作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

日々の聖書(7)――唯一の主

2006年11月30日 | 宗教・文化
日々の聖書(7)――唯一の主

日の昇る所から来る者も、日の没する所から来る者も、私の他に神はないことを彼らは知るだろう。私は主であり、私に並ぶものはない。

私に立ち返れ。そうすれば救われるだろう。地の果てから来る者たちよ。私は神である。並ぶものはない。

(イザヤ書第四十五章第六節および同章第二十二節) 

               
パレスチナから見て、日本は明らかに日出ずるところの国である。イザヤは
やがて全世界から唯一の主なる神を求めて人々の立ち返ることをこうして預言している。

紀元前六世紀頃のユダヤ人たちは、彼らの腐敗と堕落のために主なる神より裁きを受ける。バビロニアの王ネブカドネザルによってエルサレムの町と神殿は破壊され、王たちは拷問を受け、殺される。主だった住民もバビロンに連れ去られた。

しかし、裁きを受けたイスラエルもやがて主に立ち返って贖われ、解放される。上の言葉は主なる神が、ユダヤ人にパレスチナ帰還を許したペルシャのキュロス王に対して、イザヤを介して告げられた言葉である。こうしてバビロンに捕囚されたユダヤ人たちは解放される。

聖書においては神はこのような存在として教えられている。預言者や使徒たちら知恵ある人々によって書き記された、聖書のさまざまな物語や啓示や教訓などを通じて、神について知ることができる。

聖書の神は、絶対的な一者として教えられる。また、神は被造物のように有限ではなく、無限であり永遠の存在である。

また絶対的な存在であるから、唯一である。絶対的なものが二つとしてあるわけがない。二つあるのものは絶対的ではありえない。

神は何ものによっても侵されない。神聖にして人間から隔絶した方である。また、神は万物を創造し、自然と歴史の摂理を通じてみずからの意思を実現する絶対的な力である。その力によって神はまた裁かれる方である。

神はまた恵みであり愛である。それは被造物をそのままに存在を許される方であるから。神は悪人にも善人にも等しく太陽を昇らせ、雨を降らせる方である。

日の昇る所から来る者も、日の没する所から来る者も、私の他に神はないことを彼らは知るだろう。私は主であり、私に並ぶものはない。

私に立ち返れ。そうすれば救われるだろう。地の果てから来る者たちよ。私は神である。並ぶものはない。

(イザヤ書第四十五章第六節および同章第二十二節)

 

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参議院は本当に必要か

2006年11月28日 | ニュース・現実評論

復党組4人が会見 「郵政民営化には反対していない」(朝日新聞) - goo ニュース

参議院は本当に必要か

昨年の郵政民営化総選挙で小泉首相の郵政民営化に反対して自民党を離党させられた議員が自民党に復党した。なぜ自民党は彼らを復党させなければならなかったのか。

来年の夏には、参議院総選挙が行なわれる。現在の参議院の勢力地図は衆議院に比較して与野党は伯仲しており、二十余議席程度の議席の移動があれば、与野党逆転の可能性がある。衆議院において自民党は、参議院のドンである青木幹雄氏や片山虎之助氏らを中心に、来年夏参議院選挙の勝利を期している。

そのために、青木氏らは、郵政総選挙の離党組みの党員復帰を働きかける必要があると考えたのである。なぜなら、いわゆる離党組みは、地方において特定郵便局や医師会、商工業者、土木建築業者らを通じて強固な選挙地盤を確立しており、選挙に強いと見られているからである。実際彼らは、郵政総選挙でも、自民党の公認なくして選挙戦を勝ち抜いてきた。彼らの手を参議院選挙に活用したいためである。

また青木氏らは、「今の野党が中心となる政治では日本は国際社会で生き残ることはできない」と述べて、けん制してもいるが、たしかに、現在の民主党はきわめて問題も多いが、しかし、はたしてそれが参議院の現状を放置するだけの論理になりうるかどうかは問題である。


昨年の郵政総選挙でも考察したように、実際はあの選挙は、自民党が国民政党に脱却できるかどうかが、真の争点だった。そして、小泉氏と武部氏に指導された自民党は、公募候補を擁立して選挙戦を戦い、実際に労働組合などに依存して国民政党に変身し切れなかった民主党を尻目に、圧倒的な勝利を収めたのである。

