作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

安倍晋三元首相の国葬について、(#なにわ淀川花火大会)

2022年08月27日 | ニュース・現実評論

【LIVE】3年ぶり開催!「なにわ淀川花火大会」8月27日午後7時半~大阪の夏を熱くする~ #なにわ淀川花火大会 #淀川花火 #花火

 

安倍晋三元首相の国葬について

いま、安倍晋三元首相の国葬に反対する運動がさまざまな方面から行われています。TBSやテレビ朝日などのテレビ、朝日、毎日などの新聞などのメディアをはじめ、弁護士グループ、また上野千鶴子、樋口陽一氏らのアカデミズム界隈などから日常的に展開されています。

これでは、安倍晋三元首相の国葬に反対する人々の割合が増えるのも当然かもしれません。

しかし、安倍晋三元首相の国葬を主催するかどうかは、民主的に選ばれた政府の裁量範囲にあると思います。国葬が行われたとしても、弔意を懐くかどうかは各個人の内心の自由であり、それを強制することができるものでもありません。

また国葬によって、故安倍晋三元首相の業績に対する批判の自由や、思想信条の自由が侵害されるわけではありません。

安倍晋三元首相の業績についても当然に賛否両論はあると思いますが、肝心なことは、我が国において権威主義や全体主義への防波堤をいかにして強化するかどうか、我が国の自由と民主主義がさらに深められるかどうか、それが国葬の賛否の判断基準になるべきだと思います。

 

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第六十節[他者への正義]

2022年08月24日 | 哲学一般
 
§60

Diese moralische Denk- und Handlungsweise kome (※1) geht über das Recht hinaus. Die Rechtschaffenheit(※2) aber, die Beobachtung der strengen Pflichten gegen Andere, ist die erste Pflicht, die zu Grunde liegen muss. Es kann edle und großmütige Handlun­gen geben, die ohne Rechtschaffenheit sind. (※3)Sie haben alsdann ihren Grund in der Eigenliebe und in dem Bewusstsein, etwas Besonderes getan zu haben, dahingegen das, was die Recht­schaffenheit verlangt, für Alle geltende, nicht willkürliche Pflicht ist.

第六十節[他者への正義]

この道徳的な思考と行為の様式は法を超えている。正義 は、すなわち他者に対する義務を厳格に守るということは、しかし、第一の義務であって、すべての根底になくてはならないものである。たしかに、正義のない、高貴にして寛大な行為というものはありうる。それらの行為は、その場合ナルシシズムや何か特別なことをしたという意識をその根底にもっているが、それに対して、正義が求めるのはすべての人にとって通用するものであって、勝手気ままな義務ではない。

  

※1
前節、第五十九節を受けた「Diese moralische Denk- und Handlungsweise これらの道徳的な思考と行動の仕方」とは、他者を自己自身のようにみなし、ふるまうこと。新約聖書に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい(マタイ書22:39)」とある。
しかし、このような道徳的な正義、誠実さは、すべての思考と行為の根底に必要であるとしても、法はしかしそこまで高い正義を求めてはいない。

※2
die Rechtschaffenheit
誠実、正義、正直、律儀さ

※3
「正義を欠いているが、高貴にして寛大な行為」とは具体的どのような行為か。「人に見てもらおうとして施しをしたり断食をしたりする(マタイ書第六章)」ことか。
 
 
 
 
 
 
 
 
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ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第五十九節[他者への義務]

2022年08月17日 | 哲学一般
 
IV. Pflichten gegen Andere
 
§59
 
Die Pflichten gegen Andere sind zuerst die Rechtspflichten, wel­che mit der Gesinnung, das Recht um des Rechts willen zu tun, verknüpft sein müssen. Die übrigen dieser Pflichten gründen sieh auf die Gesinnung, die Andern nicht nur als abstrakte Per­son,(※1) sondern auch in ihrer Besonderheit sich selbst gleich zu halten, ihr Wohl und Wehe als das seinige zu betrachten und  dies  durch tätige Hülfe zu beweisen.
 
IV. 他者への義務

§59[他者への義務]

他者に対する義務は、さしあたっては法的な義務であり、それは、法のために法を行うという心情と結びついていなければならない。これらの義務はその他に、他者をただ抽象的な人格として扱うだけでなく、またその特殊性においても自分自身と同等に考えて、その幸福と不幸も自分自身のそれのように見なし、そして実際に助力することによって、このことを証明しようという心情にもとづいている。
 
 
※1
具体的な個人を一 般性、普遍性の形式によって意識するのは思想の立場であるが、この抽象的思考の否定的な側面については、以下の論考においても考察した。他者をたんに抽象的な人格として扱う場合も同じ。
 
 
鳩山元首相と民主党の「世界市民主義」 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/tKSGKv
6月15日(木)のTW:「平等」の強制 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/FRWN4w
Allgemeine Begriffe(普遍的概念)がもたらす恐ろしい不幸 - 夕暮れのフクロウ
https://is.gd/laFMfT
 
 
 
 
 
 
 
 
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2022年、天橋立海水浴紀行

2022年08月06日 | 日記・紀行

2022年、天橋立海水浴紀行

2022(令和)4年8月6日(土)曇り時々晴れ。

今年も何とか海水浴に行くことができた。いつまでも武漢ウイルス・コロナ騒動も終息せず、今年はその第六波の影響もあって、公共交通機関を避けて車で京都縦貫自動車道を使って天橋立まで行くことにした。
だから、前に天橋立まで行った時のように、電車中でこれといったエピソードになるような体験もなく、沓掛のインターチェンジから京都縦貫自動車道に乗ってからは、ただひたすらに高速道を走り続けるのみだった。単純に続く山並みや街並みを高速道の途中に傍らに眺めながらひたすら走り続けることになった。

