作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

NHK「京いちにち」で見た「土の塾」

2017年04月18日 | 農事


NHK「京いちにち」で見た「土の塾」

十八日の夕方遅くなって、ふだんチャンネルを合わせることの多いNHKの「ニュース6:30 京いちにち」を見ていると、新しく始まったらしい番組で「京の農家めし、漁師めし」の「第一回 たけのこ」が放送されていました。荒山キャスターが食材の「たけのこ」を取材するために西京区へ訪れた様子を何気なく見ていると、画面に「土の塾」の名前が出てくると同時に、塾長の八田逸三さんが映し出されていたので驚きました。少しも変わらずお元気そうでした。放置され荒れ果てたままになっていた竹林を、再び開墾してたけのこ畑に蘇らせたことなどが紹介されていました。塾長さんの他にも高橋さんや長岡さんなど私の見知った方々も番組に出ておられました。

「土の塾」には、ニ、三年前まで私も参加させてもらっていて、とても充実した楽しい農作業の時間を畑で過ごさせてもらっていました。しかし止む得ない事情で洛西から引越しせざるをえなくなり、その後も時間にもあまり余裕がなくなってきて、とりあえず退塾の形になっています。農作業初心者の私に、塾長や仲間の人からは、ジャガイモ、ショウガ、ネギなどの植え方、育て方などを懇切に教わるなど、折角にとてもお世話になっておりながら、そのままズルズルと塾長にもきっちりと挨拶もすることなく、本当に失礼したままです。お詫びの言葉もありません。

洛西の大原野にある塾の畑から見下ろす京都市内の眺望は、私の密かな楽しみでした。自分で苗木から育てたイチジクもわずかでしたがその実も味わうことも出来ました。果実を楽しみに植えた桃が春にはきれいな花を咲かせていました。ただ、梅干し用に植えた梅の木の苗木三本と柿の木は、とうとう何の収穫もないままになったのは心残りです。たった五年ほどの間でしたが、暑い夏に汗をかきながら収穫したトマトやキュウリの味わいも忘れられません。トマトをもいだ時にかいだ匂いは幼い時の懐しい記憶をふたたび蘇らせてくれました。

秋の収穫祭も、暑かった夏と寒い冬の間の塾の人たちとの共同作業も懐かしいです。残された人生の時間でやり遂げなければならない課題もまだ多く、引っ越し以来、山の畑からも遠ざかったままになっています。私が「土の塾」に農作業のお世話になっていた時のことは、このブログにも記録してあります。精神的労働と肉体的労働の調和、牧野紀之さんの「午前勉強、午後労働、夜娯楽」の「自然生活」はいまもなお私の追究する夢です。しかし、この立場もある意味では、若者の立場であり、ヘーゲルの現象学の用語で言えば、「徳の騎士」のそれにほかなりません。いずれは「世路」に敗北する定めにあります。こうして若者もまた現実の論理を骨身にしみてわからせられるのです。

 

 「ニュース630京いちにち」 https://goo.gl/5Yynwt

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紅茶の種を蒔く

2013年04月10日 | 農事

 

2013年平成25年4月10日(水)晴れ

 

午前中から共同作業があり逢坂峠の山林に入る。東海道自然歩道沿いにあり、山を超えると北は亀岡、南は高槻方面に通じているという。ここからはふだん山畑から見るよりもさらに高い地点から京都の市街地を眺望できる。近隣でも、あまり出掛けないから、まだ知らない場所、はじめての場所は多い。

畑に杭として使うために檜林から檜を切り出す。電動ノコギリを使わず、手作業の切り出しのため体力は使う。切り倒した檜の青い葉が美しい。かって高級木材だった檜を畑の杭などに使うのはもったいない気もする。もっと有効活用する方法はないものか。

ただ惜しむらくは、昔の日本人の残した美しい檜林が、国内産木材の需要の低迷や林業の後継者問題、その他拙劣な行政の結果として、次第に荒れつつあることだ。こうした現実について、多くの人の、とくに都会生活の方々も気に留めてほしいと思う。都市も国土山林の保全と決して無関係ではないのだから。私も微力ながら自分に出来ることから少しずつでも実行して行きたいと思っている。

