) die  Refle­xionsbestimmungen;  (※2)
 3) die  Begriffe. (※3)
Die Lehre von den beiden erstem macht die  objektive   Logik in der Metaphysik aus; die Lehre von den Begriffen die eigentliche oder  subjektive  Logik. (※4)

第六節

思考には三つ種類がある。すなわち、
1)カテゴリー
2)反省規定
3)概念

である。
はじめの二つは、形而上学における客観的 論理学を構成し、概念の学説が本来の論理学、すなわち主観的 論理学である。

※1
カテゴリー(Kategorien)
カテゴリーとは、物事を認識する際のもっとも基本的な思考の枠組みのこと、もしくは、もっとも根本的な論理形式のことです。思考が世界を理解するための最初の段階で用いられます。
たとえば、「ある」とか「ない」「成る」などは、カテゴリーとして挙げられる典型例です。こうしたカテゴリーは、たんなる人間の観念物ではなく、客観的な事物そのものの論理構造を明らかにするものです。


※2
反省規定(Refle­xionsbestimmungen)
反省規定とは、対象を認識する際に、自らの思考が対象をどのように区別するか、あるいはどのように関係づけるかを行うことです。「反省規定」の段階では、思考は自己と他者を区別したり、あるいは関係づけたり、時計が故障したのはなぜか、彼はなぜ暴力をふるったのか、など因果関係を推理したりします。また、人間についても、男女のそれぞれの同一性やその区別、また親と子の関係についても、愛情や対立といった関係において、「カテゴリー」よりもさらに高次の思考を、この反省規定の段階で行います。

※3
 概念 (Begriffe)

概念とは、ヘーゲル哲学においてもっとも高次の思考形式です。はじめの客観的論理学を構成する1)カテゴリー や 2)反省規定 を統合する形で形成されます。したがって、概念は主観的であると同時に客観的でもあります。それゆえに概念は対象を包括的かつ動的に捉えます。

概念は単なる抽象的な思考の産物ではなく、概念は現実そのものを構成する要素であり、概念は、主観的な思考の枠組みに留まるものではなく、対象そのものの本質的な構造として捉えられます。

たとえば、リンゴや蝶などの動植物などの生命体を例にあげるならば、リンゴは「種子→芽生え→樹木→実→種子」と自らを生成変化させていきます。また「蝶」は「卵 → 幼虫(青虫) → 蛹 → 成虫(蝶) → 卵」と、自らを内在的に変化させていきます。こうした「リンゴ」や「蝶」の生成過程は、「概念」の自己運動そのものです。自然界における生命の生成・発展は、「概念」の具体的な実現形態にほかなりません。

※4
このようにヘーゲルの「概念」は、単なる思考の形式ではなく、現実そのものを構成する原理であり、自己展開する運動体でもあります。​

植物や動物の「概念」には、単に「植物とは何か」「動物とは何か」という定義だけではなく、その内部に芽生えから花開き、実を結ぶまでの自己展開や、蝶の一生が、卵 → 幼虫(青虫) → 蛹 → 成虫(蝶) → 卵という変態の過程も、「概念」の発展と対応しています。

​概念にはこうした法則性が含まれており、それを通じて植物や動物が実際に何であるかが現実的に明らかにされるものです。とくに「概念」の自己展開性や事物の現実構成原理としての「概念」の意義について正しく理解することは大切です。

唯物論者で経験論者のマルクスは、①「概念」が対象の内側に働いており、「概念に即して存在している」ことが対象の真の現実性(Wirklichkeit)であるということを理解せず、②「概念」は主観によって抽象された観念に過ぎないと誤解しました。また、③「概念」の運動は、常に自己否定とその止揚を通じて発展するという内在的な自己発展の論理を理解せず、社会の発展についても、マルクスは「階級闘争史観」から発展の論理を一面的に悟性的に理解して、概念の理性的な内在的な発展を否定しました。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義](マルクス批判) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/ScvmHs

 

 

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赤尾秀一の思想研究

2025年02月15日 | 哲学一般
 
赤尾秀一の思想研究

これまで哲学研究者、赤尾秀一はブログ日記「作雨作晴」や哲学研究ブログ「夕暮れのフクロウ」上などで、さまざまに論考を公開してきました。しかし、いまだ目次や索引などを整備しきれておらず、赤尾秀一の思想傾向の概略でさえ把握しにくいと思います。
それで、さしあたって、中間的なまとめとして、赤尾秀一の思想的な概略とでもいうべきものを、まとめておきたいと思いました。おおよそ次のようなものとなると思います。