その選挙から、まだ一年も経過するかしないかの現在、郵政民営化離反議員の復党問題を幹事長中川秀直氏に丸投げして事実上それを承認し、指導力を発揮しなかった安部晋三新首相に、来年の参議院総選挙で国民がどのように反応するかが問題である。

ここで安部首相の改革に対する志と能力の低さが露呈したにすぎない、と私は思う。これによって、参議院自民党は相変わらず既得権益重視の旧態依然とした議員集団であることが明らかになったし、小泉氏や武部氏らの改革の意志は参議院にまでは及んでいないことが確認された。

昨年の郵政民営化総選挙を通じて、小泉前首相や武部前幹事長の手によって、かろうじて、自民党は国民政党へと脱却しようとしたのに、旧態依然とした参議院自民党に対する指導力を発揮し得ない安部首相は、いわゆる無党派層とされる、特定の支持政党を持たない「国民」に目を向けるのではなく、参議院議員の支持基盤である特定郵便局長や地方の土木建築業者などの、旧来の既得権益集団の利益擁護に目を向けていることが明らかになった。

そして、衆議院と異なり、参議院のそれが病膏肓に入るのは、その既得権益集団の現実と実態がただ単に自民党議員にとどまらないからである。公明党や民主党の与野党議員にも共通する土壌になっている。参議院は改選期間も長く、衆議院ほどには日常的に国民の目にさらされる機会が少ない。だから国民は衆議院以上に選挙を通じて明確な意思表示を行なう必要があるだろう。

そうして選挙を通じて意思表示をすることも重要であるが、国民はさらに、参議院の存在理由や定数問題を、今一度根底から再検討する必要もあるのではないだろうか。

本来、参議院とは「良識の府」といわれて、国民大衆の「衆愚政治」に対する防波堤の役割を期待されていたものである。しかし、戦後六十年の歳月の間に、参議院は定年退職した天下り官僚たちや、財界企業と霞ヶ関の官僚集団、官公労働組合などの利益擁護を目的とする議員集団へと、また地方の時代の変化に即して自己改革を徹底できない農協や、政府からの交付金に依存する都道府県などの地方公共団体に頼る地域業者たちの既成利益擁護団体に変質しているのではないだろうか。

将来の国民と国家の全体の観点から、良識のある国家政策を提言できる議員集団ではなくなっている。そんな現状で、国民は参議院の存在する価値を認めることができるのだろうか。今一度、国民は参議院の国会におけるその意義と現実の機能を厳しく検証する必要があるだろう。

衆議院で命脈を失いつつある旧来の情実的民主主義の自民党既得権益集団は、まだ参議院ではその余命を保っているということである。国民は、来るべき選挙で、その選挙権を行使することによって、二十一世紀の国際社会の中で、国民よりも意識の遅れた政治家たちを退場させる必要があると思う。

その点では小沢民主党も五十歩百歩ではあると思うけれども、選挙権の行使を通じて、まずは自民党を国民政党へと更なる改革を促してから後に、民主党の改革に取り組む必要があるだろう。国民は一挙に日本の政党政治の改革を実現することはできない。時間と労力を払って、一歩一歩改革してゆくしかないからである。

政治の世界に国家国民の最高の人材が集まらないのは、日本の国家と国民にとって悲劇であることは、今も昔も変らない。というよりも、「国民はみずからの水準にふさわしい政治しかもてない」という西洋民主主義政治の命題が普遍的な真理であることを証明しているだけなのだろうか。


いずれにせよ、目指すべきは、真の民主主義と自由の精神に立脚する自由党と民主党の二大政党政治であると思う。その政党政治の実現のために国民は、教育の改革と選挙権の行使を通じて、現在の自民党や民主党の政治家たちの政治意識と政党政治の変革を促してゆく必要があると思う。

ご参考までに 

民主党の再建と政界の再編について

自由と民主政治の概念

民主党四考

民主主義と孤独 

 

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日々の聖書(6)――人間の分別と神の知恵

2006年11月27日 | 宗教・文化

日々の聖書(6)――人間の分別と神の知恵

心を尽くして主に頼り、決してあなた自身の分別に寄りかかってはならない。   
(箴言第三章第五節)                

私たち現代人は個性を大事にし、自分たちの自意識と知識を最高の価値として誇っている。何人にとっても自分ほど大切なものはない。そして、自分のもてる知識と教養を誰しも誇る。現代人はお互いに学歴を最高の栄誉としている。受験が戦争と化しているわが国の現実を見よ。