昼を済ませて二時半頃まで作業。終了後、山畑に降りて、先日ようやく用意した畝に紅茶の種を植え付ける。無事に育つかどうか、日本茶の時はほとんど芽を出したが、紅茶は全滅してこれで二度目の挑戦。

 

 

 

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梅の苗木を植える

2013年03月08日 | 農事

 

梅の苗木を植える

梅の苗木が届いているという連絡があったので山畑までゆく。先週に頼んでいたのが行き違いになって水曜日には手に入らず本日になった。

見ると幹のしっかりした苗木で、二本ともすでに小さな花と蕾も付けていた。梅干しと梅酒の材料になれば嬉しい。花も楽しめるはずだ。

苗木の根をしっかりと水に浸してから植え込むようにとのことだったので、畑を掘り返して作った水溜りによく浸してから植えることにする。

そもそも取り掛かった時間が遅かったのに、植え込みの場所の確定と笹の根っこの除去にも手間取り、日の落ちるまでに植え込みを終えることができなかった。時間の都合が付けば明日中にもまた来て、何とか早く済ませてしまおうと思う。

日が沈みかけて仕方なく山畑を降りるとき、遠く駅前のタワーなど市街地の眺望が少しかすんで見えた。最近になって中国大陸からの黄砂の影響やPM2.5の状況がニュースなどで報じられるようになっている。そのせいだと思った。

日本の農業も最近になってTPPの参加などが問題になっている。自分たちがこうして借り受けて利用させていただいているこの山間地の農耕地もまた、例に漏れず農業の後継者問題もあるようだ。いずれにせよ、せっかくのことなら日本の農業問題や景観問題の改善などにも、セカンドライフワークぐらいに関わっていきたいという思いもある。

日本には宮脇昭氏などが、東北大震災の復興をめぐっても優れた働きをされておられるようだ。とくに宮脇氏らが提唱されておられる『鎮守の森構想』などの業績を踏まえてにより深く関わってゆくこともできるのではないだろうか。そうして、都会暮らしで特に「ふるさと」らしいものも持たない者にとって「ふるさと創生」のために活動してゆくのもやり甲斐はあるかも知れない。さしあたっての実行はとにかく、そのための調査と研究は価値があるように思う。

 「鎮守の森の応援団」活動開始:宮脇昭先生からの応援メッセージ

                 

 

 

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深まりゆく秋と野菜の収穫

2012年11月14日 | 農事

 

深まりゆく秋と野菜の収穫

2012年11月14日(水)晴

さまざまに気候変動が伝えられている。それでも基本的な季節の移ろいは変わらない。十一月も初旬を過ぎると、少しずつ山々の紅葉も彩りを深めつつある。ただこのあたりは落葉樹が少ないせいか見るべき紅葉群はない。

先々月の9月26日に人に遅れて蒔いた種も、今何とか収穫ができるまで成長した。昨年は全く芽を出さなかった菊菜も育っている。

先月に半分ほど収穫したサツマイモは人にあげた。地中で腐らせるかもしれないれないので残りも早く収穫するつもり。

壬生菜も水菜もそれなりに育っている。ブロッコリは苗のまだ小さなころに、葉の虫取りにいらぬ余計なことをして痛めてしまい成長を阻んでしまった。そのために、他の人のと較べてまだ大きさが三分の一くらいにしかならない。植物の成長が繊細なメカニズムのうえに成っていることをあらためて思い知らされる。

野生化した柚の木が今年はたわわに実を付けていた。いくつかを捥ぎ取って帰り、蜂蜜で煮てジャムをつくる。

ダイコンも九条ネギもカブも何とか育っている。しかし、いくら食材に重宝したとしても調理が拙劣だと何にもならない。これらの野菜を収穫して素朴な味噌味の鶏鍋にした。ダイコンもネギも柔らかい。新鮮な水菜は浅塩にして食べる。