1、 ヘーゲル哲学の研究者としての立場
 
◦ 哲学的思考の根底にヘーゲルの哲学を据えようとしています。

◦ とくに「自由」「国家」「立憲君主制」「民主主義」「神の国」といった概念に関心があり、研究を深めようとしています。

2、日本の国家理念としての「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」

◦ 日本の国家理念として「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」を追求しています。(ヘーゲルの国家哲学に基づく国家観と、キリスト教的な価値観を融合させようとしているといえます。)

◦ 日本の歴史的な文脈の中で、「立憲君主制」と「自由民主主義」をどう両立させるかというテーマを追求しています。 

3、二大政党制の構想(「保守自由党」と「民主国民党」)

 ◦ ヘーゲル的な歴史発展の観点から、対立する二つの理念(保守と自由、民主と国民)を調停し、より高次の統一へと発展させようとしています。
 
 
さしあたっては、赤尾秀一の思想傾向としては、おおよそのところ以上のようにまとめることができると思います。今後さらにその研究を深め、思想や哲学を深化発展させることができればいいのですが。皆様のご理解とご協力もお願いできればと思います。
 
 
 
 
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ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判)

2025年02月04日 | 哲学一般

 

ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判)

   2025(令和7)年02月03日(月)曇り。#寺沢学派、#寺沢恒信、#許萬元、#牧野紀之、#マルクス主義批判

 

 

ここしばらくヘーゲル『哲学入門』の翻訳と註解が中断したままになっています。そこでの私の翻訳と註解の水準はさておくとしても、我が国のヘーゲル研究は講壇、在野を問わず、非常に高いレベルにあるのではないか思います。世界的に見てもおそらく最高の水準に達しているのではないでしょうか。

その理由の一つとしては、わが国におけるかつてのマルクス主義の隆盛があると思います。しかし、20世紀末にソ連邦の崩壊を始めとする共産主義の失墜があって、共産主義そのものの信用は地に落ちたということはありますが、それでもわが国においては今なお日本共産党が日本の政界の一角を占めているように、この破綻したマルクス主義も今なお国民の間に一定の影響力はあるようです。

わが国のヘーゲル研究に大きく貢献したのは、マルクス主義哲学者であった元東京都立大学の哲学教授で共産主義者の寺沢恒信の存在が大きいと思います。この寺沢恒信のもとから許萬元と牧野紀之という二人の傑出したマルクス主義ヘーゲル学徒が生まれてきました。

マルクス主義の立場からするヘーゲル哲学研究については、「寺沢学派」とも称することできる、寺沢恒信、許萬元と牧野紀之たちの三人によって、マルクス主義の立場からのヘーゲル哲学研究は行き着くところまで行ったと思います。今後おそらく彼らを乗り越えるほどのヘーゲル哲学研究者は出てこないのではないでしょうか。それほど三人のヘーゲル哲学研究は徹底し傑出していたと思います。

ただ、彼らのヘーゲル研究に限界というものがあるとすれば、それは彼らが「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの誤った提唱を無自覚、無批判に引き継ぎ、それを彼らのヘーゲル哲学研究の出発点にしたことにあると思います。マルクスのヘーゲル哲学批判は、ヘーゲルの絶対的観念論に対する誤解の上に立つものであるし、レーニンはこのマルクスの誤解をそのまま無批判に引き継いでいるからです。

キリスト教にも「ブドウの樹の良し悪しはその実を味わえばわかる」とあるように、共産主義諸国の歴史的な政治的な崩壊という実際の現実が、マルクス主義の破綻を実証することになっていると思います。

ヘーゲルの絶対的観念論は「絶対的」なもので、それ自体としては完結したものです。だから、ヘーゲル哲学批判の上に立つマルクスやレーニンの共産主義は、ヘーゲル哲学の根本的に誤った継承にならざる得なかったと思います。マルクス主義が歴史的に破綻することになったのは理の当然であると思います。

マルクス主義の破綻の原因を理論的に指摘するのは、それなりに教養が必要で難しいことだとは思いますが、私のこれまでの論考の中でも、ヘーゲル哲学に対するマルクスの誤解、無理解については、いくつか指摘してあります。そのマルクスのヘーゲル哲学に対する主な誤解について指摘するとすれば、三つあると思います。

