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作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

民主党は「社会主義の歴史」に学べ

2009年10月19日 | ニュース・現実評論
民主党は「社会主義の歴史」に学べ

民主党が政権を得てほぼ一ヶ月、民主党の政治家たちの改革への努力は多としたいが、国民の多くが懐いているような不安もある。その根本の一つが、鳩山民主党が「社会主義の失敗の歴史」に何一つ学ぼうとしていないように思われることである。民主党の諸政策についての厳密な検討は時間的に余裕もなく今のところできないが、それらについての直観的な印象だけでも記しておきたい。

社会主義の現実の歴史が事実として失敗であり、その根本原因が、この社会主義の思想が本質的には「の思想」でもあるためである。その論理的な帰結は貧困の一般化であるということである。それはロシアや東欧や中国、北朝鮮の現実の歴史がそれを証明している。

来年度の予算に九〇数兆円を念頭においているように、現在の民主党の政策に見るように、それは経済競争力の強化や新規産業分野の開発、育成によって経済の復活をめざすのではなく、どちらかと言えば、悪くいえば「バラマキ」的な色彩が強い。

未来産業や新規事業の創造によって、貧困や失業の問題の解決を図ろうとするのではなく、赤字国債の借金によるバラマキに頼る救済などは本末転倒であり、その行き着くところは国家財政の破綻があるのみである。

民主党の指導者は今こそ国家的な規模で、新しい産業と事業の創造と開発に集中的、重点的に取り組まなければならない。鳩山民主党に果たしてその自覚と能力があるのか。民主党が歴史の失敗の轍の跡をふたたび歩むのは日本の不幸である。民主党の指導者は「社会主義の失敗の歴史」に深く学び、それを繰り返してはならないだろう。しかし、今の民主党内閣の閣僚に社会主義の残滓が色濃く残っているのも懸念される。

民主党の経済政策の失敗が現実のものになったときは、ふたたび自由民主党が「市場原理主義」によって日本経済を復活させる必要がある。しかし、現在の谷垣自民党の陣容ではそれも無理だろう。谷垣 禎一氏には国家社会の根本的な理念についての深い認識も確信もなく、ましてや、歴史の中に理性を洞察することなど、爪の垢ほどにもその問題意識がないからである。

自由民主党は今一度解体して、自由主義を根本理念とする自由党として再構成し直して行くとともに、その一方で、民主党は論争を深めて、党内から旧社会主義の残滓を清算してゆく必要があるだろう。



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西行考/文献資料集

2009年10月16日 | 西行考

 

 

 

西行考/文献・資料

インターネット

digital 西行庵
http://www.saigyo.org/

西行辞典
http://archive.mag2.com/0000165185/index.html?start=0


山 家 集 の 研 究 
http://sanka05.web.infoseek.co.jp/sankatop.html


私たちの「西行の研究」
http://www.d4.dion.ne.jp/~happyjr/x_entrance.htm

 

単行本

研究論文 

 ⑤ 学術やまむら 西行と西住について

http://www.eonet.ne.jp/~yammu/saiju.html

 

 

 

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秋の一日

2009年10月16日 | 日記・紀行
秋の一日

よく晴れて美しい空模様だったので、部屋にいるのがもったいなくて、散策に出る。この日をこの秋の日の典型として、デジカメに記録した。

山に畑仕事をするようになってからは、以前のように全く自由に気ままに出歩く時間の減るのもやむを得ない。散策する方向が決まりがちになってしまうのも惜しい。とは言え、それでも都心などに比べれば、このあたりにはまだ自然の残されているのは仕合わせだと思う。そして山歩きなどをしていて、いつも痛感させられるのは、自然自体のもつ造形力とその色彩である。秋が深まり、気温も下がり始めると、紅葉などがその色彩を着実に深めてゆく。