さほど遠くないところの畑に何がしかでも野菜の収穫を得られるのは仕合わせなことかもしれない。今年は獣害がほとんどなかった。ただ夏にイチジクはあれほど実を付けていたはずなのに、まともに味わえたのはたったの二個。防護策も講じていない山の中の畑なのでそれなりに覚悟しているけれど。「吾唯足知」。

来年は面倒でも獣対策に柵でも作るべきか。無い時間に本を棄てて、さらに山と町に出ることにしよう。

皆兵と皆農はかねてからの持論。実現は二百年後か。この日本からパチンコが消え、大堰川や桂川のほとりでボート遊びやコーヒーやお茶、読書などを楽しみながら、人々がゆったりと余暇を過ごせるような国でありたい。いつの日にか。

やがて農園活動も日本の文化として定着し広まり根付くことを願っている。農村地帯は過疎化と高齢化で山林も荒廃しつつあるともいわれている。余暇にでもこうした野菜作りに取り組む人が増えれば少しは改善されてゆくかもしれない。

 

 

 

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山の恵み

2009年12月16日 | 農事

 

山の恵み

山で畑仕事をするようになって、冬野菜などであればニンジンやダイコン、壬生菜、水菜などいくつかの野菜に不自由しなくなっているのがいいところでしょうか。ただ、本命の果樹はやはり収穫に時間がかかるようで、今年になってはじめてイチジクの実をいくつか味わえたぐらいでした。

ニンジンやダイコンは食べきれないほどの収穫があり、また、どうしても自分で作ったという先入観か、柔らかくおいしく感じます。ダイコンおろしにしても甘辛くておいしいです。どなたかご希望があればお裾分けしたいほどです。農薬は使ってはいません。今日は、山の畑の収穫を、野菜の記念写真のように、仲良く並べて撮ってみました。

二度目の挑戦でせっかく根付いたかに思えた柿の木は、サルの悪戯か、根本からぽっきりと折られてしまった。木が生きながらえているかどうかは、来年に再び木の芽が芽吹くかどうか、見てみるまでははっきりしないようです。

秋に蒔いたあの小さな種から、写真のように大きな「ダイコン」や「ニンジン」の姿が現れてくるのは、まさに奇跡としか言いようがありません。私にとっては「種子」は現実的な「概念」でもあり、野菜の生長は、概念の具体化であり、理念の実現をこの眼で見ることでもあります。

私自身はかねてから、国民皆農論者であり、また国民皆兵論者ですけれども、誤解のないようにいえば、皆兵といっても原則として国民が兵役に従事するかどうか、また、皆農として農業や酪農に従事するかどうかは、もちろん国民各人の自由であると思います。農業や酪農はやりたい人、好きな人がやればいいのであって、もちろん、やりたくない人はやらなくて良いのは言うまでもありません。他人の趣味などに口を挟むのはよけいなお節介でしかないと思います。

ただ兵役の義務については、農業の場合と少し場合が異なるかもしれません。が、しかし、基本的には兵役の義務についても、国家のために自発的に兵役に従事したい人、むしろ、国家の自存自衛のための兵役に従事することを権利として自覚する人、そこに名誉と光栄を感じる人、進んでそれを義務と感じられる人が率先して兵役に就けばよいと思います。そこに強制が一切ないに越したことはないと思います。

ただ問題は、自らの国家によって、国民自身がどれだけ恩恵と自由を自覚することが出来ているかでしょう。理想的であるのは、国民一人一人にとって、みずから献身しうるだけの価値と恩恵をその国家の存在に見出すことのできるものでありえているかどうかだと思います。それが先決の問題でしょう。そうした国家であれば、強制がなくとも、国防のための兵役に進んで自発的に従事する国民も少なくはないはずです。それだけ国家の防衛も強固なものになるでしょう。

最近のテレビ報道をみるにつけても、隣国の中国が経済的、政治的、軍事的に国際的にもその存在感を高めているのは著しいことです。それに対比して、わが日本の凋落ぶりは悲しいかぎりです。戦後のGHQの手で実行された、日本の「民主化」政策、日本人とその文化の改造政策が功を奏し始めたのか、日本人の国民的な資質は劣化し続けているようにも感じます。だから、せっかく民主党などが国家の司令塔として「国家戦略局」などを鳴り物入りではじめても、その中に入れる器が、菅直人氏ぐらいの頭脳でしかありえないでいるのも残念な話です。