しかし、聖書は必ずしもそうは教えない。現代人が金科玉条のように大切にする個性とは、本当にそんなに貴重なものだろうか。現代教育がモットーとするほどに、人間各自の個性には価値があるのだろうか。人間は弱いもの、間違うもの、過つものとして、自分とはもっとも頼りにならない者であると教える。むしろ、自分の分別に頼ってはならない、と言う。人間の個性など、もっとも価値なきものではないのか。

人間は自分自身が賢明であると思うほどには賢明ではない。だから決して、自分の奇抜な思いつきや思考に思い上がり、自惚れてはならないと忠告する。          (同章第七節)

聖書が教えるのは、惨めで間違いやすい自分の考えにしたがって生きるのではなく、真の叡智である主を畏れ、神の知恵を見出すものが幸せであると言う。

心を尽くして主に頼り、決してあなた自身の分別に寄りかかってはならない。   
(箴言第三章第五節) 

 

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日々の聖書(5)――人間の努力

2006年11月26日 | 宗教・文化

日々の聖書(5)――人間の努力

そして私は見た。人間の成功をめざして行なうすべての骨折りは、隣人の持ち物を妬んでのことであることを。これもまた空しい、心の虚しさである。

(伝道の書第四章第四節)                

現代人は今日もまた働き蜂のように、アリのように勤勉に働きつづける。とくに日本人やドイツ人などは勤勉な民族だと思われている。
砂漠の民やラテン民族などは、日本人ほど几帳面でもなければ、働き蜂でもないかもしれない。

それにしても、いったい人間がこれほど勤勉に働く本当の動機は何なのだろうか。もちろん、それはまず衣食住の充足のためであることは言うまでもない。しかし、ただそれだけだろうか。単に、飲んで食べて着て、そして住まい、交わるだけであるなら、たとえ日本人であっても、こんなに過労死するほどに働かなくても済みそうである。

しかし、いわゆる資本主義社会では、人間の欲望は社会的に作り出されるものである。とくに、社会の構造上からも、企業は利益の追求と獲得とを余儀なくさせられるから、社会的動物で見栄っ張りの人間の欲望はそれでなくとも否が応でも刺激され、駆り立てられる。

欲望とは絶対的なものではなく、相対的なものである。現代先進国の私たちの私有する財産は、アフリカやエスキモーの人々の何百倍に達しても、それでも、先進国の人々はその富を隣人と比較させられるかぎり、貧困感から来る疎外感は避けられず、隣人以上の富の獲得をめざして駆り立てられる。

この人間的な真実は、何も現代人のみに留まらないようである。聖書の『伝道の書』の著者であるコヘレトもすでに数千年前に、富と成功をめざして努力する人々たちの、倦むことも疲れることも知らない人間の骨折り、労苦を見ていた。そこに真の安息から遠い人間の心の営みを見て、人間の心の働きの本来的な虚しさを歌う。日本のつれづれ草の兼好法師も、差し迫る死を忘れてアリのようにうごめきまわる人々を描写していた。

改めて、静かに聖書などを精読、黙考しながら、本能的に刺激されて虚しく働きまわる思考回路を一度は断ち切って、私たちの骨折りや人生の意義を反省する機会を持ちたいものである。

そして私は見た。人間の成功をめざして行なうすべての骨折りは、隣人の持ち物を妬んでのことであることを。これもまた空しい、心の虚しさである。

(伝道の書第四章第四節)                

 

 

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日々の聖書(4)――私の彼

2006年11月22日 | 宗教・文化

日々の聖書(4)

夜ごと寝床に、私は心より愛している人を捜し求めました。私は彼を捜しました。しかし、見つけることができませんでした。(私は彼を呼びました。しかし、彼は私の声を聴きませんでした。)

(雅歌第三章第一節)
※()内は、七十人訳聖書のみ。

SEPTUAGINT(セプチュアギント)の訳者 Brenton氏の訳

By  night on  my  bed  I  sought  him whom  my  soul  loves :
I  sought  him , but   found   him  not ;
I  called   him,  but  he  hearkened  not  to  me.