この自然の創造の主体として、「人格」としての神の存在を言うのなら、神の壮大と偉大を賛嘆せざるをえない。神の作品を美術品のように眺める。ただ、秋の山野辺を歩いていても、昔のようにオミナエシやフジバカマのような秋の七草のほとんど見られないのは悲しい。帰り道、ダイコンの間引き菜とネギを収穫して行く。














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松尾神社の観月祭

2009年10月03日 | 日記・紀行
松尾神社の観月祭

今宵は旧暦による中秋の名月が浮かぶ。午前中は雲の一つ無い青空が広がっていたので、きっときれいな月を眺められるだろうと思っていた。先日に散歩がてらに買い物に出かけた折りに松尾大社に立ち寄ったとき、たまたま観月祭の開かれることを知った。それで、もし忘れないで時間があれば訪ねてみようと思っていた。四時半頃になって出かける。

神社の境内に着いたとき、入場待ちの行列がすでにできてはいた。夕闇にまだ少し間がある。それほど大勢の人待ちでもない。だから、五時になって入場が始まっても、酒まんと月見酒の接待券を手に入れるのにそんなに時間もかからなかった。

拝観料千円を払って、神社報や観月祭の式次第や接待券を引き換えに受け取った。舞楽殿の前にしつらえられた会場に入る。赤い毛氈の敷かれた座席には、すでに多くの人が座っていたが、まだ良い席も多くの残されていた。拝殿から少し遠いけれどもほとんど正面から眺められる席に着く。

間もなくして、琴やフルートの今宵の演奏者や神社の関係者が登場して、舞楽殿の上に準備を始めた。琴の演奏者の女性の着ている和服がこうした催しにふさわしい落ち着いた気品を周囲に醸し出している。フルートの奏者は松村容子さん、琴は中川佳代子さん。


時間の経過とともに周囲の夕闇が濃くなって行くのが見える。琴の演奏奉納が始まってまもなくふと空を見あげると、この神社の裏庭にある松尾山の頂を、シルエットになった一羽の鳥が越えてゆこうとしているのが見えた。琴の音の響きがいっそう、一つの宇宙空間に私たちが存在していることを実感させる。

拝殿の左にあって、境内をライトアップしている街灯の脇の木立の隙間から、白い小さな中秋の月が現れ始めた。デジカメを取り出してその様子を動画に撮る。

俳句の同好会らしい人たちが隣の席にいて、しかもその中に先生らしきとおぼしき女性が、連れ合いの人たちに何かと俳句のアドバイスをしていて、その声が邪魔してなかなか音楽に集中できない。この夜は六段やモミジなどが演奏された。月の夜には琴の音が似合う。

続いて尺八の吹奏奉納があった。中年男性の十名あまりの集団演奏だったがお世辞にも上手な演奏だとは言えない。それらが終わると、神主による観月祭の祭典が始まり、雅楽と舞が奉納された。ススキや団子を供えて月を眺める行事の源流がここにあるのだろう。雅楽とお巫女さんの舞がお月見にふさわしい。

続いて、和太鼓の演奏があった。しかし、この頃には空は厚い雲に覆われているらしく、中秋の月はすっかり姿を隠してしまった。いくら待っても出てこない。天照大御神とちがって、威勢のいい女性たちの太鼓の音に驚いて姿を隠してしまったらしい。デジカメを空に向けて月を探すがもう見あたらない。

ちょうど私の真向かいに座っていた二人連れの女性は親しい友人どうしらしく、三十代半ばくらいだった。二人とも拝殿の舞台とは背を向けて座っていたので、身体をよじるようにして携帯のカメラで熱心に写真や動画を撮っていた。二人はそれぞれにちがった面立ちだが、どちらも魅力的な大人の女性たちだった。彼女たちの性格もよく想像できた。

それぞれの人生の時間の中でこうして擦れ違うのも、縁というか偶然というか。出会いと別れは宿命であるけれど、来年の観月祭にも彼女たちが連れ立って来ているかどうか。果たして人生に反復はありえるのかどうか。下の動画の中に、そのうちの一人が携帯のカメラで動画を撮っている様子が写っている。