とは言え、泣き言を言っても始まりませんから、明治維新の原点に還り(敗戦時のマッカーサー統治の原点ではなく)、国民教育の再建、そして真のエリートの育成からやり直してゆくしかないようです。それこそ、国家百年の大計が今こそ求められていると思います。

そして同時に、あらゆる機会を利用して、アメリカやインド、オーストラリア、EU諸国などとのあらゆる協力を通じて、隣国中国の民主的変革を、1989年11月にチェコスロバキアで起きたビロード革命のような平和裏の変革を、追求して行く必要があると思います。

この夏の自民党から民主党への政権交代の結果として、ふたたび沖縄の普天間基地の移転が問題になっています。もちろん、究極的な目標としては、日本からアメリカ軍の全面撤退のことをつねに忘れてはならないとしても、その理想の実現を焦るのは拙速になりかねません。熟した柿の落ちるように、忍耐強く条件の成熟、歴史の成熟を待つべきであると思います。それは、金正日北朝鮮国家体制の崩壊であり、中国の民主化です。それまでは、たとえ屈辱的であるとしても、アメリカ軍の沖縄などの国内駐留はやむを得ないものとすべきでしょう。

この共産主義国家中国に、最近になって小沢一郎民主党が総勢600人という大人数を率いて中国を訪問し、胡錦濤主席に謁見を許されるという構図は、民主党政権になって日本がアメリカとの間で、沖縄の普天間基地の移転が問題になっている時期だけに、日本のアメリカ離れをアメリカに見せつけるものになっています。小沢一郎氏の中国への傾斜は、明らかに、氏の恩師故田中角栄氏の跡を踏むものでしょう。小沢一郎氏は、かって駐日米大使のシーファー氏から、テロ対策特別措置法の延期について話し合いたいという要請を受けた時も、「アメリカの自由にならない」と、一旦は会見を断ったこともあった。ロッキード事件での故田中角栄氏の失脚との因縁があるのかもしれません。

この小沢一郎氏の今度の訪中が、中国の習近平国家副主席の天皇との特例会見問題の底流にあったことは疑えません。今ここで小沢一郎氏の政治思想や民主主義観についてくわしく論評はできないけれども、民主党の小沢一郎幹事長が韓国訪問中に、李明博大統領が天皇陛下の韓国ご訪問について要請したことに対し、「韓国の皆さんが受け入れ、歓迎してくださるなら結構なことだ」と言ったそうです。小沢氏としては、おそらく軽い気持ちで語ったのだろうけれども、小沢氏をはじめとする民主党の「政治主導」が天皇陛下の意向をも自由に「政治主導」できるものと考えているのなら問題は大きいかもしれません。

しかし、いずれにせよ小沢氏の新人議員(いわゆる小沢チルドレン)を引き連れての、この時期での600人の中国大訪問団の意義や目的に首を傾げざるを得ません。そこに小沢一郎氏の権力誇示の欲求といった小沢一郎氏自身によりも、親分にノコノコついて行くような構図の、民主党議員たちにこそ問題を感じます。現在の民主党議員たちにとって、小沢一郎氏は、それほど卓越した存在であるのでしょうか。そこに、かっての自由民主党の金権政治の象徴であった故田中角栄氏を、故金丸信氏や故竹下登氏らが取り巻いていた古い派閥政治の再来を見ることができるようです。

そのもっとも象徴的な事件が、自治体などの陳情を党で一元管理する新ルールを作って、幹事長室が“仕分け”を行うようになったことです。来年度の税制改正や予算編成にかかわる地方自治体や業界団体などからの陳情の絞り込み作業を、民主党の幹事長室を通させることによって、事実上小沢一郎氏の采配の元におくことになったといえます。このことが、かっての故田中角栄氏流の金権政治の再現につながらないかどうか、国民は注視してゆく必要があるでしょう。いずれにしても問題は小沢一郎自身にあるというよりも、岡田克也氏、前原誠司氏らなど、まだ子供の―――チルドレンの多い、民主党自身の体質にあるようです。