私の彼


人間にとって出会うべき人と出会えないことほど哀しいことはない。
生涯に出会うべき愛しい異性に出会えないことは、どれほどつらく悲しいことだろう。だから彼や彼女たちは、自分たちが出会うべき人と出会えるよう、必死になって捜している。

今日のように携帯電話やネットが発達して、出会系サイトなどが繁盛するのも、やはり、人がどれほど出会うべき人に出会うことに憧れているかを示すものだろう。

だから、人は自分の愛する人にいまだ出会い得ないことほど切なく哀しいことはない。彼女はそのとき、夜ごと寝床の上で、切なくため息をつき、愛する人と出会えぬゆえの孤独とさびしさに心で泣いている。

この雅歌の主人公である娘も、いまだ恋い慕う彼に出会うことができなかった。彼女は床から起きだし、部屋を出て、通りや広場に愛する彼を捜し求める。最後には娘は彼を見つけるけれども、彼を見失っているときの彼女の気持ちはどれほど不安で切ないものだったろうか。

信仰する者が、愛する神を見失ったときの気持ちも同じなのかも知れない。

夜ごと寝床に、私は心より愛している人を捜し求めました。私は彼を捜しました。しかし、見つけることができませんでした。(私は彼を呼びました。しかし、彼は私の声を聴きませんでした。)

(雅歌第三章第一節)


 

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防衛省と国防省

2006年11月21日 | ニュース・現実評論

 

防衛省と国防軍


昨日の私のブログ記事で国防軍の問題について触れたのにちなんで、防衛省と国防省という国軍の所轄官庁の呼称の問題について考えてみたい。

国防省という名称であるが、現在の防衛庁の昇格にあたって、自民党などは、「防衛省設置案」などで「防衛軍」や「防衛省」という名称を予定しているようである。しかし、それは、彼らの最悪の日本語教本「改正?教育基本法案」などと同じく、自民党員の言語感覚の水準を明らかにすることになっている。

「防衛軍」や「防衛省」の呼称の根本的な欠陥は、国民国家の軍隊の本質である「国を国民が護る」という基本概念が、そうした名称には顕われないことである。

成熟した民主主義国家の国民と国家体制が行なう戦争とは、自衛の戦争しかないから、ことさらに「防衛」などとうたう必要はない。それなのに、わざわざそんな名称にするのは、日本のように民主主義が未熟で、文民統制に自信のもてない潜在意識があって、だから国民や政府は、せめて自国の軍隊に「防衛」という名称でも付しておかないと、いつ自国軍がクーデタをおこしたり他国を侵略するかも知れず不安で自信がもてないためではないか。

イギリスやアメリカの軍隊も「国防軍」であり、それを統括するのは「国防省」である。わが国の軍隊も、国際的にこれらの諸国と国軍として同格であるべきであり、その意味でも、自国の軍隊やその所轄官庁を呼ぶのにも「国(防)軍」や「国防省」が適している。

 

 

 

 

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「日本国の概念」とイギリス

2006年11月20日 | 教育・文化

「日本国の概念」とイギリス

日本国は日本国であって決して英国ではない。しかし、英国と日本とは、ユーラシア大陸を挟んで極東と極西と地理的には正反対に位置するけれども、同じ立憲君主国家であり、大陸の周辺国家であり、また島国であるなどの類似点も多い。

なぜこのようなことを言うかというと、今日の日本国の現状は周知のように教育亡国、政治亡国の瀬戸際にあるからである。それらは日本国民の教育や国家意識など多くの点で、太平洋戦争における日本の敗北の結果としてもたらされた国家概念のゆがみと、その戦後政治体制の行き詰まりに起因していると考えられるからである。そうした状況から脱却してゆくうえで、明治維新に伊藤博文などが欧州に国家観を学んで新しい日本の国家体制を確立したように、まだなお多くの点で英国などの国家体制を参考にできるし、すべきであるからである。


英国は、日本のように第二次世界大戦で敗者として外圧によって、政治的にも文化的にも国家体制を強制的な転換させられることもなく、今日に至っている。また、明治維新のように、黒船などの諸外国の暴力的な圧力によって強制的に開国させられることによって、文化的な断絶を国家として経験することもなかった。それゆえに英国などは、私たちがオーソドックスな国家の概念を考える上で参考になる。


そうして、自由で独立したあるべき正しい国家概念を、まず日本国民が日本国の再生のためにしっかりと自覚し、目的としてゆく必要がある。その際に英国やスイスなどの国家体制は参考にしうる。


まず第一に、自由で独立した国家として英国やスイスは、その国内に日本のように外国駐留軍を置いていない。日本国民のモラルの退廃の一つの原因としてアメリカの駐留軍の存在が大きいのである。