その第一は、ヘーゲルの「概念論」に対するマルクスの誤解です。
その第二は、ヘーゲルの「観念論」に対するマルクスの誤解です。
第三は、ヘーゲルの「国家観」に対するマルクスの改変です。

第一については、マルクスは、「概念」を、単なる「個別性から共通性を抽出」したもので、抽象化や捨象の積み重ねによって生じるものとして、「概念」を単純な観念的な「抽象の産物」として捉えました。しかし、ヘーゲルにとって「概念」は、単に人間が作った便宜的な言葉や観念ではなく、「内在的な必然性によって自己を展開する論理構造」そのものです。マルクスはヘーゲルの「概念」の本質を十分に理解していなかったと言わざるを得ません。

第二に、マルクスとエンゲルスは、ヘーゲルの「概念(der Begriff)」を誤解して単なる主観的な観念的な抽象物として、「観念論的な幻想」と見なしていました。ヘーゲル哲学の「概念」自体は自己運動する論理的実在であり、自己を展開する論理構造であることを見抜けませんでした。

ヘーゲルの「概念」は単なる頭の中の抽象ではなく、現実を貫く論理そのものなのに、マルクスは唯物論的な世界観から、この観念的な自己展開の論理を理解せず、それを「形而上学的な幻想」とか「神秘化された観念論」として物質主義に還元して批判することになった。

その第三は、ヘーゲルの「国家観」に対するマルクスの改変です。
ヘーゲルは『法の哲学』において、国家は「客観的精神の最高の実現形態」であり、国家を「自由の実現形態」として捉えたのに対し、マルクスは国家を「階級支配の道具」とみなし、「国家は支配階級の手段にすぎず、その役割は資本の利益を擁護することにある」といった一面的な国家観を主張しました。そのことによって、本来は家族愛と友愛に満ちた自由な国家であるはずなのに、そこに憎しみと妬みと闘争の不自由な種がまかれました。

許萬元と牧野紀之の二人は、寺沢の指導のもとで切磋琢磨した学友同士でもあります。確かに、寺沢恒信や許萬元、牧野紀之らマルクス主義を継承する立場からのヘーゲル研究は、その徹底性においてヘーゲル哲学研究における功績は大きなものです。しかし、そのいずれもが上記のようなヘーゲル哲学に対するマルクスの誤解を無自覚に無批判に引き継いでしまっているという点で、根本的で致命的な欠陥を抱えたままです。

これまでに赤尾 秀一がマルクスの「ヘーゲル哲学批判」に対して行ったいくつか反論。


§ 280b[概念から存在への移行] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/j9SLmx)
§278c[至高性(主権)をつくる観念論、Der Idealismus, die Souveränität ausmacht] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/ovLOgU
『薔薇の名前』と普遍論争 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/XXPXHK
「神の国」とヘーゲルの「概念」 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/eCm1Xv

事物の価値と欲求 ⎯⎯⎯ 価値の実体について - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/MPGE0B

価値は消費者のニーズで決まる⎯⎯マルクス「労働価値説」のまちがい - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/lIVw2T

 

ヘーゲル研究における「寺沢学派」 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/X9SKQB

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第五節 [思考と対象の関係]

2024年10月28日 | 哲学一般

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第五節 [思考と対象の関係]

§5

Dies ist nicht so zu verstehen, als ob diese Einheit erst durch das Denken zu dem Mannigfaltigen der Gegenstände hinzutrete und die Verknüpfung erst von Außen darein gebracht werde, sondern die Einheit gehört  eben so sehr  dem Objekt an und macht mit ihren Bestimmungen auch dessen eigene Natur aus.(※1)

第五節 [思考と対象の関係]

このことは、あたかもこの統一がまず思考を通して対象の多様性にもたらされ、その結びつきが外部からはじめて持ち込まれたかのように考えてはならない。この統一は、まったく同じく 対象にも属しており、またその諸規定をもって対象に固有の本性をも構成しているのである。

 

※1
統一(主体・思考)と多様性(客体・対象)との関係について、
対象の多様な性質は、思考の介在なしに、すでに対象それ自体において統一されている。認識主体と客体の相互依存性を説明している。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第五節 [思考と対象の関係] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/QqPTZQ

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第四節 [「私」と思考]