かっての自民党時代のように、官僚が清貧で有能で、政治家が自分の仕事を官僚に丸投げできる間は、政治家はどんなに無能でも、さして問題が露呈することもありませんでした。が、しかし、ここ20年の間に見られるように、日銀総裁や旧大蔵省、財務省などの公務員、官僚たちはかならずしも有能でも清貧でもなくなったようです。むしろ、かっての旧社会主義諸国や共産主義中国の官僚テクノクラートのように、特権階層化し利権集団化して、国民、国家全般の利害と矛盾し相反しあうような状況では、政治家が国民全体の利益を代弁しているかぎりにおいて、行政の政治主導ということは自明のこととして実行されてしかるべきであることは言うまでもありません。

かってのように、政治家よりも官僚たちの方が清貧で有能で、国家国民の利益をより代弁できていた時代もありました。だから、かならずしも政治家が行政すべてを取り仕切ることそのものが良いとは言えないと思います。肝心なことは、政治家と官僚のいずれが国家国民のために働くことが出来るか、その意思と能力があるかということでしょう。小沢民主党の「政治主導」は、民主党の政治家たちにその能力と資格があるかどうか、という本質的な内容が問われるべきであって、単なる形式的な問題にしてはならないと思います。

 

 

 

 

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福岡正信氏の自然農法

2008年08月21日 | 農事

                      オクラの花 

福岡正信氏の自然農法

福岡正信氏は「自然農法」と呼ばれる独自の農法の実践者、主唱者として知られている。自然農法とは、「耕さず、田植えをせず、直接モミや種を蒔いて、米と麦の二毛作をし、化学肥料も施さず、除草作業もせず、農薬も使わない」という極めて簡単な農法である。肥料の代わりにワラを敷き、耕作する代わりにクローバーの種を蒔く。

もちろん福岡正信氏もはじめから自然農法の実践家であったわけではない。氏は岐阜の高等農業学校を卒業し、植物病理の研究から出発して、税関で植物防疫に従事している。だから福岡氏の自然農法にはその前提に植物学という近代科学の素養があるといえる。しかし、若いころ自身の病気をきっかけに現代の科学について根本的な不審を抱くようになった。

おそらくこの頃に、福岡氏は、荘子の「無為自然」、「無用の用」の境地を直観的に体得されたのだろうと思う。自然は無為にして完全であるから、荘子が指摘したように、ひとたび人間が道具を作り、井戸水を汲み上げるのに滑車を使うように、分別智を働かせて道具を使うようになるともはや元には戻れない。もともと完全なものを一度分断、分析し始めると、すべての肯定の裏に否定が現れて、パラドックスに陥る。福岡氏はこのことを直観的に悟られたのだろう。

福岡氏は、若いときに体験した自身のその直観の正しさを証明すべく、人為を加えない農法を、自然農法を生涯に追求しようとしたのだ。無為自然こそが絶対的な真理であることを直観した若き福岡氏は、「何もしない農法」はいったいどのようにして可能か、という問題を生涯をかけて追求したのである。それが氏の自然農法だった。そして、やがて到達したのが、冒頭に述べたような、米麦不耕起連続直播、無肥料、無農薬、無除草の農法である。しかし、この自然農法も永遠に研鑽途上にあって、完成されたわけではない。

現代の石油エネルギーを使って行われる現代農業が多くの問題を抱えていることは語られはじめてすでに久しい。それらは温暖化や砂漠化を招いている。現代農業は商業的な大量生産を目的とするから、そのために農薬や化学肥料を使わざるをえない。そこには多くの矛盾が生じている。また、これまで日本の農政は、国際分業論に立って減反政策を進めてきたが、そのため食料自給率の低下を招く結果になった。そして今、世界的な食糧危機の到来を予感してあわてふためくことになっている。肯定の裏にかならず否定が生まれてくる。これは何も現代の農業だけに限られない。現代物理化学の粋を集めて応用される原子力発電においても、また、遺伝子工学の応用によって遺伝子の改造から治療をはかろうとする現代最先端医学の領域においても同じである。すでに人類はやがてそれらの行き着く先に漠然とした不安を感じている。悟性科学には矛盾を克服できないことを予感しているからである。