前日には台風が滋賀県や福井県に到来して、大きな水害をもたらして過ぎ去ろうとしていた。京都には直撃もなかったけれど、その台風の余波はいくらか残っていて、少し曇り空も続いたが、海水浴にはとくに差し障りもなさそうだった。

京都縦貫自動車道の終点の一つ手前の与謝天橋立ICを降りて、天橋立海水浴場をめざした。山間部を抜けて広い舞鶴湾の海に出くわすといつもそれなりに感動する。ふだん見慣れない者にとっては、海はそれなりにインパクトを与える力をもっているらしい。

JR天橋立駅の近くの有料駐車場に車を停めて、見覚えのあるお堂を抜けて、海水浴場をめざした。

 

少し沖に出て仰向けになり、波に揺られるまま青い空を眺めた。ただ青い空のみを眺めていると、ちょうど宇宙から地球を眺める宇宙飛行士のように、あたかも自分が宇宙に漂っているかのような錯覚にとらわれる。蚊トンボほどに小さく銀色に輝いた航空機が一機、二機とはるか遠く高い青空を横切っていく。

折りしも今日は、77年前に広島に原爆の投下された日だ。勤労動員に出ていた多くの少年少女たちが犠牲になったことを思った。広島では式典はもう済んでいるはずだ。

 

帰途は、宮津天橋立ICから縦貫道に入って帰った。綾部から京丹波あたりまで来て、トンネルを潜って出るとすぐ、前方の視界がほとんど遮られて見えないほどに、激しく雨がフロントガラスを打ちつけた。トンネルを三つか四つ抜けるまでその雨は続いた。

 

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第五十八節[国家と意志]

2022年08月04日 | 哲学一般
 
§58
 
Der Staat beruht nicht auf einem ausdrücklichen Vertrag  Eines mit Allen und Aller mit Einem, oder des Einzelnen und der Regierung mit einander,(※1) und der allgemeine Wille des Ganzen Ist nicht der ausdrückende Wille der Einzelnen, sondern ist der absolut allgemeine Wille, der für die Einzelnen an und für sich verbindlich ist.(※2)

§58[国家と意志]

国家は、個人と万人との、また万人と個人との間に交わされた 契約 に基づくものではなく、あるいはまた、個人と政府の相互に交わされた契約に基づくものでもない。そして、全体の普遍的な意志は、明示された個人の意志ではなくて、むしろそれは絶対的に普遍的な意志であって、個人に対して本来的に(必然的に)拘束力をもつものである。

※1
ここでもヘーゲルはルソーや啓蒙哲学者たちの「契約国家観」を繰り返し批判している。

このルソーに対する批判は、ルソーの弟子にしてフランス革命の申し子、かつ唯物論者にして共産主義者であるマルクスの「階級国家観」にも同じく通用する。

一方において、実定法のみをもって国家とする法実証主義者のケルゼンたちも、ヘーゲルのこの観念的にして客観的な国家の存在には理解も及ばない。
 
※2
ルソーのこの「契約国家観」によって現実にもたらされた「絶対的な権威と尊厳とを破壊するところのさらに広汎な単に悟性的な諸種の結果」については、フランス革命、ロシア革命、中国文化革命など革命家たちが引き起こした、さまざまに悲惨な現実の歴史によってすでに実証されています。
 
この『哲学入門』における「国家」についての説明は、簡潔ではあってもきわめて不十分ですから、ヘーゲル『法の哲学』の国家論そのものにおいて検証しなければならない。いずれにしても『法の哲学』は今日においても必読の文献であるといえます。

ルソーの「契約国家説」については、『法の哲学』において次のようにヘーゲルは批判しています。重要であるので、少し長くなりますが一例として参考までに引用しておきます。

>> <<

「もしも国家が市民社会と混同せられ、国家の使命が所有および人格的自由の保障と保護とにあるとされるならば、個人自身の利益が個人のそれに向かって結合する究極目的となり、このことからまた、国家の成員たることは任意なことならざるをえない。⎯⎯ しかし国家は個人に対してそれとは全く違った関係を有する。けだし国家は客観的精神であり、したがって個人は国家の一員であるときにのみ、みずからの客観性、真理および倫理を有するからである。・・・・

⎯⎯ 哲学的考察はひとえに一切のものの内面的なもの、すなわちこのような、思考された概念を取り扱う。この概念の探求に関してルソーは、単にその形式上の思想である原理(いわば社会衝動、神的権威のごとき)ではなく、内容上も思想である、しかも思考そのものである原理、すなわち意志を国家の原理として立てるという功績をなした。

しかしルソーは意志を単に個別的意志の特定形式によってのみ解し、(その後フィヒテもなしたように)、普遍的意志を、意志の即自対自的に理性的なものとしてでなく、単にこの個別的意志から意識されたものとして生ずる共通的なものとして解したに過ぎなかったから、国家における個人の結合は契約となり、したがってこの契約は個人の恣意、臆見および表明された任意な同意にもとづき、その結果は、即自対自的に存在する神的なものをとその絶対的な権威と尊厳とを破壊するところのさらに広汎な単に悟性的な諸種の結果をもたらすのである。

(ヘーゲル『法の哲学§258』論創社版、高嶺一愚訳205頁)


今日の日本を代表するアカデミズム界隈の憲法学者たちも、樋口陽一氏や故奥平康弘氏たちに見られるように、誰一人としてヘーゲル法哲学を批判しえたものはなく、そのほとんどが実質的にケルゼン主義者であったりマルクス主義法学者です。
だから現代日本の国家の現実は、ヘーゲルの言うところの「権威と尊厳とを破壊する単に悟性的な諸種の結果」そのものとなっています。
 
 
 
 
 
 
 
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