作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

五月晴れの夕空

2007年06月23日 | 日記・紀行

五月晴れの夕空

ようやく梅雨らしい雨が降ったと思うと、今日はきれいな青空が広がった。この天気も長続きはしないし、雨が降ると散輪もままならないので、いつものように自転車を取り出して、久しぶりに、二時間ぐらいの予定で出た。確か昨日か一昨日が夏至とかで、日も長く、誰そ彼時もすっかり遅くなった。

いつものコースを辿る。竹林は冬も夏も同じく青い。今日はとくに当てもなかった。ただ、去年、農家の人が大きな菖蒲を育てていたのを思い出して、まだ、今でも咲き残っていれば写真に撮ろうと思っていた。まえに散歩に来たとき、黄菖蒲を見てデジカメに撮ろうとしたのに、電源が切れていたのと、今年はまだ、この花らしい花を見過ごして、なんとなく物足りない気がしていた。すっかり時期をはずしてしまっていたのに。

午前中、ヤコブ書を少し読んだ。全巻五章で、通読するだけなら一時間もかからないだろう。確か、ルターが「藁の書」とかなんとかいったらしい本である。しかし、新約聖書の成立からすれば、もっとも早い時期に成立したテキストだとも言う。印象に残ったのは次の個所、「私たちは欲望に引かれて誘惑され、そして、私たち自身の悪い欲望によって罠に陥る。そうして、私たちの悪しき欲望は、罪をはらみ、産む。そうして、罪が十分に熟するとき、死が生まれてくる」。欲望、誘惑、罪、そして死。これらから逃れられる人間はいない。(ヤコブ書1:14~15)

田んぼはすでに青々としていた。昨年は、風に吹かれるビロードのような早苗の苗床をまだあちらこちらに見たけれど、今年は見過ごしてしまった。一昨日からの雨で空気がすっかり洗われて、夕日を受けた市街地もくっきりと眺められた。自転車をこぎ出すと少し暑くなって来たので、コンビニでアイスクリームを買って、途中に柿畑に通じる小道に止めて食べた。去年の冬にはすっかり葉を落としていた柿畑も、今はすっかり青青とした葉を繁らせ、小さな実すらつけていた。

ゆりの花が咲いている。それから、夕顔ももう咲いていた。源氏物語にも出てくる夕顔の花は私にとっても、とくに印象深く忘れることはできない。ATMで換金するためにコンビニを探していたら、長岡京市に出てしまった。ちょう度その頃、畑の中にデジカメで写真をとっている男性がいたので、その被写体の方角を私も振り返ってみると、とても美しい夕空が広がっていた。それまで背にして走ってきたので少しも気がつかなかった。雲の棚引いている様子がとても美しい。それで、私もカメラを取り出して写すことにした。

デジカメが普及してからは町の中でも誰もが被写体を見つけて気軽にカメラに収める姿が眼に入るようになった。私自身もその一人だけれど、そうした一人に通行人からも眺められてもかまわない。気にすることはないと思う。この五月晴れの、きれいないわし雲の夕空が、今日一日の収穫だったように思う。菖蒲には出会えなかった。やはり時期が遅すぎたのだ。

家に帰って、ブログに新しく随想というジャンルを作って一篇書こうと思ったが、時間が十分に取れそうにない。題名は「待ち合わせ」ということにしていた。またの機会もあるだろうと思った。去年の秋ころ、一二度コメントを交わしたチャンタさんがコメントをくれていた。それにちなんで二三、お返しのコメントを書く。

 


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