要するに、そこにあるのは分別知にもとづく、現代科学のもたらす矛盾である。「無の哲学」の見地からこうした近現代科学の将来を福岡氏ほど明確に予見していた人はいないかもしれない。それは、人為は自然に必ず劣るという福岡氏の確信であり世界観によるものである。福岡氏においては、自然は神と同等と見なされている。氏にとって、自然は完全であり、したがって一切無用である。有限の存在である人間の見て行う世界は、完全なものを分解し分析した部分でしかないものであり、必ず不完全なものである。そこで、氏はすべての人為を捨て、完全な自然に同化して、自然に生かされる生き方の道を歩むことになる。

一切無用として出来うる限り人為を廃し、自然の豊かさにしたがって自己を生かそうとする福岡氏の自然農法は、やがて、とくにその搾取によって土壌が疲弊しきった欧米の農業家の着目するところとなったようである。日本はそれでも自然がまだ豊かであるから、行き着くところまで行き着いておらず、福岡氏の自然農法に対して切実な欲求をもつに至ってはいないのかもしれない。その点でも、福岡氏の農法は日本よりも欧米で受け継がれてゆくのだろう。

福岡氏の自然農法は「無の哲学」に基づいたものである。それは人間の知識や科学を本質的に否定するものである。氏の思想と哲学は、物や人智の価値を否定する。だから現代人や現代社会の立脚点とは根本的に相容れないものである。それはちょうど、「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず。野の百合はいかに育つかを見よ。労せず、紡がず。さらば、汝ら何を喰い、何を飲み、何を着んとて思い煩うな」と命じたイエスの生き方と同じく、現代人は厳しく重荷に感じて、もはや誰一人として実行できないでいるのと同じである。おそらく、福岡氏の自然農法の真の継承者はいないのだろうと思う。

しかし、現代科学が、そして現代農業が行くところまで行き着いて行き詰まったとき、無の哲学から現代文明を批判した福岡氏の自然農法は、未来の農法として復活するかもしれない。そのとき福岡氏の自然農法は未来のあるべき農法として、人々にとって灯台の役割を果たすだろう。しかし、それは現代人の価値観が根本的に転換するときである。

福岡氏は理想の生活を次のように描いている。

「無智、無学で平凡な生活に終始する、それでよかった。哲学をするために哲学をするヒマなどは百姓にはなかった。しかし農村に哲学がなかったわけではない。むしろ、たいへんな哲学があったというべきだろう。それは哲学は無用であるという哲学であった。哲学無用の哲人社会、それが農村の真の姿であり、百姓の土性骨を永くささえてきたのは、いっさい無用であるという無の思想であり、哲学であったと思うのである。」   (『自然に還る』P204)
「小さな地域で独立独歩の生活をする。家庭農園ですべての事柄が片づいてしまう。
自然農園づくりが、外人にとっては、もう理想郷(ユートピア)づくりになっている。・・オランダの牧師さんが、家庭の芝生を掘り返し、家庭菜園を作り、そこにエデンの園を見出す。」     (P297)
「一人10アール・一反ずつの面積はあるわけだから、みんなが分けて作って、機械を使わずに、そのなかに家も建て、野菜から、果物、五穀を作って、周囲の防風林代わりに、モリシマアカシアの種子を毎年一粒ずつ播くか、苗を一本植えておけば、十年後は石油が一滴もなくても、年間の家庭用燃料は十分間に合う。
ですから、自然農法は、どちらかというと、過去の農法ではなくて、未来の農法だとも言えるんです。田毎の月を見て、悠々自適ができるような楽しめる百姓になる。家庭菜園即自然農法即真人生活になるのが、私の理想です。」    (P291)