もちろん、政治的には今すぐには在日アメリカ駐留軍の撤退を実現させることはできない。しかし、それは国民の「悲願」であるべきである。国内に外国の軍隊が駐留していることを国民は恥じるだけの誇りを持たなければならない。

いつの日になるか、アメリカ軍にお礼を言って国内から早く帰ってもらい、日本人自身の手で、国家と国民の安全を確保できるようにしてゆくことである。そして、アメリカとは現在のような半植民地のような従属的パートナーの関係ではなく、イギリスのように、より対等な同盟国家関係にしてゆく必要がある。

そのためにも防衛庁は国防省に、自衛隊は国防軍に改組し、さらに必要とあれば、自発的な兵役の義務も国民に復活させる必要があるだろう。また、国家情報機関も強固な組織に編成する必要があるかも知れない。

そして、そのために何よりも大切な前提としては、現在の日本の自由民主党や民主党などの政党で行なわれているような偽物の自由と民主主義ではなく、イギリスやスイスで行なわれているような自由と民主主義についての真正の自己教育を国民一人一人に実行してゆく必要がある。

 

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日々の聖書(3)──日曜日(第七日)

2006年11月19日 | 宗教・文化

日々の聖書(3)

第七日めに、神は行っていたご自分の仕事を終えられ、そして、第七日めに、神は行なっていたご自分のすべての仕事から離れて、お休みになられた。     (創世記第二章第二節)

日曜日

今日は日曜日で休日である。キリスト教に言う安息日である。ユダヤ人は、金曜日の日没から土曜日の日没までは、SABBATH(サバス)と呼んで、この時間は完全に日常の仕事から解放される。この安息日のSABBATH(サバス)の語源には、第七日めという意味が含まれているのではないだろうか。SEVENという語と発音も似ている。

それはとにかく、今日の欧米のキリスト教国では、昔ほどにはその宗教的な意義は自覚されていないにしても、それでも人々の意識の奥底には、日曜日のその宗教的な意味合いは残されて底流していると思う。

しかし、わが国のように仏教、儒教、神道の伝統の国では、そもそも一週間や日曜日という時間のサイクルさえなかった。お盆やお彼岸など祝祭日にはもちろん、仏教や神道などの宗教的な意味は残されているが、しかし、今日の日曜日は、キリスト教徒以外には、全く宗教的な意味を持たない。日曜日は単なる休日であって、そこには何の宗教的な色彩もない。

せめてキリスト教徒の間では、日曜日を「聖日」と呼ぶようにすれば、この一週間の中の日曜日という日の貴重さを、もう少し実感できるのかも知れない。少なくとも欧米のようなキリスト教の伝統のある国々のように、日曜日を聖日として、ただでさえ忙しい日常の仕事から日本人も完全に解放されて、家で静かに家族と団欒に過ごす時間を持つようにすればよい。

一週間のうちに、せめて日曜日くらいは家族と食卓を囲み、子供や妻たちと日ごろ話し合えないようなことを話題にしたり、また家族と一緒に音楽を聴いたり、流行の小説を話題にしたり、またできれば聖書の一節を朗読しあったりする時間を持つようにすればよい思う。

週に一度巡ってくるこの日曜日を、神のために捧げる感謝の一日として、子供や妻との団欒の日にすれば、離婚や、その結果として起きる幼児虐待や、さらには子供たちの自殺など、わが国で今日おぞましく流行している悲劇も、少しは防ぐことにもなるのではないだろうか。日曜日を聖日として、神様に倣って、この世のための仕事から完全に解放される時間を持ちたいものである。

第七日めに、神は行っていたご自分の仕事を終えられ、そして、第七日めに、神は行なっていたご自分のすべての仕事から離れて、お休みになられた。     (創世記第二章第二節)

 

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七十人訳聖書(ギリシャ語訳旧約聖書)

2006年11月17日 | 日記・紀行

 

昨日、七十人訳聖書が届いた。長い間欲しかった本だ。日本ではまだそれほど聖書研究などは普及していないから、なかなか手に入らなかった。洋書を取り扱っている書店などで探せば、すぐに手に入ったのだろうけれども、学者ならぬ世界の狭い私には縁が遠かった。しかし、ネットのアマゾンなどを通じて、自分のような無学の者にも洋書は身近になって、手にすることができた。本人のやる気次第ということなのだろうか。
装丁も美しく、値段もそんなに高くもない。関心のある人には価値ある本だと思う。