2024年10月23日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第四節 [「私」と思考]

§4

Der  Inhalt  der Vorstellungen ist aus der Erfahrung genommen, aber die  Form der Einheit  selbst und deren weitere Bestimmun­gen haben nicht in dem Unmittelbaren derselben als solchem ihre Quellen, sondern in dem Denken.(※1)

第四節 [「私」と思考]

表象の内容  は経験から取得されるが、その 統一の形式  そのものや、そのさらなるくわしい規定は、経験の直接的なものの中にではなくて、思考のうちにその源泉がある。

Erläuterung
説明

Ich  heißt überhaupt Denken.  Wenn ich sage:  ich denke,  so ist dies etwas Identisches. Ich ist vollkommen einfach.(※2) Ich  bin denkend  und zwar  immer.

「私」とは、そもそも「思考」のことである。もし私が「私が考える」と言うとき、これはまったく同一のことを言っている。私とはまったく単一なものである。「私」とは 思考するもの  であり、そして、つねにそうである。 

Wir können aber nicht sagen: ich denke immer. An sich wohl, aber unser Gegenstand ist nicht immer auch Gedanke. (※3)Wir können aber in dem Sinne, dass wir Ich sind, sagen, wir denken immer, denn Ich ist immer die ein­fache Identität mit sich und das ist Denken.

しかし、私たちは「私はいつも考えている」とは言えない。それ自体においては確かにそうだが、私たちの対象がまたいつも思考そのものであるわけではないからである。しかし、私たちが「私」であるという意味においては、私たちはつねに考えていると言える。というのも「私」とはつねに自己と同じ単一のものあり、それは思考だからである。

Als Ich sind wir der Grund aller unserer Bestimmungen. Insofern der Gegen­stand gedacht wird, erhält er die Form des Denkens und wird zu einem  gedachten Gegenstand.  Er wird gleich gemacht dem Ich d. h. er wird gedacht.(※4)

「私」として、私たちは私たちのすべての規定の根拠である。対象が思考されるかぎりにおいて、その対象は思考の形式を得て、思考された対象 となる。対象は私と同じものにされる、つまり、対象は思考されるのである。

 


※1
表象(Vorstellungen)の内容は人間の感覚や経験から得られるものだが、それらの感覚や表象をまとめ統一した形で認識するためには、感覚の経験を超えた「思考の働き」が、つまり、私たちが頭の中で行うカテゴリー化や概念化が必要である。それらは経験そのものからではなく、思考から生まれてくる。カントのカテゴリー表がふまえられている。

※2
個人、個体を意味する英語の、individual と同じ。「分割できないもの」「Atom」。

※3
くつろいでいる時や野球観戦中などのように、思考の対象がいつも具体的に存在しているわけではない。

※4
対象がただに存在するだけではなく、「思考される」ことによって私(主体)と同一化される。つまり、対象が思考の枠組みの中に取り込まれる。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第四節 [「私」と思考] - 夕暮れのフクロウ https://bit.ly/3AbRhGg

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第三節 [思考と抽象]

2024年10月14日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第三節 [思考と抽象]


§3

Das Denken ist Abstraktion, insofern die Intelligenz(※1) von konkreten Anschauungen ausgeht, eine von den mannigfaltigen Bestimmungen weglässt und eine andere hervorhebt und ihr die einfache Form des Denkens gibt.

第三節 [思考と抽象]

知性が具体的な直観から出発し、多様な規定の中から一つを捨て、他のものを取り上げて、それに思考の単純な形式を与える限りにおいて、思考は 抽象 である。

Erläuterung
説明

 Wenn ich alle Bestimmungen von einem Gegen­stand weglasse, so bleibt  nichts  übrig. Wenn ich dagegen eine  Bestimmung weglasse und eine andere  heraushebe, so ist dies abstrakt. Das Ich  z. B. ist eine abstrakte Bestimmung. (※2)


 私がある対象からすべての 規定を取り去るなら、そこには 何も残らない。反対に、ある 規定を捨てて(捨象)別の 規定を取り上げるなら、それは抽象である。たとえば、「私」とは一つの抽象的な規定である。

Ich weiß nur von Ich, insofern ich mich von allen Bestimmungen abson­dere. Dies ist aber ein negatives Mittel. Ich negiere die Bestim­mungen von mir und lasse mich nur als solchen.(※3) Das Abstrahieren ist die negative  Seite des Denkens.(※4)