このような福岡氏の理想は確かに共感できる点は多い。しかし、福岡氏に接した多くの人が語るように、とくに西洋人が多く語るように、氏の自然農法には共感できるけれども、氏の「無の哲学」に共感できないと言われる。私も同じである。なぜなら、福岡氏の「無の哲学」にかならずしも同意しないからである。あえて言うなら、私の立場は「無の哲学」でもなければ「有の哲学」でもなく、「成(WERDEN)の哲学」であるから。これはヘラクレイトスの万物は流転するという世界観でもある。

本当の自然とは何か。私は福岡氏の自然農法自体をかならずしも自然とは見ない。逆説的に言えば、福岡氏の「自然農法」自体が不自然農法である。むしろ、深耕、農薬、化学肥料などの人為、不自然こそが自然であるとみる立場もある。

当然のことながら多くの欠陥を抱えた現代農業は、いずれ克服されてゆくべきもので、それは現在の科学が発展途上にある未完成品であるというにすぎない。それは悟性的科学であって、理性的科学ではない。ただ理性的科学は、ゲーテのいう「緑の自然科学」に近く、この観点からは、福岡氏の自然農法は高く評価すべき点をもっている。理想は近くあるとしても、しかし、福岡氏の「無の哲学」は、否定を媒介にしない。この点に根本的な差異がある。福岡氏の「無の哲学」は直観的で、何より否定という媒介がない。

また、福岡氏の思想と哲学の限界としては、氏の自然農法には国家や地域社会、市民社会との関係を論じ考察することがあまりにも少なかったと思われることである。要するに媒介がなかった。個人的には私は福岡氏が理想としたような皆農制を基本的には支持する立場である。しかし福岡氏は、民主国家日本において、皆兵制については論じることはなかった。しかしいずれにせよ皆兵制や皆農制などの問題は、すでに国家論や憲法論に属する議論である。それらの問題はまたの機会に論じることがあると思う。

ここ十年ほど、福岡正信氏の動向はほとんどわからないままだった。と言うのも私は氏の「自然農法」や「無の哲学」のそれほど熱狂的な支持者でも何でもなかったからで、長い間忘れ去ってしまっていたのである。ただ、昨年の秋の暮れくらいから、たまたま縁があって山で家庭菜園のような真似事を始めることになった。それはたとえままごと遊びにすぎないとしても、農に、土や野菜や果物と直接にかかわり始めているといえる。それこそ各個人の価値観の問題で、何に価値や歓びを見出すかは人それぞれであるとしても、自分で作った野菜や果物を食べるのは、それなりに楽しい点もある。また、「自然」により深くかかわる歓びもある。自然や農業についてよく知るためにも、今にして思えば、一度くらい機会を作って、福岡正信氏を訪問しておくべきだったのかも知れない。

クローバー草生の無耕起直播の農法、プロの農家からは実現不可能に見える「不耕起、無化学肥料、無消毒」の自然農法は見向きもされず、農業には無縁の都市生活者の素人にしか関心を引き起こさない。しかしだからと言って、そこにまったく可能性がないわけではない。福岡氏の「自然農法」はむしろ「プロ」の農業者を無くす試みとも言えるからである。現代日本のプロの農業生活者の基盤である農村の多くが崩壊の危機にあると言われる。おそらくそれは、現代人や現代社会が福岡氏の「無の哲学」へと価値観を根本的に変換できないためである。しかし、もしこの前提が崩れれば、福岡氏の自然農法の実行は可能となるかもしれない。問題は、この「不可能」な前提が崩れる要件はあるか、あるとすればそれは何か、である。

去る十六日、私にとっては長い間動静が途絶えていた福岡正信氏の訃報が伝えられていた。享年九十五歳。また日本人らしい日本人が失われてゆく。福岡氏の自然農法は、「無の哲学」そのものから生まれたものである。それゆえにこそ、氏の農法は、おそらくこの日本でよりも、欧米においてこそ真に受け継がれ開花して行く宿命にあるのかもしれない。

6/6 自然農法60年の歩み「粘土団子世界の旅」 福岡正信

自然農法を提唱 福岡正信さんが死去

 

 

