早いというべきか、いまだというべきか。ブログというものをはじめてこの六月に五年目に入りました。といっても、ブログをはじめたのは、EXCITEの方が二三ヶ月少し早く、はじめはそこで、より「学術的な」論考でも記録してゆくつもりでした。しかしそのうちに、もう一つのブログを日記録としても利用しようと思い、GOOのブログも使い始めました。はじめのうちは、EXCITEの「夕暮れのフクロウ」では学術的な論考のための文章を、GOOの「作雨作晴」では日々の記録と、比較的に明確に区分けして使っていたのが、次第に境界が曖昧になり、今では「作雨作晴」が「夕暮れのフクロウ」のミラーサイトのような趣になってしまっています。
マイナーなブログですから、もちろんアクセスが集中するなどということは考えられませんが、原稿の保存上の意義ぐらいはあるだろうと思っています。はじめのころは、こうしたブログを介しての議論や討論も期待していましたけれども、今では現実がわかってきて、我が道を行くしかないように思っています。
このブログをはじめた初期のころ、いくつかコメントをいただいたチャンタさんや洛南院大法螺噴大居士さんらは今も元気にされておられるのでしょうか。チャンタさんにはご自身のブログを開設するようにお勧めしましたが、その様子はないようですし、洛南院さんのブログは休止したままです。チャンタさんにはコメントで「敷居が高い」と言われたこともあります。それ以来、「敷居貴志」はもう一つの私のハンドル名になっています。
上の写真は我が陋屋の軒先に咲いたアジサイの花。神の御恵みにより今年も生きながらえて、その美しい姿をふたたび眺めることができます。
概念論の研究を媒介にして、引き続き、国家や神の概念も追求しています。その一方で、このブログでも日本国の現実も明らかにしようとし、またさらに、日本国の国家形態としての概念を具体化してゆこうとしています。それは国民の幸福にとって絶対的に必然的で、それ以外にはありえないものと思っています。国民が自らの幸福を欲していれば、その道を辿らざるをえない。ここに明らかにしたその概念を日本国民は理念として追求してゆくしかないだろうと思っています。
ヘーゲルの「法の哲学」についても、さらにもう一段高いレベルで研究に集中したいという思いもあるけれども、時間と能力の問題もあってなかなか思うにまかせないでいます。少なくとも後四五年も経れば、より多く自由な時間も手に入れることができるかもしれませんが。主よ、助けたまえ。
実証的法学者のケルゼンなども、哲学としてはカントしかやらないから「国家なるものは存在しない。存在するのは法と法を執行する人間のみである」などと言うようになっています。唯名論の立場から、主観的観念論の立場を克服できないでいます。ヘーゲルが欧米でも事実として無視され、研究されていないのは驚くべきことです。しかし、真理は頑強です。真理を無視してその罪と罰を避けることはできるでしょうか。吉本隆明氏などもまた(この人については私は全く知りません。団塊の世代の人たちの口から漏れくる言説の端々から推測するだけです。)国家を「幻想の共同体」のレベルでしか捉えることができないのではないでしょうか。
国家は存在します。観念的な、この具体的で客観的な存在が、ただ彼らには「見えない」だけです。概念とは典型であり、真の普遍です。ここでは、神も国家も概念として捉えられています。神と国家についても、さらに論じてゆくつもりです。