式次第通りに八時に入って俳句大会になった。しかし、俳句にはさして関心もなかったので、そそくさと家路に向かう。

20091003松尾大社観月祭

和太鼓

雅楽と舞









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今日から十月

2009年10月01日 | 日記・紀行
十月一日(晴)

今日から十月

今日から十月が始まる。山畑に行く。もっと早く行くつもりであったけれども、四時頃の出発になってしまった。先に手に入れた新しい鎌を持参して、雑草やクマザサを試しに刈ってみた。なるほど利器とはすばらしい働きをするものであるとあらためて実感する。ニンジンやダイコンがフサフサとした青い芽に育っていた。ダイコンの芽の一部が虫食いにやられているので、虫取りをしてやる。農薬は使わない。

民主党に政権が移って、どこまで成功するかはとにかく一応は改革らしい施策は講じられている。官僚の天下りなども、渡辺善美前行革担当大臣を追い出した自民党には公務員改革を実行する意志も能力もなかったことに比べれば少しはましかもしれない。

鳩山由紀夫新首相は対米外交で日本の自主性を高めようとしているのはよいとしても、東アジア共同体の構想など、あまりにもちがいすぎる中国と日本の「国家哲学」を無視して、どこまで本当に「共同体」の実現が可能だと思っているのだろうか。ただ、鳩山由紀夫氏の政治構想については不勉強で良く知らない。だから本格的な論評は氏の政治思想をもう少し知ってから行いたいと思う。

しかし、その一方で、かならずしも国民的な支持の得られていない政策が、社民党と国民新党と民主党との連立のどさくさにまぎれて、国民の目を欺くようにしてこっそりと施行されようとしている。その一つに夫婦別姓の問題や、外国人の地方参政権の問題がある。

社民党の福島瑞穂党首などが実行している夫婦別姓などには非常に問題が多いと思う。そもそも文化や伝統に関する事柄は、よほど慎重にあらゆる角度から検証や論証を尽くした上で判断する必要がある。それなのに先の女系天皇が問題になった時のように、一世代か多寡が二三世代の連中の、単なる時代的な流行や風潮、気ままな個人の選好を歴史や伝統より上に見て、過去の歴史や文化の蓄積と継承を軽々に変更しようと企てる。

国民多数が賛成もしていないそうした夫婦別姓法案を、それを持論とする民主党の千葉景子法務大臣や社民党の福島瑞穂党首たちは、先に河野太郎氏などが中心になって、国籍法改正法案が国民に十分に知らされない間に議会を通過したように、狡猾に押し進めようとしている。

夫婦別姓については私は基本的には反対である。戦後民主主義の風潮のなかで出てきた「子供を産まない楽しさ」を主張する社民党の福島瑞穂党首たちのような家族観、夫婦観の生き方の行き着くところは、家族や社会のきずなの破壊だと思う。そうした選択は国民を幸福にしないと思う。

戦後の民法の改正が、日本人の家族の崩壊にどれほど与ったか、その否定的な側面などがきちんと検証されているとも思わない。戦後民主主義文化の被害者は日本人自身とその社会である。もちろんその多くに被害者の自覚はない。夫婦別姓の問題や先の国籍法改正法案の問題点などを、あらためて近いうちにももう少し深く論じてみたいと思っている。

時間が無くて書けなかった、美しい秋の日の思い出となった一日を、ブログ日記に後追いで作成する。曼珠沙華のとりわけ美しい秋であったことを記憶に留めておきたい。クリス・レアのYOUTUBE上の音楽動画を聴きながら、あるかぎりダウンロードしていると、うかつにも途中で眠気がさしてうたた寝をしてしまう。蝶か現かわからない荘子の見た夢のようだったけれど、眼を覚ました瞬間に永遠の彼方に忘れてしまった。



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