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ジャガイモの収穫

2008年06月25日 | 農事

ジャガイモの収穫

時間に余裕もなく十分に世話を焼けなかったのは残念なことではあるが、それでもジャガイモを何とか収穫できたのはうれしい。仲間のジャガイモはサルなどにいくらか荒らされたらしいが、私の畝は手入れが不十分で、雑草もはびこらせていたのでサルに気付かれなかったのか、それとも不味いとでも思われたのか被害はなかった。それで収穫を早めて畝を半分ほど掘り起こしてみると、そこそこの収穫はあった。なるほどジャガイモはこうして出来るのだ。サツマイモの苗も何とか植えきった。

                                              

昨年の暮れに植えたイチジクや桃の木が何とか根付いた。ただ、柿の木だけは枯れたのか、それとも生きて根付こうとしているのか未だに判断が出来ないでいる。それぞれの樹木の質が違うようである。

タマネギはマーケットで買わずに済んでいる。トマトも青い実をつけ始めた。
本当はこうした農植物の生産を通じて、自然の生態をじっくり観察し体験したいところだが、それだけの時間に余裕がないのは仕方がない。いずれそうした時期の来ることを思い焦らずに行こうと思う。今回は少し手を広げすぎたと思う。当面はあまり手のかからない果樹にしぼってゆくべきだったと反省している。

 

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桃の花

2008年04月12日 | 農事
春が来て桃の花が咲いた。昨年の暮れに植えた桃の木。
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人間と自然

2008年01月15日 | 農事

人間と自然

山へ畑仕事に出かけたりすると、様々のことを考えさせられる。たとえば、人間の健康や病気とその医療の問題などもある。また、さらにはより根本的に、人間と自然との関係、あるいはもっと広い意味での自然に対する人間の使命という問題もある。人間が自然の中から発生した意義と目的の問題である。

現代医学が発達して、今日では科学技術の結晶のような最先端の医療技術が受けられる。もちろん、そのために現代医学による治療には莫大な費用を要する場合がある。しかし、そうした一方でその高度化した医療の恩恵を被るべき人間自身の生命力は、肉体のみならず精神的にもむしろ退化していると見るべきではないか。

もちろん、病気に対する治療法の研究に最先端の科学技術を応用することに、反対するつもりはまったくない。

ただ、病気に対する治療法を研究する以上に、人間にとっての健康な生き方、病気にかからない生活の研究と実行、また予防医学の徹底にこそ重点を入れるべきだと思う。研究の対象と方向が根本的に誤っているのではないか。また、そのこと自体がすでに人間の「病」ではないか。

多くの病気や不健康は、人間のサイドからの理由によるもの、宗教的に表現するなら、「死」のみならず「病」もまたその多くは「罪」によってもたらされるにちがいない。

そして、人間の健康を考える時に、「自然」はつねに還るべき原点であると思う。

現代の日本のみならず、それは世界に共通する現象だろうけれども、社会問題として、医療・年金・保険など制度上の問題がある。それらは、もちろん、人間の福祉に大きな意義をもっていることは確かだけれど、また、多くの問題も抱えていること、むしろ「麻薬のような堕落作用」の潜んでいることは、政治や経済との関連においても明らかである。そういう意味でも今ひとたび、いわゆる「生き方としての資本主義」や「社会のあり方としての資本主義」が根本的に批判される必要があるのかもしれない。

それは、たんに肉体的だけではなく精神的な「人間の解放」の問題である。だが、人間は何から「解放」される必要があるのか。「金」か「罪」か。どのようにして。

写真は、麦踏みをへて成長する麦の芽。

 

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桃を植える

2007年12月26日 | 農事

桃を植える

年の末も押し迫った今日、桃の木を植える。

この一本の木が、日本の改革の実験につながればよいのだが。今の日本は、年金破綻、高齢化などで大きな転機を迎えようとしている。老人は虫に食われた年金を当てにして、協働で死に至るまで独立自尊の生き方を追求しようとしない。農業問題も深刻で、日本社会は深いところで病んでいるといえる。

共同体における産業としての農の追求で、生ける屍としてではなく、真に充実して人生の終末も期待できるのではないだろうか。

コメント (1)
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