私が、ただ私について知りうるのは、すべての規定から私のみを切り離して取りあげるからである。しかし、このことは否定的なやり方である。私は私についていろいろと規定することを否定し、そうして、ただ私を何らの規定をももたないものとする。抽象(捨象)するということは、思考の 否定的な  側面である。

 

※1
Intelligenz
情報, 知性, 知恵, 英知などと訳される。
Intelligenz(知性)が、学習や適応など問題解決能力のための技術などを学び活用する能力であるのに対して、
Verstand(悟性)は 論理的に判断する分析的な思考力のことであり、
Vernunft(理性)は真・善・美など道徳的な判断を含む綜合的な思考力である。

※2
思考のプロセスにおいて抽象化(捨象)が行われることを説明している。抽象は同時に捨象でもある。
「精神の現象学」の中においては、「塩」の白く、辛く、結晶の立方体、といったさまざまな規定(性質)の中から、ただ「白い」という性質のみをとり上げることを「悟性」の抽象化(捨象)の働きとして取り上げている。

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 一[知覚について] - 夕暮れのフクロウ https://bit.ly/3NqITFJ

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 六[思考について] - 夕暮れのフクロウ https://bit.ly/4f6CyLE

ヘーゲル『哲学入門』序論 七[意志の抽象的自由] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/2d8bhwfk

※3
カントは「物」から、そのあらゆる規定を取り去ると、「物自体」という空虚な抽象しか残らないとして、現象と物自体を切り離し、私たちの認識は「物自体」には達しえないという「不可知論」を主張した。

※4
ヘーゲルは「抽象化」を思考の否定的な側面として指摘している。この警告、指摘の重要性は一般的にあまり認識されていない。

6月15日(木)のTW:「平等」の強制 - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/2bkpk7gh

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第三節 [思考と抽象] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/2yhjbt34

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第二節 [感覚から思考へ]

2024年10月09日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第二節 [感覚から思考へ]

§2 

Das Denken ist überhaupt das Auffassen und Zusammenfassen des Mannigfaltigen in der Einheit. Das Mannigfaltige als sol­ches gehört der Äußerlichkeit überhaupt, dem Gefühl und der sinnlichen Anschauung an. (※1)

第二節 [感覚から思考へ]

思考とは、そもそも多様なものを一つの統一体として把握し、まとめることである。多様なものそのものは、一般的に外的なものであり、感情や感覚的な直観に依存している。

Erläuterung. 
説明

Das Denken besteht darin, alles Mannigfaltige in die Einheit zu bringen. Indem der Geist über die Dinge denkt, bringt er sie auf die einfachen Formen, welche die reinen Be­stimmungen des Geistes sind. 

思考とは、あらゆる多様なものを統一的に把握し、一つにまとめることにある。精神が事物について考えることによって、それを単純な形式に変えて、その形式が精神の純粋な規定であることを示す。

Das Mannigfaltige ist dem Den­ken zunächst äußerlich. Insofern wir das sinnlich Mannigfaltige auffassen, denken wir noch nicht, sondern erst das Beziehen desselben ist das Denken. Das unmittelbare Auffassen des Mannigfaltigen heißen wir Fühlen oder Empfinden. 

多様なものは、思考に対してはまず外的なものである。
私たちが感覚的に多様なものを捉えているかぎりは、まだ思考しているわけではなく、それらを関係づけることこそが思考である。多様なものを直接的に捉えることを「感じる」とか「知覚する」という。

Wenn ich fühle, weiß ich bloß von etwas; in der Anschauung aber schaue ich etwas als ein mir Äußerliches im Raum und in der Zeit an. Das Gefühl wird zur Anschauung, wenn es räumlich und zeit­lich bestimmt wird.

私が感じるときは、ただ単に何かについて知っているだけであるが、しかし、直観においては、私はある物を空間や時間の中にある私にとって外的なものとして捉える。つまり感覚が空間的および時間的に規定されるとき、それは直観である。

 

※1

思考の働きとは、私たちが日常から得ることのできるさまざまな個別的な具体的な感覚や経験を、一つの意味のある全体へと、つまり普遍へとまとめて認識することである。
外的な事物に対して、私たちの意識が、感覚ー→直観ー→思考へと進むプロセスが説明されている。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第二節 [感覚から思考へ] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/yr9fmt87

 

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