このSEPTUAGINT(セプチュアギント)の序言を読んでみた。
最初に出版されたのはロンドンで、1851年だという。この本自体はアメリカで印刷されている。本文の英訳者は、Sir Lancelot Charles Lee Brentonという人である。Sirがついているから、貴族だったのかも知れない。ただ、(1807-1862)と表記されているから、五十五歳程度でこの人は亡くなったらしい。カトリック系の人だったのかプロテスタントの人か今のところそれは分からない。

この本には古典ギリシャ語であるコイネーに翻訳された旧約聖書と、その英語訳が併記されている。序言によれば、このSEPTUAGINT(セプチュアギント)は、紀元前285年から247年ごろに、プレトミー・フィラデルフス治世下のエジプトのアレキサンドリアで、七十人もしくは七十二人のユダヤ人学者たちによって当時のギリシャ語に翻訳されたそうである。

英語訳の聖書もたまには読むこともあるけれど、現在私の使っているのは、日本聖書協会から出版されている和英対照の新共同訳聖書だから、誰が訳したのかは分からない。この七十人訳聖書で、サー・ブレントン氏は旧約聖書をどのような英語に訳しているのだろうか。優れた個人訳であれば貴重である。若くして亡くなられたブレントン氏の不朽の仕事なのかも知れない。

それにしても、ユダヤ人ならぬ私たちには、ヘブライ語の旧約聖書を私たちの本とすることができない。私たちの旧約聖書としては、やはり、このギリシャ語訳旧約聖書しかない。七十人訳聖書、SEPTUAGINT(セプチュアギント)が新約聖書とならんで私たちのよるべき最終的な聖書であると思う。

 

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日々の聖書(2)

2006年11月16日 | 宗教・文化

日々の聖書(2)

「かってあったことは、これから先もあり、かって行われたことは、これからも行われる。太陽の下に新しいものはない」(伝道の書第一章第九節)

民族の質

教育基本法の改正が国会の日程に上っている。安部内閣は「美しい国」造りを目指すという。決して、悪いことではない。目指せばよいと思う。しかし、その結末は明らかである。「美しい国」は実現しない。私がそのように考える理由は次のようなものである。

「人は石垣、人は城」と武田信玄が言ったように、国家や民族の質は、それを構成している人間の質によって決まる。そして、その人間がどのような人間であるかは、その人間の崇拝する神によって決まる。この道理は自然の法則と同じで、神の摂理であって真理であるから、人間の恣意で勝手に都合よく変更できるものではない。

ちょうど小泉前首相や安部首相によって行われようとしている日本の政治の改革も、もちろん全く無駄であるとは言わないが、底の浅い改革で、所詮はたいした効果をあげ得ないことは明らかだろうと思う。理想の高い私たちの眼には、そんなものは改革の名にも値しない。だから、そうした改革に希望を託したとしても、失望するに至るだけだと思う。

教育についても同様である。真実の神を教えるという根本を避け、それを外した功利主義的な教育で、人間と国民の質を改革できると彼らは思っている。人間の根本の質を変えないで、どれほど多くのお金と労力を注ぎ込んでも、国民が期待するような成果をあげ得ないことは、日を見るよりも明らかである。

教育諮問会議が安部内閣の許でも持たれる。しかし、それも結局、文部科学省の役人や政治家たちの仕事のネタを提供してやるぐらいの意義しかないだろうと思う。率直に言って税金の無駄である。


かって受験本位の教育を改善しようと鳴り物入りで始まった「ゆとり教育」が否定され、今では諸悪の根源のように非難されている。新しい教育改革で理想の教育が実現できるなら、実行してみればいい。それは「教育の改革」を目指したい人たちに任せるしかない。しかし、真理は頑強である。根本のゆがみが正されるまでは、枝葉末節をいくらいじったところで問題は解決されないだろう。


要するに、国家と国民の質、民族の質、人間の質が改まらない間は、教育基本法であれ憲法であれ、どのような法律を制定し、さまざまな会議、タウンミーティングを開催し、どのような政治が行われようとも、「この世」は昔のままの「この世」でありつづけるだけである。私たちは人間に期待することは止めようと思う。神のみに希望を託そう。それも一つの知恵だと思っている。

 「かってあったことは、これから先もあり、かって行われたことは、これからも行われる。太陽の下に新しいものはない。」(伝道の書1:9)

 

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